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第三章 王城での一月

一夜明けて

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 暖炉に赤々と灯る炎以外に光源のない、暗い部屋。人々が芽吹きの祈願祭で祝宴を楽しんでいるのとは裏腹に、その部屋には重苦しい空気が張り詰めていた。
 だん、と執務机に拳を打ち付ける鈍い音が響き、暖炉の中の薪が爆ぜる。

「……どう言うことだ……!」

 くしゃりと紙が潰れる音が続き、忌々しさを隠しもしない低い声が、この部屋の主の口から漏れ出た。ぐぅ、と呻くように歯ぎしりをして、再度、やり場のない怒りが飴色の机を殴りつける。

「何故、出来損ないが祭りに出て来た……!」

 事は、上手く運んでいた筈なのだ。
 あのお方と亡き父の遺志を継ぎ、二十五年と言う短くない雌伏の時を過ごし、ようやく駒を先に進める準備が整ったと言うのに。
 それが何故。
 出来損ないの子供一人まともに攫うことができなかったどころか、引きこもる筈のそれが堂々と祭りの場に姿を表すなど。
 おまけに、出来損ないと共に現れた泉の乙女が――

「始末した筈の女と生き写しとは、どう言うことだっ!」

 酒の入ったグラスを、部屋の暗がりに向かって感情のままに投げつける。
 だが、グラスは壁に当たって割れ砕けるどころか中空にぴたりと静止して、一滴の酒すら零れない。
 やがてグラスの周囲に影が現れ、それが人の手だと判明したところでグラスが傾けられて、唐突に現れた口の中に酒が滑り落ちていく。

 醜い鷲鼻、薄い唇、枯れ枝のような指、蛇を思わせる金色の瞳、曲がった背中。
 誰もいなかった筈の暗がりから、半分以上を闇に溶け込ませた格好の老爺が現れた。
 部屋の主が鋭く睨み付けるのも気にせず、酒をじっくり味わいながら嚥下して、金の瞳がにたりと細まる。

「……いい酒ではないか……勿体のない」
「黙れ! 貴様が、今が時だと言ったのだぞ! それなのにこの失態……! どうしてくれるのだ!」

 王都に放っていた手の者から届いた報告は、部屋の主を激昂させるのに十分だった。何もかもが想定外の結果ばかり。これを怒らずしてどうしろと言うのか。
 出来損ないの第二王子をこの手の内に収めることこそできなかったが、初めの内こそ、第二王子は部屋にこもり、第一王子が側近と忙しく動いているとの報告にほくそ笑んでいたのに、最早その時に感じた昏い喜びなど遥か彼方だ。
 父王を神殿へ追いやり玉座についた現王は、文官を気取った人畜無害の顔をして、鷹の目の如く遍くこの国を見ている。細心の注意を払い、直接の関与を窺わせるものは決して残さぬようにしているが、既にこちらに勘付いていても不思議ではない。

 こうなる前に、全て事を運ぶつもりだったと言うのに。
 それもこれも、全てはこの目の前の老爺の甘言に己が乗ってしまったからか。こうなってしまっては、これまでの二十五年が水泡に帰してしまう前に、再び身を潜め、時を待つべきか――
 部屋の主が歯噛みしながら考えを巡らせていると、すっかり酒を飲み干した老爺が、引きつったような笑いを漏らした。

「……何も心配はいらぬ。全ては、順調に進んでいる」
「順調……? 順調だと? これのどこが順調だと言うのだ!」

 だん、と三度部屋の主が手を叩きつけ、そこに、握っていた為にしわくちゃになってしまった紙片を示した。

「泉の乙女は、確かにリーテの髪を持っていたとある! あのお方を裏切った女は、確かに東の国まで追って殺した! それなのに、何故あれの血を継いだ娘が出て来るのだ!」
「無論、この私が生かしたからよ。お陰で、再びリーテの愛し子がこの国へ舞い戻って来られた……」

 唾を飛ばして怒鳴る部屋の主に、しかし老爺は紙片を摘まみ上げ、暖炉の中へとくべながら、平然とした態度で重大なことを言ってのけた。
 途端、部屋の主の顔から一瞬怒気が削がれ、戦慄く口からは「……は?」と間の抜けた一音が漏れ出る。その両目は信じられないと見開かれ、次第に、煮え立つ怒りがその体を震わせ始めた。

「――貴様ぁ!」

 部屋の主の手が伸び、暗がりの老爺の首を引っ掴む――筈が、手は空を切り、そこにいた筈の老爺の姿は主の背後へ回り込んでいた。
 その首筋に、節くれ立った指先がひたりと添えられる。およそ人の体温からは考えられぬその指の冷たさに、部屋の主は息をのんだ。

「……落ち着け。全ては順調だと言ったではないか」

 利かん気の子供に言い聞かせるような老爺の声に、ゆるゆると突き出した手を下ろし、視線だけを背後へ動かす。闇を纏う老爺は部屋の主のその態度に満足そうに頷いて、そっとその手を闇の中へと戻した。

「どう言う、ことだ……」
「お主の手の者に偽りを報告させたことは謝ろう……。だが、それも全てはこの時の為よ。忌まわしい竜の血族を滅するには、同じく神の血族をもってするしか効かぬもの。私の愛しい宝には、既に種を植えた。後は、芽吹く時を待てばいい」

 ヒヒェ、と再び引きつれた笑いを漏らし、老爺が部屋の主から身を離す。

「……待て、と言うのか……?」
「決して焦るな。これまで通り賢しく動け。……いずれ必ず、時は来る」

 ことりとグラスが執務机に置かれる音を最後に、老爺の姿が闇に溶けた。後には、ただ呆然と立つ部屋の主だけが残されて、再びぱちりと薪が爆ぜる。

「待つ……か」

 これまで、二十五年待った。この先どれほど待てばいいかは分からないが、動き出した今、二十五年より長いことはあるまい。
 得体の知れないあの男の言葉に従うことは癪に障るが、あのお方の元で共に計略を進めてきた、あのお方の腹心。あのお方が、己の命と引き換えにしても逃がした存在。ならば、従う以外に取る手はない。

 部屋の主は気持ちを切り替えるように息を吐き、執務机に座り直すと、卓上の呼び鈴を鳴らした。
 ややあって、年配の家令がやって来る。主人の部屋の暗さに一瞬驚いた様子を見せたものの、父の代から長く使える家令は何事もなかったように「お呼びでございますか」と恭しい礼をした。

「あれを処分しろ。手筈通りにな」
「畏まりました」
「……娘からの報告は?」
「相変わらずのご様子です」

 忌々しく、一つ舌打つ。
 第一王子の目に留まるようきっちり仕込んで王城へ送ったと言うのに、全くいい報告を上げられぬとは、我が娘ながら情けない。
 人を愛に導く南風の女神レイエールと契った証である、蒼銀の髪を持つ娘ならばと欲を出したのが悪かったのか。それとも、自身が既に愛し子であるが故、名残と言えど、他の神との繋がりを厭ったのか。

 せめて、娘が艶聞の一つでも流れる状況に持ち込んでくれたならとも思ったが、一向に王族に近づけないまま。あまつさえ、現在第一王子の近くにいるのは、こちらも忌々しい同郷の、成り上がり宝石商の娘ときている。全てにおいて我が娘に劣る存在が王族に重用されているとは、いかにも腹立たしい。
 だが、過ぎた欲は身を滅ぼすとも言う。あのお方の願いが成就するならば、己の小さな欲など惜しくはない。最早、娘には何も期待すまい。

「……呼び戻しますか?」
「構わん。使えぬ娘でも、城内の情報源の一つとしては、まだ多少の役には立つ」

 第二王子に関してはまるで情報が掴めていなかったが、第一王子側が警戒していることの裏返しと取れば、全く役に立っていないわけでもない。
 手を振り家令を下がらせて、部屋の主はカーテンをわずかに開けた。
 窓外には、小さな雲が点々と浮かぶ以外は澄んだ月夜が広がっている。その下では、松明の明かりに照らされて、人々がリーテへ感謝を捧げる祝宴に興じる姿がある。

「本当に……忌々しい……」

 今再び、リーテの愛し子が戻って来るとは。
 あれの恵みは、山脈のこちら側だけ。わずかに峡谷を挟んだ向こうには、一切の慈悲もない。
 真に苦しむ民に手を差し伸べぬ神など、邪魔なだけだ。その神の恩恵に与り、国を統治する神の守護を受けた血族も。

「この国は、我ら人のものだ」

 いつまでも居座る不要な神は、滅するのみ。
 きつく拳を握り締め、部屋の主は窓に背を向けた。
 少し膨らんだ半月が、その背を青く照らしていた――


 ◇


 芽吹きの祈願祭、翌日。
 後片付けに追われて少々忙しない城内の、その一角。喧騒から離れた場所で、私は神妙な面持ちでソファに座っていた。

 まさか、自分が起床したのが昼を間近に控えた時刻だとは思わず、大いに慌てふためいたのが二時間と少し前。
 やって来たテレシアに謝り倒したものの、彼女からは「疲れていたのよ」の一言で笑われることも呆れられることもなく。反対に、敢えて起こさなかったのだから気にしないでと言われ、朝食と昼食を兼ねた食事を摂ったのが一時間前。
 それから身支度を整え、キリアンの執務室へと案内されたのが、ほんの少し前。

 落ち着いた色の調度で統一されたその部屋は、流石は王太子の執務室と言う雰囲気で、いかにもキリアンらしい。また、窓辺の止まり木で大人しくしている鷹さえも部屋の調度の一部のようで、初めは剥製だと思っていた鷹が動いたことで本物だと知り、私は思わず目を丸くしてしまった。
 そんな私をキリアンが苦笑で出迎え、ソファへ案内されて、キリアンが私の正面に。その隣に何故かテレシアが、そして彼女の正面――つまり、私の隣にはレナートがそれぞれ腰掛けて――現在である。

 執務室で仕事をしていたらしいイーリスは四人分のお茶を出したあと退室してしまい、これまでにない珍しい状況に、私は緊張感を持って背筋を伸ばした。
 誰が最初に口を開くのか……静かな室内に漂う沈黙に居た堪れない気持ちが湧き始めた頃、ミリアム、とキリアンではなく、テレシアが私の名を呼んだ。

「まずは、あなたに謝らなければいけないわね」

 普段から笑顔を絶やさないテレシアが真摯な眼差しで、私を真っ直ぐに見据える。

「あなたに何も伝えず祈願祭に参加させたこと、本当に申し訳なかったわ。ごめんなさい」
「テレシアに強く反対しなかった私からも、謝罪する。申し訳なかった、ミリアム」

 テレシアに続いてキリアンからも謝罪され、私は途端に焦ってしまった。
 確かに色々と文句を言いたいくらいには振り回されたけれど、こんな風に謝罪されるほど、テレシア達に対して怒りの感情があったわけではない。
 むしろ、昨日のイーリスの言葉ではないけれど、終わりよければ全てよし。最後の祝宴で、それまでの心配や不安を吹き飛ばしてしまえるほど楽しんだので、私としては感謝しているくらいだ。

「お二人共、そんなに謝らないでください。その、皆さんが私の為を思ってやったことだとは、分かっていますから……」

 テレシアにもキリアンにも、笑ってほしい。そんな思いで首を振れば、対面の二人は揃って安堵したように口元に笑みが灯った。

「それでも……本当にごめんなさいね、ミリアム。私、シーラ様に叱られてしまって。程度を弁えなさいって」

 庭園でイェルドと対面した時、イェルドの身支度を整え珈琲を用意した侍女が、確かそんな名だった。
 一つにまとめた髪型の所為か、見た目はややきつい印象だったけれど、私と目が合うとふわりと微笑んでくれたのを覚えている。必要最低限の言葉しか発することなく、てきぱきと動き、そして静かに控える様は、流石は国王に仕える侍女と言う風格だった。
 そんな女性が叱るほど、今回のことは傍から見ても無茶をやったと言うことか。
 それでも、テレシアはどうしても私に何も伝えずに祭りに参加させたかった……その理由は、どこにあるのだろう。

「……どうして、テレシアさんはこんなことをしようと思ったんですか?」

 私の疑問は、やはりそこに尽きる。
 テレシアは一度キリアンと顔を見合わせ、眉尻を下げた笑顔を私に向けた。

「だって、教えていたら、ミリアムはきっと祈願祭を楽しめなかったんだもの。初めて体験するお祭りなのに心から楽しめないなんて、そんな悲しいことはないじゃない?」

 テレシアの中では確信があるようだけれど、普通は、教えられた方がより深く祭りを理解して、楽しめるものなのではないだろうか。
 私が小首を傾げると、テレシアの口からふふ、と小さな笑い声が漏れた。

「ミリアム。あなたは、本当の意味で『泉の乙女』なの。……と言っても意味が分からないでしょうから、あなたにも分かるように言うとね。あなたは……『リーテの愛し子』なのよ」
「は……え?」

 リーテの愛し子。
 聞き慣れないけれど、聞いたことのある言葉によく似たそれに、私はぽかんとしてしまう。そんな私に、調子を戻したテレシアのにこにことした明るい笑顔が降り撒かれ、私は仄かな頭痛を感じた。

「……説、明……を……」

 口の端を引きつらせながら、何とか言葉を口にする。

「勿論、今度はちゃんとあなたに説明するわ」

 そうして、テレシアからようやく聞かされた、私に今日まで伝えられなかった祈願祭にまつわる様々な説明を聞いた私は、三人がいる前にも拘わらず、ソファの上で悶えるように頭を抱えていた。

「ちなみに、リーテの愛し子のことを敢えて泉の乙女と言うのは、クルードが自分の愛し子以外をそう呼ばれることを嫌がったからなの。心の狭い守護竜様よね」
「心が狭いと言うな。クルードが己の愛し子を愛しているだけだ」
「そう言うことは、リーテの愛し子と言えるようになってから仰ってくださいな」
「……言おうとすると喉が痛む。言わせるなよ、テレシア」
「やっぱり、心が狭い守護竜様ですわ」

 テーブルを挟んだ正面でテレシアとキリアンが何やら話している声を聞きながら、私は頭を抱えたまま、全く言葉を出せないでいた。

「…………」

 ただ母譲りだと思っていたこの緑の髪が、まさか、リーテの愛し子の証だったなんて。
 おまけに、母と私、親子二代に亘ってリーテの愛し子だなんて、珍しいにも程がある。
 決勝の時、試合を見る女神の存在を身近に感じることができたのも、女神の見る世界を共に見ることができたのも、私が泉の乙女役だったからと言う理由ではなかった。
 生命の杯にリーテの雫が湧いたのも、祝宴で、演奏される曲に相応しいダンスを知っていたように思ったのも、偶然でも何でもなかった。

 全てのことは、私がリーテに由来する聖域の民の末裔で、その力を濃く受け継いでいたからだったなんて――!

 衝撃的すぎて、頭が上げられない。

「……嘘……だったり……」
「あら。私がミリアムに嘘を教えたことがあって?」
「ない、です……」 

 悪あがきのように、全部嘘だったらなんて思いが頭を過ってうっかり口が開いたけれど、当然のようにテレシアに否定されてしまった。

「そうでしょう?」

 果たして、私はこれらのことを事前に聞かされていたら、祈願祭を楽しめただろうか。
 想像を巡らせて、すぐに否と答えが出た。
 ようやく、キリアンやエイナーが私のことを信じて、客人として受け入れてくれた直後のこと。そんなことを聞かされて、その上、祈願祭に泉の乙女として出てくれるように言われたとして、私は絶対頷かなかった。その確信がある。
 祭りを楽しみたい気持ちはあっても、そんな目立つ存在として人前に出るなんて絶対に嫌だと断っていただろう姿が、簡単に想像できた。

 そう考えれば、確かに、テレシアが私に何も伝えずに祭りに連れ出してくれたことは、正しい行動だったのだろう。
 そうでなければ、私は試合観戦の興奮も、出店を見て回る楽しさも、友人と食べ物を分け合って食べる嬉しさも味わうことなく、知り合った三人の騎士の剣捌きの素晴らしさすら知ることなく、どこか遠い世界のことと諦めぼんやり眺めて、部屋に引きこもっていた筈だ。
 私の世界はまだ、狭いままだった。

「……テレシアさん」

 気持ちを落ち着けてそろそろと頭から手を下ろし、少しばかり身を起して、けれどまだ正面切ってテレシアを見つめられないまま、私は彼女へ呼び掛けた。

「なぁに?」

 優しい声音に滲む私を思う気持ちに気付いて、嬉しさから頬が熱くなる。
 確かに無茶苦茶だった。何度も説明してほしいと思った。悩んだし不安にもなったし、戸惑いもした。けれど、それら全ては、私に祭りを楽しんでもらいたいが為のこと。
 それなら、私に言える言葉はもう、一つしかない。

「ありがとうございました。教えないで、いてくれて」
「こちらこそ、私の無茶に付き合ってくれてありがとう、ミリアム」

 一つ息を吐いてようやく私がしっかり顔を上げれば、そこにはほっとした表情のテレシアと、そんな彼女を、目を細めて愛おしげに見つめるキリアンがいた。
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