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第三章 王城での一月
騎士の珈琲
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芽吹きの祈願祭翌々日から降り出した雨は、これまでの晴れ続きが嘘のようにしとしとと大地を濡らし、祭りの余韻をすっかりと流し去ってしまっていた。
糸のように細く長い雨は、時折、思い出したように止んでは雲間から顔を覗かせた太陽に数時間を譲る以外は、エリューガルの地をすっかり雨のベールに包み込む。そして、その雨は日増しに、窓から見える景色の緑の色を濃く鮮やかに変化させていた。
そして、私の王城生活も少しばかり変化した。
図書館から借りてきた本のページを捲る手を止め、ふと顔を上げる。視界に入った時計の針が差す時刻を見て、私は隣室と繋がる扉へゆるりと顔を向けた。
この扉の向こうには、私の護衛を任じられたレナートがいる。これまでは鍵が掛けられ、決して開くことのない壁の一部だったものが、今の私にはすっかり心を浮足立たせるものになっていて、気付くと私は扉に目をやることが増えていた。
これまでは日中もテレシアがこの部屋にいてくれたのだけれど、レナートが護衛に付くならばと、朝晩の身支度以外では、本来の第一王子の侍女としてキリアンの元に戻ってしまったのだ。
そしてエイナーも、頑張りたいことがあるからとのことで、この部屋への訪問がぱったりとなくなってしまい、祭りの後に顔を合わせたのは二回ほど。それも、忙しい時間の合間を縫ってやって来たようで、滞在時間はこれまでに比べて格段に短かった。
だから、広い部屋にぽつんと一人でいる寂しさが、私に人を恋しくさせているだろう。
別に、隣室に住人がいることにそわそわしたり、その住人であるレナートは今何をやっているのだろうと気にしたりなんてこともなければ、いつその扉が開いてこの部屋に姿を現すだろうと、期待しているわけでもない。
ただ、いつもの通りなら、そろそろお茶とお菓子を載せたワゴンと共にレナートがやって来る時間ではある。そして、それらと共にイーリスやオーレン達のこと、レナートの家族の話などを聞くのが、私の新たな日々の楽しみの一つなのだ。
私の護衛をするだけならば全くもって不要なことなのだけれど、これもキリアンなりの私への配慮なのだろう。何から何までしてもらって、本当にありがたい限りだ。
すっかり集中力が切れてしまった私は、大人しく本を閉じて伸びをした。窓辺へ寄り、外を見る。
今日も変わらず朝から降り続いている雨は、そろそろ雨脚を弱めて止みそうな気配だ。流れる雲の色が濃い灰色から随分と明るい色へと変わって、もう一時間もすれば、雲間から太陽が顔を覗かせそうでもある。
窓ガラスを流れる小さな雨粒を指でそっと辿りながら、そこに映る自分自身の姿を眺めて、雨の日をこんなにも穏やかな心地で過ごしていることに、不思議な感覚を抱く。
「雨の日が、こんなに楽しかったなんて……」
リーテの降らせる恵みの雨だから、だろうか。それとも、日に日に緑が生き生きとする様や、濡れた草木が顔を覗かせた太陽の光に輝く美しさを間近に見ているから、だろうか。
これまで、アルグライスでは雨の日を鬱々とした気持ちで過ごしていたのが、嘘のように心が軽い。
昨日のレナートの話だとこの雨もようやく今日で終わり、明日からは晴れが続くだろうとのことだったけれど、私には少しだけ、雨の日々が終わってしまうのが惜しく思えてしまった。
「ふふっ」
自分がまさかそんなことを思うようになるとは思わず、つい、声に出して笑ってしまう。
その時、控えめに扉を叩く音がして、私は跳ねるようにそちらへ振り向いた。どうぞ、との私の声を受けて隣室への扉が開き、やって来たのは、密かに待ちかねていたレナートだ。
今日も、レナートの押すワゴンには美味しそうなお菓子と、美しい絵付けのされた茶器が載せられている。
私がテーブルに広げていた本を急いで片付ければ、そこにレナートがワゴンで持って来たものを順に並べていく。そして、すっかり定位置になってしまったソファの一角に座ったところで、私の鼻が、いつもとは違う香りを嗅ぎつけた。
紅茶とは違う香ばしさの際立つ、濃い香り。
その香りと記憶が即座に結び付き、私は何とも言えない苦い顔でレナートを見やった。楽しい筈のお茶の時間が、途端に試練の場になった気分だ。
けれど、私と目が合ったレナートは私がそんな表情を浮かべることを見越していたのか苦笑するだけで、問答無用で黒々とした液体をなみなみ注いだカップを私の前へと勧めてきた。
「……珈琲、ですよね、これ……」
小皿に取り分けてくれた四角い形の林檎パイは美味しそうなのに、それのお供がこれとは。
「ミリアムが陛下に珈琲を飲まされたと聞いて、これは早い内に対処しておかなければと思ったんだ。……一口でいい。騙されたと思って飲んでくれないか」
テーブルの上に視線を彷徨わせ、私は無意識にミルクを探した。けれど、無情にもミルクの姿はそこになく、はっと見やったワゴンの上に、一つだけ残された林檎パイと共にひっそりと置き忘れられているのを発見する。
いつだって抜かりなく用意をするレナートが、今日に限ってミルクを出し忘れるなんてこと、あるわけがない。そして、この状況でミルクを取ってほしいと言っても、まずはそのままとか何とか言われるに決まっているのだ。
確かに、珈琲そのものの味を確かめるにはミルクは入れない方がいいのは分かる。分かるけれど、薬のような味が記憶に強くこびり付いている私には、そのまま飲むことはかなりの勇気を必要とするのに。
レナートは、ただじっと私が珈琲に口を付けるのを待っている。
観念して、私は顔を引きつらせながらカップを手に取り、目を瞑って一口、流し込んだ。
「あれ……?」
きつく瞑っていた目を開け、手にしたカップの中身を見つめる。間違いなく、カップの中身は記憶に違わない黒々とした、紅茶ではない飲み物である。
けれど。
「……苦くない?」
もう一口、今度はよく味わうように口に含んでみて、やはり同じ感想を抱いた。
イェルドに勧められた珈琲と見た目は変わらないのに、苦みも酸味も断然薄いのだ。全く感じないわけではないけれど、とてもあっさりした飲み心地だった。加えて、イェルドの珈琲にはなかった果実のような香味を、後味に感じる。
「ミルクは必要そうか?」
少しばかり得意げなレナートの一言に、私は首を横に振った。そして、逆に問うてしまう。
「これって、本当に珈琲なんですか?」
あまりに味が違い過ぎて、珈琲と言って出された別の飲み物なのではないかと疑ってしまうほどだ。私の珈琲に対する印象が、大きく揺らぐ。
レナートから出されたものは、それだけ美味しいと感じたのだ。
「勿論、珈琲だ。紅茶に多くの種類があるのと同じで、珈琲も紅茶以上に色々な種類があるんだよ」
確かに、茶葉を摘む時期によって紅茶にも味の違いは生まれるけれど、イェルドの珈琲と今日の珈琲とは、まるで天と地の差だ。同じ珈琲で、こんなにも違うものだろうか。
「でも、イェルド様から勧められた珈琲は……その、何と言うか……」
一言で言うなら、苦みが強すぎて味も格段に濃く、不味かった。到底、美味しいとは思えないくらいには。けれど、流石に国王から勧められたものを直接貶める言葉は使えない。レナートに、あの時の珈琲の味をどう伝えるべきか。
言い淀んで中途半端に言葉を途切れさせた私に、けれどレナートはまるで気にせず、直接的な言葉を口にした。それも、まるで飲んだことがあるかのような、具体的な言葉を。
「苦みが強いし味も濃すぎて、初心者には到底飲めたものじゃなかっただろう。よく我慢して飲んだな、ミリアム」
更には、残したってよかったのにとあっさり言ってのけるレナートに、私は恐れ戦く。
「一国の王が勧めたものを、その目の前で残せるわけがないじゃないですか」
「……そうだったな」
今では、一言断って残す選択をすることにも必要以上の覚悟を必要としなくなってはいるけれど、あの日がイェルドと初対面だった私には到底無理な話だ。
それよりも私には、レナートの口から出た具体的な言葉がとても気になった。レナートは、あの飲むのに大変苦労する珈琲を飲んで、平気だったのだろうか。そして、それを美味しいと思って飲める味覚の持ち主なのだろうか。
「レナートさんは、イェルド様の珈琲を飲んだことがあるんですか?」
「飲んだことがある……と言うか、あれは俺がたまたま試した豆の配合と焙煎の度合いで作った物を試飲された陛下が、気に入られたものなんだ」
一口大に切るべくパイに入れたフォークが勢いよく皿に当たって、がちりと硬質な音が鳴った。弾みで、中の林檎の果肉がぽろりと出て来る。
私の耳が、何やらとんでもない単語を聞いた気がする。作ったとかなんとか。
誰が? 何を? ――勿論、レナートが。珈琲を。
「えっと……? イェルド様の珈琲、を……?」
「ああ。豆がなくなりかけると、いつも陛下から俺に直接、依頼が来るんだ。うちの商会を経由して注文してくれといつも言っているのに、俺に直接言った方が早いと言って聞いて下さらなくて困るよ……」
あの激烈な味の珈琲とレナートとが結び付かずに混乱した私は、一縷の望みを持って聞き返してみたけれど、結果は変わらなかった。むしろ、余計な情報を仕入れてしまった分、更に混乱が広がる。
レナートは騎士であって商人ではなく、実家の商会には一切関わっていないと聞いたのだけれど、これはしっかり商品の開発をして、商会に貢献しているのではないだろうか。それなのに、レナートは商会のことは父と弟任せだと言っていた。これは、一体どう言うことなのか。
内心で首を傾げる私だったけれど、次のレナートの言葉に、それらの疑問は一旦、脇へと追いやることになった。
「ちなみに、今日のこの珈琲も、珈琲を飲み慣れていない人向けにと考えたものなんだ」
「これもですか!」
まさか、この珈琲もレナートの手によるものとは思いもしなかった。ますます驚きが広がり、レナートの意外な面にも興味が湧く。
レナートが豆から焙煎の度合いから考えて作ったもの、と意識しながら改めて飲んでみれば、今日の珈琲はイェルドのものより遥かに癖もなければ味が濃すぎることもなく、実に飲みやすい。
飲み慣れていない人向けと言ったレナートの言葉に納得する、優しい味わいだった。
「美味しいです」
「それはよかった。陛下の珈琲が普通だと思われて、珈琲を嫌いになられたらどうしようかと思っていたんだ」
胸を撫で下ろすレナートは、とても嬉しそうである。
「レナートさんは、珈琲がお好きなんですね」
「そうだな。紅茶好きのキリアンには時折嫌な顔をされるが、俺はどちらかと言えば、珈琲派だ。ただ……」
レナートの視線が、手元のカップに注がれる。中身が零れない程度に傾け、珈琲をじっと見つめているようだった。
「ただ?」
「こうして飲むのも好きだが、俺はどちらかと言うと、新しい味を作り出す方が好きなんだ。珈琲は、産地が違えば豆も違う。焙煎の度合いによって、同じ豆でもまるで異なるものができるし、数種類の豆を混ぜ合わせれば、それこそ数え切れない様々な味わいの珈琲ができ上がる。それが楽しくて、その内、自分で色々と試しては周りの奴に試飲させるようになってしまった。……俺の趣味だな」
「趣味……」
私の人生には無縁だった、何とも意外な単語に目を瞬く。
騎士として剣を振るう姿ばかりが印象に強いレナートの趣味が、珈琲作りだなんて。人は見かけによらないものだ。
「気付いたら、試飲させた家族の口から商会の人間の耳に入って、いくつかは勝手に商品として売られるようになってしまったものもあるんだが、基本的には俺が楽しむ為にやっている。それを、こうして美味しいと言って飲んでもらえるのは嬉しいよ」
ふわりと微笑みながらありがとうと言われて、私は意味もなく視線を彷徨わせてしまった。
レナートが私の護衛となって共に過ごす時間が増えたことで慣れたとは言え、不意打ちでそう言う表情を間近に見せられると、その眩しさに直視ができない。
せめて頬が赤くなってはいませんようにと祈りながら、私は誤魔化すように、大きめに切り分けたパイを口に頬張った。口の中に残っていた珈琲の仄かな苦みが、煮詰めた林檎の甘酸っぱさをより一層引き立てるようで、口一杯に広がる美味しさに自然と笑みが零れる。
紅茶のような渋みがない分、こうした甘いお菓子を食べる際には、珈琲も合うかもしれない。
「この珈琲に飲み慣れたら、その内、味の違うものをいくつか淹れてみよう。ミリアムの好みの傾向が分かれば、それに合うように新しく作ってみるのもいいな」
「そんな、いいんですか?」
「言っただろう? 俺の趣味なんだ。ミリアムの好みの味がどんなものか、どんな新しいものができるのか、俺自身が楽しんでやるんだから気にしなくていい。それに、豆は勝手にイレーネが送りつけて来るから、実は腐るほどあるんだ。むしろ、飲めるようにしてやらなきゃ豆が勿体ないだろう?」
珈琲豆の主な産地は、エルメーアとその周辺の西海の国々。エルメーアに嫁いだレナートの姉イレーネは、嫁ぎ先の商会が各地に珈琲農園を持っていると言うことで、商会に卸すのとは別に、実家へ度々豆を送ってくれるのだと言う。
余談だけれど、このイレーネ。成人するや否や「山の女は飽きた、私は海の女になる!」と宣言して父サロモンのエルメーアへの買い付けに同行し、現在の夫となる人物と出会って意気投合したと思ったらその場で結婚を決意したと言うくらい、アレクシアに負けず劣らず豪快な性格の持ち主なのだ。
そんな彼女のやることである。恐らく、実家へ送り付けられる豆の量と言うのも豪快で、レナートの「腐るほどある」は決して比喩ではないのだろう。
だからと言って、私の為に大量に豆を消費させるのは忍びない。
「でも、その……私には、お返しできるものがないですし……」
レナートは簡単に言うが、豆はあるとしても、焙煎するのには道具と時間がそれなりに必要だ。私の好む味に辿り着くまでに、試作だってどれくらい繰り返すことか。そんな時間も手間暇もかかるものを感謝の言葉一つでいただいてしまうなんて、レナートが気にしなくとも、私は気にしてしまう。
せめて、私からもレナートの労力に見合うものをお返しにあげられたらと思うけれど、悲しいかな、何も持たない私には何も用意できない。
そもそも私には、互いに贈り物を贈り合う相手も、何かを作ることを趣味にした友人知人もいた記憶はなく、何の理由もなく無償で贈り物をもらった経験は皆無だ。
そして致命的なことに、私自身に趣味なんてものがあったためしがない。時間があれば死なない為の方策を練るばかりで、それ以外のことに時間を割いている余裕がなかったのだから当然かもしれないけれど、趣味に対する理解が圧倒的に不足している。
だから、こんな時どうしていいのかまるで分らない。遠慮なく貰うだけで、いいものなのだろうか。流石に、お返しくらいは用意しなければ失礼に当たりそうなものだけれど、そうなると今の私に精々できることと言えば、針子としての経験を生かした裁縫くらいと言うことになる。
けれど、そんなことは女性ならば身に付けていて当然のもので、特に特技として披露できるような珍しいことでもない。そんな、普段の生活の中でやるようなことで何かを作って渡して、レナートの珈琲に見合うとも思えない。
そこまで考えを巡らせたところで、私はこちらをじっと見つめるレナートの視線に気付いた。私を探るように見つめる目と合った瞬間、レナートの口元に意地の悪そうな笑みが広がる。
それを見て、私は思わず「あ」と声を漏らしてしまっていた。
糸のように細く長い雨は、時折、思い出したように止んでは雲間から顔を覗かせた太陽に数時間を譲る以外は、エリューガルの地をすっかり雨のベールに包み込む。そして、その雨は日増しに、窓から見える景色の緑の色を濃く鮮やかに変化させていた。
そして、私の王城生活も少しばかり変化した。
図書館から借りてきた本のページを捲る手を止め、ふと顔を上げる。視界に入った時計の針が差す時刻を見て、私は隣室と繋がる扉へゆるりと顔を向けた。
この扉の向こうには、私の護衛を任じられたレナートがいる。これまでは鍵が掛けられ、決して開くことのない壁の一部だったものが、今の私にはすっかり心を浮足立たせるものになっていて、気付くと私は扉に目をやることが増えていた。
これまでは日中もテレシアがこの部屋にいてくれたのだけれど、レナートが護衛に付くならばと、朝晩の身支度以外では、本来の第一王子の侍女としてキリアンの元に戻ってしまったのだ。
そしてエイナーも、頑張りたいことがあるからとのことで、この部屋への訪問がぱったりとなくなってしまい、祭りの後に顔を合わせたのは二回ほど。それも、忙しい時間の合間を縫ってやって来たようで、滞在時間はこれまでに比べて格段に短かった。
だから、広い部屋にぽつんと一人でいる寂しさが、私に人を恋しくさせているだろう。
別に、隣室に住人がいることにそわそわしたり、その住人であるレナートは今何をやっているのだろうと気にしたりなんてこともなければ、いつその扉が開いてこの部屋に姿を現すだろうと、期待しているわけでもない。
ただ、いつもの通りなら、そろそろお茶とお菓子を載せたワゴンと共にレナートがやって来る時間ではある。そして、それらと共にイーリスやオーレン達のこと、レナートの家族の話などを聞くのが、私の新たな日々の楽しみの一つなのだ。
私の護衛をするだけならば全くもって不要なことなのだけれど、これもキリアンなりの私への配慮なのだろう。何から何までしてもらって、本当にありがたい限りだ。
すっかり集中力が切れてしまった私は、大人しく本を閉じて伸びをした。窓辺へ寄り、外を見る。
今日も変わらず朝から降り続いている雨は、そろそろ雨脚を弱めて止みそうな気配だ。流れる雲の色が濃い灰色から随分と明るい色へと変わって、もう一時間もすれば、雲間から太陽が顔を覗かせそうでもある。
窓ガラスを流れる小さな雨粒を指でそっと辿りながら、そこに映る自分自身の姿を眺めて、雨の日をこんなにも穏やかな心地で過ごしていることに、不思議な感覚を抱く。
「雨の日が、こんなに楽しかったなんて……」
リーテの降らせる恵みの雨だから、だろうか。それとも、日に日に緑が生き生きとする様や、濡れた草木が顔を覗かせた太陽の光に輝く美しさを間近に見ているから、だろうか。
これまで、アルグライスでは雨の日を鬱々とした気持ちで過ごしていたのが、嘘のように心が軽い。
昨日のレナートの話だとこの雨もようやく今日で終わり、明日からは晴れが続くだろうとのことだったけれど、私には少しだけ、雨の日々が終わってしまうのが惜しく思えてしまった。
「ふふっ」
自分がまさかそんなことを思うようになるとは思わず、つい、声に出して笑ってしまう。
その時、控えめに扉を叩く音がして、私は跳ねるようにそちらへ振り向いた。どうぞ、との私の声を受けて隣室への扉が開き、やって来たのは、密かに待ちかねていたレナートだ。
今日も、レナートの押すワゴンには美味しそうなお菓子と、美しい絵付けのされた茶器が載せられている。
私がテーブルに広げていた本を急いで片付ければ、そこにレナートがワゴンで持って来たものを順に並べていく。そして、すっかり定位置になってしまったソファの一角に座ったところで、私の鼻が、いつもとは違う香りを嗅ぎつけた。
紅茶とは違う香ばしさの際立つ、濃い香り。
その香りと記憶が即座に結び付き、私は何とも言えない苦い顔でレナートを見やった。楽しい筈のお茶の時間が、途端に試練の場になった気分だ。
けれど、私と目が合ったレナートは私がそんな表情を浮かべることを見越していたのか苦笑するだけで、問答無用で黒々とした液体をなみなみ注いだカップを私の前へと勧めてきた。
「……珈琲、ですよね、これ……」
小皿に取り分けてくれた四角い形の林檎パイは美味しそうなのに、それのお供がこれとは。
「ミリアムが陛下に珈琲を飲まされたと聞いて、これは早い内に対処しておかなければと思ったんだ。……一口でいい。騙されたと思って飲んでくれないか」
テーブルの上に視線を彷徨わせ、私は無意識にミルクを探した。けれど、無情にもミルクの姿はそこになく、はっと見やったワゴンの上に、一つだけ残された林檎パイと共にひっそりと置き忘れられているのを発見する。
いつだって抜かりなく用意をするレナートが、今日に限ってミルクを出し忘れるなんてこと、あるわけがない。そして、この状況でミルクを取ってほしいと言っても、まずはそのままとか何とか言われるに決まっているのだ。
確かに、珈琲そのものの味を確かめるにはミルクは入れない方がいいのは分かる。分かるけれど、薬のような味が記憶に強くこびり付いている私には、そのまま飲むことはかなりの勇気を必要とするのに。
レナートは、ただじっと私が珈琲に口を付けるのを待っている。
観念して、私は顔を引きつらせながらカップを手に取り、目を瞑って一口、流し込んだ。
「あれ……?」
きつく瞑っていた目を開け、手にしたカップの中身を見つめる。間違いなく、カップの中身は記憶に違わない黒々とした、紅茶ではない飲み物である。
けれど。
「……苦くない?」
もう一口、今度はよく味わうように口に含んでみて、やはり同じ感想を抱いた。
イェルドに勧められた珈琲と見た目は変わらないのに、苦みも酸味も断然薄いのだ。全く感じないわけではないけれど、とてもあっさりした飲み心地だった。加えて、イェルドの珈琲にはなかった果実のような香味を、後味に感じる。
「ミルクは必要そうか?」
少しばかり得意げなレナートの一言に、私は首を横に振った。そして、逆に問うてしまう。
「これって、本当に珈琲なんですか?」
あまりに味が違い過ぎて、珈琲と言って出された別の飲み物なのではないかと疑ってしまうほどだ。私の珈琲に対する印象が、大きく揺らぐ。
レナートから出されたものは、それだけ美味しいと感じたのだ。
「勿論、珈琲だ。紅茶に多くの種類があるのと同じで、珈琲も紅茶以上に色々な種類があるんだよ」
確かに、茶葉を摘む時期によって紅茶にも味の違いは生まれるけれど、イェルドの珈琲と今日の珈琲とは、まるで天と地の差だ。同じ珈琲で、こんなにも違うものだろうか。
「でも、イェルド様から勧められた珈琲は……その、何と言うか……」
一言で言うなら、苦みが強すぎて味も格段に濃く、不味かった。到底、美味しいとは思えないくらいには。けれど、流石に国王から勧められたものを直接貶める言葉は使えない。レナートに、あの時の珈琲の味をどう伝えるべきか。
言い淀んで中途半端に言葉を途切れさせた私に、けれどレナートはまるで気にせず、直接的な言葉を口にした。それも、まるで飲んだことがあるかのような、具体的な言葉を。
「苦みが強いし味も濃すぎて、初心者には到底飲めたものじゃなかっただろう。よく我慢して飲んだな、ミリアム」
更には、残したってよかったのにとあっさり言ってのけるレナートに、私は恐れ戦く。
「一国の王が勧めたものを、その目の前で残せるわけがないじゃないですか」
「……そうだったな」
今では、一言断って残す選択をすることにも必要以上の覚悟を必要としなくなってはいるけれど、あの日がイェルドと初対面だった私には到底無理な話だ。
それよりも私には、レナートの口から出た具体的な言葉がとても気になった。レナートは、あの飲むのに大変苦労する珈琲を飲んで、平気だったのだろうか。そして、それを美味しいと思って飲める味覚の持ち主なのだろうか。
「レナートさんは、イェルド様の珈琲を飲んだことがあるんですか?」
「飲んだことがある……と言うか、あれは俺がたまたま試した豆の配合と焙煎の度合いで作った物を試飲された陛下が、気に入られたものなんだ」
一口大に切るべくパイに入れたフォークが勢いよく皿に当たって、がちりと硬質な音が鳴った。弾みで、中の林檎の果肉がぽろりと出て来る。
私の耳が、何やらとんでもない単語を聞いた気がする。作ったとかなんとか。
誰が? 何を? ――勿論、レナートが。珈琲を。
「えっと……? イェルド様の珈琲、を……?」
「ああ。豆がなくなりかけると、いつも陛下から俺に直接、依頼が来るんだ。うちの商会を経由して注文してくれといつも言っているのに、俺に直接言った方が早いと言って聞いて下さらなくて困るよ……」
あの激烈な味の珈琲とレナートとが結び付かずに混乱した私は、一縷の望みを持って聞き返してみたけれど、結果は変わらなかった。むしろ、余計な情報を仕入れてしまった分、更に混乱が広がる。
レナートは騎士であって商人ではなく、実家の商会には一切関わっていないと聞いたのだけれど、これはしっかり商品の開発をして、商会に貢献しているのではないだろうか。それなのに、レナートは商会のことは父と弟任せだと言っていた。これは、一体どう言うことなのか。
内心で首を傾げる私だったけれど、次のレナートの言葉に、それらの疑問は一旦、脇へと追いやることになった。
「ちなみに、今日のこの珈琲も、珈琲を飲み慣れていない人向けにと考えたものなんだ」
「これもですか!」
まさか、この珈琲もレナートの手によるものとは思いもしなかった。ますます驚きが広がり、レナートの意外な面にも興味が湧く。
レナートが豆から焙煎の度合いから考えて作ったもの、と意識しながら改めて飲んでみれば、今日の珈琲はイェルドのものより遥かに癖もなければ味が濃すぎることもなく、実に飲みやすい。
飲み慣れていない人向けと言ったレナートの言葉に納得する、優しい味わいだった。
「美味しいです」
「それはよかった。陛下の珈琲が普通だと思われて、珈琲を嫌いになられたらどうしようかと思っていたんだ」
胸を撫で下ろすレナートは、とても嬉しそうである。
「レナートさんは、珈琲がお好きなんですね」
「そうだな。紅茶好きのキリアンには時折嫌な顔をされるが、俺はどちらかと言えば、珈琲派だ。ただ……」
レナートの視線が、手元のカップに注がれる。中身が零れない程度に傾け、珈琲をじっと見つめているようだった。
「ただ?」
「こうして飲むのも好きだが、俺はどちらかと言うと、新しい味を作り出す方が好きなんだ。珈琲は、産地が違えば豆も違う。焙煎の度合いによって、同じ豆でもまるで異なるものができるし、数種類の豆を混ぜ合わせれば、それこそ数え切れない様々な味わいの珈琲ができ上がる。それが楽しくて、その内、自分で色々と試しては周りの奴に試飲させるようになってしまった。……俺の趣味だな」
「趣味……」
私の人生には無縁だった、何とも意外な単語に目を瞬く。
騎士として剣を振るう姿ばかりが印象に強いレナートの趣味が、珈琲作りだなんて。人は見かけによらないものだ。
「気付いたら、試飲させた家族の口から商会の人間の耳に入って、いくつかは勝手に商品として売られるようになってしまったものもあるんだが、基本的には俺が楽しむ為にやっている。それを、こうして美味しいと言って飲んでもらえるのは嬉しいよ」
ふわりと微笑みながらありがとうと言われて、私は意味もなく視線を彷徨わせてしまった。
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せめて頬が赤くなってはいませんようにと祈りながら、私は誤魔化すように、大きめに切り分けたパイを口に頬張った。口の中に残っていた珈琲の仄かな苦みが、煮詰めた林檎の甘酸っぱさをより一層引き立てるようで、口一杯に広がる美味しさに自然と笑みが零れる。
紅茶のような渋みがない分、こうした甘いお菓子を食べる際には、珈琲も合うかもしれない。
「この珈琲に飲み慣れたら、その内、味の違うものをいくつか淹れてみよう。ミリアムの好みの傾向が分かれば、それに合うように新しく作ってみるのもいいな」
「そんな、いいんですか?」
「言っただろう? 俺の趣味なんだ。ミリアムの好みの味がどんなものか、どんな新しいものができるのか、俺自身が楽しんでやるんだから気にしなくていい。それに、豆は勝手にイレーネが送りつけて来るから、実は腐るほどあるんだ。むしろ、飲めるようにしてやらなきゃ豆が勿体ないだろう?」
珈琲豆の主な産地は、エルメーアとその周辺の西海の国々。エルメーアに嫁いだレナートの姉イレーネは、嫁ぎ先の商会が各地に珈琲農園を持っていると言うことで、商会に卸すのとは別に、実家へ度々豆を送ってくれるのだと言う。
余談だけれど、このイレーネ。成人するや否や「山の女は飽きた、私は海の女になる!」と宣言して父サロモンのエルメーアへの買い付けに同行し、現在の夫となる人物と出会って意気投合したと思ったらその場で結婚を決意したと言うくらい、アレクシアに負けず劣らず豪快な性格の持ち主なのだ。
そんな彼女のやることである。恐らく、実家へ送り付けられる豆の量と言うのも豪快で、レナートの「腐るほどある」は決して比喩ではないのだろう。
だからと言って、私の為に大量に豆を消費させるのは忍びない。
「でも、その……私には、お返しできるものがないですし……」
レナートは簡単に言うが、豆はあるとしても、焙煎するのには道具と時間がそれなりに必要だ。私の好む味に辿り着くまでに、試作だってどれくらい繰り返すことか。そんな時間も手間暇もかかるものを感謝の言葉一つでいただいてしまうなんて、レナートが気にしなくとも、私は気にしてしまう。
せめて、私からもレナートの労力に見合うものをお返しにあげられたらと思うけれど、悲しいかな、何も持たない私には何も用意できない。
そもそも私には、互いに贈り物を贈り合う相手も、何かを作ることを趣味にした友人知人もいた記憶はなく、何の理由もなく無償で贈り物をもらった経験は皆無だ。
そして致命的なことに、私自身に趣味なんてものがあったためしがない。時間があれば死なない為の方策を練るばかりで、それ以外のことに時間を割いている余裕がなかったのだから当然かもしれないけれど、趣味に対する理解が圧倒的に不足している。
だから、こんな時どうしていいのかまるで分らない。遠慮なく貰うだけで、いいものなのだろうか。流石に、お返しくらいは用意しなければ失礼に当たりそうなものだけれど、そうなると今の私に精々できることと言えば、針子としての経験を生かした裁縫くらいと言うことになる。
けれど、そんなことは女性ならば身に付けていて当然のもので、特に特技として披露できるような珍しいことでもない。そんな、普段の生活の中でやるようなことで何かを作って渡して、レナートの珈琲に見合うとも思えない。
そこまで考えを巡らせたところで、私はこちらをじっと見つめるレナートの視線に気付いた。私を探るように見つめる目と合った瞬間、レナートの口元に意地の悪そうな笑みが広がる。
それを見て、私は思わず「あ」と声を漏らしてしまっていた。
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