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1 社畜、異世界に転移してΩになる

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 サラリーマン、福沢裕介(三十八歳)は早朝の満員電車で痴漢に間違われ、社会的に死にそうになっていた。

「駅員さん、この人にお尻を触られました! 間違いないです!」

 女は叫び、タイトスカートをくねくねと揺らした。
 痴漢に間違われないよう、両手でつり革を握っていた。

 何度もそう訴えている。
 それなのに。

「私が嘘をついてるって言うんですかぁ~?」

 女は涙目で駅員に詰め寄る。マスカラが黒く滲み、裕介には得体のしれないモンスターのように見えた。
 彼女は裕介の部下だ。
 サボり癖のある彼女に、何度も仕事に集中するよう注意した。その腹いせに痴漢に仕立て上げられるとは。世も末である。

(憂さ晴らしするにも、こんなところでやめてくれ)

 あえて同僚です、と宣言する必要はない。
 裕介は猫背をさらに丸め怒りを抑えた。ズレた眼鏡のブリッジを押し上げる。隈の浮き出た目元をスッと細めた。
 連日の深夜残業で、今にも瞼は落ちそうである。眉間に力を込め、必死に眠気を堪えた。

 すると。

「……いやらしい目でこっち、見ないでよ」
 
 女は顔を歪め、駅員の影に隠れる。

(誰がお前に欲情するか)

 あやうく口走りそうになった罵詈雑言を、喉元で飲み込んだ。
 ここで突っかかれば相手の思う壺である。
 一秒でも早く家に帰り、シャワーを浴びて出社しなければ、午前中の会議に間に合わない。

 くだらないトラブルに関わっている暇はないのだ。

 「ここだと他のお客様のご迷惑になりますので」
 
 事の成り行きを見守っていた駅員は、裕介を駅長室へと誘導しようとする。
 駅員の影から顔を出した女は、唇をにんまりと歪めた。

(このクソアマ……)

 下手に出てれば調子に乗りやがって。
 寝不足が仇となり、ついに裕介はキレてしまった。

「いやだから俺はやってませんって……俺が彼女の身体を触った瞬間を目撃した方は、いるんですか?」
「それは……」
「ではなぜ俺を犯人だと決めつけるんです? そちらの勘違いかもしれないじゃないですか」

 間違ったことは言っていない。

 その証拠に駅員は疑いの目を女にむけた。
 すると、女は勝ち誇った表情をひっこめる。
 反省したか。安堵する裕介の期待を裏切り、女はみるみる唇をへの字にし「マミ、嘘なんかついてないもんっ!」と甲高く泣き叫びはじめた。
 要求が通らなければごねる。まるで赤ん坊のような女だ。
 ホームを行きかう人々の視線が痛い。こうなっては、事実がどうあれ、裕介は悪者である。
 
(泣きたいのはこっちだ……)

 よかれと思って部下を指導すれば、公開処刑される羽目になる。
 このまま働き続けて、報われるんだろうか。
 急にすべてがどうでもよくなった。裕介はホームの端に目をむける。


 深夜のオフィスでひとり、部下が中途半端に放りだした企画書を手直ししていた時のこと。
 ブラウザの端に表示された広告が目に留まった。異世界を舞台にした漫画である。気分転換にイラストをクリックし読み始めると、一気に引き込まれた。
 主人公は現実とは異なる世界で生まれ変わり、生き生きと第二の人生を送る。
 なんて都合の良いストーリーなんだろうと呆れつつ、裕介は主人公を羨ましく思った。


(主人公は冒頭で事故に遭って、異世界に飛ばされるんだったな……)

『まもなくXX線に電車が参ります』

 機械的なアナウンスが電車の到着を知らせる。
 先頭車両がホームに滑り込んだ瞬間。裕介は衝動的にホームから上半身を乗り出した。

(もし生まれ変わったら、俺は思う存分甘やかされたい)

 警笛を鳴らし続けている車両に真正面からぶつかり、裕介は意識を失った。



「――い、……おい、しっかりしろ」
「ん……」

 まだ眠い。もう少し寝かせてくれ。
 瞼を開くのが億劫だ。放っておいて欲しいのに、頬を執拗に叩かれる。
 裕介は仕方なく目を開けた。

「……大丈夫か?」

 銀髪の青年が心配気に表情を曇らせ、裕介を抱きかかえている。

「え……? どちら様」

 驚く裕介とは対照的に、青年は「よかった」と灰色の瞳を細めた。
 
(ここ、どこだ……?)

 豪華なコートやドレスを身につけた男女が、裕介と銀髪の青年を取り囲んでいる。
 コスプレ会場にでも迷い込んでしまったのだろうか。訝しんでいると、男女が一斉に騒ぎ始めた。

「おお! 陛下、五十年ぶりにΩオメガの花嫁が召喚されましたぞ」
「これで我がローリア王国も安泰ですわね」
「黒髪に黒目……。建国以来、初の上位種の可能性が……」

 見慣れない服装、言葉遣い、それに赤や金色といった、日本では馴染のない鮮やかな髪色。
 黒髪の者はおらず、皆、外国人のように目鼻立ちがはっきりしている。
 
 まさか自分は転生したのではないか。

 裕介は期待を込め、頭部をまさぐる。かさついた肌に、柔らかい猫っ毛の髪。
 何十年と慣れ親しんだ自分の特徴だ。
 諦めきれず、銀髪の青年が装着した鎧を鏡代わりに目を凝らす。
 ぼんやりとしたシルエットは見慣れたものだった。

(生まれ変わっていないのか……)

 しかしここは自分の知る世界ではない。ローリアなんて国名は聞いたことがないのだから。
 人生をリセットする絶好の機会だと、根拠のない高揚感に浮足立った。

 その時。

「皆の者静まれ!」

 浮つく裕介を叱咤しったするように、低く重みのある声が大広間の奥からとどろく。
 一段高くなった壇上には王冠を被った男が座していた。
 陛下と呼ばれていたので、さしずめローリア国王といったところか。
 国王は長い顎髭をしごき、目を細めた。まるで裕介を値踏みしているかのようである。

 静かになった大広間に、顎髭の男は満足したように頷く。

「うむ。皆の者、ご苦労だった。……。グノーシュ副騎士団長、花嫁候補をこちらへ」
「はっ!」

 銀髪の青年は裕介を立たせ、ゆっくり前に押し出した。理由がわからぬまま、裕介は顎髭の男を見上げる。

「そなた、名はなんと申す」
「ふ、福沢、裕介です」
「フクザワ、ユースケ。ふむふむ……。もっと近うよれ」

 顎髭の男は人差し指を小さく振って、裕介に命じた。名乗りもせず尊大に振る舞う国王に、裕介は内心ムッとする。
 裕介の背後では、銀髪の青年が、他の騎士たちとともに整列していた。その横顔が裕介に向けられることはない。
 彼に助けを求めることはできないようである。
 仕方なく、営業スマイルを顔に貼り付け、国王の前に立った。

「ふむふむ。手をここへ」

 国王は手のひらに収まるサイズの水晶玉を、裕介に差し出す。
 得体の知れない物に触りたくない。
 しかし前後から無言の圧力を感じ、とても断れる雰囲気ではなかった。

(とりあえず、大人しくしておけば、悪いようにはされない……よな?)

 裕介は水晶玉に手をかざした。すると透明な石の内側に、どす黒い煙が渦を巻き始める。
 国王は「なんと……」と呟き、難しい顔で沈黙した。反対に大広間に集った人々は小声でささやき合っている。
 
(なんとかならないかもしれない……)

 不安で心拍数が上がる。口から心臓が飛び出しそうになった矢先、国王が告げた。

「召喚して早々惜しいことだが……。そなたには死んでもらおう」

 よくないどころの話ではなかった。

(シンデ、モラウ? 死んでもらう……。え、俺、殺されるの?)

「えーと、国王陛下……俺はこの国にとって希少な人材、ええとΩオメガなのですよね……?」

 聞きかじった単語をたどたどしく並べると、国王はゆっくりと頷く。

「左様。黒髪に黒目のΩオメガは希少である。だがな、貴様には【災厄のΩオメガ】との神託が下されたのだ。我が国に災いをもたらす存在は消さねばならん。者共、【災厄】を処刑せよ!」

Ωオメガ? 召喚? 処刑? 何が何だか……)

 鎧姿の騎士たちは、呆然とする裕介を壇上から引きずり下ろした。顔面から床に押しつけられ、眼鏡のフレームが派手な音を立てて歪む。その衝撃に瞼の裏に火花が散った。
 床は冷たく、捻りあげられた腕の関節が悲鳴をあげる。凝り固まった筋肉が伸び、肩が吊りそうになった。

「な、やめろっ!」

 もがいても、痩せぎすな裕介では、鎧を纏った騎士たちを振りほどけない。それでも暴れていると、さらに強く床に押し付けられた。喉と胸が圧迫され、息ができない。
 騎士のひとりが大剣を振りかざした。狙いは裕介の首だ。恐怖が胃の底からせりあがってくる。

(ハハ……、異世界に来たところで、誰も俺に優しくはしてくれないんだな……)

 目覚めたときの興奮は急速にしぼんだ。
 剣先が首筋に振り下ろされるのをただ待つしかない。
 脱力した、その時。

 キイイイイイン。

 甲高い金属音が裕介の耳を貫いた。
 
 「陛下、この者を殺すのであれば、私がいただきたく存じます」

 自分を庇う引き締まった背中に、裕介は目を見開く。

(俺を助けてくれた……?)
 
 銀髪の青年は、鞘に剣を収めたまま、裕介の首を切り落とそうとした騎士の斬撃を受け止めていた。
 微動だにしない青年に対し、騎士は額に汗を滲ませている。

「副騎士団長、王命に逆らうおつもりですか!」
「逆らってはいない。俺は陛下の恩情を受け賜りたいだけだ」
「それは、屁理屈というものです」

 目の前の騎士では話にならないと見限ったのか、銀髪の青年は国王に向かって頭を垂れながら、

「陛下。俺はαアルファである身で庇護すべきΩオメガを害する光景を見過ごせません。どうか御慈悲を」
「ふむ……。二人とも武器を収めよ」

 銀髪の青年は相手の剣先を軽くいなすと、裕介の隣に片膝を立てひざまずく。
 裕介は床に頬を押し付けたまま、銀髪の青年を見上げた。後ろになでつけた前髪がひと房、額に垂れ下がり、妙な色気を放っている。
 彼は裕介に流し目をよこし、口の端で笑った。

(うわ……。キザな奴)

 自慢げに微笑む青年は、裕介とは真逆――何事もそつなくこなす人種だ。助けてもらっておきながら、裕介は彼に苦手意識を覚えた。

「弱きを守り、強きをくじく、か。して、お主はその者をどうするつもりだ。みずからのつがいにでもするつもりか?」
「この者次第です」
「ふむ……好きにするがよい。だが我が息子――ヴィクトルには近づけぬようにな」
「御意」

 腕が解放され、裕介はホッと胸をなで下ろす。とりあえず今すぐに殺されることはないらしい。だからといって今の状況が変わるわけではないのだが。

(眠い……)

 安堵した途端、疲労感がドッと押し寄せ、眠気が襲ってくる。
 裕介は床に頬をつけたまま、指一本動かすことができず、そのまま深い眠りに落ちていった。
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