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エピローグ ヴィクターという狩人
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人喰い狼が棲む大森林地帯の奥深くに突如、軽い破裂音が鳴り響いた。
密集する巨木で地面近くは薄暗い。湿り気を帯びた獣道を目的地まであと少しというところで、リアムは黒い巻き毛から狼の耳をそばだて、鳥たちが騒ぎ出した方角に意識を集中する。
風に乗って焦げた臭いが漂ってきた。
火事ではない。
ほんの微かな火薬の臭いが意味するのは。
――銃声、まさか。
『懐かしい音だね』
前を行く金色の獣が、滑るようにリアムの横に並んだ。鼻先を宙に向け、
『……仲間が殺られたかな』
「そ、そんな呑気に言ってる場合ですか?」
淡々と告げるハウンドに、リアムは焦りを隠せない。
いままさに人喰い狼の群れに接触しようとしていた矢先である。人喰い狼の群れは大森林に点在しており、最も巨大な群れの長にハウンドを通じて会えることになったのだ。
すべては人狼が人間と和解できる道を模索するためである。ヴィクターに啖呵を切った手前、リアムは自分にできることを考えた。
どちらかが武器を降ろさない限り、溝は埋まらない。まずは生贄の風習が残る大森林近辺の人喰い狼たちを説得することを思いついたのである。
『無駄に終わるよ、きっと』
ハウンドは呆れつつも、リアムが頼めば必要最低限の根回しはしてくれた。
彼も内心では期待しているのではないかと、リアムは楽観的である。
最初はまったく相手にされなかったが、粘り強く群れに通ううちに、長に会わしてもらえるところまでたどり着いた。
あともう少しでスタート地点に立てるというところで、何者かが大森林に侵入してきたのは、運命の悪戯としか言いようがない。
「……ちょっと、み、見てきます」
『おや、あんなに怯えていた君が勇敢になったものだ』
「ハ、ハウンドさんのお、お陰で、用心深くなっただけです……」
『ふむ。皮肉を口にできるなら大したものだよ。では、俺は長に君が遅れることを伝えておこう』
教師然とした物言いに背を向け、リアムはもと来た道を引き返し始めた。
リアムたちが訪ねたタイミングで厄介事が起こっては、具合が悪い。
築き上げてきた信頼が崩れ落ちてしまう前に、原因を突き止めておかねば、申し開きができないだろう。
さらに続けて銃声が轟き、リアムは足を速めた。
大森林周辺に住む村人は、薪拾いなどで森の外周には立ち入るが、ここまで奥深くには踏み込まない。
それに銃は中古品でも高額だ。村人が個人で所有することはできない。弾丸も希少品であり、それらを惜しげもなく連続で使用できるのは、シティ•ロドルナの捜査官かシティの外周を縄張りとする狩人くらいだ。
――人狼狩りが行われてる……? でもそんな噂、耳にしていないけど……。
シティ•ロドルナから討伐隊が派遣されれば、街道はお祭り騒ぎである。しかし、通ってきた村々にそのような気配は感じられなかった。
そうすると狩人が森の中にいるという可能性が考えられる。
人狼狩りは複数人で行わなければ、まず成功しない。大森林に棲む人狼たちは基本群れで行動しているからだ。
狩人が単独で人狼の群れを相手にするのは無謀なのである。
とすれば銃声の先には軽く見積もっても、数人の狩人がいるということになるのだが。
――でも、人狼狩りって、そんなに旨味はないよね。
シティの捜査官たちは市民を守るという使命があり、我が身可愛さに人狼狩りから目を背けることはできないが、狩人にそのような義務はない。
彼らは狩った獲物で生計を立てている自由民だ。何を狩るかは雇われ者でもない限り、狩人次第である。
本来であれば、人狼狩りはシティの捜査官が無償で行うため、切羽詰まっていない限り、割高な狩人に狩りを依頼する村は少ないという。正義心から人狼を狩っても、謝礼は雀の涙ほどなのだそうだ。
村々を転々としていた頃、手酷く追い払われることはあっても殺されることがなかったのは、殺すほどの価値もなかったからなのだと、リアムは改めて思い知ったのである。
気分が沈みそうになりながら侵入者の正体をあれこれ推測していたリアムだが、硝煙の臭いにまぎれ不意に見知った匂いを嗅ぎ当て、つんのめりそうになった。
「え、ヴィクターさん……」
一年前に別れてから、彼を忘れたことはない。寂しくなればハンチング帽を抱きしめて、彼の残り香で気を紛らわせていたのだ。
リアムは速くなる鼓動に後押しされ、騒ぎの渦中へむけ、木立の間を駆け抜ける。
予想通り、密集した木々が途切れた先――窪地の底に数人の男と対峙するヴィクターがいた。
――ほ、ホンモノのヴィクターさんだ……。
蜂蜜色の髪は短く刈り込まれ、凛々しい表情が際立っている。鋭い眼光のヴィクターはロドルナ警察の制服とフロックコート姿ではなく、森の中でも移動しやすそうな深い緑のベストとパンツ姿である。
他の男たちも似たような格好であった。
ヴィクターに見惚れていたリアムだったが、不意に彼がこちらを見上げてきたため、慌てて窪地の縁で身を低くする。
――あ、危なかったぁ。
人間の視力では気づかれない距離だが、念のためリアムは慎重に様子を窺う。
ヴィクターと対峙する壮年の男たちは、長銃を携え周囲に視線を走らせていた。その中のひとりにリアムは見覚えがあり、身をこわばらせる。
筋肉質な身体に毛皮のチョッキをまとった髭面の男は、リアムが人狼狩りに参加するのをためらうきっかけを作った人物だ。彼が捕らえた人狼に怯え、リアムは逃げ出したのである。
ヴィクターとは仲がよさそうに会話を交わしていたはずだが、今は親の敵を前にしたように睨み合っていた。
「おい、ヴィクター。どういうつもりだ!」
「それはこちらの台詞だ。人狼の子どもを囮に使うとは聞いていないぞ」
「ああ? 本気で群れに返すだけだと思ってたのかよ。正気か!」
ヴィクターの背後からひょこりと顔を出したのは、幼い人狼の子供だった。栗色の髪から小さな狼の耳が見え隠れしている。その両手はヴィクターのベストの裾をシワになるほど強く握りしめていた。
どうやらヴィクターたちは人狼の子どもを餌に、人喰い狼の群れをおびき出そうとしているようである。
わざわざ人喰い狼を狩ろうとする目的は何だ。
人狼はそれほど金にならない。残るは狩人として、名を上げるためだろうか。
ヴィクターは名声など必要としていないはずだ。元々狩人として尊敬の念を集めているルージェンド家の嫡男である彼が、いまさらなぜ狩人の真似事をしているのか。
「俺たちの目的は、大森林周辺の村を襲っている人喰い狼を突き止めることだ。わざわざ奴らを刺激して、こちらを襲う隙を与える必要はない」
「ちんたら嗅ぎ回るのは俺たちの性にはあわねえ。ここに優秀な狩人が揃ってんだ。群れをおびき出して片付けりゃあ、シティの捜査官様たちのお手をわずらわすこともねえってもんだよ、なあ」
後ろに控える男たちに髭面は同意を求める。頷く仲間に彼は満足したようで「おら、早くそいつを渡せ」と銃口を振った。
それでもヴィクターは微動だにしない。
「奴らに怯えてちゃあ、こっちは商売あがったりなんだよ」
「何度も言うが、今回は調査だけだ。アンタたちを雇う前にそう説明したが、もう忘れたのか?」
ヴィクターはゆっくりと言い含めるも、男たちは納得していないようで、
「おいおいおいおい。ヴィクター、まさか人狼の肩を持つつもりか? 大討伐の英雄が腰抜けになっちまったもんだな」
にやつく男たちの挑発にもヴィクターは、淡々と告げる。
「……俺は効率よく任務を終えたいだけだ」
「だーかーら、そのガキを使えば楽に奴らをおびきだせるって言ってんだろうが、よっ!」
顎髭の男は突如、長銃の引き金を引いた。森の中には似つかわしくない破裂音が響き、辺りにこだまする。
ヴィクターの足元が弾で抉れ、細く煙がたちのぼった。見れば他にも地面には同じような穴が開いている。
「……無駄弾を使わせんなよ、ヴィクター。あれかあ、子飼いにしていた人狼に操でも立ててんのかよ」
何を言われても無表情だったヴィクターが、スッと目を細めた。
髭面の男は、手応えを感じたのか、さらに言い募る。
「中央監獄にぶち込んだ人喰い狼と仲良く脱走したんだってな。そのガキを逃げた飼い犬の代わりにしようって腹か?」
顎髭の男は仲間たちと下品な笑い声をあげた。
自分のせいでヴィクターは馬鹿にされている。思わず飛び出しそうになるも、リアムはグッと我慢した。
リアムですら腹を立てたのだ。ヴィクターも我慢ならないのか、腰のホルスターに手を伸ばしつつある。
すでに銃声は森中に響き渡っていた。人喰い狼だけでなく、他の肉食獣が集まってきたら、彼らだけで対処するのは厳しいだろう。
早くこの場を立ち去ってほしいが……。
――ど、どうしよう……。ぼ、僕が出ていってもヴィクターさんの邪魔になるだけだよね。
しかし、このままではヴィクターが長銃の餌食になってしまう。ハウンドを呼んで加勢を頼んでも、好機とばかりに狩人たちを喰い殺すのが目に見えている。
事態はさらに悪化するだけだ。
「お、やる気か?」
ヴィクターから放たれる殺気を感じ取っているはずなのに、髭面の男たちはニヤニヤ笑いを収めない。
数で勝っているから、余裕なのだろうが、ヴィクターもリボルバーと長銃を所持しているのだ。気を抜けば形勢は逆転するのに。
――まさか……。
「知ってるんだぜ。お前の銃の腕前をよ。名銃も使い手がポンコツだと宝の持ち腐れだよな」
髭面の男は銃身を肩に預け、腕を組んだ。
「……試してみるか?」
ヴィクターは無謀にも両手でリボルバーを構える。
「そんなガチガチに緊張してちゃあ、ノロマな牛にも当たんねえぜ。ご自慢の拳でかかってこいよ」
そのまままっすぐに撃てば当たるのに、なぜかヴィクターの放つ弾丸は標的に命中しないのだ。
それをわかっていて髭面の男はヴィクターを挑発している。
リアムはハンチング帽をズボンのポケットから取り出すと、狼の耳を帽子のなかに押し込んだ。
迷惑になるとか言っている場合ではない。ヴィクターが反撃に出られるよう隙を作ろうと窪地の縁をゆっくりと移動し、斜面を滑り降りる。
灌木に身を隠しつつ、リアムは髭面の男たちの背後に回り込んだ。
ヴィクターと髭面の男たちはお互い牽制しあっており、こちらに気づいていない。
静かに呼吸を繰り返し、リアムは窪地の底に意識を集中させ、一歩を踏み出そうとした。
その時――。
『ウォォォォンッ!』
上空に遠吠えが響き渡った。草むらから窪地の縁を見上げると、金色の獣が高らかに咆哮している。
ハウンドはリアムのいる草むらを見下ろし満足したように鼻を鳴らすと、素早く姿を消した。
――ハ、ハウンドさん! なんのつもりで……。
「人喰い狼! しかもめちゃくちゃ大物じゃねえか」
髭面の男は唾を飛ばし興奮しているが、仲間の男二人は、あんぐりと口を開け、長銃を持つ手を震わせていた。
「どうしたお前ら?」
「あ、ありゃ、ハウンドじゃねえか。中央監獄を脱走した人喰い狼だ」
「それがどうした? 腕がなるってもんだろ、ああ?」
怯える仲間に苛立った様子の髭面の男。もう一人の狩人は首を壊れた人形のように揺らし、
「あんなデカいの狩れるわけねえよ……」
戦意を喪失しつつある仲間たちに、髭面の男は吠える。
「ここまで来て何ビビってやがる! アレを捕まえりゃシティで俺たちを見くびってやがるクソどもを黙らせられるんだぞ!」
激しく仲間割れをし始めた男たちに、ヴィクターは滑るように近づくが、髭面の男は素早く振り返り、ライフルの銃口を向けた。
「どいつもこいつも俺の邪魔をするな!」
ライフル銃が火を吹き、弾丸がヴィクターの頰を掠めた。鮮血がパッと飛び散る。
リアムのなかでためらいは吹き飛び、狩人たちに向かって突進していた。
「な! なんだお前!」
狩人のひとりがリアムに銃口を定めたが、引き金が引かれる前にリアムは銃口を蹴り上げた。
空に銃声が虚しく走り、鳥たちが騒がしく飛び去っていく。
呆然とする狩人の足を払い倒し、リアムはもう一人の狩人に飛びかかろうとするも、彼は「ひ、ひいいい!」とかすれた悲鳴を残し、森の中に逃げていった。
残るは髭面の男だけだ。
振り返ると同時に、銃口が目の前に迫っていた。
「てめえ、何者だ……? あぁ? ヴィクター、嵌めやがったな」
「……何のことだ」
「このガキ、お前んとこの制帽被ってんじゃねえか、てめぇ、俺たちを人狼をおびき出す餌にしたな」
髭面の男はヴィクターに悪態をつくと、鬼の形相でリアムを睨みつけた。リアムとヴィクターが髭面の男を森に誘い込んだと勘違いしているようだ。
それは断じて違う。
言い訳をしようにも下手に口を開いてヴィクターの立場を悪くするのは躊躇われた。
髭面の男の肩越しにヴィクターと目があい、彼は一瞬目を見張ったものの、すぐに無表情に戻る。
「ヴィクター、動くなよ。……まあ、お仲間が蜂の巣になってもいいんなら、好きにすればいいがな」
ヴィクターはふたたびリボルバーの銃口を髭面の男に向けた。
「一発でも撃ってみろ。お前の弾は外れるが、俺のはコイツの頭をぶち抜くぜ」
ヴィクターはユラユラと照準を揺らしている。
リアムはヴィクターが狙おうとしている箇所を推測した。頭や手足は的が小さい。かと言って胸や腹には対人狼用の防具を装着している可能性が高いだろう。
――太ももあたりが無難かな……。
ヴィクターもそう考えたのか、銃口が髭面の男の脚まわりに定まってきた。
当たらないだろうと高をくくっている髭面の男は、ヴィクターの思惑に気づきながら「ほら、ここに当てたら俺を足止めできるな」と嘲笑っている。
下手な挑発に乗らずヴィクターは、銃把を握りしめ、そして――。
――今だ!
「ヴィクターさん! 撃って!」
リアムの合図と同時にヴィクターは引き金を引いた。弾丸は見事、髭面の男の右太腿に命中し、硝煙の臭いが漂う。
「なっ! は?」
ドクドクと流れ出す己の鮮血に、髭面の男は呆気に取られている。ヴィクターはリボルバーを放り出すと、男の顎髭に強烈なアッパーを繰り出した。
ひゅっと喉を鳴らし、髭面の男は地面に大の字に倒れる。白目を向いて気絶した髭面の男を確認すると、リアムはその場にへたり込み、息を吐き出した。知らず呼吸が止まっており、深呼吸を繰り返す。
顔をあげるとヴィクターが黙々と髭面の男の傷口を止血をしていた。いまさらながら男が出血多量で死んでしまったらどうしようとリアムは慌てる。
「ヴィ、ヴィクターさん、あの……」
「急所は外している。血が抜けて大人しくなるだろ」
淡々と返事をするヴィクターに、リアムは言葉を続けられない。
「……仲間を助けに来たのか?」
「は、はい。その必要も、ないみたいですが」
ヴィクターの背後に隠れていた人狼の子どもはいつの間にか姿を消していた。ハウンドが近くにいるなら心配はないはずだ。
地面に投げ出されたリボルバーをヴィクターは拾い上げ、ホルスターにしまった。
聞きたいことは沢山ある。
なぜここにいるのか?
なぜ人狼の子どもを助けてくれたのか?
リアムのなかで答えの出ない疑惑が膨れ上がっていく。
「ヴィクターさん、どうしてここに……?」
考えた末にリアムが言葉を絞り出すと、ヴィクターはそっぽを向いたまま、
「……待っているのは性にはあわん」
「え」
「あの時はお前を逃がすのが最善だと判断したが、そもそも俺が目の前にいないのに、どうやって俺に認められるつもりだ?」
「いや、あの……、そ、そのために今から長に会いに行こうとしていて」
「人喰い狼の群れが近くにいるのか?」
リアムは己の口の軽さを呪った。
「えっと、その……」
身体の前で両指をもじもじさせるリアムにヴィクターは大股で近づいてくる。上背のあるヴィクターはじっとリアムを見下ろした。リアムはハンチング帽のなかで耳を垂れ、怯える。
――ど、ど、どうしよう……。
「群れに案内しろ」
「お、お断りしますっ」
ヴィクターは頬を引きつらせ、さらに強くリアムを睨みつける。弾丸が掠めた傷口が開き、血がヴィクターの頬を伝っていった。
ヴィクターを傷つけてしまい、申し訳ない気持ちから、群れの居場所を言ってしまいそうになる。
だが、それだけはしてはいけない。
――これ以上、争いごとは増やしちゃいけないのに、僕は何をやっているんだ……。
頑なに踏ん張るリアムのハンチング帽にヴィクターは手のひらを乗せた。優しくされても言えないものは言えない。
「別に奴らをどうこうするつもりはないから、そんなに硬くなるな。……騒がしくしたからな、謝りに行くぞ」
「は……?」
「俺の役に立ちたいんだろ。奴らへの橋渡しをしてくれ」
ヴィクターが人狼に譲歩しようとしているなど信じられずリアムは、ぽかんと口を開けた。ズボン下の尻尾が警戒心に逆立ちそうになるのを、深呼吸をして落ち着ける。
「お前だけが変わったと思うなよ」
ヴィクターは不機嫌そうに低い声で呟いた。
理解が追いつかないリアムに苛立ったのか、急き立てるように、
「群れに案内するのか、しないのか、どうなんだ」
「え、あ、案内します……」
謝りたいと言われて断れるほど、リアムは薄情になりきれなかった。
戸惑うリアムにヴィクターは言い訳めいた早口で、
「お前がいなくなってから、まあ、いろいろあったんだ。色々な」
何があったのか気になるが疲れ切った様子のヴィクターに、それ以上追及する気にはなれなかった。
踵を返し、森の奥へ踏み込もうとするヴィクターの背中を見つめながら、リアムは彼が言った言葉を反芻する。
――待つのは性にあわん。
――俺が目の前にいないのに、どうやって俺に認められるつもりだ?
それは、つまり。
「ヴィクターさん、ま、まさか、僕を探してましたか……?」
リアムが納得するまで待つと請け負ったヴィクターがそんなことをする訳はないと思いつつ、リアムは恐る恐る尋ねる。
ヴィクターが動きを止めた。気まずい沈黙が森に漂い、リアムの背筋に冷や汗が流れる。
もしかして、図星なのか。
リアムは話題をそらさねばとあたりを見回したが、木々が広がるばかりの森に、気を逸らせそうな物はない。
ひとり慌てふためいていると、
「……判ってるなら、俺が見てるそばで足掻いてろ」
「そ、それって」
リアムは嬉しさにズボンのなかで尻尾を膨らませる。
ヴィクターは肩越しに鋭い視線を放ち、「早く案内しろ」とリアムを促した。
謝罪する態度ではないが、人狼を嫌悪するヴィクターが人狼に歩み寄ろうとするのを止めるつもりはない。
「ヴィ、ヴィクターさん、そっちじゃないです」
見当違いの方向へ進んでいくヴィクターをリアムは必死に追いかけた。
「あ、あの人たちはあのままで、いいんですか……?」
「逃げた奴が回収に来るだろう。ひとりで大森林を抜けるのは自殺行為だ。怪我人でも頭数はあったほうがいい」
「ヴィクターさんは、ひ、ひとりでも問題ないのですか?」
ヴィクターの歩幅に合わせ、小走りするリアムに、ヴィクターは鼻を鳴らした。
「こっちから喧嘩をしかけなければ、人狼以外の獣を躱すのはそう難しくない。それに、お前がいればこいつが使えるしな」
腰のホルスターに収まったリボルバーにヴィクターは手を添えた。
頼りにされたリアムは、ハンチング帽の下で耳をピクピクさせた。群れに人間を連れて行って騒動が起こらないはずがないため、浮かれている場合ではないのだ。
「それにクソ野郎がどこかにいるんだろ? 他の人喰い狼が寄ってこなけりゃ、なんとかなる」
「む、群れに向かっているので、あ、安全ではないのですが……」
リアムはか細く呟いたが、ヴィクターは前を向いたまま返事をしない。
ヴィクターは怖くないのだろうか。
リアムはヴィクターが危険に晒されるかもしれないと思うだけで身が凍るような恐怖を感じているというのに。
「俺に認められたいんだろ。なら、俺が人狼に喰われないよう守れ。……まあ、俺も黙って喰われてやるつもりはないがな」
ニヤリと口元を歪めるヴィクターは、子どものような笑顔でリアムに無理難題を押し付ける。
しかしリアムは嫌な顔どころか、頬が緩みそうになった。
――は、はじめてヴィクターさんに、ちゃんと頼りにされた!
「……おい、何笑ってんだ」
「わ、笑ってません」
「言葉と態度がちぐはぐだぞ」
リアムの頬をつねり、ヴィクターは「何か隠してるのか?」と追撃を緩めない。
「な、な、何も隠してません」
「……まあいい、全部片付いたら覚悟しとけ」
ヴィクターに釘をさされたリアムは、今からどうしようかと苦悩しつつも、ヴィクターと一緒にいられる瞬間を噛み締めた。
――とりあえず、ヴィクターさんを守らないと。
リアムは隣のぬくもりを死守しようと固く決意するのだった。
fin
密集する巨木で地面近くは薄暗い。湿り気を帯びた獣道を目的地まであと少しというところで、リアムは黒い巻き毛から狼の耳をそばだて、鳥たちが騒ぎ出した方角に意識を集中する。
風に乗って焦げた臭いが漂ってきた。
火事ではない。
ほんの微かな火薬の臭いが意味するのは。
――銃声、まさか。
『懐かしい音だね』
前を行く金色の獣が、滑るようにリアムの横に並んだ。鼻先を宙に向け、
『……仲間が殺られたかな』
「そ、そんな呑気に言ってる場合ですか?」
淡々と告げるハウンドに、リアムは焦りを隠せない。
いままさに人喰い狼の群れに接触しようとしていた矢先である。人喰い狼の群れは大森林に点在しており、最も巨大な群れの長にハウンドを通じて会えることになったのだ。
すべては人狼が人間と和解できる道を模索するためである。ヴィクターに啖呵を切った手前、リアムは自分にできることを考えた。
どちらかが武器を降ろさない限り、溝は埋まらない。まずは生贄の風習が残る大森林近辺の人喰い狼たちを説得することを思いついたのである。
『無駄に終わるよ、きっと』
ハウンドは呆れつつも、リアムが頼めば必要最低限の根回しはしてくれた。
彼も内心では期待しているのではないかと、リアムは楽観的である。
最初はまったく相手にされなかったが、粘り強く群れに通ううちに、長に会わしてもらえるところまでたどり着いた。
あともう少しでスタート地点に立てるというところで、何者かが大森林に侵入してきたのは、運命の悪戯としか言いようがない。
「……ちょっと、み、見てきます」
『おや、あんなに怯えていた君が勇敢になったものだ』
「ハ、ハウンドさんのお、お陰で、用心深くなっただけです……」
『ふむ。皮肉を口にできるなら大したものだよ。では、俺は長に君が遅れることを伝えておこう』
教師然とした物言いに背を向け、リアムはもと来た道を引き返し始めた。
リアムたちが訪ねたタイミングで厄介事が起こっては、具合が悪い。
築き上げてきた信頼が崩れ落ちてしまう前に、原因を突き止めておかねば、申し開きができないだろう。
さらに続けて銃声が轟き、リアムは足を速めた。
大森林周辺に住む村人は、薪拾いなどで森の外周には立ち入るが、ここまで奥深くには踏み込まない。
それに銃は中古品でも高額だ。村人が個人で所有することはできない。弾丸も希少品であり、それらを惜しげもなく連続で使用できるのは、シティ•ロドルナの捜査官かシティの外周を縄張りとする狩人くらいだ。
――人狼狩りが行われてる……? でもそんな噂、耳にしていないけど……。
シティ•ロドルナから討伐隊が派遣されれば、街道はお祭り騒ぎである。しかし、通ってきた村々にそのような気配は感じられなかった。
そうすると狩人が森の中にいるという可能性が考えられる。
人狼狩りは複数人で行わなければ、まず成功しない。大森林に棲む人狼たちは基本群れで行動しているからだ。
狩人が単独で人狼の群れを相手にするのは無謀なのである。
とすれば銃声の先には軽く見積もっても、数人の狩人がいるということになるのだが。
――でも、人狼狩りって、そんなに旨味はないよね。
シティの捜査官たちは市民を守るという使命があり、我が身可愛さに人狼狩りから目を背けることはできないが、狩人にそのような義務はない。
彼らは狩った獲物で生計を立てている自由民だ。何を狩るかは雇われ者でもない限り、狩人次第である。
本来であれば、人狼狩りはシティの捜査官が無償で行うため、切羽詰まっていない限り、割高な狩人に狩りを依頼する村は少ないという。正義心から人狼を狩っても、謝礼は雀の涙ほどなのだそうだ。
村々を転々としていた頃、手酷く追い払われることはあっても殺されることがなかったのは、殺すほどの価値もなかったからなのだと、リアムは改めて思い知ったのである。
気分が沈みそうになりながら侵入者の正体をあれこれ推測していたリアムだが、硝煙の臭いにまぎれ不意に見知った匂いを嗅ぎ当て、つんのめりそうになった。
「え、ヴィクターさん……」
一年前に別れてから、彼を忘れたことはない。寂しくなればハンチング帽を抱きしめて、彼の残り香で気を紛らわせていたのだ。
リアムは速くなる鼓動に後押しされ、騒ぎの渦中へむけ、木立の間を駆け抜ける。
予想通り、密集した木々が途切れた先――窪地の底に数人の男と対峙するヴィクターがいた。
――ほ、ホンモノのヴィクターさんだ……。
蜂蜜色の髪は短く刈り込まれ、凛々しい表情が際立っている。鋭い眼光のヴィクターはロドルナ警察の制服とフロックコート姿ではなく、森の中でも移動しやすそうな深い緑のベストとパンツ姿である。
他の男たちも似たような格好であった。
ヴィクターに見惚れていたリアムだったが、不意に彼がこちらを見上げてきたため、慌てて窪地の縁で身を低くする。
――あ、危なかったぁ。
人間の視力では気づかれない距離だが、念のためリアムは慎重に様子を窺う。
ヴィクターと対峙する壮年の男たちは、長銃を携え周囲に視線を走らせていた。その中のひとりにリアムは見覚えがあり、身をこわばらせる。
筋肉質な身体に毛皮のチョッキをまとった髭面の男は、リアムが人狼狩りに参加するのをためらうきっかけを作った人物だ。彼が捕らえた人狼に怯え、リアムは逃げ出したのである。
ヴィクターとは仲がよさそうに会話を交わしていたはずだが、今は親の敵を前にしたように睨み合っていた。
「おい、ヴィクター。どういうつもりだ!」
「それはこちらの台詞だ。人狼の子どもを囮に使うとは聞いていないぞ」
「ああ? 本気で群れに返すだけだと思ってたのかよ。正気か!」
ヴィクターの背後からひょこりと顔を出したのは、幼い人狼の子供だった。栗色の髪から小さな狼の耳が見え隠れしている。その両手はヴィクターのベストの裾をシワになるほど強く握りしめていた。
どうやらヴィクターたちは人狼の子どもを餌に、人喰い狼の群れをおびき出そうとしているようである。
わざわざ人喰い狼を狩ろうとする目的は何だ。
人狼はそれほど金にならない。残るは狩人として、名を上げるためだろうか。
ヴィクターは名声など必要としていないはずだ。元々狩人として尊敬の念を集めているルージェンド家の嫡男である彼が、いまさらなぜ狩人の真似事をしているのか。
「俺たちの目的は、大森林周辺の村を襲っている人喰い狼を突き止めることだ。わざわざ奴らを刺激して、こちらを襲う隙を与える必要はない」
「ちんたら嗅ぎ回るのは俺たちの性にはあわねえ。ここに優秀な狩人が揃ってんだ。群れをおびき出して片付けりゃあ、シティの捜査官様たちのお手をわずらわすこともねえってもんだよ、なあ」
後ろに控える男たちに髭面は同意を求める。頷く仲間に彼は満足したようで「おら、早くそいつを渡せ」と銃口を振った。
それでもヴィクターは微動だにしない。
「奴らに怯えてちゃあ、こっちは商売あがったりなんだよ」
「何度も言うが、今回は調査だけだ。アンタたちを雇う前にそう説明したが、もう忘れたのか?」
ヴィクターはゆっくりと言い含めるも、男たちは納得していないようで、
「おいおいおいおい。ヴィクター、まさか人狼の肩を持つつもりか? 大討伐の英雄が腰抜けになっちまったもんだな」
にやつく男たちの挑発にもヴィクターは、淡々と告げる。
「……俺は効率よく任務を終えたいだけだ」
「だーかーら、そのガキを使えば楽に奴らをおびきだせるって言ってんだろうが、よっ!」
顎髭の男は突如、長銃の引き金を引いた。森の中には似つかわしくない破裂音が響き、辺りにこだまする。
ヴィクターの足元が弾で抉れ、細く煙がたちのぼった。見れば他にも地面には同じような穴が開いている。
「……無駄弾を使わせんなよ、ヴィクター。あれかあ、子飼いにしていた人狼に操でも立ててんのかよ」
何を言われても無表情だったヴィクターが、スッと目を細めた。
髭面の男は、手応えを感じたのか、さらに言い募る。
「中央監獄にぶち込んだ人喰い狼と仲良く脱走したんだってな。そのガキを逃げた飼い犬の代わりにしようって腹か?」
顎髭の男は仲間たちと下品な笑い声をあげた。
自分のせいでヴィクターは馬鹿にされている。思わず飛び出しそうになるも、リアムはグッと我慢した。
リアムですら腹を立てたのだ。ヴィクターも我慢ならないのか、腰のホルスターに手を伸ばしつつある。
すでに銃声は森中に響き渡っていた。人喰い狼だけでなく、他の肉食獣が集まってきたら、彼らだけで対処するのは厳しいだろう。
早くこの場を立ち去ってほしいが……。
――ど、どうしよう……。ぼ、僕が出ていってもヴィクターさんの邪魔になるだけだよね。
しかし、このままではヴィクターが長銃の餌食になってしまう。ハウンドを呼んで加勢を頼んでも、好機とばかりに狩人たちを喰い殺すのが目に見えている。
事態はさらに悪化するだけだ。
「お、やる気か?」
ヴィクターから放たれる殺気を感じ取っているはずなのに、髭面の男たちはニヤニヤ笑いを収めない。
数で勝っているから、余裕なのだろうが、ヴィクターもリボルバーと長銃を所持しているのだ。気を抜けば形勢は逆転するのに。
――まさか……。
「知ってるんだぜ。お前の銃の腕前をよ。名銃も使い手がポンコツだと宝の持ち腐れだよな」
髭面の男は銃身を肩に預け、腕を組んだ。
「……試してみるか?」
ヴィクターは無謀にも両手でリボルバーを構える。
「そんなガチガチに緊張してちゃあ、ノロマな牛にも当たんねえぜ。ご自慢の拳でかかってこいよ」
そのまままっすぐに撃てば当たるのに、なぜかヴィクターの放つ弾丸は標的に命中しないのだ。
それをわかっていて髭面の男はヴィクターを挑発している。
リアムはハンチング帽をズボンのポケットから取り出すと、狼の耳を帽子のなかに押し込んだ。
迷惑になるとか言っている場合ではない。ヴィクターが反撃に出られるよう隙を作ろうと窪地の縁をゆっくりと移動し、斜面を滑り降りる。
灌木に身を隠しつつ、リアムは髭面の男たちの背後に回り込んだ。
ヴィクターと髭面の男たちはお互い牽制しあっており、こちらに気づいていない。
静かに呼吸を繰り返し、リアムは窪地の底に意識を集中させ、一歩を踏み出そうとした。
その時――。
『ウォォォォンッ!』
上空に遠吠えが響き渡った。草むらから窪地の縁を見上げると、金色の獣が高らかに咆哮している。
ハウンドはリアムのいる草むらを見下ろし満足したように鼻を鳴らすと、素早く姿を消した。
――ハ、ハウンドさん! なんのつもりで……。
「人喰い狼! しかもめちゃくちゃ大物じゃねえか」
髭面の男は唾を飛ばし興奮しているが、仲間の男二人は、あんぐりと口を開け、長銃を持つ手を震わせていた。
「どうしたお前ら?」
「あ、ありゃ、ハウンドじゃねえか。中央監獄を脱走した人喰い狼だ」
「それがどうした? 腕がなるってもんだろ、ああ?」
怯える仲間に苛立った様子の髭面の男。もう一人の狩人は首を壊れた人形のように揺らし、
「あんなデカいの狩れるわけねえよ……」
戦意を喪失しつつある仲間たちに、髭面の男は吠える。
「ここまで来て何ビビってやがる! アレを捕まえりゃシティで俺たちを見くびってやがるクソどもを黙らせられるんだぞ!」
激しく仲間割れをし始めた男たちに、ヴィクターは滑るように近づくが、髭面の男は素早く振り返り、ライフルの銃口を向けた。
「どいつもこいつも俺の邪魔をするな!」
ライフル銃が火を吹き、弾丸がヴィクターの頰を掠めた。鮮血がパッと飛び散る。
リアムのなかでためらいは吹き飛び、狩人たちに向かって突進していた。
「な! なんだお前!」
狩人のひとりがリアムに銃口を定めたが、引き金が引かれる前にリアムは銃口を蹴り上げた。
空に銃声が虚しく走り、鳥たちが騒がしく飛び去っていく。
呆然とする狩人の足を払い倒し、リアムはもう一人の狩人に飛びかかろうとするも、彼は「ひ、ひいいい!」とかすれた悲鳴を残し、森の中に逃げていった。
残るは髭面の男だけだ。
振り返ると同時に、銃口が目の前に迫っていた。
「てめえ、何者だ……? あぁ? ヴィクター、嵌めやがったな」
「……何のことだ」
「このガキ、お前んとこの制帽被ってんじゃねえか、てめぇ、俺たちを人狼をおびき出す餌にしたな」
髭面の男はヴィクターに悪態をつくと、鬼の形相でリアムを睨みつけた。リアムとヴィクターが髭面の男を森に誘い込んだと勘違いしているようだ。
それは断じて違う。
言い訳をしようにも下手に口を開いてヴィクターの立場を悪くするのは躊躇われた。
髭面の男の肩越しにヴィクターと目があい、彼は一瞬目を見張ったものの、すぐに無表情に戻る。
「ヴィクター、動くなよ。……まあ、お仲間が蜂の巣になってもいいんなら、好きにすればいいがな」
ヴィクターはふたたびリボルバーの銃口を髭面の男に向けた。
「一発でも撃ってみろ。お前の弾は外れるが、俺のはコイツの頭をぶち抜くぜ」
ヴィクターはユラユラと照準を揺らしている。
リアムはヴィクターが狙おうとしている箇所を推測した。頭や手足は的が小さい。かと言って胸や腹には対人狼用の防具を装着している可能性が高いだろう。
――太ももあたりが無難かな……。
ヴィクターもそう考えたのか、銃口が髭面の男の脚まわりに定まってきた。
当たらないだろうと高をくくっている髭面の男は、ヴィクターの思惑に気づきながら「ほら、ここに当てたら俺を足止めできるな」と嘲笑っている。
下手な挑発に乗らずヴィクターは、銃把を握りしめ、そして――。
――今だ!
「ヴィクターさん! 撃って!」
リアムの合図と同時にヴィクターは引き金を引いた。弾丸は見事、髭面の男の右太腿に命中し、硝煙の臭いが漂う。
「なっ! は?」
ドクドクと流れ出す己の鮮血に、髭面の男は呆気に取られている。ヴィクターはリボルバーを放り出すと、男の顎髭に強烈なアッパーを繰り出した。
ひゅっと喉を鳴らし、髭面の男は地面に大の字に倒れる。白目を向いて気絶した髭面の男を確認すると、リアムはその場にへたり込み、息を吐き出した。知らず呼吸が止まっており、深呼吸を繰り返す。
顔をあげるとヴィクターが黙々と髭面の男の傷口を止血をしていた。いまさらながら男が出血多量で死んでしまったらどうしようとリアムは慌てる。
「ヴィ、ヴィクターさん、あの……」
「急所は外している。血が抜けて大人しくなるだろ」
淡々と返事をするヴィクターに、リアムは言葉を続けられない。
「……仲間を助けに来たのか?」
「は、はい。その必要も、ないみたいですが」
ヴィクターの背後に隠れていた人狼の子どもはいつの間にか姿を消していた。ハウンドが近くにいるなら心配はないはずだ。
地面に投げ出されたリボルバーをヴィクターは拾い上げ、ホルスターにしまった。
聞きたいことは沢山ある。
なぜここにいるのか?
なぜ人狼の子どもを助けてくれたのか?
リアムのなかで答えの出ない疑惑が膨れ上がっていく。
「ヴィクターさん、どうしてここに……?」
考えた末にリアムが言葉を絞り出すと、ヴィクターはそっぽを向いたまま、
「……待っているのは性にはあわん」
「え」
「あの時はお前を逃がすのが最善だと判断したが、そもそも俺が目の前にいないのに、どうやって俺に認められるつもりだ?」
「いや、あの……、そ、そのために今から長に会いに行こうとしていて」
「人喰い狼の群れが近くにいるのか?」
リアムは己の口の軽さを呪った。
「えっと、その……」
身体の前で両指をもじもじさせるリアムにヴィクターは大股で近づいてくる。上背のあるヴィクターはじっとリアムを見下ろした。リアムはハンチング帽のなかで耳を垂れ、怯える。
――ど、ど、どうしよう……。
「群れに案内しろ」
「お、お断りしますっ」
ヴィクターは頬を引きつらせ、さらに強くリアムを睨みつける。弾丸が掠めた傷口が開き、血がヴィクターの頬を伝っていった。
ヴィクターを傷つけてしまい、申し訳ない気持ちから、群れの居場所を言ってしまいそうになる。
だが、それだけはしてはいけない。
――これ以上、争いごとは増やしちゃいけないのに、僕は何をやっているんだ……。
頑なに踏ん張るリアムのハンチング帽にヴィクターは手のひらを乗せた。優しくされても言えないものは言えない。
「別に奴らをどうこうするつもりはないから、そんなに硬くなるな。……騒がしくしたからな、謝りに行くぞ」
「は……?」
「俺の役に立ちたいんだろ。奴らへの橋渡しをしてくれ」
ヴィクターが人狼に譲歩しようとしているなど信じられずリアムは、ぽかんと口を開けた。ズボン下の尻尾が警戒心に逆立ちそうになるのを、深呼吸をして落ち着ける。
「お前だけが変わったと思うなよ」
ヴィクターは不機嫌そうに低い声で呟いた。
理解が追いつかないリアムに苛立ったのか、急き立てるように、
「群れに案内するのか、しないのか、どうなんだ」
「え、あ、案内します……」
謝りたいと言われて断れるほど、リアムは薄情になりきれなかった。
戸惑うリアムにヴィクターは言い訳めいた早口で、
「お前がいなくなってから、まあ、いろいろあったんだ。色々な」
何があったのか気になるが疲れ切った様子のヴィクターに、それ以上追及する気にはなれなかった。
踵を返し、森の奥へ踏み込もうとするヴィクターの背中を見つめながら、リアムは彼が言った言葉を反芻する。
――待つのは性にあわん。
――俺が目の前にいないのに、どうやって俺に認められるつもりだ?
それは、つまり。
「ヴィクターさん、ま、まさか、僕を探してましたか……?」
リアムが納得するまで待つと請け負ったヴィクターがそんなことをする訳はないと思いつつ、リアムは恐る恐る尋ねる。
ヴィクターが動きを止めた。気まずい沈黙が森に漂い、リアムの背筋に冷や汗が流れる。
もしかして、図星なのか。
リアムは話題をそらさねばとあたりを見回したが、木々が広がるばかりの森に、気を逸らせそうな物はない。
ひとり慌てふためいていると、
「……判ってるなら、俺が見てるそばで足掻いてろ」
「そ、それって」
リアムは嬉しさにズボンのなかで尻尾を膨らませる。
ヴィクターは肩越しに鋭い視線を放ち、「早く案内しろ」とリアムを促した。
謝罪する態度ではないが、人狼を嫌悪するヴィクターが人狼に歩み寄ろうとするのを止めるつもりはない。
「ヴィ、ヴィクターさん、そっちじゃないです」
見当違いの方向へ進んでいくヴィクターをリアムは必死に追いかけた。
「あ、あの人たちはあのままで、いいんですか……?」
「逃げた奴が回収に来るだろう。ひとりで大森林を抜けるのは自殺行為だ。怪我人でも頭数はあったほうがいい」
「ヴィクターさんは、ひ、ひとりでも問題ないのですか?」
ヴィクターの歩幅に合わせ、小走りするリアムに、ヴィクターは鼻を鳴らした。
「こっちから喧嘩をしかけなければ、人狼以外の獣を躱すのはそう難しくない。それに、お前がいればこいつが使えるしな」
腰のホルスターに収まったリボルバーにヴィクターは手を添えた。
頼りにされたリアムは、ハンチング帽の下で耳をピクピクさせた。群れに人間を連れて行って騒動が起こらないはずがないため、浮かれている場合ではないのだ。
「それにクソ野郎がどこかにいるんだろ? 他の人喰い狼が寄ってこなけりゃ、なんとかなる」
「む、群れに向かっているので、あ、安全ではないのですが……」
リアムはか細く呟いたが、ヴィクターは前を向いたまま返事をしない。
ヴィクターは怖くないのだろうか。
リアムはヴィクターが危険に晒されるかもしれないと思うだけで身が凍るような恐怖を感じているというのに。
「俺に認められたいんだろ。なら、俺が人狼に喰われないよう守れ。……まあ、俺も黙って喰われてやるつもりはないがな」
ニヤリと口元を歪めるヴィクターは、子どものような笑顔でリアムに無理難題を押し付ける。
しかしリアムは嫌な顔どころか、頬が緩みそうになった。
――は、はじめてヴィクターさんに、ちゃんと頼りにされた!
「……おい、何笑ってんだ」
「わ、笑ってません」
「言葉と態度がちぐはぐだぞ」
リアムの頬をつねり、ヴィクターは「何か隠してるのか?」と追撃を緩めない。
「な、な、何も隠してません」
「……まあいい、全部片付いたら覚悟しとけ」
ヴィクターに釘をさされたリアムは、今からどうしようかと苦悩しつつも、ヴィクターと一緒にいられる瞬間を噛み締めた。
――とりあえず、ヴィクターさんを守らないと。
リアムは隣のぬくもりを死守しようと固く決意するのだった。
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