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第一章 家出をした先で

呪わしき贄

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「……頭は冷えたか?」

 しばらくの間を置いてレナートが問えば、キリアンの頭がのろのろと上がり、一度こちらと視線を合わせてから、ゆっくりとソファに背を預けた。
 その表情には先ほどまでの我が儘な子供の影はなく、その態度にも落ち着きが戻っていた。

「……まったく。お前は同じ兄なのに、俺と違って本当に甘くないな」
「心外だな。今日まで、お前の八つ当たりに文句を言わず付き合ってやったんだ。十分甘いだろう」

 レナートと同じく側近としてキリアンに仕えるもう一人の騎士イーリス・レリオールは、キリアンの閉じることを知らない口には付き合いきれないと、早々に誘拐事件の事後処理や調査に加わって、物理的にキリアンから距離を取っている。
 この二十日ばかりの間で顔を合わせたのは、レナートでさえ片手で数えられるほど。キリアンにいたっては、イーリスが馬に跨り城を出る後姿を一度、その目にした程度だ。
 ついでに言えば、先ほどレナートが鷹に託した手紙の行き先も、イーリスである。

 それに比べたら、始終キリアンのそばに控え、彼からとめどなく流れ出るエイナー賛辞を聞き流し続けたレナートは、よく耐えたものだ。彼の言葉を咎めたのだって、ようやく今日になってから。それを甘くないとは、実に心外である。

「八つ当たりか。……そうだな、違いない」

 苦く笑って、キリアンがようやく紅茶に手をつける。
 少し眉を顰めて、だが喉の渇きを潤すように飲んでから、ふっと息を吐いた。

「……俺は、今回のことで、エイナーがより一層引きこもるのではないかと心配したんだ。そうなったらまた、俺が時間をかけて外に連れ出してやらなければと、覚悟もしていた。それが、エイナーを危険な目に遭わせた俺への報いだと。それなのに、こちらが何の手も差し伸べずとも前を向いたのが……悔しかった。どこの誰とも知れない娘一人の存在がエイナーを変えたことを、認めたくなかった」

 人の悪意に敏感なエイナーが、出会ってわずかな、名も知らぬ相手に対してあれほど心を寄せるとは、レナート自身も予想していなかったことだ。
 だが、確かに彼女はエイナーを変えた。

 多量の出血で意識を失いぐったりとした彼女の、今にも折れそうなほど細く、軽すぎる体を思い出す。次いで蘇るのは、捕らえた誘拐犯女のふてぶてしい態度。反省する素振りがないどころか、こちらに唾を飛ばしては、小娘はくたばったか、ちびの王子は震えて引きこもっているかと嘲笑うばかりだった。その姿は、正に醜悪の一言に尽きる。

 そんな女を相手にあんな頼りない体で必死に立ち向かったのだと思えば、確かに、エイナーが心動かされるのも納得と言うものだ。現に、最後の一瞬に立ち会っただけのレナート自身も、何と強い少女なのだろうと驚愕の思いでいるのだ。まして、彼女の間近にいたエイナーは、どれほどの衝撃を受けたことか。
 己の手を見つめ、レナートはぐっと拳を握った。

「……俺も、エイナーがまさかあそこまで変わるとは思ってもいなかった。それもこれも全て、あの娘のお陰だな」
「……ミリアム・リンドナー、か。レナート、お前はどう思った?」

 キリアンの表情が引き締まり、兄から王子へと一瞬で変わる。

「難しいな……」

 レナートは形のいい眉を寄せた。
 彼女が誘拐犯の仕込んだ人間でないことは、これまでの調べで確かだと出ている。先ほどの彼女の言動を具に観察して受けた印象も、誠実だった。意志の強い瞳に曇るところはなく、レナートにはどこまでも善人にしか見えなかった。

「あの娘の話に、嘘はなかったとは思う」

 その点においては、弟を誰よりも信じるキリアンも、恐らく同様の考えだろう。
 それに、応急処置の際とその後の治療の過程において目にした、彼女の痩せ衰えた体とそこに残る多くの傷跡のこともある。
 彼女は「使用人の身分に落とされ、こき使われた」と一言で済ませてはいたが、服に隠れる部分につけられた夥しいまでの傷跡は、虐待が何年にも渡って続けられてきたことを、何より雄弁に語っていた。流石に、あれだけの傷を偽装はできまい。

「――だが、信用できるかどうかは別だ」

 彼女の話が本当であれば、母親は彼女が六歳の時に亡くなり、それ以後彼女は働き通しと言うことになる。
 十歳からは屋敷の外にも働きに出ていたと言うが、それでも、彼女が交流を持てた人間は限られていただろう。その中に、言葉を交わせる貴族身分の者がいたとは思えず、一日の殆どを働いていた彼女に、貴族としての振る舞いを学ぶ時間があったとも思えない。
 そんな彼女が、一体いつどこで、王族相手に全く臆することなく振る舞える知識を身に着けたと言うのか。

「そうだな。俺も、娘の話は信じていいとは思う。と言うより、嘘をつかずに話せることだけを話した、と言うべきか。……語らぬ部分は、大いに怪しい」
「少なくとも、無学でないことは確か、か」

 あの様子では、見た目と違い、礼儀作法は元より文字の読み書きも十分にできると思っていいだろう。
 アルグライスからエリューガルへの旅程でも、方角や行き方などで迷った様子がなかったことから、地理も移動手段も、大体の世情についても不足のない知識があると見ていい。

「無学どころか、一体誰に知識を授かったのかは知らんが、その辺の奴よりよほど頭が回るぞ、あの娘。それに、あの髪色のこともある」

 キリアンの視線が、自分の執務机の上に向けられた。
 そこには、一本の短剣が置かれている。誘拐犯の女を捕らえたあの後、荷馬車を含めて全ての積み荷を証拠として押収した際、あの場で拾ったものだ。エイナーが言うには「お姉さん」の持ち物だと言うことだったが、それは実に立派な作りの短剣だった。
 あとから彼女の履いていたブーツから出てきた鞘と併せても、とても平民が持てるような代物ではない。柄に刻まれた紋章が、何よりの証だ。

「俺は話にしか聞いていないが、間違いないのか、キリアン?」
「……父上に確かめたが、間違いないそうだ。あの娘の顔を見て、思わず名を口走ってしまう程度には、酷く驚いてもいらっしゃった」

 初めは煤けた黒髪かと思っていた彼女の髪色は、侍女が丁寧に洗ってみると、目にも鮮やかな緑だった。
 未開の聖域の民と交流のあるエリューガルでは、時に奇抜な髪色をした者が生まれることは珍しくないが、エリューガル以外の国では、まずお目にかからない髪色だ。それが何より、彼女の母親がこの国の出であり、その者と彼女が血の繋がった母娘であることの証でもあるのだが、同時に少々問題でもあった。

「……『呪わしき贄、東方より芽吹き来りて、根を張らん』……」

 ぽつりと呟くようにキリアンが口にして、レナートは短剣に向けていた顔を正面に戻した。
 対面のキリアンは思案げに口元に手を当て、テーブルへと視線を落としている。キリアンもまた、レナート以上に彼女のことについて考えているのだろう。その険しい表情が、現時点で彼女が孕む危険性を如実に示していた。

「それは……まじない師殿の予言だったか」
「ああ。あのイカレ頭は特に害なしなどとほざいていたが、娘の母親が間違いなくあの家の者であり、その血を継いでいるとなれば、娘を贄と考えることは飛躍のしすぎではあるまい。その贄が根を張るなど、我が国に災いが降ると言っているようなものだろう。どこが害なしだと言うのか」

 エリューガル王家には、古くから仕えるまじない師がいる。その者は未開の聖域の民だと言われており、クルードの愛し子同様、不可思議な力をもって時折王家に予言をもたらしている。
 本人の性格に少々難があり、キリアンなどはよくその言動に振り回されているが、まじない師の告げる予言自体に嘘はなく、概ね王家を助け、国を助けている。
 キリアンが口にした予言は、まじない師が「興が湧いた」と言う理由で面白半分に告げてきたものらしく、必要以上に心配することも、特別に対処を考えることもないものだ。だが、まじない師の性格を知る者としては、警戒してしまうのも無理はない。

「確認だが、まじない師殿が、あの娘がその『呪わしき贄』だと断定したわけではないんだろう?」
「そうだが、あの娘は謎が多い。予言が娘のことではなかったとしても、エイナーの恩人だからと手放しで信用することはできん」

 事実、レナートもまた、贄と言う言葉には少々不安を煽られていた。
 本人がそれと知らぬまま呪いの贄に仕立て上げられると言うことは、全くない話ではないのだ。そして、そんなことができる者はごく一部に限られており、その限られた者がこの国には存在する。仮に彼女が本当に贄にされていたとして、そんなことをする動機についても、彼女とその母親の関係、そして母親の出自を考えれば合点がいってしまう。それらのことも、キリアンに彼女を警戒させる要因だろう。

 もしも、彼女に様々な知識を与えた者が「そう」なのだとしたら――

「レナート、お前は余計なことは考えるな。それよりも、イーリスの戻りは一月後くらいか?」

 思考を遮るようにかけられた問いに、レナートは正面のキリアンを軽く睨んだ。レナートは臣下として主を心配していると言うのに、余計なこととは。
 だが、当のキリアンはそんなレナートの思いを分かっているとばかりに肩を竦めて、再度同じ問いを向けてくるだけ。仕方なく思考を切り替え、レナートはしばし口をつぐんで考えた。

 手紙は、もう間もなくイーリスに届くだろう。届けば、すぐにでもイーリスはアルグライスへ向けて馬を走らせる筈だ。なにせ、あの国はここから遠い。アルグライスで彼女の語った内容の真偽を調査する期間より、確実に往復の移動にかかる期間の方が長くなる。

「そうだな。あいつの愛馬は加護を受けているし、通常より移動に時間はかからないだろうが……それでも、余裕をもって一月は見ておくべきだろう」

 レナートの出した結論にキリアンは再びテーブルへ視線を落とし、ふむ、と呟いて顔を上げた。

「侍医からは、あの娘は当面絶対安静だと聞いている。怪我の回復も遅い。一月程度なら、特別理由をつけずともあの部屋に留め置けるな」

 言い換えれば、イーリスからの報告が上がるまでは彼女を軟禁せよ、と言うこと。
 そして、それとは別に、意味深にレナートを見つめてくるキリアンのその視線の意味をも正確に理解して、レナートは脱力感を感じながらもはっきり頷いた。

「……分かっている」

 どれだけ冷静になったとしても、真面目な話をしていたとしても、キリアンは弟を溺愛する兄馬鹿だ。この男の頭の中から、弟のことが一瞬でも離れることはない。
 つまり、弟の恩人を、致し方ないこととは言え軟禁するなど、エイナーに絶対に知られるなよ――この主はそう言っているのだ。

「それならいい」

 キリアンが満足気に口元を緩め、この話は終わりと再び紅茶に口をつける。レナートも残りを飲みきって、ソファから立ち上がった。
 その背中に、キリアンの呆れ交じりの声が投げられる。

「ところで。お前は一体、いつになったらまともに紅茶を淹れられるようになるんだ? 今日は渋すぎるぞ。……こんなことなら、イーリスじゃなくお前をアルグライスへ行かせるんだった」

 肩越しに振り返ったレナートの視界に、何とか飲み干したと言いたげな顔のキリアンの姿が入る。それに澄ました態度で肩を竦め、レナートは爽やかに笑ってみせた。

「それは失礼いたしました。生憎、私は珈琲派でして、紅茶は不得手なのです。ですが、殿下が態度を改めてくださるなら、私も美味しい紅茶を淹れられるようになるかもしれませんね」

 わざとらしく口調も改めれば、途端にキリアンが渋面になる。恨みがましい視線がレナートを見上げるが、そんな顔をしても、最早レナートに容赦するつもりはなかった。
 これで渋るなら次はもっと渋い紅茶を淹れてやるつもりで、再び無言でキリアンを見下ろす。
 第一王子付きの侍女は今現在、世話係として彼女に付きっきりだ。侍女の次に紅茶を淹れることの多い騎士は、アルグライスに向かっている。さて、レナートの主はどんな答えを出すのだろう。

「……結局話を戻すんだな、お前は」
「当然でしょう」

 レナートの即答にキリアンの口から盛大にため息が漏れ出て、仕方がないとばかりに立ち上がって歩き出す。その足が向かうのは、執務机だ。
 机の上には、キリアンに目を通してもらわなければならない書類が少々の厚みを持って待機している。それらに目を落としたキリアンが、レナートを見ることなく告げた。

「これを片付けたら、少し体を動かす。付き合え」
「……仰せのままに」

 やはり手のかかる弟だ。
 そんなことを思いながら、レナートはひっそりと、だが満足気に息を吐いた。
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