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第一章 家出をした先で

想定外

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(……詰んだ)

 手足を縛られ、荷馬車に転がされていると理解した瞬間に私が思ったのは、その一言。
 思わず現実逃避にもう一度目を閉じ、十数えてから再び目を開いてみたものの、見える景色は変わらない。それどころか、暗闇に慣れた目は、私に先ほどよりも鮮明に景色を見せてくれていた。

「…………」

 ぐるりと周囲を見渡してみる。
 積み上げられた木箱に麻袋。丸めて縛られ、立て掛けられた織物類。農機具が少々に、何に使うのかよく分からない道具達の山。そして、頭上に見えるは幌布と骨組み。
 雑然とした山積み荷物のわずかな隙間に押し込められるように、私はいた。
 家出二十五日目――順調に思えた旅ですが、どうやら私、人攫いに遭ったようです、お母様。 
 そんなことを胸中で零して一つ瞬き、ざっと顔が青ざめる。

(いやいやいやいや。ちょっと待って。嘘でしょ、何これ。どう言うことなの。私は一体何を言ってるの!?)

 冷静な振りをして、私の思考は全く冷静どころか混乱の極みだ。
 瞬間的に汗が噴き出す。たちまち呼吸が荒くなり、ご丁寧に噛まされた猿轡が、急にじっとりと口内で存在感を増した。喉がごくりと変な音を立てる。

 母の生まれ故郷、山岳国エリューガルを目的地にした家出の旅は、すこぶる順調だった筈なのだ。
 家を出てからひたすら歩き、日が昇る頃には領地の外へ。道中、農作物を市場へ運ぶ荷馬車に出会い、乗っていきなさいとの言葉にありがたく隣の街までお世話になった。そこからは駅馬車を乗り継ぎ、まずは一路国外脱出。金を惜しまず、とにかく国の西側を目指した。
 お陰で二日目には無事に国を出ることに成功し、更にそこから駅馬車を乗り継ぎ八日をかけて三つの国を北西方向へ横断して、大陸一の大国アルヴァースに入国を果たした。そこからは、時に歩き時に駅馬車に乗り、のんびり楽しくアルヴァース横断の旅を楽しんでいた筈だったのに。
 それがどうしてこんな目に!?
 心中で絶叫して、私は鼻息荒く床で悶えた。

 落ち着け。落ち着け、私。大丈夫。まずは呼吸を落ち着けよう。

 努めて呼吸を意識して、冷静な思考を手繰り寄せる。ゆっくり長く鼻から息を吐き、一つ瞬いた。
 何度見回しても、見える景色は変わらない。木箱、麻袋、道具に幌。その中で微かな光源に気付いて顔を向ければ、垂れ幕で仕切られた向こうに、馬車の振動に揺れるランタンの明かりを見つけた。
 なるほど、そちらが御者台らしい。垂れ幕にぼんやり映る人影は、大小一つずつ。
 その瞬間、私の脳裏に二つの顔が甦る。
 その日の宿泊地と定めたとある街、その一角に構えられた、旅行者や行商人で賑わう食堂。そこで、エリューガルへ商売に行くと言う商人夫婦に出会ったのだ。

 柔和な顔立ちの熟年夫婦は、私のような小娘の話にも耳を傾けて、気さくに頼みに応じてくれた。
 誘われるままに夫婦のテーブルにお邪魔をして。世間話に興じて共に食事も楽しみ、乗せてもらう礼として食事代を支払い、それから――それから、どうなったのだったか。まるでそこだけぽっかり穴が空いたように、以降の記憶が抜け落ちている。
 次に気付いたら、芋虫よろしく自由を奪われ荷馬車の中、すっかり積み荷扱いときた。つまり、考えられることは一つだけ――食事に薬を盛られ、眠らされた。
 あの夫婦、人のいい顔をしておいてとんだ悪党だったらしい。
 ここまで来ると、食堂を紹介してくれた宿屋の主人も怪しく思えてくる。宿泊料も格安で、やけに私を値踏みするように見ていたような記憶が。

 とは言え、アルヴァースではなるべくお金をかけずに進もうとした私の考えが、そもそも間違いだったのだろうと、今なら分かる。無事に国外脱出に成功し、大国にまで逃げられたと浮かれていたのもよくなかった。若い女の一人旅、素直に駅馬車を乗り継ぎ続けていれば、絶対にこんなことにはならなかったのに。

 けれど、後悔先に立たず。
 今考えるべきは、現状の打開。どうやって自由を得てここから逃げ出すか、その方法だ。
 これが貴族の令嬢や、街で平和に暮らすただの子供であれば、現状を悲観して涙を流し、その場に縮こまっているだけだっただろう。けれど、私は生憎そんなに柔にはできていない。
 これまで、理不尽な目には山ほど遭ってきた。さっきは思わず混乱して「詰んだ」と絶望したけれど、この程度で人生諦めてなどやるものか。
 私はもう一度、見える範囲を注意深く見回した。次いで、息を潜め耳を澄まし、聞こえる音から現状を推測する。

 逃げ出すにしても、何よりもまず必要なのは情報だ。
 御者台のランタンに火が入っているならば、時刻は夜。馬車が道を走る音以外には虫の音と、ほんの時折、遠くで梟らしき鳥の鳴き声が聞こえるだけ。夜道だと言うのにそれなりの速度を出している所為か、稀に驚くほど乱暴に馬車が跳ねていることから、整備の行き届いていない道――街からは随分離れた位置――を走っていると分かる。
 つまり今、馬車が進むのは森か山が近く人家が皆無の街道のどこか。そして空には、夜道を照らしてくれる、それなりの大きさの月が出ているのだろう。

 私が食堂で夫婦と共に食事をしたのは、空一面が茜色に染まっていた頃だった。すっかり夜になっていると言うことは、薬で眠らされてから優に数時間は経過していると言うこと。けれど、馬車が走り続けているところから、まだ日付は変わっていない筈。
 ただし、エリューガルへ行くと言う話が私を誘うめの嘘だったと仮定したならば、この馬車の行く先がエリューガルに繋がるとは考えにくく、どこへ向かって走っているのか、現在地の検討は全くつかない。

「…………」
(この状況、やっぱり詰んでいるのでは……?)

 上手く馬車から逃げ出して、森なり山なりに身を隠しても、そこがどこだか分らなければ、どちらに足を向けて進めばいいのかも分からない。その場でもたもたしていれば、人攫いだけでなく、獣に襲われる可能性だってある。
 非力な女の細腕一本で、到底凌ぎきれる状況ではない。
 再認識した現状に一瞬遠い目になりかけて、私は慌てて頭を振った。思考を切り替え、夫婦が自分を攫った目的を考えてみる。

 彼らには、奉公のために田舎から出てきたものの、今の奉公先の待遇に堪えかねて、遠戚を頼ってエリューガルへと向かう道中だと言ってあった。これは、今まで出会った人に対しても似たようなことを言ってある。
 流石に、馬車に同乗させてもらうとは言え、初対面の相手に馬鹿正直に本当のことを喋るほど、私の危機意識は欠如していない。
 もっとも、待遇に堪えかねて飛び出したのは本当だし、母の生まれ故郷には縁者だっている筈で、決して全部が嘘と言うわけでもない。
 けれどそうなると、まずもって彼らの目的は身代金などではないのだろう。そもそも、少ない荷物に薄汚れた旅装束の小娘を攫って身代金を要求することほど、愚かなことはない。第一、こう言う場合に標的にするのは、お貴族様の令息令嬢と相場が決まっている。
 まさか彼らが、私が子爵家の庶子と知るわけもないだろう。三歳からこっち、貴族らしい装いで外出なんて、一度だってしたことがないのだ。

 つまり、考えたくはないけれど、私の行き先は人買い一択。
 自分で言うのもどうかと思うけれど、見るからにみすぼらしい風体のこの私を攫って人買いに売ったとして、大した金になるとは到底思えない。それとも、こんな私でさえ攫って売らなければならないほど、彼らは商売が上手くいっていないのだろうか。中身が何かはさておいて、積み荷の量を見る限り、そうとも思えないのだけど。

 昨今ではすっかり人身売買は取り締まりの対象とは言っても、必要とする人がいる限り、決してなくなることはない。私のように攫われて売られることはめっきり減っても、悲しいかな、貧困層の人間にとってはそれが唯一生きる道と言う状況だって、残念ながらまだまだその辺に転がっている。
 とにもかくにも、この馬車の向かう先は、人買いの根城の可能性は高い。
 はてさて、大人しく根城まで連れて行かれ、そこから逃げ出した方が安全か。それとも、馬車に揺られている今の内に自由を得た方が安全か――
 数秒考えて、私は後ろ手に縛られた手をぎゅっと握り締めた。そんなの、後者一択に決まっている。
 そうと決まれば、行動あるのみ。私には、いざと言う時の武器はちゃんとある。

 慎重に体の向きを変え、積み上げられた木箱に沿って、縛られたままの両足をゆっくり上げた。背中と床板に挟まれた腕が痛いけれど、少しの辛抱だ。
 木箱に左足のブーツを数度、擦りつけるように打ちつける。次に、足を縛る縄も木箱の角に引っ掛けて、少しでもその位置をずらそうと試みた。
 繰り返すこと、三、四回。足に確かな手応えが伝わって、同時に馬車が大きく揺れた。

「……っ!」

 余程の悪路を進んでいるのか、速度を出しすぎているのか。馬車は立て続けに揺れて、私の体も翻弄される。受け止める間もなくブーツの中に差し込んでいた短剣が落ち、ごとりと派手な音が鳴る。

「――っ!!」

 瞬間、私の心臓が跳ね、嫌な汗が一気に噴き出た。
 咄嗟に短剣の上に足を落とし、ごろりと横に倒れ込む。すっかり痺れた両腕と、今打ち付けた踵が痛い。あれだけ物音に慎重になっていたのに、うっかり大きな音を立ててしまった気がするけれど、そんなことを気にしている余裕もない。
 激しく脈打つ心臓に目が回るほどの混乱を抱えて、私はとにかく、寝たふりを決め込んだ。緊張で強張る体に、必死に寝たふり寝たふりと呪文のように唱えながら、ぎゅっと目を閉じる。
 どうか二人が気付きませんように――信じてもいない神に向かって思わず祈り、私は息を殺して御者台の反応を待った。
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