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第三章 王城での一月
人ならざる者
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その言葉は、目の前の人物に驚く以上に、私に衝撃を与えるものだった。
「…………ぇ」
誰が、何だと。
今、目の前の人物は、一体何を口にしたのだろう。
両肩を押さえ付けられる痛みも、至近距離で睨み付けられる恐怖も忘れて、思わず呼吸が止まる。
その言葉は、新しい日々の中、楽しいことばかりで浮かれていた私の心に冷や水を浴びせかけた。突然放たれた悪意も、温かな環境に慣れ切ってしまった私の心にいとも容易く突き刺さる。
たった一言だけの言葉が重い。毒念のこもった視線が痛い。心が竦む。
まるで氷塊を突き入れられたように急速に体の芯が冷え、体が震えた。指先が痺れるように痛み、心臓が嫌な音を立てて軋む。きちんと立っている筈の足元が覚束ず、俄かに騒がしさを増した外の音が、何故か遠い。
その中で強くこだまする、言葉。
(呪い、の……贄?)
何を言っているのだろうと思う反面、すんなりとその言葉に納得する自分も、確かにそこにいて。
逃れられない。
すとんとその言葉が胸の中に落ちて諦念が渦を巻き、この穏やかな日々も、所詮元下女の私には過ぎたものなのだと、頭の片隅に乾いた笑いが響き渡る。
私は、何を勘違いしていたのだろう。
天気の所為ではなく目の前が暗くなり、唇が意味もなく戦慄いた。足元から這い上がる得体の知れない気持ちの悪さに、視界が回る。体が浮く。
次の瞬間、私は床に突き倒されていた。
「あぐっ!」
肩に走った激しい痛みが私を我に返らせ、沈みかけた思考が霧散する。
「……ああ、くそ忌々しい! リーテめ、小賢しい真似をしおって。このわしのささやかな楽しみを邪魔してくれるとは、相変わらずの性悪女振りじゃの!」
激しい雷鳴の中、はっと気付いた時には、私は馬乗りになった相手に床に押さえ付けられ、間近から金の瞳に睨まれていた。体の下敷きになった右腕が伸し掛かる体重に軋み、痛みに顔が歪む。
咄嗟に自由な左手を振り上げたけれど、煩わしそうに顔を顰めた相手によって、すぐに床に縫い留められてしまった。慌てて引き抜こうとするも、私が非力なのか相手の力が強いのか、掴まれた左腕はまるでびくともしない。
その状況に、ようやく回り始めた頭が、襲われていることをはっきりと私自身に認識させて、初めて小さな悲鳴が零れ出た。
「ひ……っ!」
相手の片眉が一瞬だけ器用に跳ね上がり、小さく鼻を鳴らす。
「ようやく性悪女の祝祭と浮かれ雨が止んだと思うて清々しておったと言うのに、貴様のような小娘にしてやられるとはの……。あやつめ、今頃高笑いでもしてふんぞり返っておるのじゃろうな。まったく、何と言う嫌がらせか! ああ……本当に忌々しい……!」
私の自由をすっかり奪い、殊更嫌そうに睨み付けながら、人ならざる姿をしたその人は言葉の通り忌々しそうに吐き捨てる。
真正面からはっきりと見たその顔は、眉間に皺を寄せてはいるものの、男性とも女性ともつかない顔立ちをしていた。吐き出される声も、込められた感情が故に低められてはいるものの、こちらも男女どちらとも取れる中性的なもので、相手の性別は判然としない。
ついでにその年齢も、明らかに子供ではないことと、酷く年老いてもいないことが分かるだけだ。それなのに纏う気配には老練さが滲み出て、目にしている姿と感じる姿との乖離が私から冷静さを奪っていく。
得体の知れない存在に、本能的な恐怖が私の身を竦ませた。
「……っ!」
縦長の瞳孔がきゅっと細まり、鼻が触れ合うほどにその人が顔を寄せてきた。顎をきつく掴まれた私は、頬に食い込む爪の痛みに顔を顰めることも目を逸らすこともできず、私の全てを見透かすような金の瞳に、ただ正面から飲み込まれる。
「……それにしても貴様、わしが視たものよりよほど禍々し――」
「何をやっておられるのですかっ!!」
突然割り込んできた怒声と共に、私の視界が一気に開けた。かと思ったら、次に視界に飛び込んできたのは眩い金髪。険しい表情で前方を睨み付けるレナートの横顔が、そこに現れる。
目まぐるしく変わる状況に目を丸くする私を、レナートの青い瞳が捉えた。
「ミリアム、無事か!」
言いながら私を助け起こしたレナートの表情が、一点を見て更に険しさを増す。懐から取り出した布を私の頬に宛がうと、そこに私の手を添えさせた。途端、走った痛みに顔を顰め、私は思わず宛がわれた布を見る。
清潔な白い――ハンカチの中に、赤い筋が二本。
「あ……」
見上げたレナートの顔は申し訳なさそうに眉を寄せて、そこでようやく私は、痛みが走った理由を理解した。ただ、レナートが何故そんなにも彼自身を責めるような表情をするのかだけが分からず、私は小さく首を傾げる。
頬が切れる程度の傷など、たいしたものではない。リンドナーの家ではこの程度の傷は毎日のことで、怪我の内にも入らない些細なものだ。それを見て痛ましそうにする者はおろか気に留める者すら一人もいなかったし、私も彼らの反応は当然のものと受け入れていた。こんな、わずかにひりつく程度の痛みがあるだけの傷にわざわざハンカチを宛がおうとするなんて、実に大袈裟だ。
むしろ、たいした出血でもないのに、こんなことでレナートの持ち物を汚してしまったことの方が、私には重大事である。それなのに、レナートは改めて私の頬に自身のハンカチを宛がって、私はまたもやそれに手を添えさせられてしまった。
「レナートさん、あの……」
言いかけた私の言葉は、前方、廊下の先の書架の前にもんどり打って倒れているローブの塊から聞こえてきた「ぬあぁ……!」と言う、何とも間の抜けた呻き声に遮られた。
レナートが私を庇うように立ち上がり、一気に表情を引き締める。
「ヴィシュヴァの倅ごときが、このわしを放り投げおって!」
ローブの塊がむくりと起き上がり、ようやく人の形を取り戻して立ち上がる。
倒れた拍子に取り払われたフードの下から現れたのは、やはり、年齢も性別も曖昧な顔。鮮やかな浅紅の髪の合間からは、これまでフードに隠れて見えなかった尖った耳が覗き、爛々と輝く金の瞳が、改めてその人が私達とは違う存在なのだと言うことを私に知らしめる。
加えて、露わになった額が私の目を引いた。彫り物なのか、赤黒い亀裂のような紋様が髪の生え際から縦に走り、そこだけ異様な雰囲気を放っていたのだ。
「放り投げる? 私はただ、エイナー殿下のお客人から無礼な手を引き剥がして廊下に投げ捨てただけですが」
私が相手の姿に改めて驚く一方、レナートは全く動じる素振りもなく冷え冷えとした眼差しのまま、相手を見据えていた。口から吐き出される言葉も、改まっていながら実に慇懃無礼。そこには私が予想したような外敵に向ける警戒はなく、どちらかと言うと、相手への少しの苛立ちと多大な呆れが見て取れた。
それは、いつか見たキリアンに対する態度にも似て、それだけで、不思議と私の中から浅紅のその人に対する恐怖や畏怖が薄らいでいく。
元より、この図書館は外部からの不審な人物の侵入は拒むように、まじないが施されている。果たしてそれが人ならざる者に対しても有効かどうかは知らないけれど、少なくとも今、二人がそれぞれに見せている態度からは、顔見知り以上の間柄であることが察せられた。
「余計悪いわ! 小生意気な口を利くようになりおって! おぬしからは、わしに対する敬意と言うものがまるで感じられんぞ、ヴィシュヴァの倅! もっとわしを敬わんか!」
びしりと指を突き付けて声を張るその人に対し、レナートはますます冷え切った表情で、頭一つ分ほどの身長差が故か、相手に対していっそ睥睨するような態度を崩さない。
「初対面の女性をいきなり押し倒して襲うような野蛮な変態に、どう敬意を払えと? 敬ってほしいのでしたら、まずはミリアム様に謝罪をしていただけますか、リリエラ殿。ついでに、蛮行の理由もお教えいただければありがたいのですが」
「ふんっ! 誰がリーテの娘なんぞに謝罪するか! ヴィシュヴァの倅、キア坊に言うておけ。そやつを即刻城から摘まみ出せと。阿婆擦れ性悪女の気を振り撒かれては、この城が穢れるわ」
「リリエラ殿!」
レナートの咎めを含んだ一喝にも、リリエラと呼ばれたその人は鼻を鳴らすだけで反省する素振りは窺えない。それどころか、レナートに向けていた視線を私へと移したかと思ったら、見据えられたことに緊張を覚えて瞬いたその一瞬で、その姿は私の眼前にあった。
「なっ!?」
「業腹じゃが、クルードの為には致し方あるまい」
「あなたはっ!」
レナートが振り向きざまに腕を伸ばすけれど、それより先に再びリリエラが私を床に押し倒して、彼の手は空を切る。同時に、強かに頭を打ち付けた無抵抗の私の、傷を負った頬を何かがべろりと一舐めした。
「ひぃいいいいいいっっ!!」
殊更傷を抉るように下から上へと縦断した悍ましい感触に、私の全身に怖気が走る。咄嗟に突き出した両手は確かな手応えと共に私に伸し掛かる重みを軽減させ、「ふぬんっ」と言う奇妙な声と共に、完全に私の上から消え去った。
直後に前方から重たいもの同士がぶつかる鈍くも派手な音がしたけれど、抱き起してくれたレナートの腕の中で悍ましさに震えていた私には、その正体は分からなかった。
「リリエラ殿! あなたと言う方は、一度ならず二度までも! 一体どう言うおつもりですか!」
「喧しい! いちいちぴぃぴぃ喚くでないわ、ひよこ頭が! とにかく、わしは言うたぞ、ヴィシュヴァの倅。……疾く、去ね。わしが望むのはただそれだけじゃ!」
厳しい声が冷たく言い放ち、レナートが「くっ」と息を詰める微かな音だけが耳に届く。
レナートの腕の中にいた私にもはっきりと聞こえた嫌忌のこもった端的な言葉は、束の間忘れていた忌まわしい言葉を、嫌でも私に思い出させていた。
呪わしき贄。
確かにリリエラが私に向かって口にした、禍々しい響きしかない、不吉を象徴する言葉。
そんな存在が王城に滞在していることは、確かに許し難いことだろう。このリリエラと言う人物がこの国とどう言う関わりにあるのかは知らないけれど、私に対して疾く去ねと吐き捨てるほどなのだから、少なくとも、この国の王家を大切に思っている人であることは間違いない。
そんな人が口にした、去ね、と言う言葉。果たしてこれは、単に王城を去ることを指しているのか、それとも死ぬことを指しているのか。
恐る恐る顔を上げた私を、フードを被り直したリリエラの冴え冴えとした瞳が無感情で見下ろしてくる。その表情は私の身を貫く刃のようで、胸がずきりと痛んだ。
「……この先、クルードに厄をもたすようなことがあれば、その時は貴様の命のみならず、魂ごとこのわしが屠り、消し去ってくれる。心しておくことじゃな、リーテの娘」
最後に廊下に唾を吐き捨て、リリエラの姿が足音荒く廊下の向こうへと消える。
その頃には、騒ぎを聞きつけた図書館警備の騎士達も三階へとやって来て、静かな筈の図書館がいつの間にか随分な騒がしさに満ちていた。
リリエラの白いローブが視界から消えると同時に全身から力が抜けた私は、ただでさえ床にへたり込んでいた体を更に沈ませて、目を閉じた。
最後のリリエラの声が強く耳に残り、無意識に体が震えて両手で掻き抱く。
命のみならず、魂ごと――
(あの人は、知っている……? 私が、同じ時を繰り返し生きていることを――)
きっと、知っているのだろう。知らなければ、あんな言葉は出て来ない。恐らく、人ならざる者には、何かが見えているのだ。そして、だからこそ私を有害と断言したのだろう。
それは、私が王太子を殺す存在だと言うことの、何よりの証左ではないだろうか。
今生の私はこれまでとは違い、ただの人ではない。リーテと言う女神の力の片鱗をこの身に宿した、愛し子だ。ならば同じ愛し子であるキリアンを、クルードの力によって死なないと言われている彼でさえも、私は殺してしまえる可能性はないだろうか。むしろ、彼を殺す為に、今生の私は愛し子として生まれたとは考えられないだろうか。
そう考えれば、この人生で初めて国を出ようと決意したことにも納得がいく。
きっと、呪いの力が私にそうさせたのだ。アルグライスにいる限り、いつ訪れるか知れない遠いエリューガルにいるキリアンを殺せはしないから。
クルードの力に守られたキリアンならば、私に殺されないでいてくれると安心していたのに。アルグライスではないこの国ならば、私は生きていけると思っていたのに。
本当に、私は何を勘違いしていたのだろう。何て浅はかで愚かなのだろう。
だって、考えもしなかったのだ。繰り返されるこの人生が、呪いによって引き起こされているだなんて。その可能性に思い至ることすら、一度としてなかっただなんて。
これまで数えきれないほど繰り返し、様々な人生を歩んできて、それなりに知識だって得ていた筈なのに。この繰り返しが呪いの所為だと考えるどころか神の御業だと考えていたとは、本当にどうかしている。せっかく、神への冒涜だと私に告げてくれた人が過去にいたのに、どうして私はその言葉に耳を貸さなかったのだろう。
人々を慈しむ女神様が、こんな惨い仕打ちをなさる筈がないではないか。
こんな簡単なことに、どうして私はこれまでただの一度も気付かなかったのか、心底から不思議で仕方がない。
私はこれまでにもう何回、いや、何十、何百回、神を冒涜してきたのだろう。呪いに身を任せて人を、フィロンを殺し続けてきたのだろう。
だから、いよいよ私は、神の愛し子さえ殺してしまうのだろうか。あんなにも私に親切にしてくれる、優しいあの人を。民に愛される王太子様を。
もしも本当にそんな時が訪れてしまったら、私は――
「…………ぇ」
誰が、何だと。
今、目の前の人物は、一体何を口にしたのだろう。
両肩を押さえ付けられる痛みも、至近距離で睨み付けられる恐怖も忘れて、思わず呼吸が止まる。
その言葉は、新しい日々の中、楽しいことばかりで浮かれていた私の心に冷や水を浴びせかけた。突然放たれた悪意も、温かな環境に慣れ切ってしまった私の心にいとも容易く突き刺さる。
たった一言だけの言葉が重い。毒念のこもった視線が痛い。心が竦む。
まるで氷塊を突き入れられたように急速に体の芯が冷え、体が震えた。指先が痺れるように痛み、心臓が嫌な音を立てて軋む。きちんと立っている筈の足元が覚束ず、俄かに騒がしさを増した外の音が、何故か遠い。
その中で強くこだまする、言葉。
(呪い、の……贄?)
何を言っているのだろうと思う反面、すんなりとその言葉に納得する自分も、確かにそこにいて。
逃れられない。
すとんとその言葉が胸の中に落ちて諦念が渦を巻き、この穏やかな日々も、所詮元下女の私には過ぎたものなのだと、頭の片隅に乾いた笑いが響き渡る。
私は、何を勘違いしていたのだろう。
天気の所為ではなく目の前が暗くなり、唇が意味もなく戦慄いた。足元から這い上がる得体の知れない気持ちの悪さに、視界が回る。体が浮く。
次の瞬間、私は床に突き倒されていた。
「あぐっ!」
肩に走った激しい痛みが私を我に返らせ、沈みかけた思考が霧散する。
「……ああ、くそ忌々しい! リーテめ、小賢しい真似をしおって。このわしのささやかな楽しみを邪魔してくれるとは、相変わらずの性悪女振りじゃの!」
激しい雷鳴の中、はっと気付いた時には、私は馬乗りになった相手に床に押さえ付けられ、間近から金の瞳に睨まれていた。体の下敷きになった右腕が伸し掛かる体重に軋み、痛みに顔が歪む。
咄嗟に自由な左手を振り上げたけれど、煩わしそうに顔を顰めた相手によって、すぐに床に縫い留められてしまった。慌てて引き抜こうとするも、私が非力なのか相手の力が強いのか、掴まれた左腕はまるでびくともしない。
その状況に、ようやく回り始めた頭が、襲われていることをはっきりと私自身に認識させて、初めて小さな悲鳴が零れ出た。
「ひ……っ!」
相手の片眉が一瞬だけ器用に跳ね上がり、小さく鼻を鳴らす。
「ようやく性悪女の祝祭と浮かれ雨が止んだと思うて清々しておったと言うのに、貴様のような小娘にしてやられるとはの……。あやつめ、今頃高笑いでもしてふんぞり返っておるのじゃろうな。まったく、何と言う嫌がらせか! ああ……本当に忌々しい……!」
私の自由をすっかり奪い、殊更嫌そうに睨み付けながら、人ならざる姿をしたその人は言葉の通り忌々しそうに吐き捨てる。
真正面からはっきりと見たその顔は、眉間に皺を寄せてはいるものの、男性とも女性ともつかない顔立ちをしていた。吐き出される声も、込められた感情が故に低められてはいるものの、こちらも男女どちらとも取れる中性的なもので、相手の性別は判然としない。
ついでにその年齢も、明らかに子供ではないことと、酷く年老いてもいないことが分かるだけだ。それなのに纏う気配には老練さが滲み出て、目にしている姿と感じる姿との乖離が私から冷静さを奪っていく。
得体の知れない存在に、本能的な恐怖が私の身を竦ませた。
「……っ!」
縦長の瞳孔がきゅっと細まり、鼻が触れ合うほどにその人が顔を寄せてきた。顎をきつく掴まれた私は、頬に食い込む爪の痛みに顔を顰めることも目を逸らすこともできず、私の全てを見透かすような金の瞳に、ただ正面から飲み込まれる。
「……それにしても貴様、わしが視たものよりよほど禍々し――」
「何をやっておられるのですかっ!!」
突然割り込んできた怒声と共に、私の視界が一気に開けた。かと思ったら、次に視界に飛び込んできたのは眩い金髪。険しい表情で前方を睨み付けるレナートの横顔が、そこに現れる。
目まぐるしく変わる状況に目を丸くする私を、レナートの青い瞳が捉えた。
「ミリアム、無事か!」
言いながら私を助け起こしたレナートの表情が、一点を見て更に険しさを増す。懐から取り出した布を私の頬に宛がうと、そこに私の手を添えさせた。途端、走った痛みに顔を顰め、私は思わず宛がわれた布を見る。
清潔な白い――ハンカチの中に、赤い筋が二本。
「あ……」
見上げたレナートの顔は申し訳なさそうに眉を寄せて、そこでようやく私は、痛みが走った理由を理解した。ただ、レナートが何故そんなにも彼自身を責めるような表情をするのかだけが分からず、私は小さく首を傾げる。
頬が切れる程度の傷など、たいしたものではない。リンドナーの家ではこの程度の傷は毎日のことで、怪我の内にも入らない些細なものだ。それを見て痛ましそうにする者はおろか気に留める者すら一人もいなかったし、私も彼らの反応は当然のものと受け入れていた。こんな、わずかにひりつく程度の痛みがあるだけの傷にわざわざハンカチを宛がおうとするなんて、実に大袈裟だ。
むしろ、たいした出血でもないのに、こんなことでレナートの持ち物を汚してしまったことの方が、私には重大事である。それなのに、レナートは改めて私の頬に自身のハンカチを宛がって、私はまたもやそれに手を添えさせられてしまった。
「レナートさん、あの……」
言いかけた私の言葉は、前方、廊下の先の書架の前にもんどり打って倒れているローブの塊から聞こえてきた「ぬあぁ……!」と言う、何とも間の抜けた呻き声に遮られた。
レナートが私を庇うように立ち上がり、一気に表情を引き締める。
「ヴィシュヴァの倅ごときが、このわしを放り投げおって!」
ローブの塊がむくりと起き上がり、ようやく人の形を取り戻して立ち上がる。
倒れた拍子に取り払われたフードの下から現れたのは、やはり、年齢も性別も曖昧な顔。鮮やかな浅紅の髪の合間からは、これまでフードに隠れて見えなかった尖った耳が覗き、爛々と輝く金の瞳が、改めてその人が私達とは違う存在なのだと言うことを私に知らしめる。
加えて、露わになった額が私の目を引いた。彫り物なのか、赤黒い亀裂のような紋様が髪の生え際から縦に走り、そこだけ異様な雰囲気を放っていたのだ。
「放り投げる? 私はただ、エイナー殿下のお客人から無礼な手を引き剥がして廊下に投げ捨てただけですが」
私が相手の姿に改めて驚く一方、レナートは全く動じる素振りもなく冷え冷えとした眼差しのまま、相手を見据えていた。口から吐き出される言葉も、改まっていながら実に慇懃無礼。そこには私が予想したような外敵に向ける警戒はなく、どちらかと言うと、相手への少しの苛立ちと多大な呆れが見て取れた。
それは、いつか見たキリアンに対する態度にも似て、それだけで、不思議と私の中から浅紅のその人に対する恐怖や畏怖が薄らいでいく。
元より、この図書館は外部からの不審な人物の侵入は拒むように、まじないが施されている。果たしてそれが人ならざる者に対しても有効かどうかは知らないけれど、少なくとも今、二人がそれぞれに見せている態度からは、顔見知り以上の間柄であることが察せられた。
「余計悪いわ! 小生意気な口を利くようになりおって! おぬしからは、わしに対する敬意と言うものがまるで感じられんぞ、ヴィシュヴァの倅! もっとわしを敬わんか!」
びしりと指を突き付けて声を張るその人に対し、レナートはますます冷え切った表情で、頭一つ分ほどの身長差が故か、相手に対していっそ睥睨するような態度を崩さない。
「初対面の女性をいきなり押し倒して襲うような野蛮な変態に、どう敬意を払えと? 敬ってほしいのでしたら、まずはミリアム様に謝罪をしていただけますか、リリエラ殿。ついでに、蛮行の理由もお教えいただければありがたいのですが」
「ふんっ! 誰がリーテの娘なんぞに謝罪するか! ヴィシュヴァの倅、キア坊に言うておけ。そやつを即刻城から摘まみ出せと。阿婆擦れ性悪女の気を振り撒かれては、この城が穢れるわ」
「リリエラ殿!」
レナートの咎めを含んだ一喝にも、リリエラと呼ばれたその人は鼻を鳴らすだけで反省する素振りは窺えない。それどころか、レナートに向けていた視線を私へと移したかと思ったら、見据えられたことに緊張を覚えて瞬いたその一瞬で、その姿は私の眼前にあった。
「なっ!?」
「業腹じゃが、クルードの為には致し方あるまい」
「あなたはっ!」
レナートが振り向きざまに腕を伸ばすけれど、それより先に再びリリエラが私を床に押し倒して、彼の手は空を切る。同時に、強かに頭を打ち付けた無抵抗の私の、傷を負った頬を何かがべろりと一舐めした。
「ひぃいいいいいいっっ!!」
殊更傷を抉るように下から上へと縦断した悍ましい感触に、私の全身に怖気が走る。咄嗟に突き出した両手は確かな手応えと共に私に伸し掛かる重みを軽減させ、「ふぬんっ」と言う奇妙な声と共に、完全に私の上から消え去った。
直後に前方から重たいもの同士がぶつかる鈍くも派手な音がしたけれど、抱き起してくれたレナートの腕の中で悍ましさに震えていた私には、その正体は分からなかった。
「リリエラ殿! あなたと言う方は、一度ならず二度までも! 一体どう言うおつもりですか!」
「喧しい! いちいちぴぃぴぃ喚くでないわ、ひよこ頭が! とにかく、わしは言うたぞ、ヴィシュヴァの倅。……疾く、去ね。わしが望むのはただそれだけじゃ!」
厳しい声が冷たく言い放ち、レナートが「くっ」と息を詰める微かな音だけが耳に届く。
レナートの腕の中にいた私にもはっきりと聞こえた嫌忌のこもった端的な言葉は、束の間忘れていた忌まわしい言葉を、嫌でも私に思い出させていた。
呪わしき贄。
確かにリリエラが私に向かって口にした、禍々しい響きしかない、不吉を象徴する言葉。
そんな存在が王城に滞在していることは、確かに許し難いことだろう。このリリエラと言う人物がこの国とどう言う関わりにあるのかは知らないけれど、私に対して疾く去ねと吐き捨てるほどなのだから、少なくとも、この国の王家を大切に思っている人であることは間違いない。
そんな人が口にした、去ね、と言う言葉。果たしてこれは、単に王城を去ることを指しているのか、それとも死ぬことを指しているのか。
恐る恐る顔を上げた私を、フードを被り直したリリエラの冴え冴えとした瞳が無感情で見下ろしてくる。その表情は私の身を貫く刃のようで、胸がずきりと痛んだ。
「……この先、クルードに厄をもたすようなことがあれば、その時は貴様の命のみならず、魂ごとこのわしが屠り、消し去ってくれる。心しておくことじゃな、リーテの娘」
最後に廊下に唾を吐き捨て、リリエラの姿が足音荒く廊下の向こうへと消える。
その頃には、騒ぎを聞きつけた図書館警備の騎士達も三階へとやって来て、静かな筈の図書館がいつの間にか随分な騒がしさに満ちていた。
リリエラの白いローブが視界から消えると同時に全身から力が抜けた私は、ただでさえ床にへたり込んでいた体を更に沈ませて、目を閉じた。
最後のリリエラの声が強く耳に残り、無意識に体が震えて両手で掻き抱く。
命のみならず、魂ごと――
(あの人は、知っている……? 私が、同じ時を繰り返し生きていることを――)
きっと、知っているのだろう。知らなければ、あんな言葉は出て来ない。恐らく、人ならざる者には、何かが見えているのだ。そして、だからこそ私を有害と断言したのだろう。
それは、私が王太子を殺す存在だと言うことの、何よりの証左ではないだろうか。
今生の私はこれまでとは違い、ただの人ではない。リーテと言う女神の力の片鱗をこの身に宿した、愛し子だ。ならば同じ愛し子であるキリアンを、クルードの力によって死なないと言われている彼でさえも、私は殺してしまえる可能性はないだろうか。むしろ、彼を殺す為に、今生の私は愛し子として生まれたとは考えられないだろうか。
そう考えれば、この人生で初めて国を出ようと決意したことにも納得がいく。
きっと、呪いの力が私にそうさせたのだ。アルグライスにいる限り、いつ訪れるか知れない遠いエリューガルにいるキリアンを殺せはしないから。
クルードの力に守られたキリアンならば、私に殺されないでいてくれると安心していたのに。アルグライスではないこの国ならば、私は生きていけると思っていたのに。
本当に、私は何を勘違いしていたのだろう。何て浅はかで愚かなのだろう。
だって、考えもしなかったのだ。繰り返されるこの人生が、呪いによって引き起こされているだなんて。その可能性に思い至ることすら、一度としてなかっただなんて。
これまで数えきれないほど繰り返し、様々な人生を歩んできて、それなりに知識だって得ていた筈なのに。この繰り返しが呪いの所為だと考えるどころか神の御業だと考えていたとは、本当にどうかしている。せっかく、神への冒涜だと私に告げてくれた人が過去にいたのに、どうして私はその言葉に耳を貸さなかったのだろう。
人々を慈しむ女神様が、こんな惨い仕打ちをなさる筈がないではないか。
こんな簡単なことに、どうして私はこれまでただの一度も気付かなかったのか、心底から不思議で仕方がない。
私はこれまでにもう何回、いや、何十、何百回、神を冒涜してきたのだろう。呪いに身を任せて人を、フィロンを殺し続けてきたのだろう。
だから、いよいよ私は、神の愛し子さえ殺してしまうのだろうか。あんなにも私に親切にしてくれる、優しいあの人を。民に愛される王太子様を。
もしも本当にそんな時が訪れてしまったら、私は――
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