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第二章 芽吹きの祈願祭
涙のあとで
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笑いと涙を収め、高ぶってしまった気持ちを落ち着けている間、すっかり湿ってしまったハンカチに、私は笑いながら流した涙の量を思い知らされて、ため息を吐く。
(私の涙腺は、どうしてしまったのだろう……)
元々かなり涙脆い方だったのか、泣くことを我慢し続けてきた反動がここに来て一気に出てしまったのか。それとも、単に幸せに慣れていないだけなのか。色々な可能性を挙げてみるけれど、果たしてこの中に正解があるのかどうか。
もっとも、理由が分かったところで、私がこの先嬉し泣きするほどの出来事はそろそろ打ち止めのような気がするので、気にすることもなさそうではあるのだけれど。
むしろ、自分でも呆れるほど十分に泣いたので、ぜひ打ち止めであってほしいと言うのが本音かもしれない。
私がもう一度ため息を吐いたところで、不意に私の元に温かな紅茶が運ばれてきた。顔を上げれば、穏やかな表情のハラルド。
騎士団宿舎付きの侍女ではないことを不思議に思っていれば、ハラルドはまるで執事のように、どうぞお召し上がりくださいませと頭を下げて、自分もまた対面のソファに腰かけた。勿論そこにも、ハラルドが手ずから入れた紅茶が湯気を立てており、同じものはイェルドの手元にも用意されていて。
「お前の淹れた紅茶を飲むのは久し振りだ」
早速イェルドがカップに口をつける姿に、私はようやく、ハラルドが元々はカルネアーデ家で従僕として働いていたことを思い出した。
と言うことは、母もハラルドの淹れた紅茶を楽しんでいたのだろうか――そんなことを考えながら一口含んだ私は、舌が拾った甘さとふわりと漂う花の香りに驚いて目を瞬いた。それを見ていたハラルドは私の驚きを喜んで、少しばかり得意げな表情を覗かせる。
「お疲れかと思いましたので、蜂蜜を少々」
「とても美味しいです。それに……香りが」
それは、サシェや香水、香油と、広く使われているラベンダーの香りだった。あの家では、少しでも香りものの気配を纏わせていれば生意気だと折檻の対象になっていたので、香りの強いラベンダーに触れるのは随分と久しい。
その懐かしさに、アルグライスを始めとする東方の国でも、やや北に位置する国が産地として有名だったことを、私はふと思い出した。
飲む度に気持ちの落ち着く穏やかな香りが口の中に広がって、心が安らいでいく。蜂蜜の甘さも相まって、気付けば私は半分ほどを飲んでしまっていた。
「お気に召していただけたようでございますな」
令嬢にあるまじき飲み方だったかと恥ずかしく思いながらも、ハラルドがあまりに嬉しそうにするので、私も素直に笑みを返す。
「エステル様もよくお召し上がりでございました。お二人共にお気に召していただけて、嬉しゅうございます」
「お……母も好きだったのですか?」
「えぇ。エステル様は、それはそれは甘いものをお好みでして、紅茶には必ず蜂蜜をお入れでした。ただ、あまりに一度に多く入れてしまわれるので、お止めするのがいつも大変で……」
「そう言えば、一度庭園に招いた時、屋敷から蜂蜜を入れた小壺を持参したことがあったかな? 紅茶だけに留まらず、菓子にも蜂蜜をかけていたのをよく覚えているよ」
「……そんなこともございましたな」
母がそんなにも甘いもの好きだったとは、知らなかった。
過去を懐かしむように目を細める二人の話を聞きながら、私の胸中では嬉しさと寂しさ、そして悲しみと怒りとが混じり合う。
リンドナー家での差別的な扱いでは、甘味なんておいそれと口にはできなかったから、私があの家で甘いものを満足に口にできたのは三歳までのことで、それ以降は殆ど記憶にない。精々が、仕事の最中に外に出た折、庭に自生している花の蜜をこっそり吸うくらいだった。
一度にたくさん花を摘んでしまうと見つかるから一人二輪までと決めて、母と二人で目立たない場所の花を摘んでは、その甘さを楽しんでいたものだ。ついでに、花びらもそのまま胃に収めていた気もする。
けれど本当は、母はもっとたくさん花を摘んで、蜜を味わっていたかったに違いない。お腹いっぱいの料理も食べたかった筈だ。
そんな些細な望みすら叶えさせてくれなかったあの家は、母にとってどれだけ地獄だっただろう。そんな中で、私はどれだけ母の支えになれていただろう。
「これは私としたことが。今、この場に相応しい話題ではありませんでしたな」
「……すまないね、ミリアム」
母と過ごした日々を思い出していた私へ唐突に謝罪を口にする二人を前に、私は一瞬目を丸くして、それから反射的に両手を頬に当てた。
「……あの、もしかして……」
そう口に出してみるものの、二人の苦笑する様子を見れば一目瞭然。
どうやら私は、二人が慌てて謝罪の言葉を出すほど、悲しげな表情にでもなってしまっていたらしい。話題が話題だっただけに、嫌でも亡くなった母を思い出して沈んだ心地になったと思われたのだろう。
確かに、屋敷での日々を思い出して切なくなって同時に怒りも沸いたけれど、私の知らない母の一面を知ることができたことは、間違いなく嬉しかった。ただ、思い出した事柄が事柄だったばかりに、感じた筈の嬉しさが顔に出なかっただけで。
「……私は、母について知らないことが多いのだと改めて思い知らされて、少し寂しくなってしまっただけなんです。ですから、その……また、母のお話を聞かせていただけますか?」
母を知ることで、私の中にある母との少ない思い出にも、鮮やかな色が添えられるかもしれない。
それでなくとも、救国の乙女と謳われる母のことを、これからこの国に住まう者として、また、母の娘として、単純に知りたいと思う。
「勿論ですとも。ミリアムお嬢様のお望みのままに」
「私の時間の許す限り、君の望みに応えよう」
二人に快諾してもらえたところで、私なんかの望みの為に国王にわざわざ時間を割かせるなんて、あまりに大それたことを願い出てしまったものだと、一瞬冷静な思考が私に冷や汗をかかせた。けれど、私に頷くイェルドはとても楽しそうで、私は遠慮しそうになる思考を慌てて押し止める。
私は遠慮せずたくさん受け取っていいのだと、その権利があるのだと、先ほど二人に言われた言葉を心中で繰り返す。尻込みしそうになるけれど、私は、ただ素直に彼らの好意を受け取ればいいのだ。
ラベンダーの香りを助けに改めて気持ちを落ち着かせ、代わりに、二人から母とのどんな話を聞かせてもらえるのか、気持ちが上向く方向へと思考を巡らせる。
ハラルドはきっと母の幼少の頃を知っているだろうし、イェルドには母と二人だけの思い出があるかもしれない。私からは、母についてあまり語ることはできないかもしれないけれど、ハラルドにはきっとどんな些細なことでも「あのエステル様が子育てを」などと言って感動されそうな気がする。
そう思うと、俄然二人と母について語る時間が待ち遠しく感じられて、私の胸が小さく弾んだ。
「それはそうと……ミリアムお嬢様、一つお伺いしておきたいことがあるのですが、よろしいですかな?」
ハラルドから少しばかり改まった態度でそう問われたのは、小腹が空いたことを意識した私が、テーブルの上の菓子をそっと物色していた時だった。
何でしょう、と軽く請け負った私に、ハラルドの真剣な表情が迫る。
「ミリアムお嬢様は元より、エステル様へも許し難い暴挙を働いた男のことなのですが。――……その首、ご所望なさいますかな?」
梟の鋭い眼光が私を射貫き、数瞬、室内が沈黙に支配される。
首――それは、一般的には、人体で言うところの頭と胴とを繋ぐ部分のことを言う。その筈だ。
けれど。
(……いやいやいやいや、ちょっと待って! この方、今、何て言った!? 首!? 首って言ったの!?)
私の口の端が、ひくりと引きつる。
この場合のハラルドが言う首とは、所謂頸部ではなく、そこから上の部分――頭。
それを所望するとは、つまり――
「やれやれ。どうして剣を持つ者は、こうも簡単に暴力的な思考に走ってしまうのだろうな……」
あまりの発言に絶句していた私の代わりとばかりに、イェルドが大袈裟に呆れ交じりのため息を零して、まるで残念なものでも見るような冷めた視線をハラルドへと送る。
「息子の騎士も、ハンカチよりもあの男の首を手土産にすべきだったと嘆いて、今にも城を飛び出す勢いだったと言うし……困ったものだ」
「…………」
今、私は何を聞いたのだろう。息子の騎士とは、もしかしなくともイーリスのことだろうか。
確かに、アルグライスで購入したと言うハンカチをイーリスからいただいたけれど、あの、どこを取っても素敵としか言いようのない騎士のイーリスが、まさかそんな暴言を吐くだなんて。
ハラルドの言葉に対してすら絶句するしかなかった私にイェルドが追い打ちをかけて、一瞬、現実逃避するように私の気が遠くなる。それを押し止めたのは、至極真面目なハラルドからの、大事なことでございます、との一言。
「どこに大事な要素があるのか、私には分からないのだが」
「我が主とそのお嬢様を冒涜したのですぞ?」
「……と、ハラルドは言っているけれど?」
衝撃から立ち直り切れない内にイェルドに水を向けられて、私は面食らう。そして、どう答えるべきか、慌てて考えた。
勿論、母と私に対する仕打ちは許せるわけがないし、許すつもりも毛頭ない。あの男に対する私の怒りは、それこそシュナークル山脈の白い頂を持つ山々よりも遥か高く、到底鎮められるものでもない。
それでも。
「……いりません」
少しの時間を置いて気持ちを落ち着かせ、私は緩くかぶりを振った。
確かに、受けた仕打ちを許そうとは一欠片だって思わないけれど、不思議とあの男の死を願ったことは、これまでに一度もない。記憶を思い出した後ですら、私と同じ目に遭わせてやりたいと思いこそすれ、殺したいと思ったことはなかった。
それは、私が何度も生き死にを繰り返している所為で、生き続けることの難しさ、そして、繰り返すことのない死の尊さを身に染みているからだろう。そんな私だからこそ、死ねばいいなどと簡単に口にはできないし、してはいけないことだ。
何より、あの男は腐っても領主。私より幼い異母妹の、ただ一人の父親でもある。あんな男でも死んで悲しむ人の方が多いのだから、その死を望むことは、私にはできない。
「私や母にとっては最悪な人間でも……そんな男でも、突然いなくなってしまったら困る人が、大勢います。無関係な人達に迷惑をかけることはできません。ですから……ハラルド様のそのお気持ちだけ、いただいておきます」
相手を殺してやりたいと思うほどに、母と私を大切に思うハラルドの気持ちを知ることができただけで、私には十分だ。それだけ思ってくれる人がそばにいるエリューガルで暮らしていけば、きっと、辛かった生活で受けた痛みも、幸せな記憶に上書きされて薄らいでいくだろう。
それに本音を言えば、母との思い出だけは忘れるつもりはないけれど、どんな形であれ、これ以上アルグライスには関わりたくないし、忘れたい。できれば、フィロンのことすらも。
「……さようでございますか……」
どことなく残念そうな、けれど、一方で私の答えが分かっていたように眉尻を下げたハラルドは、私の返答を噛み締めるように一つ大きく頷いた。そして、この場の空気が重くなり過ぎないよう、軽口を叩く。
「久々に、長期の休暇が取れるかと思ったのですが」
「物騒なことのために休暇を取ろうとしないでくれるか、ハラルド」
「ミリアムお嬢様たっての願いですからな。潔く諦めましょう」
「……ぜひとも、そうしてくれ」
イェルドの、疲れと呆れが混ざり合った反応は私達三人に小さな笑いをもたらし、応接室が明るい空気に包まれる。
そこに、まるでこの時を見計らっていたかのように、キリアンとエイナーの兄弟が戻って来た。二人の後ろからは、私を着替えさせてキリアン達の元へと案内したきり、別行動になってしまっていたテレシアが小箱を抱えて続き、静かに扉を閉める。
途端に密度の高くなった応接室で、まずは三者三様、真っ先に私の様子を窺って、キリアンとエイナーは明らかに安堵し、テレシアは何故か少しばかり残念そうな様子を見せた。
「ただいま戻りました、陛下」
「ああ、ご苦労だった」
挨拶を交わす親子のそばでは、ハラルドがそれでは、と腰を上げ、暇《いとま》を告げる。
「ミリアムお嬢様。ご用命の際は、いつでも兵団本部へご連絡くださいませ。このハラルド、いついかなる時でもすぐに馳せ参じましょう」
「ありがとうございます、ハラルド様」
私とイェルドへ向かって深々と一礼したハラルドは、一度エイナーに呼び止められ、一言二言言葉を交わした後、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、私は浮かべていた微笑みを若干引きつらせる。
今のハラルドの言い方では、私が彼へと手紙でも送ろうものなら、仕事そっちのけで私の用件を最優先にしかねない。何となくだけれど、ハラルドの仕事が休みの日にお茶に誘うような内容を送ったとしても、休日まで私を待たせてなるものかと、本来は仕事の日を平然と休みにしてしまいそうな勢いを感じる。
規律と風紀に厳しいと言うハラルドが、まさかそんなことをやるとは思いたくはないけれど、先の「首」発言もあるので、どうにも不安が付きまとう。
どうか、ハラルドが無茶なことはしませんように――そんなことを考えていた私は、いつの間にかテレシアが私の正面へやって来ていたことに気付くのが遅れてしまった。
ふ、と視界の端を遮られるような感覚に顔を上げた私に、テレシアが有能な侍女の顔で、私と目線を合わせる。
「ミリアム様。少しお化粧が崩れてしまわれていますので、お直しいたしますね」
この部屋には、生憎鏡がない。先ほど、ハンカチをしっとりさせてしまう程度には泣いた自覚のある私ははっとして、傍らに置いたハンカチに目を落とした。
涙と共に流れてしまった化粧の汚れが、確かにそこにはある。特に目元はテレシアが気合いを入れてくれていた部分だった。流れる涙を拭えば、必然的にその部分の化粧が一番崩れてしまうわけで。
「すみません、テレシアさん。せっかく綺麗にお化粧していただいていたのに……」
「いえいえ。キリアン様達が酷く心配されていましたから、もっと盛大に泣き腫らしていらっしゃるのかと予想していましたのに、たいして直し甲斐のないお顔でしたので、むしろ残念ですわ」
だから、この部屋に入った時に残念そうだったのか。
理由が判明したのはいいけれど、それはそれで、どうなのだろう。テレシアがいくら人を着飾ることが好きで、私が嬉し泣きしてしまう質とは言え、化粧がボロボロになるくらい泣きじゃくることを期待されていたと言うのも、実に複雑だ。
そして、そんな顔で紅茶をいただいていたとしたら、流石の私も恥ずかしい。
男性陣の視界から私の顔を隠して小箱の蓋を開け、そこから化粧道具を取り出したテレシアが、目元を中心に手早く私の化粧を整え始める。
そんな私の対面では、ソファに腰かけたキリアンがイェルドと言葉を交わしていた。
「試合はどうだった?」
「順当にレナートとオーレンが勝ち抜きました。……イーリスは、酷く悔しがってはいましたが」
「両翼同士の試合と言うのも面白くはあるが……今回はそうならずに済んで何よりだ」
「陛下の方は……いや、愚問でしたか」
「少し肝を冷やしたがね」
親子が、揃って私へ視線を向ける気配。それだけで、彼らがどれだけ私のことを気にかけてくれていたのかが、ひしひしと伝わって来る。
けれど、今はそのことに嬉しさと恥ずかしさを感じている場合ではない。二人の会話に聞き捨てならない単語を拾って、私は慌ててテレシアの陰から顔を覗かせた。
「もしかして、休憩はとうに終わっていたんですかっ?」
そうであるなら、私は休憩の終わりにも試合の再開にも全く気付かずに、ハラルド達と話していたことになる。そしてキリアン達も、出場者の労いから戻って来たのではなく、王族として二試合を観戦し終えて戻って来たことになる。
これはもしかして、私は泉の乙女役として、大きな失態を犯してしまったのではなかろうか。
何より、レナートとイーリス、二人の試合を見逃してしまったことの衝撃は大きい。
「知らなかったの?」
「ま……全く……」
キリアンの隣で目を丸くするエイナーに私が肩を落としてみせると、エイナーは即座に非難を込めてイェルドを睨んだ。ぷくりと頬を膨らませ「父上!」と怒るその姿は、実に可愛らしい。けれど、父であるイェルドにはどうやら効果は絶大のようで、王の威厳の欠片も見せず、その顔はたちまち弱り果て、降参するように両手を軽く挙げた。
そんなイェルドを、呆れ交じりのキリアンの鋭い視線が厳しく射貫く。
「伝える機会を逸していたよ」
「ミリアムは、試合を見たかった?」
「それは勿論」
あんなに格好よかった二人の姿を、その試合を、見たくないわけがない。なんなら、休憩明けの楽しみの一つと言っても過言ではなかった。
「すまなかったね」
イェルドの謝罪に私は首を振り、それよりも気になっていたことを尋ねた。
「あの……単純に試合を見たかった気持ちもあるのですが、泉の乙女として、私は試合をきちんと観戦しておかなくてもよかったのですか?」
突然見知らぬ少女が泉の乙女役として現れただけでなく、試合が再開しても中座したまま戻って来ないのでは、私を泉の乙女役に抜擢した王家に非難が行きやしないだろうか。おまけに、共に国王まで戻らなかったとなれば――変な噂が流れかねない。
何と言っても、イェルドは王妃である妻を亡くしている。そして、王妃の長期の不在は、国にとって決していいことではない。当然、周囲の者達からは後添いを強く望まれている筈だ。
加えて、唯一の姫も亡く、今は王子が二人きり。その二人共がクルードからの加護を与えられていれば国の未来は安泰だけれど、亡き王女に代わる新たな王女の誕生を望む声があっても、おかしくはない。勿論、その場合は子を産むのに十分な若い女性が望ましいわけで。
当人達が望んでいなくとも、無責任な噂と言うものはあっと言う間に広まって、それがいつしか既成事実化してしまうことだってある。
自分の想像に思わずぞっとしかけたところで、キリアンの明るい声が私を思考の渦から引き上げてくれた。
「そのことなら心配はいらない。泉の乙女は、最終的に決勝を見届けてその勝者に杯を授ける儀式さえ執り行ってくれれば、観戦するもしないもその者の自由だ。セルマ様などは、敢えて決勝前の試合を見ないことで、誰が勝ち抜いて来るのかを楽しみにされていてな。だから、ミリアムが席にいなくとも気にする者は誰もいない」
私の悪い想像が見事に否定されて、ほっとする。それと同時に、懲りずに悪い方へ考えを向けていた自分に呆れ果てた。私にはとことん、この方面で学習能力が備わっていないらしい。
落ち着いて考えれば、私のような小娘が考えそうな悪い事態、一国の王や王子ともあろう人物が思い至らないわけがない。あらゆることを考えた上で、自分達や私の不利益にならないと分かっているから、私は試合観戦をせずこうしてこの場にいるのだ。
「しかし、そうか……試合を見たかったと言うなら、本当に悪いことをしたな。一応、知らせは寄越したのだが、首を振られたので、そのつもりでエイナーと二人だけで行ってしてしまった」
「試合を見られなかったのは残念ですが、ハラルド様達とゆっくりお話しできる時間がいただけたので、気になさらないでください」
知らせと言う言葉に、一度、誰かがこの応接室へやってくる足音を聞いたことを思い出した。あれは、ハラルドに私のことを話す少し前くらいだったか。
応接室の外には、護衛として騎士団の副団長が控えている。室内で会話が続いている様子と、ハラルドが退室する気配もなかったことから、その人の判断でこちらに伺いを立てるまでもなく断ったのだろう。
確かに、あの時に試合の再開を伝えられても、誰も部屋から出て行かなかったに違いない。と言うことは、どのみち私は二試合の観戦はできなかったと言うことになる。ならば、いつまでも悔やんでいても仕方がない。残された決勝の一試合を余さずこの目に収めて、存分に楽しむのみだ。
私は気持ちを切り替え、テレシアに綺麗に整えてもらった姿を手鏡に見ると、気合いも新たに決勝へと思いを馳せた。
(私の涙腺は、どうしてしまったのだろう……)
元々かなり涙脆い方だったのか、泣くことを我慢し続けてきた反動がここに来て一気に出てしまったのか。それとも、単に幸せに慣れていないだけなのか。色々な可能性を挙げてみるけれど、果たしてこの中に正解があるのかどうか。
もっとも、理由が分かったところで、私がこの先嬉し泣きするほどの出来事はそろそろ打ち止めのような気がするので、気にすることもなさそうではあるのだけれど。
むしろ、自分でも呆れるほど十分に泣いたので、ぜひ打ち止めであってほしいと言うのが本音かもしれない。
私がもう一度ため息を吐いたところで、不意に私の元に温かな紅茶が運ばれてきた。顔を上げれば、穏やかな表情のハラルド。
騎士団宿舎付きの侍女ではないことを不思議に思っていれば、ハラルドはまるで執事のように、どうぞお召し上がりくださいませと頭を下げて、自分もまた対面のソファに腰かけた。勿論そこにも、ハラルドが手ずから入れた紅茶が湯気を立てており、同じものはイェルドの手元にも用意されていて。
「お前の淹れた紅茶を飲むのは久し振りだ」
早速イェルドがカップに口をつける姿に、私はようやく、ハラルドが元々はカルネアーデ家で従僕として働いていたことを思い出した。
と言うことは、母もハラルドの淹れた紅茶を楽しんでいたのだろうか――そんなことを考えながら一口含んだ私は、舌が拾った甘さとふわりと漂う花の香りに驚いて目を瞬いた。それを見ていたハラルドは私の驚きを喜んで、少しばかり得意げな表情を覗かせる。
「お疲れかと思いましたので、蜂蜜を少々」
「とても美味しいです。それに……香りが」
それは、サシェや香水、香油と、広く使われているラベンダーの香りだった。あの家では、少しでも香りものの気配を纏わせていれば生意気だと折檻の対象になっていたので、香りの強いラベンダーに触れるのは随分と久しい。
その懐かしさに、アルグライスを始めとする東方の国でも、やや北に位置する国が産地として有名だったことを、私はふと思い出した。
飲む度に気持ちの落ち着く穏やかな香りが口の中に広がって、心が安らいでいく。蜂蜜の甘さも相まって、気付けば私は半分ほどを飲んでしまっていた。
「お気に召していただけたようでございますな」
令嬢にあるまじき飲み方だったかと恥ずかしく思いながらも、ハラルドがあまりに嬉しそうにするので、私も素直に笑みを返す。
「エステル様もよくお召し上がりでございました。お二人共にお気に召していただけて、嬉しゅうございます」
「お……母も好きだったのですか?」
「えぇ。エステル様は、それはそれは甘いものをお好みでして、紅茶には必ず蜂蜜をお入れでした。ただ、あまりに一度に多く入れてしまわれるので、お止めするのがいつも大変で……」
「そう言えば、一度庭園に招いた時、屋敷から蜂蜜を入れた小壺を持参したことがあったかな? 紅茶だけに留まらず、菓子にも蜂蜜をかけていたのをよく覚えているよ」
「……そんなこともございましたな」
母がそんなにも甘いもの好きだったとは、知らなかった。
過去を懐かしむように目を細める二人の話を聞きながら、私の胸中では嬉しさと寂しさ、そして悲しみと怒りとが混じり合う。
リンドナー家での差別的な扱いでは、甘味なんておいそれと口にはできなかったから、私があの家で甘いものを満足に口にできたのは三歳までのことで、それ以降は殆ど記憶にない。精々が、仕事の最中に外に出た折、庭に自生している花の蜜をこっそり吸うくらいだった。
一度にたくさん花を摘んでしまうと見つかるから一人二輪までと決めて、母と二人で目立たない場所の花を摘んでは、その甘さを楽しんでいたものだ。ついでに、花びらもそのまま胃に収めていた気もする。
けれど本当は、母はもっとたくさん花を摘んで、蜜を味わっていたかったに違いない。お腹いっぱいの料理も食べたかった筈だ。
そんな些細な望みすら叶えさせてくれなかったあの家は、母にとってどれだけ地獄だっただろう。そんな中で、私はどれだけ母の支えになれていただろう。
「これは私としたことが。今、この場に相応しい話題ではありませんでしたな」
「……すまないね、ミリアム」
母と過ごした日々を思い出していた私へ唐突に謝罪を口にする二人を前に、私は一瞬目を丸くして、それから反射的に両手を頬に当てた。
「……あの、もしかして……」
そう口に出してみるものの、二人の苦笑する様子を見れば一目瞭然。
どうやら私は、二人が慌てて謝罪の言葉を出すほど、悲しげな表情にでもなってしまっていたらしい。話題が話題だっただけに、嫌でも亡くなった母を思い出して沈んだ心地になったと思われたのだろう。
確かに、屋敷での日々を思い出して切なくなって同時に怒りも沸いたけれど、私の知らない母の一面を知ることができたことは、間違いなく嬉しかった。ただ、思い出した事柄が事柄だったばかりに、感じた筈の嬉しさが顔に出なかっただけで。
「……私は、母について知らないことが多いのだと改めて思い知らされて、少し寂しくなってしまっただけなんです。ですから、その……また、母のお話を聞かせていただけますか?」
母を知ることで、私の中にある母との少ない思い出にも、鮮やかな色が添えられるかもしれない。
それでなくとも、救国の乙女と謳われる母のことを、これからこの国に住まう者として、また、母の娘として、単純に知りたいと思う。
「勿論ですとも。ミリアムお嬢様のお望みのままに」
「私の時間の許す限り、君の望みに応えよう」
二人に快諾してもらえたところで、私なんかの望みの為に国王にわざわざ時間を割かせるなんて、あまりに大それたことを願い出てしまったものだと、一瞬冷静な思考が私に冷や汗をかかせた。けれど、私に頷くイェルドはとても楽しそうで、私は遠慮しそうになる思考を慌てて押し止める。
私は遠慮せずたくさん受け取っていいのだと、その権利があるのだと、先ほど二人に言われた言葉を心中で繰り返す。尻込みしそうになるけれど、私は、ただ素直に彼らの好意を受け取ればいいのだ。
ラベンダーの香りを助けに改めて気持ちを落ち着かせ、代わりに、二人から母とのどんな話を聞かせてもらえるのか、気持ちが上向く方向へと思考を巡らせる。
ハラルドはきっと母の幼少の頃を知っているだろうし、イェルドには母と二人だけの思い出があるかもしれない。私からは、母についてあまり語ることはできないかもしれないけれど、ハラルドにはきっとどんな些細なことでも「あのエステル様が子育てを」などと言って感動されそうな気がする。
そう思うと、俄然二人と母について語る時間が待ち遠しく感じられて、私の胸が小さく弾んだ。
「それはそうと……ミリアムお嬢様、一つお伺いしておきたいことがあるのですが、よろしいですかな?」
ハラルドから少しばかり改まった態度でそう問われたのは、小腹が空いたことを意識した私が、テーブルの上の菓子をそっと物色していた時だった。
何でしょう、と軽く請け負った私に、ハラルドの真剣な表情が迫る。
「ミリアムお嬢様は元より、エステル様へも許し難い暴挙を働いた男のことなのですが。――……その首、ご所望なさいますかな?」
梟の鋭い眼光が私を射貫き、数瞬、室内が沈黙に支配される。
首――それは、一般的には、人体で言うところの頭と胴とを繋ぐ部分のことを言う。その筈だ。
けれど。
(……いやいやいやいや、ちょっと待って! この方、今、何て言った!? 首!? 首って言ったの!?)
私の口の端が、ひくりと引きつる。
この場合のハラルドが言う首とは、所謂頸部ではなく、そこから上の部分――頭。
それを所望するとは、つまり――
「やれやれ。どうして剣を持つ者は、こうも簡単に暴力的な思考に走ってしまうのだろうな……」
あまりの発言に絶句していた私の代わりとばかりに、イェルドが大袈裟に呆れ交じりのため息を零して、まるで残念なものでも見るような冷めた視線をハラルドへと送る。
「息子の騎士も、ハンカチよりもあの男の首を手土産にすべきだったと嘆いて、今にも城を飛び出す勢いだったと言うし……困ったものだ」
「…………」
今、私は何を聞いたのだろう。息子の騎士とは、もしかしなくともイーリスのことだろうか。
確かに、アルグライスで購入したと言うハンカチをイーリスからいただいたけれど、あの、どこを取っても素敵としか言いようのない騎士のイーリスが、まさかそんな暴言を吐くだなんて。
ハラルドの言葉に対してすら絶句するしかなかった私にイェルドが追い打ちをかけて、一瞬、現実逃避するように私の気が遠くなる。それを押し止めたのは、至極真面目なハラルドからの、大事なことでございます、との一言。
「どこに大事な要素があるのか、私には分からないのだが」
「我が主とそのお嬢様を冒涜したのですぞ?」
「……と、ハラルドは言っているけれど?」
衝撃から立ち直り切れない内にイェルドに水を向けられて、私は面食らう。そして、どう答えるべきか、慌てて考えた。
勿論、母と私に対する仕打ちは許せるわけがないし、許すつもりも毛頭ない。あの男に対する私の怒りは、それこそシュナークル山脈の白い頂を持つ山々よりも遥か高く、到底鎮められるものでもない。
それでも。
「……いりません」
少しの時間を置いて気持ちを落ち着かせ、私は緩くかぶりを振った。
確かに、受けた仕打ちを許そうとは一欠片だって思わないけれど、不思議とあの男の死を願ったことは、これまでに一度もない。記憶を思い出した後ですら、私と同じ目に遭わせてやりたいと思いこそすれ、殺したいと思ったことはなかった。
それは、私が何度も生き死にを繰り返している所為で、生き続けることの難しさ、そして、繰り返すことのない死の尊さを身に染みているからだろう。そんな私だからこそ、死ねばいいなどと簡単に口にはできないし、してはいけないことだ。
何より、あの男は腐っても領主。私より幼い異母妹の、ただ一人の父親でもある。あんな男でも死んで悲しむ人の方が多いのだから、その死を望むことは、私にはできない。
「私や母にとっては最悪な人間でも……そんな男でも、突然いなくなってしまったら困る人が、大勢います。無関係な人達に迷惑をかけることはできません。ですから……ハラルド様のそのお気持ちだけ、いただいておきます」
相手を殺してやりたいと思うほどに、母と私を大切に思うハラルドの気持ちを知ることができただけで、私には十分だ。それだけ思ってくれる人がそばにいるエリューガルで暮らしていけば、きっと、辛かった生活で受けた痛みも、幸せな記憶に上書きされて薄らいでいくだろう。
それに本音を言えば、母との思い出だけは忘れるつもりはないけれど、どんな形であれ、これ以上アルグライスには関わりたくないし、忘れたい。できれば、フィロンのことすらも。
「……さようでございますか……」
どことなく残念そうな、けれど、一方で私の答えが分かっていたように眉尻を下げたハラルドは、私の返答を噛み締めるように一つ大きく頷いた。そして、この場の空気が重くなり過ぎないよう、軽口を叩く。
「久々に、長期の休暇が取れるかと思ったのですが」
「物騒なことのために休暇を取ろうとしないでくれるか、ハラルド」
「ミリアムお嬢様たっての願いですからな。潔く諦めましょう」
「……ぜひとも、そうしてくれ」
イェルドの、疲れと呆れが混ざり合った反応は私達三人に小さな笑いをもたらし、応接室が明るい空気に包まれる。
そこに、まるでこの時を見計らっていたかのように、キリアンとエイナーの兄弟が戻って来た。二人の後ろからは、私を着替えさせてキリアン達の元へと案内したきり、別行動になってしまっていたテレシアが小箱を抱えて続き、静かに扉を閉める。
途端に密度の高くなった応接室で、まずは三者三様、真っ先に私の様子を窺って、キリアンとエイナーは明らかに安堵し、テレシアは何故か少しばかり残念そうな様子を見せた。
「ただいま戻りました、陛下」
「ああ、ご苦労だった」
挨拶を交わす親子のそばでは、ハラルドがそれでは、と腰を上げ、暇《いとま》を告げる。
「ミリアムお嬢様。ご用命の際は、いつでも兵団本部へご連絡くださいませ。このハラルド、いついかなる時でもすぐに馳せ参じましょう」
「ありがとうございます、ハラルド様」
私とイェルドへ向かって深々と一礼したハラルドは、一度エイナーに呼び止められ、一言二言言葉を交わした後、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、私は浮かべていた微笑みを若干引きつらせる。
今のハラルドの言い方では、私が彼へと手紙でも送ろうものなら、仕事そっちのけで私の用件を最優先にしかねない。何となくだけれど、ハラルドの仕事が休みの日にお茶に誘うような内容を送ったとしても、休日まで私を待たせてなるものかと、本来は仕事の日を平然と休みにしてしまいそうな勢いを感じる。
規律と風紀に厳しいと言うハラルドが、まさかそんなことをやるとは思いたくはないけれど、先の「首」発言もあるので、どうにも不安が付きまとう。
どうか、ハラルドが無茶なことはしませんように――そんなことを考えていた私は、いつの間にかテレシアが私の正面へやって来ていたことに気付くのが遅れてしまった。
ふ、と視界の端を遮られるような感覚に顔を上げた私に、テレシアが有能な侍女の顔で、私と目線を合わせる。
「ミリアム様。少しお化粧が崩れてしまわれていますので、お直しいたしますね」
この部屋には、生憎鏡がない。先ほど、ハンカチをしっとりさせてしまう程度には泣いた自覚のある私ははっとして、傍らに置いたハンカチに目を落とした。
涙と共に流れてしまった化粧の汚れが、確かにそこにはある。特に目元はテレシアが気合いを入れてくれていた部分だった。流れる涙を拭えば、必然的にその部分の化粧が一番崩れてしまうわけで。
「すみません、テレシアさん。せっかく綺麗にお化粧していただいていたのに……」
「いえいえ。キリアン様達が酷く心配されていましたから、もっと盛大に泣き腫らしていらっしゃるのかと予想していましたのに、たいして直し甲斐のないお顔でしたので、むしろ残念ですわ」
だから、この部屋に入った時に残念そうだったのか。
理由が判明したのはいいけれど、それはそれで、どうなのだろう。テレシアがいくら人を着飾ることが好きで、私が嬉し泣きしてしまう質とは言え、化粧がボロボロになるくらい泣きじゃくることを期待されていたと言うのも、実に複雑だ。
そして、そんな顔で紅茶をいただいていたとしたら、流石の私も恥ずかしい。
男性陣の視界から私の顔を隠して小箱の蓋を開け、そこから化粧道具を取り出したテレシアが、目元を中心に手早く私の化粧を整え始める。
そんな私の対面では、ソファに腰かけたキリアンがイェルドと言葉を交わしていた。
「試合はどうだった?」
「順当にレナートとオーレンが勝ち抜きました。……イーリスは、酷く悔しがってはいましたが」
「両翼同士の試合と言うのも面白くはあるが……今回はそうならずに済んで何よりだ」
「陛下の方は……いや、愚問でしたか」
「少し肝を冷やしたがね」
親子が、揃って私へ視線を向ける気配。それだけで、彼らがどれだけ私のことを気にかけてくれていたのかが、ひしひしと伝わって来る。
けれど、今はそのことに嬉しさと恥ずかしさを感じている場合ではない。二人の会話に聞き捨てならない単語を拾って、私は慌ててテレシアの陰から顔を覗かせた。
「もしかして、休憩はとうに終わっていたんですかっ?」
そうであるなら、私は休憩の終わりにも試合の再開にも全く気付かずに、ハラルド達と話していたことになる。そしてキリアン達も、出場者の労いから戻って来たのではなく、王族として二試合を観戦し終えて戻って来たことになる。
これはもしかして、私は泉の乙女役として、大きな失態を犯してしまったのではなかろうか。
何より、レナートとイーリス、二人の試合を見逃してしまったことの衝撃は大きい。
「知らなかったの?」
「ま……全く……」
キリアンの隣で目を丸くするエイナーに私が肩を落としてみせると、エイナーは即座に非難を込めてイェルドを睨んだ。ぷくりと頬を膨らませ「父上!」と怒るその姿は、実に可愛らしい。けれど、父であるイェルドにはどうやら効果は絶大のようで、王の威厳の欠片も見せず、その顔はたちまち弱り果て、降参するように両手を軽く挙げた。
そんなイェルドを、呆れ交じりのキリアンの鋭い視線が厳しく射貫く。
「伝える機会を逸していたよ」
「ミリアムは、試合を見たかった?」
「それは勿論」
あんなに格好よかった二人の姿を、その試合を、見たくないわけがない。なんなら、休憩明けの楽しみの一つと言っても過言ではなかった。
「すまなかったね」
イェルドの謝罪に私は首を振り、それよりも気になっていたことを尋ねた。
「あの……単純に試合を見たかった気持ちもあるのですが、泉の乙女として、私は試合をきちんと観戦しておかなくてもよかったのですか?」
突然見知らぬ少女が泉の乙女役として現れただけでなく、試合が再開しても中座したまま戻って来ないのでは、私を泉の乙女役に抜擢した王家に非難が行きやしないだろうか。おまけに、共に国王まで戻らなかったとなれば――変な噂が流れかねない。
何と言っても、イェルドは王妃である妻を亡くしている。そして、王妃の長期の不在は、国にとって決していいことではない。当然、周囲の者達からは後添いを強く望まれている筈だ。
加えて、唯一の姫も亡く、今は王子が二人きり。その二人共がクルードからの加護を与えられていれば国の未来は安泰だけれど、亡き王女に代わる新たな王女の誕生を望む声があっても、おかしくはない。勿論、その場合は子を産むのに十分な若い女性が望ましいわけで。
当人達が望んでいなくとも、無責任な噂と言うものはあっと言う間に広まって、それがいつしか既成事実化してしまうことだってある。
自分の想像に思わずぞっとしかけたところで、キリアンの明るい声が私を思考の渦から引き上げてくれた。
「そのことなら心配はいらない。泉の乙女は、最終的に決勝を見届けてその勝者に杯を授ける儀式さえ執り行ってくれれば、観戦するもしないもその者の自由だ。セルマ様などは、敢えて決勝前の試合を見ないことで、誰が勝ち抜いて来るのかを楽しみにされていてな。だから、ミリアムが席にいなくとも気にする者は誰もいない」
私の悪い想像が見事に否定されて、ほっとする。それと同時に、懲りずに悪い方へ考えを向けていた自分に呆れ果てた。私にはとことん、この方面で学習能力が備わっていないらしい。
落ち着いて考えれば、私のような小娘が考えそうな悪い事態、一国の王や王子ともあろう人物が思い至らないわけがない。あらゆることを考えた上で、自分達や私の不利益にならないと分かっているから、私は試合観戦をせずこうしてこの場にいるのだ。
「しかし、そうか……試合を見たかったと言うなら、本当に悪いことをしたな。一応、知らせは寄越したのだが、首を振られたので、そのつもりでエイナーと二人だけで行ってしてしまった」
「試合を見られなかったのは残念ですが、ハラルド様達とゆっくりお話しできる時間がいただけたので、気になさらないでください」
知らせと言う言葉に、一度、誰かがこの応接室へやってくる足音を聞いたことを思い出した。あれは、ハラルドに私のことを話す少し前くらいだったか。
応接室の外には、護衛として騎士団の副団長が控えている。室内で会話が続いている様子と、ハラルドが退室する気配もなかったことから、その人の判断でこちらに伺いを立てるまでもなく断ったのだろう。
確かに、あの時に試合の再開を伝えられても、誰も部屋から出て行かなかったに違いない。と言うことは、どのみち私は二試合の観戦はできなかったと言うことになる。ならば、いつまでも悔やんでいても仕方がない。残された決勝の一試合を余さずこの目に収めて、存分に楽しむのみだ。
私は気持ちを切り替え、テレシアに綺麗に整えてもらった姿を手鏡に見ると、気合いも新たに決勝へと思いを馳せた。
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