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プロローグ
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夜明け前。一番鶏が鳴くより先に、目を覚ます。
長年に渡ってすっかり染みついてしまった習慣は、今日も変わらず私を起こしてくれた。
薄暗い中、使い残しの蝋燭に火を灯し、物音を立てぬよう手早く身支度を整える。
そうしてすぐに部屋を出て、まずは井戸から厨房の瓶へ、たっぷりの水を汲み置く仕事に取り掛かる――いつもの朝なら、そうしていた。
けれど、今日の私は、それをしない。
頼りなげな蠟燭の炎に照らされた、自分の姿を検める。
使用人の誰かがくれた、使い古しの外出着。ごみとして処分するところを老婆から譲ってもらった、擦り切れた外套。ネズミに齧られ、売り物にならなくなったブーツ。道端に捨てられていた、小さな旅行鞄。
どれもこれもこの日のためにひっそり用意し、使えるように繕った、大事な大事な旅装束だ。鏡がないので出来栄えは確認できないけれど、おかしなところは、きっとない筈。
最後に、靴音を消すために裂いたシーツを巻きつけて、左足の方へはそっと短剣を忍ばせた。
私の大事な宝物、母の形見だ。
私は一歩下がって扉の前に立ち、部屋を見回した。
木板で囲い、その中に申し訳程度に藁を敷き詰めただけのベッドに、今にも壊れてしまいそうな、椅子のない小さな書き物机。壁に作りつけられた洋服掛けは、掛金具の半分が壊れてなくなっている。
そんな最低限の家具しかない、粗末で狭い住み慣れた屋根裏の部屋を、私はこれで最後だとしっかりと目に焼きつけた。
この部屋で、私は十三年の月日を過ごした。
生まれて最初の三年は、庶子と言えども貴族の娘と、粗末とは無縁の豪華な一室で、それはそれは大切にされてきた。
それが一変してこの部屋に押し込まれたのは、三歳の時。主人の妻に娘ができた途端、私は貴族の娘から使用人の娘に格下げられた。
そこからの三年は母と二人、少ない給金を頼りに細々と、それでも確かに幸せを感じて暮らしてきた。
その後、母が亡くなってからの十年間は最悪の一言。
母が亡くなると同時に給金は支給されなくなり、私は無給でこき使える下女として、家畜並みにまで貶められて生きてきた。
幼い体に無理を強い、できなければ容赦のない折檻が私を襲った。鞭打ち、水攻め、殴る蹴る。半分は血が繋がっている自分の娘だと言うのに、屋敷の主人のその日の機嫌によって変わる折檻の内容は、よくもそれだけと感心するほど様々だった。
当然、食事はほんの少しの冷えた残飯。屋敷で飼われている猟犬の方が、よほどましな食事をしていたことだろう。
十歳を迎える頃には、従順に命令をこなす下女として働く私にすっかり興味をなくしたのか、主人に逆らうことがないと確信したのか、無茶な命令も折檻も当初に比べて数が減ったことだけは、唯一よかったことだろうか。
使用人の中で、一番みすぼらしい私の姿を目にすることを妻が嫌ったこともあって、日中、家人の前に姿を見せずに仕事をするよう言いつけられたことも、幸いだったかもしれない。
他の使用人はと言えば、自分達に折檻の手が伸びることを恐れて、私のことは見て見ぬ振り、知らぬ振り。それでも時折、死なれては困るとばかりに、着古した服や余りもののパンをそっと屋根裏に置いてくれたのは、正直ありがたかった。
けれど、そんな最低最悪の生活も今日でおしまい、おさらばだ。
書き物机に、紙片を一枚そっと置く。そこには、今まで学ばせることもなくこき使ってきた子供には到底書けるとは思えない、貴族令嬢のような優雅で流麗な筆跡で、一文が認められている。
〈今までお世話になりました お父様〉
屋敷の主人に、果たしてこの皮肉が通じるだろうか。
止めに、硬貨の詰まった袋も一つ、紙片の重しにするように机に置いた。
これは、十歳から今まで日中こっそり屋敷を抜け出して、針子として働いて稼いだ私の全財産の、ほんの一部。それでも、私が生まれて以降に母が得た給金の倍はある。
これを見て、あの男は何を思うだろう。
怒り狂って周囲に当たり散らすだろうか。どの家に私が逃げ込んだのかと青褪めるだろうか。はたまた、自ら人買いに買われに行ったのかと頭を抱えるだろうか。それとも――不要な人間が自ら家を出て行ってくれたと喜ぶだろうか。金まで残して、と。
それならそれで、構わない。心置きなく、すっぱり縁を切れると言うもの。私を惜しんでくれるかもしれないなんて、そんな甘い希望はとうに捨てた。
ただせめて、意味深に置かれた手紙と金に、少しくらいは悩んでほしい。大した商の才もなく、狭い領地の管理すら覚束ない、子爵と言う爵位に胡坐をかいて弱者を甚振り、大きな顔をするしか能がない領主様に、せめてこれくらいの意趣返しは許されるだろう。
蠟燭の炎を吹き消して、私は机に背を向けた。慎重に、けれど手早く扉を開けて部屋を出る。息を殺して階下を目指して階段を降り、廊下を進み、厨房脇の裏口から屋敷の外へと飛び出した。
外はまだ、十分暗い。
ブーツに巻いたシーツを外し、外套のフードを目深に被って裏門へ。
錆びついた蝶番が軋む音を一番鶏の鳴き声に紛らせて裏門を潜り抜けると、そこでようやく私は一つ、大きく息をした。一瞬、視界が白く霞む。
壁の向こうの屋敷の姿を仰ぎ見た。大きすぎず小さすぎず、けれど、見栄の為に精一杯金を使ったぼろ屋敷が、夜明け前の空の下、黒々と佇んでいる。
もうこの先、一生見ることもないだろう、私の生家。
「……さようなら」
決別を込めて、小さく零す。
これでもう、思い残すことは何もない。
私は振り切るように前を見据え、真っ直ぐ伸びる道に向かって気合いを入れた。
私、ミリアム・リンドナー、十六歳。本日これより――家出します!
そして私は、力強く一歩を踏み出す。
長年に渡ってすっかり染みついてしまった習慣は、今日も変わらず私を起こしてくれた。
薄暗い中、使い残しの蝋燭に火を灯し、物音を立てぬよう手早く身支度を整える。
そうしてすぐに部屋を出て、まずは井戸から厨房の瓶へ、たっぷりの水を汲み置く仕事に取り掛かる――いつもの朝なら、そうしていた。
けれど、今日の私は、それをしない。
頼りなげな蠟燭の炎に照らされた、自分の姿を検める。
使用人の誰かがくれた、使い古しの外出着。ごみとして処分するところを老婆から譲ってもらった、擦り切れた外套。ネズミに齧られ、売り物にならなくなったブーツ。道端に捨てられていた、小さな旅行鞄。
どれもこれもこの日のためにひっそり用意し、使えるように繕った、大事な大事な旅装束だ。鏡がないので出来栄えは確認できないけれど、おかしなところは、きっとない筈。
最後に、靴音を消すために裂いたシーツを巻きつけて、左足の方へはそっと短剣を忍ばせた。
私の大事な宝物、母の形見だ。
私は一歩下がって扉の前に立ち、部屋を見回した。
木板で囲い、その中に申し訳程度に藁を敷き詰めただけのベッドに、今にも壊れてしまいそうな、椅子のない小さな書き物机。壁に作りつけられた洋服掛けは、掛金具の半分が壊れてなくなっている。
そんな最低限の家具しかない、粗末で狭い住み慣れた屋根裏の部屋を、私はこれで最後だとしっかりと目に焼きつけた。
この部屋で、私は十三年の月日を過ごした。
生まれて最初の三年は、庶子と言えども貴族の娘と、粗末とは無縁の豪華な一室で、それはそれは大切にされてきた。
それが一変してこの部屋に押し込まれたのは、三歳の時。主人の妻に娘ができた途端、私は貴族の娘から使用人の娘に格下げられた。
そこからの三年は母と二人、少ない給金を頼りに細々と、それでも確かに幸せを感じて暮らしてきた。
その後、母が亡くなってからの十年間は最悪の一言。
母が亡くなると同時に給金は支給されなくなり、私は無給でこき使える下女として、家畜並みにまで貶められて生きてきた。
幼い体に無理を強い、できなければ容赦のない折檻が私を襲った。鞭打ち、水攻め、殴る蹴る。半分は血が繋がっている自分の娘だと言うのに、屋敷の主人のその日の機嫌によって変わる折檻の内容は、よくもそれだけと感心するほど様々だった。
当然、食事はほんの少しの冷えた残飯。屋敷で飼われている猟犬の方が、よほどましな食事をしていたことだろう。
十歳を迎える頃には、従順に命令をこなす下女として働く私にすっかり興味をなくしたのか、主人に逆らうことがないと確信したのか、無茶な命令も折檻も当初に比べて数が減ったことだけは、唯一よかったことだろうか。
使用人の中で、一番みすぼらしい私の姿を目にすることを妻が嫌ったこともあって、日中、家人の前に姿を見せずに仕事をするよう言いつけられたことも、幸いだったかもしれない。
他の使用人はと言えば、自分達に折檻の手が伸びることを恐れて、私のことは見て見ぬ振り、知らぬ振り。それでも時折、死なれては困るとばかりに、着古した服や余りもののパンをそっと屋根裏に置いてくれたのは、正直ありがたかった。
けれど、そんな最低最悪の生活も今日でおしまい、おさらばだ。
書き物机に、紙片を一枚そっと置く。そこには、今まで学ばせることもなくこき使ってきた子供には到底書けるとは思えない、貴族令嬢のような優雅で流麗な筆跡で、一文が認められている。
〈今までお世話になりました お父様〉
屋敷の主人に、果たしてこの皮肉が通じるだろうか。
止めに、硬貨の詰まった袋も一つ、紙片の重しにするように机に置いた。
これは、十歳から今まで日中こっそり屋敷を抜け出して、針子として働いて稼いだ私の全財産の、ほんの一部。それでも、私が生まれて以降に母が得た給金の倍はある。
これを見て、あの男は何を思うだろう。
怒り狂って周囲に当たり散らすだろうか。どの家に私が逃げ込んだのかと青褪めるだろうか。はたまた、自ら人買いに買われに行ったのかと頭を抱えるだろうか。それとも――不要な人間が自ら家を出て行ってくれたと喜ぶだろうか。金まで残して、と。
それならそれで、構わない。心置きなく、すっぱり縁を切れると言うもの。私を惜しんでくれるかもしれないなんて、そんな甘い希望はとうに捨てた。
ただせめて、意味深に置かれた手紙と金に、少しくらいは悩んでほしい。大した商の才もなく、狭い領地の管理すら覚束ない、子爵と言う爵位に胡坐をかいて弱者を甚振り、大きな顔をするしか能がない領主様に、せめてこれくらいの意趣返しは許されるだろう。
蠟燭の炎を吹き消して、私は机に背を向けた。慎重に、けれど手早く扉を開けて部屋を出る。息を殺して階下を目指して階段を降り、廊下を進み、厨房脇の裏口から屋敷の外へと飛び出した。
外はまだ、十分暗い。
ブーツに巻いたシーツを外し、外套のフードを目深に被って裏門へ。
錆びついた蝶番が軋む音を一番鶏の鳴き声に紛らせて裏門を潜り抜けると、そこでようやく私は一つ、大きく息をした。一瞬、視界が白く霞む。
壁の向こうの屋敷の姿を仰ぎ見た。大きすぎず小さすぎず、けれど、見栄の為に精一杯金を使ったぼろ屋敷が、夜明け前の空の下、黒々と佇んでいる。
もうこの先、一生見ることもないだろう、私の生家。
「……さようなら」
決別を込めて、小さく零す。
これでもう、思い残すことは何もない。
私は振り切るように前を見据え、真っ直ぐ伸びる道に向かって気合いを入れた。
私、ミリアム・リンドナー、十六歳。本日これより――家出します!
そして私は、力強く一歩を踏み出す。
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