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第三章 王城での一月

呪いの形

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 ぱたんと小さな音を立てて扉が閉まるのを待って、私はずるずると落ちるようにソファに身を横たえる。
 引っかかれた頬の痛みも打ち付けた頭の痛みも、もう感じない。風雨の所為で気温が下がった外の寒さも、外套のお陰でたいしたことはなかった。今は、ただただ心臓が煩く、羞恥やら申し訳なさやらで顔が火照るように熱いばかりだ。レナートは温かいものをと言ってくれたけれど、むしろ冷たい飲み物で頭を冷やすことが今の私には必要な気がした。

 窓に打ち付ける雨の音に耳を澄ませながら、私は改めて、リリエラと言う人物から告げられた言葉を思い返す。呪わしき贄と言う、その言葉を。
 この部屋へと戻る道中、レナートからはリリエラの言った言葉は絶対に真に受けるなと釘を刺されたけれど、私に最初に突き付けられたあの一言だけは、込められた怒りと憎しみと真剣な声音から、決して嘘でも出任せでも怒りが言わせた罵倒の言葉でもなく、真実を告げていたと確信している。

 リリエラ・ルルエラ。エリューガル王家に古くから仕えるまじない師であり、城の東塔唯一の住人。そして、未開の聖域の民だと言われている性別不詳の人物。
 どうしてだか女神リーテを蛇蝎のごとく嫌っており、それ故にリーテの愛し子である泉の乙女のことも大層嫌いで、その徹底振りは、普段は東塔に引きこもって滅多に外に出て来ないのに、芽吹きの祈願祭の頃には国を出てしまうほどだと言う。
 当然、母エステルのことも嫌っていたそうで、母が国を出た際の喜びようは凄まじく、三日三晩狂喜乱舞し続けたとか。

 そんなリリエラだから、国を出ていた間にエリューガルにやって来ることになった私のことを、誰もリリエラに伝えなかったらしい。私はいずれは城を辞すこともあり、引きこもっているリリエラと遭遇することは、まずないと考えられたのだろう。
 その為、よりにもよって城内で泉の乙女である私の姿を目撃してしまい激昂したのだろうと、レナートは今回の一件をそう見立てていた。だから、リリエラの言葉は勢い任せのものでしかなく、私が気にする必要は一切ないのだと。
 レナートの見立ては、ある意味では正しいのだろう。レナートが現れてからのリリエラの態度だけを見れば、なおのこと。

 ふ、と息を吐き、私はソファに横たえていた身をゆっくりと起こした。そして、首から下げているリーテの雫の詰まった小瓶を襟元から引き抜く。
 私が呪われているのは、きっと事実だ。
 今はまだキリアンが無事でいるのは、恐らくは私が力に目覚めておらず、リーテの愛し子として不完全な存在だからと考えれば納得できる。それならば、私が力に目覚めなければ、キリアンを生き長らえさせることができるだろう。

(ごめんなさい、キリアン様)

 せっかく私の為に無理を言ってキリアンが用意してくれたものだけれど、もうこれを身に付け続けることはできない。
 レイラとも、言葉を交わすことはできなくなるだろう。それでも、グーラ種相手ならば、明確な言葉のやり取りなどできなくとも普通の馬よりは感情が分かりやすい分、上手く付き合っていける筈。嘆くほどのことではないし、キリアンの命が失われることと比べれば、その程度安いものだ。
 この小瓶のリーテの雫は、いつか聖水が必要になる場面に出会でくわした時に、一滴ずつ大切に使わせてもらおう。

 私はそっと鎖を首から外すと小瓶を手の中に収め、鏡台に置いた小箱の中にそれをしまった。そして、そのまま鏡に自分の姿を映す。
 白い顔に、二本の赤が浮いて見える。髪もすっかり乱れてぐしゃぐしゃだ。おまけに、随分と情けない顔をしていた。
 手櫛で髪を整えて試しに鏡に向かって微笑んでみるけれど、どうにも上手く笑えずに、情けない顔が今度は不細工な顔になってしまう。

「……酷い顔」

 呟いて、ふと母の言葉が頭を過る。嫌なことがあった時に私が感情を顔に表していると、母が私によく言っていたものだ。

『ミリアムは本当に母様にそっくりね。そんな顔も母様の子供の頃と同じで、とっても可愛らしいわ』

 そう言って、母は私を慰めてくれたのだ。そしてそんな時、決まって私は「じゃあ、私も大きくなったらお母様みたいに綺麗な人になれる?」と聞いていた。
 母の答えはいつだって私の問いを肯定するものだったけれど、そんな母でも、きっと今の私のような酷い顔になったことはないだろう。それでもこの顔は、母によく似ているだろうか。とっても可愛いと言ってくれる顔だろうか。

「……まさかね。お母様はこんな顔、私に見せたことないもの」

 けれど、思えば他の人生でも、私を指して母によく似ていると言われることが多かったような気がする。

 お前は妻によく似ている。ミリアムは母さん似だね。子供の頃の私にそっくり。お嬢様も将来は奥様のように美しくなられますわ。お前はあの女に瓜二つだ。ミリアムは父さんに似ているところが一つもないなぁ――

 思い出せば出すほど、私自身はどんな顔をしていたのかはどうしても分からないのに、母親似だと言われた時の記憶だけは溢れてくる。勿論、私に似ていると言う母の顔も、今はどこを浚っても出て来ない。
 その時、ずきりと頭が痛んだ。

「――っ」

 咄嗟に鏡台に手を付き、頭を押さえる。刺すような痛みは、後頭部を打ち付けたものとは全く別物。痛みに歪む私の顔が、すぐ目の前にある。
 私の顔。今の私は、これが自分の顔だとはっきり分かる。目を閉じても思い浮かべられる。勿論、母の顔だって覚えている。

 では――死んでしまったら?

 及んだ考えに思わず喉がひゅっと鳴り、心臓が嫌な音を立てた。

「……ぁ」

 私の中で、何かが形を成していく。
 私は、呪われている。誰かの手によって、私は、私の魂は、呪いに穢されてしまっている。
 一体誰が、何の目的で私に呪いをかけたのか。もしくは、呪いを成就させる為の贄として利用したのかは、始まりがあまりに遠すぎる所為で、私の記憶にはない。
 そして恐らくは、私がその始まりの記憶を忘却の彼方に押しやってしまったばかりに、呪いが完全な形で成就できていないのだろう。だから私は何度も生きては死に、死んでは別の人間として生まれ、呪いが成就するまで繰り返し繰り返し同じ時を生かされ続けているのだ。

 けれどそうだとして、そんな呪われた魂が、そんなにも都合よく同じ時代に別の人間として生まれ変わるなんてことが、あるだろうか? それも毎回、新しい命に私の魂が宿るだなんて。
 生まれる年月に多少のばらつきはあっても、そんなに多くの赤子があの国で誕生するものだろうか。

(……そんなこと、あるわけない)

 それに、新しい命に宿って生まれたなら、時には父親似の子供として生まれてもおかしくないし、性別だって女であるとは限らない。何より、必ず決まってミリアムと名付けられる筈がない。こんなこと、あまりに不自然だ。
 そこから考えられることは、一つ。私は、私と言う存在は、新しい命に宿って生まれた者ではないのだ。きっと。
 ならば、どう言う存在なのか。

「私は……」

 鏡に映る、自分を見やる。
 艶めく鮮やかな緑の髪も、丸みを帯びて少し目尻が下がった瞳も、その鼻の形も口元も浮かべる表情も何もかも。私は、きっと母に似ている。記憶の中の母の顔は、今の私の何年か後にそっくりだろう。もしかしたら、その声だって母と同じかもしれない。

「――ふっ。……あはっ」 

 点と点が繋がった気がして、思わず笑いが込み上げた。

(――なの)

 逆、だ。
 私は、子を成すのに都合のいい母体に魂が宿り、母体の姿を写し取り、そうして形を成して生まれた者――そう考えれば、辻褄が合う。
 「ミリアムわたし」は、呪いが形を成した存在なのだ。

「あはっ……はははっ! あはははははっ!」

 相変わらず頭は酷く痛むのに、出て来る笑いは止められなかった。笑わずにはいられなかった。
 痛みに顔を歪めながらも醜く笑う姿が、酷く滑稽に映る。
 これは、私の姿ではない。
 これは、母……いや、エステルの姿だ。たまたまあの国にやって来たエステルに、たまたま「ミリアム」の魂が目を付けてその姿を写し取っただけの、ただの呪いのれ物。本来、生まれる筈のない人間。
 ならば、私がどう生きようがどう足掻こうが、私がここに既に存在するなら、遅かれ早かれこの国の王太子に死が訪れる。だって私は、呪いのことも私が呪いの贄として成すべきことも、何一つ思い出せないのだから。
 不完全な呪いが王太子を殺し、私をも殺す。

「ああ……あああああっ!」

 全部、無駄だった。私がこれまで懸命にやって来たことは全て、無意味なことだったのだ。フィロンとの出会いの阻止も死を回避する方法の模索も何もかも、徒労に過ぎなかった。
 どうしようもない思いが、意味のない叫びとなって私の口から出る。
 勢い任せに鏡に拳を打ち付ければその衝撃で鏡台が揺れ、脇に飾ってあった小振りの花瓶が倒れた。水が零れ、差してあったゼラニウムが弾みで足元に落ちて花弁が散る。
 さながら血を思わせるその鮮やかな赤い色は、まるで闇間に吸い寄せられるように私を一つの答えにいざなった。

(――ああ。どうして思い付かなかったんだろう……)

 それとも、呪いがその成就の為に生に執着させ、私に考えさせないよう仕向けていたのだろうか。母が死んだ時も、その後に激しさを増した主人の暴力を受け続けていた時でさえも、私は確かに、生きることを無意識に選択していた。

 ならば、死を選択したらどうなる?

 私は鏡台に転がる花瓶を徐に鷲掴み、思い切り鏡に叩き付けた。耳障りな音と共に花瓶が砕け、鏡が割れ、破片が床に散乱する甲高い音が部屋中に響き渡る。

「……どうして、選ばなかったんだろう」

 私が手近に転がる鏡の破片を手に取った時、勢いよく隣室の扉が開き、そこからレナートが飛び込んできた。
 剣を手に真っ先に私を探す姿は、私が胸をときめかせた月華の騎士のように勇ましく頼もしく、これまで見てきたどんな騎士より格好よくて、こんな時だと言うのに私は顔を綻ばせてしまった。

「ミリアム!!」

 散らばる鏡の破片のただ中に立つ私の姿に、レナートが目を瞠る。

「な……っ!?」

 レナートに遅れることわずかの差でこの部屋の扉から入って来た騎士も、ぎょっとしたようだった。
 その中で誰より早く反応したレナートの足が床を蹴り、おかしいくらいに必死な形相で私に向かって手を伸ばす。その様を酷くゆっくりとした時の流れの中に眺めながら、私は心が昏い喜びに満たされるのを感じていた。
 また最後に目にするのがレナートになるなんて、何と言うご褒美だろう。呪われた私にこんな幸運が二度も降りかかるなんて、ある意味でこの人生は本当に幸せかもしれない。
 でも、これが本当に最後になりそうだ。

「初めから、こうしていればよかった」

 ゆっくり目を閉じ、最後に一つ、これだけ願う。
 これでもまた生まれ変わってしまうのなら、せめて次の人生では、何かが変わっていますように――
 手にした鏡の破片を勢い任せに首に押し当て、思い切りよく手前に引く。同時に私の体に何かがぶつかり、体が宙に浮く感覚が私を襲った。
 一拍の浮遊後、全身を打ち付ける衝撃に息が詰まる。けれど不思議と痛みは弱く、一体何が起こったのか、不思議に思って恐る恐る目を開き――

「何を……っ! 何をやっているんだ君はっ!!」

 飛び込んできた、見たこともないくらいに怒りを孕んだレナートの大音声が、私の鼓膜を強く叩いた。
 部屋が揺れるのではないかと思うくらいの大きな怒声に、耳の奥がキンとする。それでも、その時私に過ったのは確かに絶望だった。

「……なん、で……?」

 どうして止めたの? 何であのまま死なせてくれなかったの? 何故……あなたが邪魔をするの?
 幸せを感じたあの一瞬があっと言う間に霧散して、私はただ茫然と、私を庇うように一緒に床に倒れたレナートを見つめるしかできない。
 首に感じる痛みはひっきりなしに響く頭痛より遥かに小さく、到底死ぬには至らない。レナートにきつく掴まれた手はちょっとやそっとでは動かせず、それ以前に、握っていた筈の鏡の破片はどこかへ失せて、とうに望みは絶たれている。

 私は、自ら死を選ぶことすらできないと言うのか――

 絶望に浸る私に向かって、レナートの怒声が叩き付けられる。

「何で? 当たり前だろう! 馬鹿なことを聞くな!」

 怒りばかりだったレナートの表情に、悲しみの色が現れる。けれど、私には何故レナートがそんな顔をするのか、まるで分らなかった。
 愛想を尽かした相手がどうなろうと、気にすることではないだろうに。それなのに、どうして我がことのように悲しみ、まるで自らが傷付いたように顔を歪めるのか。
 そんなに必死になるほど、私に死なれるのは困ると言うのだろうか。
 だったら――

「……ください」

 自ら死ぬことを選べないのなら、いつものように殺されるまで。
 馬鹿で愚かで浅はかな私に残された最後の手段は、もうこれしかない。それなら、憧れた月華の騎士様の手にかかって死ぬことを望むくらい、許してほしい。
 だから。

「……殺して、ください」

 開け放たれた扉から忙しなく出入りする足音や飛び交う声が聞こえるその中で、か細く零した私の声は、それでもすぐそばにいたレナートにはしっかりと届いたようだった。
 色をなくしたレナートの愕然とした顔が、零れんばかりに見開かれた瞳が。私を見つめて、息をのむ。
 せめて後腐れのないように。そんな思いでレナートに向かって笑おうとした私の体に、その時、不意に痛みが生まれた。
 まるで、死を願った私を呪いが戒めるごとくに、覚えのない痛みが突如として私を貫く。

「……ぁ……ぐ……っ」

 背中が、腹が、手の平が。激しい痛みに堪らず体を折る。体中が燃えるように熱く、巨大な鐘の音を思わせる音が頭の中に鳴り響き、目の前が真っ赤に染まる。
 痛い。熱い。苦しい。息が、できない。

「ミリアム! どうしたっ!」

 明滅する世界の中で、レナートが必死に私に呼び掛ける声が聞こえる。けれど、私はそれに応えることができなかった。
 割れるような頭痛が拍車をかけて、視界が霞み、意識が朦朧とする。こちらに向かって声を張る誰かが、レナートなのか他の騎士なのか、それとももっと別の誰かなのか、もう判別がつかない。ただ、温かな手が私の手を握り、痛みに呻く私の頬に手が触れたことだけを、遠い場所で微かに感じた。

(……ああ、前にもどこかで……)

 懐かしさを覚える既視感に、無意識に記憶に手を伸ばす。けれど、何も掴めないまま思考は霧散し、ついには何も考えられなくなった。 

『――わたくし、は……。……ああ――……なければ、よかった――』

 沈む意識のその中で、誰のものとも知れない声が響いたのを最後に、私の世界は黒く染まった。
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