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第二章 芽吹きの祈願祭
灰色の梟
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「待たせて悪いね、ハラルド」
「そちらから呼んでおいて待たせるとは、試合を終えたばかりの老体を少しは労わっていただきたいものですな、陛下」
「こんな時ばかり自分を年寄り扱いか。どうせ、自分でもこちらへ来るつもりだっただろうに、気が急いて早く来すぎたのを私の所為にされては困るな。こうして会わせてやったのは私の親切だと言うのに……」
「おや、そうでございましたか。でしたら、このような場ではなく、もっと以前に親切にしていただきたいものですな」
「こちらにも都合がある。今日こうして呼んでやっただけ、十分親切だと思ってもらいたいのだが」
「そうまで仰るのでしたら、ぜひとも親切にお話しをお聞かせ願いましょうか、陛下」
入室するや否や、着席もまだの状態で始まった二人の舌戦。私には、さてどんな顔をしてハラルドに会えばいいだろうと緊張する間もなかった。
ポンポン飛び交う二人の応酬に、うっかり目が点になる。
「話を聞かせてもらう立場なのに、随分と偉そうな態度を取るものだな、お前は」
「何か勘違いをなさっておいでのようですが、陛下は私に対する説明責任がございましょう。ですから、私はそれを聞いて差し上げるのです」
立っているが故にイェルドを睥睨するかのような態度のハラルドに対して、イェルドは穏やかに見えつつも皮肉げに口を歪めた笑みを灯したままだ。そんな二人の姿とそのやり取りは、私にどことなくキリアンとレナートの二人を思い起こさせた。
目の前の二人も、発する言葉はお互い皮肉に塗れて刺々しいけれど、互いを見る瞳は実に楽しげで、それは二人の仲のよさが窺えるものだった。それに、どことなく、顔を合わせられたことを喜んでいるようにも見えた。
もしかすると、イェルドの国王と言う地位が故に、二人がこうして顔を合わせるのは久し振りのことなのかもしれない。
そう考えると、二人のこの応酬も不思議と可愛らしく思えてくる。
何より、厳格な性格で自分にも他人にも厳しそうな印象を抱いていたハラルドが、まさか国王相手にこんなにも嫌味を投げ付ける人だとは予想外で、私の中のハラルド像がいい意味で裏切られた。
そして、キリアンの言った似非紳士と似非執事、と言う言葉が脳裏を過る。
「まったく……。ご覧、お前がそんな態度なものだから、可愛らしいお客人が呆れてしまっているじゃないか。これだからお前と言う奴は……」
「これは、私としたことが。大変失礼をいたしました、お嬢様」
イェルドの嘆きにハラルドの視線が私を捉え、かと思えば、会場からの去り際に見せた時と同じ、手本のようなお辞儀で私に向かって丁寧に頭を下げる。
「い、いえ、そんな……」
あまりに見事な礼に私の背筋もつられるようにぴんと伸び、ようやく私の対面に座したハラルドとはっきり顔を合わせた。
懐かしむような、慈しむような、それでいて観察するような眼差しを静かに私に向けるハラルドは、なるほど確かに梟のようだ。射竦められはしないまでも、全てを見透かすような静謐な瞳に見つめられて、俄かに私の中に緊張が沸いた。
ただし、この緊張は心地よい、前向きなものだ。
「見苦しいものを見せてしまったね。気を取り直して、改めて紹介と行こうか」
イェルドの腕が上がり、まずはハラルドを指し示す。
「ミリアム。彼はハラルド・ラウランツォン。王都警備兵団の参謀兼教官を務めている男だ」
イェルドから紹介を受けたハラルドが、軽く肩を竦めた。
「参謀など……私はしがない一教官にすぎませんよ、陛下」
「謙遜することはない。お前の力を、私は十分に知っているつもりだよ」
「……さようでございますか」
そして、イェルドは次に、ハラルドに対して私を紹介する。
「ハラルド。こちらは、現在息子エイナーの客人として我が城に滞在中のミリアム・リンドナー嬢。……お前が察している通り、彼女はエステルの娘だ」
「……やはり、そうでございましたか」
イェルドの言葉を感慨深く噛み締めながら呟いたハラルドが、目を細める。
「エステル様が、あなた様のような愛らしいお嬢様を授かっていらしたとは……。お会いできて嬉しゅうございます、ミリアムお嬢様」
目尻の皺を深くするハラルドからは、私に会えた喜びがはっきりと伝わって来た。ただ、その顔に少しの寂しさが窺えるのは、この部屋に私一人と言う状況に、改めて母がこの世にいないことを実感しているからだろうか。
どこかで生きてくれていると思っていただろう相手の死を、こんな形で知らされたハラルドの、その悲しみはいかばかりだろう。もしかすると、その悲しみを紛らわせようとしての、先のイェルドとの応酬だったのかもしれない。
そう思うと、せめて私はその悲しみを少しでも癒せる存在でなければならない気がして、返す言葉を妙に気負ってしまった。
「母に縁のある方にこうしてお目にかかれたこと、私も大変嬉しく思います、ハラルド様」
気負ったついでに、足の先から手の先、頭の天辺まで神経を集中させてうっかり令嬢を装ってしまった私は、作った笑顔の裏で盛大に頭を抱えた。思いの外硬くなってしまった挨拶も併せて、キリアンの盛大なため息を吐く姿が脳裏に浮かんで消える。
「……なんとご立派な。まだ成人されていらっしゃらないようにお見受けしますが、もうすっかり一人前の淑女でございますな。エステル様も、さぞやお喜びのことでございましょう……」
息をのむようなわずかの間の後にハラルドから零れ出たのは、感極まったため息と称賛。厳格さをどこかへ置き忘れていたく感激しているらしい今のハラルドは、新兵達に恐れられる冷徹な教官などではなかった。むしろ、その姿はまるで初孫と対面した祖父のようで、不安も恐怖も抱く方がおかしいくらいだ。
予想外に相好を崩すハラルドは、改めて見ると、少し前に勝手に私が描いた恐ろしい人物とはかけ離れていることがよく分かる。母を思うあまり王家を憎んでいるだなんて、あまりに馬鹿馬鹿しい考えだ。この人が王族に刃を向ける姿も、微塵も想像できない。
試合後に私に一礼してみせたのも、単純に、主の娘へ対するハラルドなりの挨拶だったのだろう。母に似た姿を目にして思わず懐かしさが込み上げ、試合に負けたことも併せておどけたのだと考えることもできそうだ。
ハラルドに対面する前に、キリアンが私の思考の暴走を止めてくれていて本当によかった。あのままの状態でハラルドを前にしていたら、私はきっと、またとんでもない失態を犯していたに違いない。
「おやおや。お前とは長い付き合いだが、そんな顔を見たのは随分と久しいな、ハラルド。灰色の梟の顔しか知らない新兵達が見たら、さぞ驚きそうだ」
「……はて。そんな顔とは?」
せっかく一人で幸せに浸っていたところを邪魔されたと、途端に眉が不機嫌さを表したハラルドに、イェルドがさもおかしそうに口元を歪める。
「そうだな……。ああ、初孫と対面した祖父……とでも言えばいいかな?」
その一言に目を丸くしたのはハラルド、堪らず吹き出したのは私だった。二人分の視線が自分に集まるのを感じながら、私はすぐさま謝罪を口にする。
「申し訳ありません。でも、おかしくて……」
「……だそうだよ、ハラルド」
「陛下の例えに笑っておられるのでは?」
どちらが正解かと問いかける二人に向かって、即座にいいえと私は首を振った。
残念ながら、私が吹き出してしまったのはハラルドの表情がおかしかったからでも、イェルドの例えがおかしかったからでもない。
どちらも不正解であることに、二人は揃って意外そうに瞬く。示し合わせたように顔を見合わせ、同時に私へと顔を戻す様がまた笑いを誘って、私は堪え切れずに口元に手を当てた。
「何度も申し訳ありません。……でも、まさか、イェルド様が私と同じことを思っていらっしゃるとは思わなくて」
今度の二人の表情は、対照的だった。我が意を得たりと得意そうにするイェルドに対して、ハラルドは顰め面しい顔で眉を寄せ、いかにも心外と言わんばかりだ。
「どうやら、私とミリアムは気が合うようだ」
「たかだか一度意見が一致しただけで、気が合うと決めつけるのはいかがでしょうな?」
「素直に羨ましいと言えばいいだろう」
「まさか、そのような……」
「そうだ、ミリアム。いっそ、ハラルドのことをお祖父様と呼んでやったらどうだろう?」
イェルドの突拍子もない提案には、私が目を丸くする番だった。
ハラルドの年齢を考えれば、孫の一人や二人いても不思議ではない。けれど、それでもまだよちよち歩きの赤子から、大きくてもエイナー程度の年齢だろう。流石に、私ほど大きな子供を孫に持っているとは思えない――ではなく。
確かに、初孫と対面した祖父のようだと思いはしたけれど、それはあくまでそんな印象を受けただけであって、実際にハラルドを祖父ほどの老人と思ったわけではない。
それに、ただ母の娘と言うだけの立場の私が、そんな風に親しみを込めてハラルドを呼ぶなんて、あまりに馴れ馴れしくはないだろうか。ハラルドだって、ただでさえ試合で見事な剣捌きを披露できるほどには若いのに、いきなり私に老人扱いよろしくお祖父様だなんて呼ばれるのは、気分のいいものではないだろう。
けれど、ここで断ってしまったらイェルドが気を悪くするだろうか――
「ミリアム」
不意に名を呼ばれて、私は勢いよく顔を上げ――その行動にはっとする。私は、しっかりと顔を上げて二人と対話していた筈なのに。
「……ぁ」
小さく漏らした声を聞き逃さなかったイェルドに苦笑されて、私は自分がまた深く考え込みすぎていたことを自覚して、身を縮めた。
恥ずかしい。あまりに恥ずかしすぎる。
あれだけキリアンに言われたのに、善処するどころか、言われたことをすっかり忘れて、いつもと同じ調子で悪い方へと思考を突き進ませてしまうなんて。
「どうなさいました、ミリアムお嬢様?」
私の悪癖を知らないハラルドが表情を陰らせて純粋に私を心配してくれるけれど、ただ心の内で羞恥にのたうち回っているだけなので、心配されるこちらとしては反対に居た堪れない。
かと言って、何でもありません、なんて言ったところで通用しないだろうし、馬鹿正直に話すなんてもってのほか。考えただけで、羞恥で倒れそうだ。
私が一人この場の対処に頭を悩ませていると、イェルドが笑いの気配を滲ませながら、今にも立ち上がりそうになっていたハラルドを制した。
「心配することはない、ハラルド。ミリアムは、とても真面目で素直なお嬢さんでね」
「……なるほど。あなた様はそのような成りでも一国の王ですからな」
一拍を置いて納得したように頷きを繰り返すハラルドに、私の中の羞恥心に、ぼっと火が付いた。
どうしてハラルドは、「真面目で素直なお嬢さん」と言う一言だけで納得できてしまったのだろう。それとも、初対面の相手でも分かるほどなのだろうか。そうだとしたら、あまりに恥ずかしく、情けない。
貴族令嬢たる者、どんな時も微笑みを絶やさず常に淑やかに、と何度となく厳しく躾けられ、今生でも令嬢として振る舞うべき時には装えていたのに。そうでない時の私は、あまりに気を抜きすぎていやしないだろうか。
いや、こんなにも相手に表情を読まれているとなると、装えていると思っていたのは私だけで、実は全く装えていなかったと言う疑惑が持ち上がる。
勘違い――これもまた、私の勘違いだったのだろうか。やはり私は、キリアンに思われている通り、勘違い常習者なのだろうか。
身悶えするような恥ずかしさで言葉がない私の前で、二人の会話は続いていく。
「ミリアムお嬢様。陛下はこう言うお方ですから、全く気になさることはございません。そうですな……例えて言うなら、我々よりも頭一つ分ほど偉いだけの男とでもお考え下さい。酷く畏まるような大層な相手ではございませんよ」
「ハラルド……その言い方は、あまりに私の王としての威厳に欠けやしないか?」
「うら若い女性を困らせるような男に威厳などございますか?」
「……わざとではないんだが」
「当然でございます」
イェルドの言い分を無慈悲なまでに両断し、素知らぬ顔をするハラルドは、私の気の所為でなければ実に楽しそうだった。そして、このまま言い合っていては自分に不利になると見たのか、それとも単に埒が明かないと考えたのか、諦めたようなため息を最後に口を閉じたイェルドからは、それ以上言葉が出てくることはなく。
私もまた、どこかで聞いた覚えのある言葉の応酬に口元が緩むのを自覚しながら、ふと思う。もしかして「頭一つ分偉い」と言う言い回しは、他国からやって来た人に対する、王族についての常套句だったりするのだろうか、と。
聞いてみたい気もしつつ、そうすればまた話が脱線するのが目に見えて、私はひとまず黙って、顔に上った熱を冷ますことに集中した。
「そちらから呼んでおいて待たせるとは、試合を終えたばかりの老体を少しは労わっていただきたいものですな、陛下」
「こんな時ばかり自分を年寄り扱いか。どうせ、自分でもこちらへ来るつもりだっただろうに、気が急いて早く来すぎたのを私の所為にされては困るな。こうして会わせてやったのは私の親切だと言うのに……」
「おや、そうでございましたか。でしたら、このような場ではなく、もっと以前に親切にしていただきたいものですな」
「こちらにも都合がある。今日こうして呼んでやっただけ、十分親切だと思ってもらいたいのだが」
「そうまで仰るのでしたら、ぜひとも親切にお話しをお聞かせ願いましょうか、陛下」
入室するや否や、着席もまだの状態で始まった二人の舌戦。私には、さてどんな顔をしてハラルドに会えばいいだろうと緊張する間もなかった。
ポンポン飛び交う二人の応酬に、うっかり目が点になる。
「話を聞かせてもらう立場なのに、随分と偉そうな態度を取るものだな、お前は」
「何か勘違いをなさっておいでのようですが、陛下は私に対する説明責任がございましょう。ですから、私はそれを聞いて差し上げるのです」
立っているが故にイェルドを睥睨するかのような態度のハラルドに対して、イェルドは穏やかに見えつつも皮肉げに口を歪めた笑みを灯したままだ。そんな二人の姿とそのやり取りは、私にどことなくキリアンとレナートの二人を思い起こさせた。
目の前の二人も、発する言葉はお互い皮肉に塗れて刺々しいけれど、互いを見る瞳は実に楽しげで、それは二人の仲のよさが窺えるものだった。それに、どことなく、顔を合わせられたことを喜んでいるようにも見えた。
もしかすると、イェルドの国王と言う地位が故に、二人がこうして顔を合わせるのは久し振りのことなのかもしれない。
そう考えると、二人のこの応酬も不思議と可愛らしく思えてくる。
何より、厳格な性格で自分にも他人にも厳しそうな印象を抱いていたハラルドが、まさか国王相手にこんなにも嫌味を投げ付ける人だとは予想外で、私の中のハラルド像がいい意味で裏切られた。
そして、キリアンの言った似非紳士と似非執事、と言う言葉が脳裏を過る。
「まったく……。ご覧、お前がそんな態度なものだから、可愛らしいお客人が呆れてしまっているじゃないか。これだからお前と言う奴は……」
「これは、私としたことが。大変失礼をいたしました、お嬢様」
イェルドの嘆きにハラルドの視線が私を捉え、かと思えば、会場からの去り際に見せた時と同じ、手本のようなお辞儀で私に向かって丁寧に頭を下げる。
「い、いえ、そんな……」
あまりに見事な礼に私の背筋もつられるようにぴんと伸び、ようやく私の対面に座したハラルドとはっきり顔を合わせた。
懐かしむような、慈しむような、それでいて観察するような眼差しを静かに私に向けるハラルドは、なるほど確かに梟のようだ。射竦められはしないまでも、全てを見透かすような静謐な瞳に見つめられて、俄かに私の中に緊張が沸いた。
ただし、この緊張は心地よい、前向きなものだ。
「見苦しいものを見せてしまったね。気を取り直して、改めて紹介と行こうか」
イェルドの腕が上がり、まずはハラルドを指し示す。
「ミリアム。彼はハラルド・ラウランツォン。王都警備兵団の参謀兼教官を務めている男だ」
イェルドから紹介を受けたハラルドが、軽く肩を竦めた。
「参謀など……私はしがない一教官にすぎませんよ、陛下」
「謙遜することはない。お前の力を、私は十分に知っているつもりだよ」
「……さようでございますか」
そして、イェルドは次に、ハラルドに対して私を紹介する。
「ハラルド。こちらは、現在息子エイナーの客人として我が城に滞在中のミリアム・リンドナー嬢。……お前が察している通り、彼女はエステルの娘だ」
「……やはり、そうでございましたか」
イェルドの言葉を感慨深く噛み締めながら呟いたハラルドが、目を細める。
「エステル様が、あなた様のような愛らしいお嬢様を授かっていらしたとは……。お会いできて嬉しゅうございます、ミリアムお嬢様」
目尻の皺を深くするハラルドからは、私に会えた喜びがはっきりと伝わって来た。ただ、その顔に少しの寂しさが窺えるのは、この部屋に私一人と言う状況に、改めて母がこの世にいないことを実感しているからだろうか。
どこかで生きてくれていると思っていただろう相手の死を、こんな形で知らされたハラルドの、その悲しみはいかばかりだろう。もしかすると、その悲しみを紛らわせようとしての、先のイェルドとの応酬だったのかもしれない。
そう思うと、せめて私はその悲しみを少しでも癒せる存在でなければならない気がして、返す言葉を妙に気負ってしまった。
「母に縁のある方にこうしてお目にかかれたこと、私も大変嬉しく思います、ハラルド様」
気負ったついでに、足の先から手の先、頭の天辺まで神経を集中させてうっかり令嬢を装ってしまった私は、作った笑顔の裏で盛大に頭を抱えた。思いの外硬くなってしまった挨拶も併せて、キリアンの盛大なため息を吐く姿が脳裏に浮かんで消える。
「……なんとご立派な。まだ成人されていらっしゃらないようにお見受けしますが、もうすっかり一人前の淑女でございますな。エステル様も、さぞやお喜びのことでございましょう……」
息をのむようなわずかの間の後にハラルドから零れ出たのは、感極まったため息と称賛。厳格さをどこかへ置き忘れていたく感激しているらしい今のハラルドは、新兵達に恐れられる冷徹な教官などではなかった。むしろ、その姿はまるで初孫と対面した祖父のようで、不安も恐怖も抱く方がおかしいくらいだ。
予想外に相好を崩すハラルドは、改めて見ると、少し前に勝手に私が描いた恐ろしい人物とはかけ離れていることがよく分かる。母を思うあまり王家を憎んでいるだなんて、あまりに馬鹿馬鹿しい考えだ。この人が王族に刃を向ける姿も、微塵も想像できない。
試合後に私に一礼してみせたのも、単純に、主の娘へ対するハラルドなりの挨拶だったのだろう。母に似た姿を目にして思わず懐かしさが込み上げ、試合に負けたことも併せておどけたのだと考えることもできそうだ。
ハラルドに対面する前に、キリアンが私の思考の暴走を止めてくれていて本当によかった。あのままの状態でハラルドを前にしていたら、私はきっと、またとんでもない失態を犯していたに違いない。
「おやおや。お前とは長い付き合いだが、そんな顔を見たのは随分と久しいな、ハラルド。灰色の梟の顔しか知らない新兵達が見たら、さぞ驚きそうだ」
「……はて。そんな顔とは?」
せっかく一人で幸せに浸っていたところを邪魔されたと、途端に眉が不機嫌さを表したハラルドに、イェルドがさもおかしそうに口元を歪める。
「そうだな……。ああ、初孫と対面した祖父……とでも言えばいいかな?」
その一言に目を丸くしたのはハラルド、堪らず吹き出したのは私だった。二人分の視線が自分に集まるのを感じながら、私はすぐさま謝罪を口にする。
「申し訳ありません。でも、おかしくて……」
「……だそうだよ、ハラルド」
「陛下の例えに笑っておられるのでは?」
どちらが正解かと問いかける二人に向かって、即座にいいえと私は首を振った。
残念ながら、私が吹き出してしまったのはハラルドの表情がおかしかったからでも、イェルドの例えがおかしかったからでもない。
どちらも不正解であることに、二人は揃って意外そうに瞬く。示し合わせたように顔を見合わせ、同時に私へと顔を戻す様がまた笑いを誘って、私は堪え切れずに口元に手を当てた。
「何度も申し訳ありません。……でも、まさか、イェルド様が私と同じことを思っていらっしゃるとは思わなくて」
今度の二人の表情は、対照的だった。我が意を得たりと得意そうにするイェルドに対して、ハラルドは顰め面しい顔で眉を寄せ、いかにも心外と言わんばかりだ。
「どうやら、私とミリアムは気が合うようだ」
「たかだか一度意見が一致しただけで、気が合うと決めつけるのはいかがでしょうな?」
「素直に羨ましいと言えばいいだろう」
「まさか、そのような……」
「そうだ、ミリアム。いっそ、ハラルドのことをお祖父様と呼んでやったらどうだろう?」
イェルドの突拍子もない提案には、私が目を丸くする番だった。
ハラルドの年齢を考えれば、孫の一人や二人いても不思議ではない。けれど、それでもまだよちよち歩きの赤子から、大きくてもエイナー程度の年齢だろう。流石に、私ほど大きな子供を孫に持っているとは思えない――ではなく。
確かに、初孫と対面した祖父のようだと思いはしたけれど、それはあくまでそんな印象を受けただけであって、実際にハラルドを祖父ほどの老人と思ったわけではない。
それに、ただ母の娘と言うだけの立場の私が、そんな風に親しみを込めてハラルドを呼ぶなんて、あまりに馴れ馴れしくはないだろうか。ハラルドだって、ただでさえ試合で見事な剣捌きを披露できるほどには若いのに、いきなり私に老人扱いよろしくお祖父様だなんて呼ばれるのは、気分のいいものではないだろう。
けれど、ここで断ってしまったらイェルドが気を悪くするだろうか――
「ミリアム」
不意に名を呼ばれて、私は勢いよく顔を上げ――その行動にはっとする。私は、しっかりと顔を上げて二人と対話していた筈なのに。
「……ぁ」
小さく漏らした声を聞き逃さなかったイェルドに苦笑されて、私は自分がまた深く考え込みすぎていたことを自覚して、身を縮めた。
恥ずかしい。あまりに恥ずかしすぎる。
あれだけキリアンに言われたのに、善処するどころか、言われたことをすっかり忘れて、いつもと同じ調子で悪い方へと思考を突き進ませてしまうなんて。
「どうなさいました、ミリアムお嬢様?」
私の悪癖を知らないハラルドが表情を陰らせて純粋に私を心配してくれるけれど、ただ心の内で羞恥にのたうち回っているだけなので、心配されるこちらとしては反対に居た堪れない。
かと言って、何でもありません、なんて言ったところで通用しないだろうし、馬鹿正直に話すなんてもってのほか。考えただけで、羞恥で倒れそうだ。
私が一人この場の対処に頭を悩ませていると、イェルドが笑いの気配を滲ませながら、今にも立ち上がりそうになっていたハラルドを制した。
「心配することはない、ハラルド。ミリアムは、とても真面目で素直なお嬢さんでね」
「……なるほど。あなた様はそのような成りでも一国の王ですからな」
一拍を置いて納得したように頷きを繰り返すハラルドに、私の中の羞恥心に、ぼっと火が付いた。
どうしてハラルドは、「真面目で素直なお嬢さん」と言う一言だけで納得できてしまったのだろう。それとも、初対面の相手でも分かるほどなのだろうか。そうだとしたら、あまりに恥ずかしく、情けない。
貴族令嬢たる者、どんな時も微笑みを絶やさず常に淑やかに、と何度となく厳しく躾けられ、今生でも令嬢として振る舞うべき時には装えていたのに。そうでない時の私は、あまりに気を抜きすぎていやしないだろうか。
いや、こんなにも相手に表情を読まれているとなると、装えていると思っていたのは私だけで、実は全く装えていなかったと言う疑惑が持ち上がる。
勘違い――これもまた、私の勘違いだったのだろうか。やはり私は、キリアンに思われている通り、勘違い常習者なのだろうか。
身悶えするような恥ずかしさで言葉がない私の前で、二人の会話は続いていく。
「ミリアムお嬢様。陛下はこう言うお方ですから、全く気になさることはございません。そうですな……例えて言うなら、我々よりも頭一つ分ほど偉いだけの男とでもお考え下さい。酷く畏まるような大層な相手ではございませんよ」
「ハラルド……その言い方は、あまりに私の王としての威厳に欠けやしないか?」
「うら若い女性を困らせるような男に威厳などございますか?」
「……わざとではないんだが」
「当然でございます」
イェルドの言い分を無慈悲なまでに両断し、素知らぬ顔をするハラルドは、私の気の所為でなければ実に楽しそうだった。そして、このまま言い合っていては自分に不利になると見たのか、それとも単に埒が明かないと考えたのか、諦めたようなため息を最後に口を閉じたイェルドからは、それ以上言葉が出てくることはなく。
私もまた、どこかで聞いた覚えのある言葉の応酬に口元が緩むのを自覚しながら、ふと思う。もしかして「頭一つ分偉い」と言う言い回しは、他国からやって来た人に対する、王族についての常套句だったりするのだろうか、と。
聞いてみたい気もしつつ、そうすればまた話が脱線するのが目に見えて、私はひとまず黙って、顔に上った熱を冷ますことに集中した。
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