黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~

奏ミヤト

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第一章 家出をした先で

幸せの涙

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「ち、ちち、違います! あの、そう言うのではなくてですね! その、えっと……」

 顔の前で手を振って、この場を切り抜ける言葉を必死で探す。
 レナートを見つめて、呆けている場合ではなかった。これでは、イーリスの言葉を肯定してしまうことになる。
 それは、断じて違うのに。

 いや、実際に私はレナートを見てはいたのだけれども。月華の騎士を彷彿とさせるその容姿に、うっかり目を奪われてはいたのだけれども。それでも、決してレナート自身が気になったわけではないと言うことだけは、声を大にして言いたい。いやいや、声を大にして言えば、レナートを傷付けてしまうかもしれないので、やっぱり声には出せないけれど。
 敢えて言うなら、私が理想の騎士として憧れを抱く月華の騎士にレナートが似ているから、ついうっかり見てしまうだけなのだ。
 半分混乱しながらも必死に頭を回転させた私に閃きが訪れたのは、その直後。

「――そう、その! あの時、レナート様が捕らえた人攫いの女性はどうなったのかな……と、ふと思い出しまして!」

 これならどうだとばかりに私が出したものは、けれど、閃いたにしては苦し紛れすぎた。
 気まずい沈黙が室内を支配する気配に、私の背中を冷や汗が流れる。

「……あなたは当事者だし、知る権利はあるが……。あの女のことが、それほど気になるか?」

 それまでの話からは、まるで無関係なことを突然言い出した私に大いに責任はあるけれど、一瞬にしてこちらを探るような目つきになったキリアンの視線が、少しばかり痛い。
 まさか「キリアン様は殺されませんよね」と、直球な質問をぶつけるわけにもいかずに悩んで誤魔化した言葉で、結局怪しまれていては世話がない。

(頑張れ、私! 頭を働かせろ! この場を切り抜けるのよ! どうか知恵を貸してください、お母様……!)
「……い、いえ。正確にはあの人が、と言うわけではなくて……その、どうして私が攫われることになったのかが分からないままなので、何か話してくれていないかなと……」

 何とか怪しまれない話題を、と頭を捻りに捻って答えれば、キリアンの視線からあっさりと険が取れ、今気が付いたとばかりに「そうだったな」との呟きが零れ出た。

「あなたにとっては、実に不運だったことだろうな」
「不運と言えば不運ですけど、結果的にエリューガルには来られたので、そこまで不運と嘆くほどでは……」

 むしろ、手厚い看護にその後の厚待遇、加えて、知らなかった母のことまで知ることができた。結果だけを見れば、逆に攫われて幸運だったと言える。勿論、命あってこその幸運ではあるけれど。

「あなたのことは、エイナーの世話係として攫った、と言っていた」

 さして渋ることもなくキリアンが簡潔に告げ、私はすんなりと理解する。
 世話係は、名目だ。エイナーが誘拐されたのは、彼の見目の良さを金に換える為ではなく、エリューガルと言う国との交渉を有利に進める為。そして、私はそんなエイナーを生かす為、従わせる為の道具として攫われたわけだ。
 エイナーが、見ず知らずの平民が痛めつけられる姿に心を痛めてくれれば上々。仮にエイナーがその程度で屈せず私が死体になったとしても、使いようでいくらでも国に打撃を与えることは可能だ。

「私達にとっては、あなたのような方が攫われてくれて、ある意味で幸運だった」
「……反抗的な娘は商品にならないと言われた意味が、よく分かりました」

 逃げ出そうと思わなければ、私に待っていたのは死、一択――思わず乾いた笑いが口から零れて、私は心の中で母の形見に感謝した。そもそも、この短剣がなければ、逃げ出そうと前向きになることは絶対になかったのだから。
 母に守られたのかもしれないと嬉しく思うと同時に、不安にもなる。
 私が攫われたのは不運で片付けられても、今回のことが愛し子の即位を阻む為の誘拐であったなら、似たようなことはこれから先も続くのではないだろうか。

「あの、もしかして、これから先もエイナー様は狙われる危険が……? それに、キリアン様も……」

 むしろ、個人的にはキリアンの方が重要だ。弟を狙うなんて回りくどい方法を取るより、キリアンを直接狙った方が手っ取り早い。彼を亡き者にしてしまえば、目的は達成されるのだから。
 そんな不埒者が事を起こす時に私がキリアンの視界に入る位置にいては、彼らの望みを叶えさせてしまうことになりかねない。そんなことは、絶対にあってはいけない。

 もしも現時点で、キリアンが自らに危険が迫る兆候を掴んでいるのであれば、私は一日でも早くここを去る準備をしなければ。
 そんな思いで問うたのに、キリアンから返って来たのは満ち溢れる自信だった。

「心配は無用だ。私にはクルードの加護があるし、エイナーに関しては、この私が二度とあのようなことを起こさせはしないから、安心していい」

 不敵な笑みを浮かべて言い切るキリアンの姿は、とても頼もしい。尊大さすら窺えるのは、やはり彼が王太子と言う立場にある者だからか。漲る自信には、一片の曇りもない。
 そして、気になる言葉を耳にして、私は目を瞬く。

「クルードの加護……?」

 そう言えば、クルードの愛し子は総じて不可思議な力を有していたと、本に記されていた。そして、人々はそれをクルードの加護と称したと。力の詳細についての記述はなかったけれど、到底ただの人にはあり得ない力なのだと言うことは推測できる。
 キリアンにも、その力が宿っている――私の不安の渦に、不意に一条の光が差した気がした。

「私はその加護のお陰で、人の作った武器では傷付かないし、高所から落下しても水に沈められても、痛痒を感じない。毒も効かず、病に罹ることもない。クルードにこの国の為にと望まれて生まれたのだし、私は恐らく、老衰以外で死ぬことを許されていないのだろう。だからこそ、エイナーを狙う不届き者が湧いて出てくるわけだが……」

 困ったものだと吐き捨てるように呟くキリアンの隣で、エイナーが可愛らしく胸を張って、とんと拳で叩く。その顔には、自信に溢れた笑みが広がっている。

「大丈夫ですよ、兄上。もしも次にあんなことがあったら、今度は僕だってちゃんと抵抗して逃げ出してみせますから!」
「エイナー? それは大丈夫とは言わないし、そんなことは起こさせないと私が言ったばかりなんだが。聞いていなかったのか?」
「兄上は時々ポンコツになるので、絶対はないとレナートが言っていましたよ?」

 キリアンを見上げるように、少しばかり首を傾げた可愛らしいエイナーが無邪気に放った一言に、キリアンが絶句する。聞いていた私も絶句した。
 クルードの加護の内容に驚く暇もなく、ポンコツ、と言う単語が頭の中をぐるぐると回る。

 一体全体、目の前の立派な王子にしか見えないキリアンの、どこをどう見たらポンコツなんて言葉が出てくるのだろう。まさに今クルードの加護のことも知って、よりキリアンの存在の大きさを実感したばかりなのに。私の死を初めて回避できる可能性に、心が浮上しかけたところだったのに。

 しかも、言うに事を欠いてポンコツとは。おまけに、それを言ったのがレナートだなんて。

 私の滞在する部屋を訪問する際の、王子の側近らしく洗練された振る舞いを見せる姿からは、とてもそんな単語が飛び出るとは思えない。もっと言うなら、レナートがポンコツなんて言葉を知っていること自体、私には驚き以外の何物でもない。

(私はもしや、エイナー様の言葉を聞き間違えたのではないかしら? いいや、きっとそうに違いない。お願いだから、そうだと言って!)

 混乱する私の前では、キリアンがレナートをきっと睨みつけていた。

「レナート。お前は何てことをエイナーに吹き込んでいるんだ」
「吹き込むだなんて失礼な。私は事実をエイナー様にお教えしただけですよ」
「どこが事実だ、どこが。訂正して謝罪しろ。お前は本当に主に対する敬意がないな?」
「心外ですね。私はこれでも、常に敬愛の念を抱いてお仕えしているのですが」

 主の睨みを、レナートはどこ吹く風とばかりに控えめな微笑で受け流している。ただし、その笑みはいつも私に向けていた爽やかなものとは違い、キリアンに対する若干の軽蔑の色が見て取れて、唖然としてしまった。
 仮にも次代の王である主に対してその態度は、許されていいのだろうか。

 私が思いもかけない二人のやり取りに何も言えないでいると、そばにいたイーリスが屈んでにこりとした。さり気なく私の視界から二人の姿を隠すような姿勢なのは、気の所為だろうか。イーリスの顔が異様に近い。凛々しい美人は目の保養の一つではあるけれど、近すぎて逆に怖い。

「気になさらないでくださいね、ミリアム様。あの二人は付き合いが長い所為か、いつもあんな感じですから」
「……そう、ですか……」

 正直、気にするなと言う方が無理だ。とは言え、眼前のイーリスから、頷く以外の行動を許さない圧をひしひしと感じては、大人しく首を縦に振るしかなかった。

 それにしても、付き合いが長いと言っても今の二人のやり取りが日常で、本当に……本当にいいのだろうか。ただ、同時に、二人のやり取りから感じる気安い空気を、羨ましく感じる自分もいた。

 私には、二人のように気安く言葉を交わせる、友と呼べる存在がいた記憶がない。大抵の人生において、十歳を迎えるまではそれなりに友人付き合いをする相手はいた。けれど、記憶を思い出してからは自身の死を回避することに必死になるあまり、例外なく疎遠になってしまったし、私自身、友人を作ろうとも必要だとも思わなくなってしまった。
 そして、今生には勿論、最初から友人など一人もいない。いたのは、私を痛めつける屑と無関心な大人ばかり。

「…………いいな……」

 キリアンが、クルードの加護によって恐らくは理不尽に死ぬことがないと知って、安心した所為だろうか。
 今まで欲しいと思ったことも必要だと思ったこともなかったけれど、二人のやり取りを見て、少し欲が出てしまった。その思いが小さな独り言として、ぽろりと零れた。

 私がキリアンを殺すことがないのだとしたら――キリアンが凶刃に倒れることがないのだとしたら――この先、エリューガル国内のどこか片隅で、他国の王太子に出会うことなくひっそりと暮らせれば、平和に安全に穏やかに、私は初めて人生を送ることができるかもしれない。
 そうしたら初めて、長く付き合える友人もできるかもしれない。それは、何と嬉しいことだろう。

「ミリアム様?」
「……あ。す、すみません。何でもありません」
「ですが――」

 私の独り言を聞き取っていたらしいイーリスが、不意に眉を下げて私の頬に手を伸ばす。そして、そっと何かを拭う仕草をした。
 何を、と思う間もなく膝に置いていた手の甲にぽたりと雫が落ちて来て、イーリスが今度はハンカチをその手に持って、私に差し出してくる。

「涙が」

(……涙?)

 恐る恐る頬に触れると、指先が濡れる感触があった。驚いて瞬くと、目尻から何かが零れ落ちる。それは頬を伝って顎先から落ち、スカートに丸い染みを作った。更にそれに驚いて瞬いてしまい、二つ三つと、スカートの染みが増えていく。
 驚いた。本当に、私が泣いている。

「――ミリアム?」

 すぐ隣から気遣うような声音で名を呼ばれて、私は肩を震わせた。ぽろぽろと涙を流しながら声の方へ顔を向ければ、いつの間にやって来たのか、エイナーが私の隣に座っていた。
 何の反応もできずにいる私に代わって、エイナーがイーリスからハンカチを受け取って流れる涙を拭い、それでも止まらない涙に苦笑して、私の目尻にそっとハンカチを宛がう。
 その手つきはとても優しく、それが余計に嬉しくて、更に涙が私の頬を伝った。

「今度は、何がそんなに嬉しかったのですか?」
「え……?」

 エイナーの言葉の意味を図りかねて戸惑う私に、エイナーがくしゃりと笑う。

「だって、ミリアムは嬉しいと泣いてしまうでしょう?」

 自分とエイナーが生きていると分かった時も。母の形見と再会した時も。
 込み上げた嬉しさが、確かに涙となって溢れ出た。そして今も、私は確かに嬉しさを感じている。

 まさか泣いてしまうとは思わなかったけれど、冷静に考えれば、もう殺されることに怯えなくていいかもしれない――誰かを死に追いやることを恐れなくてもいいかもしれない――と言う希望は、確かに私にとっては泣くほど嬉しいことだ。友人を作れるかもしれないと言う希望も、私にはこの上なく嬉しい。
 エイナーに言われるまで、私自身でも気付いていなかった。

 思い返せば、あの家では、少しでも涙を見せれば更に酷い折檻が待っていた所為で、すっかり泣くことを我慢する癖がついてしまった。気付いた時には、どんなに辛くても痛くても苦しくても悲しくても、それが泣くと言う行為に繋がることはなくなっていて。
 でも、嬉しくても人は泣くのだ。エイナーと再会したあの日に散々泣いておいて酷く今更だけれど、そんな単純なことを忘れてしまうくらい、私はこれまで、否応なく理不尽にやって来る死から逃れることばかりを考えていたのだろう。その他のことが考えられなくなるくらいに。

「教えてください、ミリアム。今度は何が嬉しかったのですか?」

 夕日色の瞳が私を優しく覗き込む。それは、母が亡くなって一人ぼっちになってしまった今生の私「ミリアム・リンドナー」がエリューガルに来るまで、決して、誰からも向けられたことのない視線だった。
 優しくて温かくて柔らかい、私のことを思う気持ちのこもった眼差し。エイナーだけでなく、今この部屋にいる人皆から一度は向けられたことのあるもの。
 私は泣きながら、笑った。

「……全部、です」
「全部?」

 不思議そうにするエイナーに、私ははっきり頷いた。

「私は生きていていいんだと。もう、いつ殺されるか怯えなくていいんだと。暴力に震えなくてもいいし、生きる為だけに必死にならなくてもいい。……私は、やっと自由なんだって」
「それは……とっても嬉しいですね、ミリアム」
「はい……っ」

 力強く答えた直後、私は陽だまりのように顔を綻ばせたエイナーに、その小さな体で抱きしめられた。
 耳に触れるエイナーの髪の感触がくすぐったい。けれどそれ以上に、誰かに抱きしめられた記憶もはるかに遠くて、再びこうして誰かに抱きしめてもらえる日が来たことが嬉しかった。
 私からもエイナーの体に腕を回し、涙に濡れた顔をその肩口に埋めるように力を込める。

 エイナーをこの腕に抱きしめるのは、あの攫われた日以来。相変わらず小さな体だったけれど、今日はあの日とは違って、抱きしめたエイナーからは力強さと頼もしさを感じた。
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