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第三章 王城での一月

東塔のまじない師

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 足音荒く、螺旋の石階段を上る。石壁に反響する音の煩わしさに顔を顰めながらも、キリアンは煮え滾る怒りを拳に纏わせ、ひたすらに塔の上を目指していた。

 *

 キリアンがその報告を受けたのは、六日の日程で王都から東にあるランデール地方の視察を終えて、帰城した時だった。
 夕刻。嵐のような雨の中をようやく帰って来たと思ったら、出迎えもそこそこに、留守を頼んでいた侍従が深刻な顔で耳打ちしてきたのだ。ミリアム様が、と。
 手短に報告を聞いて急ぎミリアムの元へと向かえば、そこには既にエイナーがいて。
 青白い顔でベッドに眠るミリアムを前にすっかり泣き腫らしたエイナーと、キリアンがやって来ても顔すら上げず沈黙するレナートの姿に、キリアンは起こった出来事が報告以上に周囲の人間に与えた衝撃の大きさを思い知ったのだった。

 レナートのあれほどに沈鬱な表情を、キリアンはこれまでに一度も見たことがない。
 ミリアムが最悪の事態を免れたのはレナートが迅速に動いたお陰だと言うのに、それに安堵するどころか、申し訳ありませんと言葉少なに謝罪する姿を思い出し、キリアンは歯噛みした。
 咄嗟にお前の責任ではないと口にしたものの、果たしてどれほどその言葉がレナートに届いたか。
 キリアンは視界に捉えた目指す場所を睨み付けると一気に階段を駆け上がり、勢いに任せて扉を蹴破った。そのまま、ご機嫌な様子で火にかけた鍋を掻き混ぜる後ろ姿へ直進し、

「おい! この、クソまじない師!!」

 目を丸くして振り返ったその顔目掛けて、渾身の力で拳を振り抜く。

「ふぉぶっ!?」

 間抜けな声とともにこの部屋の住人であるリリエラの体が吹き飛び、部屋の端の雑多ながらくたが積み上がった一角に頭から突っ込む。
 キリアンは相手が起き上がるのを待たずに、がらくたから突き出ている足を掴んで乱暴にその体を引っ張り出すと、今度は容赦なく石床に叩き付けた。最後に無防備な腹部に蹴りを突き入れ、部屋の反対側の石壁へとその体を吹き飛ばす。
 鈍い音と共に勢いよく壁にぶつかったリリエラの体が頽れ、冷たい石床に浅紅の髪が広がって、室内にようやく沈黙が落ちた。
 だが、その沈黙もそう長いものではなかった。
 キリアンが手をはたき、乱れた髪を整えて一つ息を吐いたところで、石床に伸びていたリリエラが勢いよく身を起こしたのだ。

「な……何をするんじゃ、突然!」
「ちっ……。手加減したつもりはなかったが、やはり無傷か。相変わらずふざけた奴め」

 力一杯殴った上、がらくたの中に頭から突っ込んだと言うのに、掠り傷一つないどころか痛みに堪えた様子もない綺麗な顔のリリエラに、キリアンは堪らず舌打ちをする。
 キリアン同様であるかは不明ながら、このリリエラ・ルルエラと言う奇怪な存在は、ちょっとやそっとのことでは体に傷を負うことがない。
 それを分かっていながらも、今回ばかりはどうしても怒りが収まらずに手を出してしまったのだが、ただ目を丸くして突然の襲撃に驚いているだけと言う目の前の結果は、キリアンに多大な苛立ちを生ませ、更に機嫌を降下させるだけだった。

「ふざけておるのはおぬしの方じゃ、キリアン! 何故このリリエラ様がおぬしに殴られねばならん!」
「全く心当たりがないとは、ますます頭のいかれた聖域の民だな」
「ぐぬっ!? わしをそう呼ぶなといつも言っておろうが! 何じゃ! わしが何ぞおぬしの気に障ることでもしたと言うのか!」

 リリエラへの返答にキリアンが怒りを込めて睨み付ければ、自分の適当に放った言葉が事実だと気付いたのか、リリエラが心当たりを探しながら気まずそうに立ち上がった。

 余談だが、リリエラは「未開の聖域の民」――場合によっては単に、聖域の民――と呼ばれることを酷く嫌っており、人前では決してそう呼ばせない。実際、他の未開の聖域の民と異なる部分がいくつかあることはあるが、ただの人間にしてみればそれらの差異は些細なもの。それなのにいちいち反応をするものだから、いつしか人々の間でのリリエラは「未開の聖域の民らしい」と言う実に曖昧な認識に収まってしまっている。
 それ故、対リリエラに限っては「未開の聖域の民」の呼称は嫌味の一つとして使用されており、それを口にすることはそれだけリリエラへの怒りを表す指標ともなっていた。

 キリアンの怒りをようやく真面目に考えることにでもしたのか、リリエラはキリアンに席を勧めつつ、渋々開け放たれたままの扉を閉め、火にかけたままだった鍋を下ろし、最後に崩れたがらくたの山を一瞥して、見なかったことにするかのようにぷいと顔を背けた。
 使い込まれて古びた、手作り感溢れる小さなテーブルを挟んで座り、最初にリリエラが口を開く。

「……リーテの娘のことか」

 腕を組み、視線は決してキリアンへ向けないまま、その名を口にするのも忌々しいとばかりに顔を歪めながらのリリエラの一言に、キリアンは短く「そうだ」とだけ答えた。
 瞬間的にミリアムの眠る姿が思い出され、その痛ましさに眉が寄る。テーブルに置いた手が無意識に拳を握り、それに気付いたらしいリリエラがふんと鼻を鳴らした。

「ヴィシュヴァの倅に何を聞いたか知らんが、わしは何も間違ったことは言うておらんぞ」
「……死ね、さもなくば殺す、と言ったことを間違っていないと言うのか、貴様」
「流石のわしでも、そこまで直截な物言いはしておらんわ!」
「だが、言ったことは認めるな」

 さも心外とキリアンへ顔を向けたリリエラだったが、キリアンが言い逃れは許さないとその切れ長の瞳で真っ直ぐ射ればぐっと一瞬言葉を詰まらせて、その頬を掻きながら再び視線を彷徨わせる。
 認識がある証拠だ。
 そのことに、キリアンは更にリリエラに対する怒りが内心に湧き出るのを感じた。

 リリエラは人ではない。だが人と似た姿をし、こうして人と関わる。その癖、人の心に対する積極的な理解はなく、その機微ともなれば鈍感もいいところで、平気で踏みにじり悪びれない。
 加えて、「我はリリエラ・ルルエラ。性別だの種族だの、そんなものは全てリリエラ・ルルエラの前では無意味」――そう言い放つほど全てを己の物差しで測り、その態度も物言いも不遜極まりなく、王家に仕えるまじない師と言う立場でなければ、とうの昔にこの国から追い出されていても不思議ではない人物だ。
 そんな国一番の狂人に、初対面で心ない言葉を立て続けに投げつけられたとなれば、ミリアムが心に負った傷の深さは察するに余りある。特にミリアムは、リリエラの毛嫌いするリーテと強い繋がりのある泉の乙女だ。普段リリエラがキリアン達へ向かって言い放つものより、その言葉はよほど辛辣だったことだろう。

「……ぬぅ。認めんこともないが……あれは、さっさと城から出て行けと言う意味で……あの程度、おぬしがそこまで怒るほどでは……。それに、クルードに何かあれば屠る、と言うただけじゃし……」

 徐々に萎む声量の最後に言い訳がましく、わしは悪くない、とぼそりと聞こえて、キリアンは堪らずテーブルに拳を打ち付けた。

「貴様の心ない言葉の所為で、彼女が自ら命を断とうとしたとしても同じことが言えるのか!」
「なぬっ!? あの娘死んだのか!?」

 さしものリリエラでも、己の言葉が人を死に追いやりかけたと知れば慌てるのか――椅子を蹴倒す勢いで立ち上がりキリアンへと身を乗り出すリリエラを見て、素直にキリアンはそう思った。
 その考えが間違いであると知ったのは、その直後。
 あまりの衝撃に見開いたと思っていたリリエラの両の瞳は爛々と楽しげに光り、その顔は喜色を隠しもせず輝いて。

「愛し子の死体とな! ぜひわしに解ぼ――」

 リリエラが全てを言い終える前に、キリアンは眼前に迫っていたその頭をテーブルに叩き付けていた。衝撃でテーブルが粉微塵に割れ砕け、破片が石床に散乱する。
 一瞬でもリリエラの反応を肯定的に捉えていた自分に、猛烈な怒りが湧いた。勿論、人の死を何とも思っていないリリエラには、その比ではない憤怒が今しも体中から溢れ出そうだ。

「……真性の屑め」

 鷲掴みにした頭を目の前へ掲げ、頭蓋を割り砕くつもりでその手に力を込める。

「ぬうぅ……ど、どうせ死んでおらんのじゃろ……? 軽い冗談ではないか……」

 反省する気配を見せるどころか、反省の必要性があることにすらまるで思い至っていないリリエラの、またしても人の心を逆撫でする言葉は、キリアンの怒りを更に煽った。
 怒りで頭が沸騰して、理性が焼き切れそうになる。度を越した怒りに目が眩み、束の間、視界が黒く染まる。
 そして、キリアンは自分の意識が別の誰かの意識に飲まれるのを知覚した。

「――リリエラ・ルルエラ」

 それはそれは低い、怒りに満ちた声がキリアンの口から重々しく発せられる。途端にリリエラが身を竦ませ、キリアンへ怯えた瞳を向けた。
 その珍しい表情を、目の前で見ていながらも別の誰かの視界を覗き見るような感覚で、キリアンは眺める。
 自分の身を包み込むのは、己に宿る力の源。大いなる存在の、大いなる意思。深い水底に眠るように身を横たえたその存在がゆっくりと瞳を開く様が脳裏を過り、リリエラの頭を掴むキリアンの手が、大きく、黒く、鋭く、人ではないものへと変じていく。

「……リーテの娘は、既に我がエリューガルの民。我が守護せし民の一人である。いかなおぬしと言えど、我が愛しき民の死を願いそれを喜ぶことは、戯言とて看過できるものではない」

 長く伸びた黒色の爪がリリエラの皮膚に食い込み、初めてリリエラが痛みに顔を歪ませた。床から離れて浮く足をばたつかせ、両手でキリアンの腕を掴んで引き剥がそうと藻掻き始める。
 だが、硬い鱗に覆われたその手は彫像のようにびくともせず、反対に、より一層リリエラの頭部を締め付けるように握り込まれていった。みしり、と微かに骨の軋む音がする。

「ま、待て! 待て待て、待ってくれ、クルード! わ、わわ、わしが悪かった! わしの楽しみがリーテに邪魔された故、ちぃとばかし頭に血が上ったんじゃ! 思わず突っかかってしもうただけで、本気であの娘の死を願うつもりなど微塵もない! 本当じゃ!」

 本気で慌て、痛みにかクルードの睨みにか、その目に涙まで浮かべ始めているリリエラの必死の叫びに、わずかにその頭を締め付ける動きが止まる。
 キリアンとしては、もう少しそのまま締め付け続けてリリエラに心底から己の言動を反省してもらいたかったのだが、どうやら我が守護者殿はキリアンよりも寛大なお心をお持ちであるらしかった。
 主導権はクルードにある変じた腕の、リリエラに食い込んでいた爪がわずかに緩まるのを見て、キリアンは少しの不満を抱えて内心でため息を吐く。
 そうする間にも、キリアンの口からはクルードの言葉が重々しい響きを伴って紡がれ続けた。

「……偽りはないな?」
「ない! 偽らぬ! それに、娘に言うたことは反省するし、二度と娘に向かって同じ言葉は口にせぬと誓う! 何なら、金輪際、娘にはわしからは近付かんと誓ってもいい! じゃから、わしにそのような冷たい目を向けてくれるな、クルードよ! 本当に済まなんだ! この通りじゃ!」
「ならば、リーテの娘に誠意を示せ。我が子の怒りは我が怒り。我が子の瞳は我が瞳。……努々忘れるでないぞ、リリエラ・ルルエラ」

 その言葉を最後に、キリアンの中にあったクルードの気配が遠ざかり、変じていた腕も人のものへと徐々に戻っていく。そして、すっかり人の手に戻ると同時に、掴んでいた手の力が緩んでリリエラが床に落ちた。
 キリアンは即座に抗議の声が上がると予想したが、それに反してリリエラの反応は薄いものだった。あれだけ煩く開いていた口から出てくる言葉もなければ、すぐに動きを見せることもなく。その場に蹲るように肩を落として呆然とするリリエラの姿は、それまで己の言動に反省の色を欠片も見せなかったのが嘘のようだ。

「……わ……わし、クルードに……叱られてしもうた……」
「ふん。これで貴様も少しは反省できただろう」

 キリアンが上から覗き込めば、リリエラはキリアンの視線に耐えかねたのかそっぽを向き、そうかと思えば次の瞬間には逃げるように床を這い、暖炉前の絨毯の上に脱ぎ捨ててあったローブを頭からすっぽりと被ってしまう。
 そのまま蹲って沈黙する様は、正に子供。普段ならばここまでの醜態を曝すリリエラではない筈だが、よほどクルードの怒りが堪えたと見える。
 リリエラにとって、クルードとは己が命を捧げてもいいとさえ思える絶対的な存在であることも一因なのだろう。リリエラはもう随分と長い間、王家の元でこの国の存続の為に予言を授けてくれている。だがそれは、決してこの国の民の為ではなく、この国を守護するクルードの為だ。そんな存在から怒りを向けられたとあっては、普段の高慢な態度も鳴りを潜めざるを得ないのだろう。

 そんなリリエラのローブに引きこもった様を無事だった椅子に腰掛けて眺めながら、キリアンは「それで?」と問う。クルードに対しての弁明でリリエラが口にした「楽しみがリーテに邪魔された」とは、一体どう言うことなのか。
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