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第一章 家出をした先で

母の過去

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 イーリスの手によって背にクッションを宛がわれ、私は楽な姿勢になって一つ息を吐く。それでも、何と返せばいいのか、すぐには適当な言葉が見つからない。脇に置いた短剣の、その紋章が酷く強く私の目に焼き付く。

「驚かせてしまってすまない。私でさえ、父から聞かされた時はこんな偶然があるだろうかと驚いてしまったくらいだ。あなたが驚くのも無理はない。……もっとも、その父が一番驚いていたようだが」
「……それは……驚かれる、でしょうね……」

 元婚約者の娘が自分の息子を助けた者として突然現れたら、誰だって驚くだろう。しかも、国に留まっていたならまだしも、国を出てしまった相手だ。そんな人物と出会うなどそうそうあることではないし、王ともなれば、この偶然に何らかの作為を感じてもおかしくない。

 私がもし、意識不明の重体と言う状態でなく無傷でこの城へ足を踏み入れていたなら、いくらエイナーが私に命を助けられたのだと主張しても、果たして彼らは、私をここまですんなり歓迎してくれただろうか。何らかの策略ではないかと、いつまでも疑念が拭えなかったのではないだろうか。
 何と言っても、私はカルネアーデに連なる者だ。歴史のあったカルネアーデ家に恩義を感じている者だっているだろうし、その長い歴史を潰してしまった王家に、恨みを抱いている者がいても不思議ではない。あるいは、母を強く慕うあまり、かえって王家憎しの感情を育てることだって、ないとも限らない。
 そして、そう言う者達の執念深さは、時に想像を超える成果を生み出すものだ。

 幸いにも、私は誓って本当に偶然が重なり合った結果ここにいるわけだけれど、何かが一つでも違っていたら、私はエリューガル王家を憎む者の手の中に収まっていたかもしれない。
 話を聞けば聞くほど、このできすぎた偶然に恐れを感じてしまう。膝の上で握り込んだ手の指先が、酷く冷たい。
 そう言えば、先ほど私は、何かとても恐ろしい考えに思い至ってはいなかっただろうか。
 けれど、それを私が思い出す前に、キリアンの声が私を思考の渦から引き上げる。

「ミリアム。その……一つ、誤解のないように付け加えておくのだが……父とエステル様の間に、特別な感情はなかったそうだ」

 何故か歯切れ悪く言葉を紡ぐキリアンに対して、私は小さく首を傾げた。
 王族や貴族の婚姻は、往々にして政略的なものだ。家の為、国の為、有益な家との結びつきを強固にする為に、婚姻はある。特に王族ともなれば、そこに政治的意図が介入しないわけがない。
 互いに思い合って結婚に漕ぎつけるなど、平民や物語の中ならばともかく、現実ではよほど特異な例と言えるのだから、誤解も何もないと思うのだけれど。

「王族との婚姻ですし、それは当然のことでは?」

 私がそう返した途端、キリアンは頭痛を堪えるように顔を顰め、その手を額に押し当てた。

「あの、キリアン様……?」
「ああ、いや、いい。今のは私の失言だった。東側の国と言うのは、そう言うものだったな……」

 その後も、聞き取れない声量で一人何事か呟いて、何やら納得した表情で顔を上げる。

「では……その政略的な部分にも、少し触れておくべきだろうな」

 そう言って再びキリアンの口から語られた話は、やはり特別珍しくはないものの、現実に起これば大変な事態を引き起こすであろうものだった。

 曰く、祖父は事が上手く運んだ暁には、実質的にエリューガルの支配者として存在することを望み、それを相手方にも了承させていたと。その為に、一人娘である母をあらゆる手を使って王太子の婚約者に据えていたのだとか。
 王家は当初、祖父の唯一の子である母が王家に嫁ぐことに難色を示し、取り合おうとはしなかった。けれど、家は甥が継ぐので心配無用と即答され、また、カルネアーデ家の王家に対するこれまでの貢献の数々もあり、祖父の少々の強引さを気にしつつも、最終的には婚姻を承諾してしまったのだそうで。

 最悪の事態に発展する前に食い止められたにしては、一族に対して重い処分が下ったのは、これが原因でもあったらしい。そして、同時に王家にも責任の一端はあるとし、当時の国王は退位を決めた。

「祖父……カルネアーデ卿は、随分な野心家だったんですね」
「カルネアーデ卿の野心が実ることは、クルードが決して許しはしなかったとは思うのだが……どうにも、卿はクルードの存在を軽視している節があったと言うし、そんな野心を抱かせてしまったのは、それだけ王家の側にも付け入る隙があったと言うことなのだろう。何せ、カルネアーデ卿の悪事を、王家は兆候すら掴みきれていなかったのだから。当時の国王……祖父を悪く言うつもりはないが、国内が長く太平であったが故に、足元が疎かになってしまっていたのだろうな」

 情報量が多すぎて、頭がくらくらする。
 けれど、話を聞いて納得もした。それでは、母が国を出ようとしたのも無理はない。私が母の立場でも、きっと同じ決断をしただろう。

 罪人の娘が将来の国母など、自国の民が許しても、他国からどう見られるか。そしてそれは、この国に付け入る隙を与えることになる。婚約を解消しても国内に留まり続ければ、いつか母の存在を火種として、祖父の野望が別の者の手によって再び燃え上がらないとも限らない。

「結局、エステル様はご自身の意志を貫いて父との婚約を解消し、王家が提示した国内での何不自由のない暮らしも固辞したそうだ。エステル様の意志が固いと見た王家は、それならばせめて、国の外に嫁いだ国王の妹君……私達の大叔母の元に身を寄せる条件で、エステル様に国を出ることを許したと聞いている」

 一旦言葉を切ったキリアンに、私は一つの疑問を抱いた。

 それなら、一体いつどこで母は旅芸人になったのだろうか。まさか、王家の出した条件をのむ振りをして、国を出た途端に姿を消したなんてことは――流石にないと思いたいけれど、この時の母が、何が何でも国を出ると決めていたなら、やりかねない。
 実際、娘の私が似たようなことをやったのだ。私の場合は、それまでの生活に嫌気が差してと言う、完全に自己都合だったけれど。

 もしかして、私のこの行動力は母譲りだったりするのだろうか。
 あの男に似なくてよかったと喜ぶべきか、容姿のみならず、こんなところまで母に似てしまったことを嘆くべきか……なかなか悩ましい。

「……あなたは本当に分かりやすいな」

 ひっそりため息をついたところで、キリアンがまたしても口元に手を当てて愉快そうにする姿に、私ははっとした。反射的に顔に手をやり、キリアンから顔を隠す。
 キリアンには、つい先ほどにも悪い方に考えやすい質だと見抜かれたばかりだ。そんなにも、私は考えていることが顔に出やすいのだろうか。
 これでは、下手にキリアンのいる前であれこれと考えるのは危険な気がする。いつか私が普通の人間とは違うことにも気付かれて、せっかくこうして歓迎してくれたと言うのに、剣を向けられてしまうような事態になりはしないだろうか。
 ぞっとする私に、キリアンの謝罪が聞こえた。

「……いや、すまない。だが、あなたの心配は杞憂だ。エステル様は条件をのんで、確かに大叔母の元で慎ましく暮らしていたそうだから」

 そこまで言ったところで、キリアンの表情に微かに影が差す。

「……もっとも、四年後に私が……クルードの愛し子が生まれたとの知らせを受けた直後に、姿を眩ましてしまわれたそうだが」

 はっとして見つめたキリアンの瞳は、苦悩するように伏せられていた。

「すぐに捜索隊が差し向けられたが、愛し子の誕生に国中が湧いていた最中のことだ。屋敷の者がエステル様の不在に気付いたのがそもそも数日後だったそうで、結局、その後の行方は掴めずじまい。……そう言う意味では、エステル様が旅芸人に身をやつしてしまわれたのは、私の所為なのかもしれないな」

 クルードの愛し子――テレシアに話を聞き、エイナーが持って来てくれた本を読んで知識を得たからこそ、その存在の持つ力の大きさ、そして意味が、今の私にも分かる。
 エリューガルの民ならば、誰もが思った筈だ。クルードの愛し子が生まれたのは、カルネアーデ卿の一件を、クルードが国の危機と明確に判断したからだと。

 では、母はどう思っただろう。
 エリューガル王家に連なる者の家にカルネアーデの血族が身を寄せ続けることは、クルードの不興を買うのではないか、そう考えたのではないだろうか。もしくは、愛し子が生まれたからこそ、母を利用する者が現れるのではないか、と。
 けれど、それは決してキリアンの所為ではない。もっと言うなら、その時生きていた誰の所為でもない。

 母は自分自身で考えて、母の意思で出て行くことを決めたのだ。旅芸人になったのだって、成り行きでやむを得ず選択したのではなく、母の確かな意思があってその道を選び取ったと思いたい。それに――

「キリアン様の所為ではないです。案外、母は旅芸人生活を楽しんでいたのかもしれませんし」

 寝物語に異国の話をする母は、いつも楽しそうだった。嫌々旅芸人として生きていたなら、そんな嫌な思い出を娘に語って聞かせようと言う気にはならない筈だ。
 母にとっての唯一の不幸はきっと、あの男に出会ってしまったこと。私を身籠りさえしなければ――いや、身籠ったとしても、あの男の手から逃れられてさえいたならば、今でも旅芸人として各地を渡り歩いていたのではないかと、そう思う。

 私自身、これまでに、私さえいなければ母はあの屋敷で辛い仕打ちを受けずに済んだのでは、と思ったことは少なからずある。けれど、そんなことを口にすれば、きっと母は怒るだろう。母は、誰より私を愛してくれたから。
 エリューガルのことにしても、そうだ。

「この国のことも、母はずっと大切に想っていたと思います。私に、よく話してくれていましたから」

 雪に覆われた街の姿や、深い朝霧に包まれる街並み、天まで聳えんばかりの山々、力強い音を立てて流れ落ちる滝、どこまでも透明な水を湛えた湖、放牧される羊の群れ、山野を自由に駆ける鹿の姿――

 アルグライスとはまるで違うエリューガルの風景を話しては、いつか見てみたいとはしゃぐ私に「大きくなったら、いつだって見に行けるわ」と笑っていた母。
 そんな母が、エリューガルに対して負の感情を持っていたとは考えられない。

「母は、何一つ後悔していないと思います」

 幼い私を残して死んでしまうことを、少しは心残りに思っていたかもしれないけれど。少なくとも、母自身の選択については、後悔など微塵もなかっただろう。

「……そうか。最期まで母君のそばにいたあなたが言うのなら、きっとそうなのだろうな」

 どこか安堵するようなキリアンの姿に、そこで初めて、彼は彼で、父親から話を聞いて、私の母の失踪について思い悩んでいたのだと気付いた。
 私に母の話を切り出すのも、もしかすると逡巡があったかもしれない。場合によっては、私が、母の死の遠因としてキリアンを責めることも考えていただろうか。
 それでも、キリアンはこうして包み隠さず話してくれた。短剣まで返還してくれて。

 それに引き換え、私は―― 

 話が一段落ついて弛緩した部屋の空気に、私の思考も感情もようやく常の冷静さを取り戻し、先ほどふと思い至ってしまった恐ろしい考えが頭の中に戻って来る。

 もしも、王太子が私と出会うことで死ぬのだとしたら。

 もう既に出会ってしまっては手遅れかもしれないけれど、少なくとも互いがまだ生きている今なら、回避できるかもしれない。
 これまでも、フィロンと出会ったからと言ってその瞬間に殺されることは、あの浮浪児人生と言う例外を除けば、一度もなかった。
 出会ってから殺されるまでの期間は、毎回まちまち。けれど一つ言えるのは、私達が殺される時、その周囲には大勢の人がいたと言うこと。夜会や茶会、式典、または祭り――そう言った大勢の人が参加する場の中で、事は起こされていた。
 ならば、私がキリアンを殺さない為になすべきことは明らかだ。それは、私はここにいるべきではない、と言うこと。速やかに城を辞し、華やかな場には決して近づかない。

 これまでの人生で王太子が殺される時、私はその場面を必ず目撃してきた。私がキリアンのそばに居続ければ、それだけ彼を死の危険に晒すことになる。
 社交辞令以上の言葉を交わす仲になれなかったフィロンとは違い、私を歓迎して、こんなにもよくしてくれるキリアンが殺される様を目にしてしまったら、私はきっと、次の人生をまともな精神で生きてはいけないだろう。

 でも、どうすればいいのだろう。何と言って王城を辞すと言うのだ。ようやく彼らに歓迎してもらった、この直後に。言えるわけがないし、言ったところで到底聞き入れてもらえるとも思えない。下手を打てば、何故そのような考えに至ったのか、納得のいく説明を求められるだろう。けれど、私はそれに答えられない。

 私は、そばに立つイーリスと、部屋の入口に控えるレナートに順に目を向けた。
 二人は、どれほど力のある騎士だろう。キリアン自らが騎士にと望んだ二人なのだから、少なくとも一定以上の実力の持ち主ではあるのだろう。けれど、果たしてその実力は、キリアンを守り切れるだけのものだろうか。

 あの日、鮮やかな手並みでもって、一瞬にして人攫い女を伸してしまったレナートを思い出す。剣に関して素人もいいところの私には、それだけで彼の実力を正確に測ることはできない。
 ただ、目に焼き付いて離れないあの日のレナートの姿からは、彼が誰かに害される姿も、どうしても想像できなかった。彼には、血に塗れた姿よりも、月光を浴びる姿の方がとても似合いだ。物語に読んだ、月華の騎士のように。

 そんな彼が守るなら、キリアンは殺されないでいてくれるだろうか。

「レナートが気になりますか?」

 不意に頭上から落ちてきた声に、私は驚いて肩を跳ね上げた。見上げれば、イーリスの興味深そうな表情とぶつかる。

「こちらに呼びましょうか?」
「い、いいいいえ! 結構ですっ!」

 思いの外強い声が出て慌てて口を押さえるも、イーリスはさして気にする様子もなく、反対に、私の大声に反応したレナートと目が合ってしまい、私の心臓が大きく跳ねた。
 このサロンへ入る時、内側から扉を開いてくれたのはレナートだった。彼はそれ以後、扉の脇に静かに控えている。その姿は、私の憧れる物語の騎士を現実に表したかのようで、実に目を引いた。

 そんなレナートの締まった横顔が私を正面に捉え、不思議そうに目を瞬かせる一瞬の表情の変化は、私の瞳を釘付けにするのに十分なほど、ときめくもので。
 物語の月華の騎士も、主を守る騎士としての姿と、その立場から離れた素の彼とでは随分表情が異なる描写がなされていたことが思い出され、うっかり目の前のレナートに重ねて見てしまう。
 月華の騎士が、物語の中で出会い、互いに惹かれ合っていく乙女に対して見せる飾らない表情とは、あんな感じだろうか、と。

 けれど、無意識の内にレナートをしばし見つめ、彼が微かに首を傾ける動きに前髪がさらりと流れた瞬間――私は我に返った。
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