卑屈に純情〜人狼リアムは狩人に認められたい〜

ヨドミ

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二十二話 リアムの願い

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 ――痛い。

 落下の衝撃と水の冷たさにリアムは瞼を閉じた。もがけばもがくほどハウンドに噛みつかれた右肩や腕が痛む。加えて、水を含み重くなったシャツやズボンが身体に絡みつき、思うように身動きがとれない。水底へといざなわれながらも、リアムは満足していた。
 ヴィクターを危険から遠ざけられたのだ。

 このまま息絶えても後悔はない。

 諦めかけたその時。
 背後から襟首を引っ張られた。残り少ない酸素が肺から絞りとられ、ますます意識が遠のいていく。そして息が限界を迎えかけたが。

「ふっ、はぁぁぁ!」

 リアムは水面に顔を出すことができた。突き刺す冷気に顔が凍りそうになる。
 そのまま振り返る暇もなく水面を引きずられ、水飛沫に息がままならない。
 後頭部が硬いものにあたると、首元が開放された。リアムの隣で水しぶきがあがり、ずぶぬれの獣が川岸からこちらを見下ろしている。
 雲から顔を覗かせた月が金色の獣を照らし出した。ハウンドの四肢はぶるぶると震え、立っているのがやっとのようである。

『……二回戦といくかい?』
「そ、そんなことをしている場合では、な、ないですよ」

 川べりの繁みで姿が隠れるとはいえ、巨大な狼がいれば騒ぎになる。リアムは土まみれになりながら這い上がり、土手向こう――シティ内を警戒した。怯えるリアムをハウンドは鼻でわらう。

『心配しなくても、捜査官たちはまだこないさ。……ここからでも、君の飼い主の声が聞こえるだろう?』

 リアムは濡れてうねる黒髪から獣の耳をそばだてる。生い茂った木立で川岸は見通しが悪い。霧と暗闇に溶け込む中央監獄に意識を向けると、

「リアム――!」
 
 背の高い木立の向こうから、ヴィクターの声が聞こえた。黒くそびえ立つ監獄から名前を呼ばれ、リアムの胸は引き絞られたように痛んだ。

 ヴィクターを心配させてはいけない。
 けれど――。

「……ぼ、僕は貴方を説得するって言ったでしょう。だ、だから戦わない」
 肩で息をつきながら、リアムはハウンドに向かい合った。

『説得ねぇ……。俺に得があるとは思えないな。君はどんなカードを持っているんだい?』

 ハウンドが願うことは本当に、人狼が人間を支配することなのか。

 違うような気がする。

「あ、貴方の望みを理解するために、は、話を聞きたいんです」
『は?』
 ハウンドは警戒するように、金色の耳を立て首を傾げた。
「じ、人狼のこととか、か、母さんのこととか……もっと、教えてください。そ、そうしたら、ハウンドさんと一緒に考えることができるかも……」

 うつむきながらリアムは思いの丈をぶつけた。
 ハウンドはリアムが辿っていたかもしれない姿だ。ジャズやヴィクターのような信頼できる人間に出会っていなければリアムも人間を恨み、復讐しようとしていただろう。
 だから他人事のようにハウンドを放っておけないのだ。

『……君、馬鹿だってよく言われない?』
「に、似たようなことは、さ、最近言われました」

 それこそヴィクターには何度も叱られている。自信がないときに言われると落ち込んでしまうが、今はそれほど気にならない。
 それだけリアムは必死なのである。

『本当に自分勝手だね。……人狼だ人間だと固執している俺が馬鹿みたいじゃないか』
「え、そ、そんなつもりは……」
『ないんだろうね。余計に始末が悪いよ。……彼が君に執着しているのも分かる気がするな』
「はい?」
『ヴィクター•ルージェンドは君の恋人なんだろ?』
「そ、そんなわけないじゃないですか! というか、ぼ、僕、男です!」
『恋人でもない相手を、あれほど情熱的に呼ぶわけないと思うけどね』

 ハウンドは川むこうの監獄に首を巡らせる。ヴィクターの声は以前静寂を切り裂き、監獄のある中州にとどろいていた。

「あ、あれは僕たちを取り逃がしたことを、く、悔しがっているだけだと……」
『……まあ、俺には関係ないことだが、ヴィクター・ルージェンドには同情するね』
 ヴィクターにとってリアムがどのような存在なのか、確認する勇気はない。リアムのことを気にかけてくれるだけでも、天にも昇る心地なのに。

 これ以上は、望まない。

「そ、そんなことより、ハ、ハウンドさん、行きますよ」
『慌てなくても彼らはすぐに俺たちを見つけるさ』

 ハウンドは草むらに伏せ、前脚に顎を置いて瞼を閉じようとする。

「な、何言ってるんですか! に、逃げますよ」
『……君、正気か?』
「ぼ、僕はヴィクターさんに恥じないよう、じ、自分が正しいと決めたことを、や、やってみようと思います。……ぼ、僕は、ハウンドさんがヴィクターさんに捕まって、じ、人狼と人間の溝がさらに深まるのは嫌なんです。だから、えっと、逃げるのが正しいかは判断できないけど、今は捕まっちゃいけないとは思います」

 だから、とリアムは痛む身体に鞭を打って立ち上がった。
「と、とりあえず立ちましょう。……あと、ぼ、僕がひとりで逃げられないというか」
 リアムは無事な方の手を差し出した。小さくてひ弱な手のひらを、ハウンドはまじまじと見つめる。

『君は飼い主がいる限り牢に入ることもないのに。……訂正するよ、君は大馬鹿者だ』

 ハウンドは呆れたように呟くと、リアムの手のひらに鼻先を近づけた。


 ハウンドとともに監獄を後にしたことを、後悔はしていない。心残りがあるとすれば、ヴィクターと完璧に和解できなかったことだ。
 監獄での乱闘もあり、言いたいことが言えなかった。このまま立ち去っては踏ん切りがつかないため、リアムは路地裏の暗がりに潜み、ヴィクターを待ち構える。
 富裕層街アッパーフロアの中心地にあるロドルナ警察本部から酒場『フリッカー』に通じる目抜き通りは、中央監獄から人狼が逃げ出したとあって、常よりロドルナ警察の制服をまとった捜査官が多くいた。表通りを巡回する捜査官に見つからないよう、リアムは陽が沈むまでじっと路地裏に隠れ、機を待つ。
 ガス灯がちらほらと灯り始めた黄昏時。
 家路を急ぐ人々がリアムの目の前を足早に通り過ぎていく。薄暗い路地裏には誰も目を向けず、リアムは安心して待つことができた。

 背を丸めたヴィクターが姿を現したのは、夜も深まった頃合いである。中折れ帽を目深に被り、コートのポケットに両手を突っ込みながら歩いていた。
 口元を引き結んだ横顔に近寄りがたい気配を感じながら、リアムは声をかける。

「ヴィ、ヴィクターさん……」

 彼はゆっくりと首を巡らせ、蜂蜜色の瞳を見開いた。

「リアムか……?」
「は、はい」

 聞いたことのない弱々しい声音のヴィクターに、リアムは心がざわついた。

 ――心配かけてたんだよね、きっと。

 ヴィクターを直視できず俯いていると、大きな手に手首を掴まれた。

「え?」
「……ちょっと顔貸せ」

 間近で見ればヴィクターの頬は痩せこけ、鋭さを増している。睨まれたリアムは萎縮し、されるがままになるしかなかった。
 ヴィクターはリアムを路地の奥へと引きずっていく。ガス灯の灯りもまばらになった暗がりで立ち止まると、

「……お前は俺をどれだけ振り回せば気が済むんだ」
「す、」
「謝るのはなしだ」

 先手を打たれ、リアムは追い詰められる。ハンチング帽がずしりと重く感じられ、リアムはうなだれた。
 ヴィクターは約束を守らないリアムに呆れていることだろう。すでに期待を裏切っているなら、思いの丈をぶつけ、前進しなければ。

「……ぼ、僕、ロドルナを出ようと思います」
「なに?」

 手首を握る力が強まる。リアムは痛みを堪えた。

 ――言わなくちゃ。

「そ、それで、あの……」
 このまま連行されるわけにはいかない。なんとかヴィクターを説き伏せようと、リアムは前のめりになったが、痛みをこらえるように眉をひそめるヴィクターに言葉を飲み込んでしまう。

「俺がお前を捕まえるつもりがないなら、残るのか?」
「え」
「お前とハウンドは死亡扱いで報告している。……大人しく俺の管理下に入るなら、追うつもりはないぞ」
 そのような顛末てんまつになっていたとは知らず、リアムは動揺した。このままヴィクターに飼われたい衝動を抑え、

「お、お誘いは嬉しいのですが、それ以外にも、ぼ、僕に問題があって」

 リアムが断るとは予想していなかったのか、ヴィクターは焦ったように早口になった。
「シティから出るのを恐れているお前に、狩りを強要したことは、その、わ、悪かったと思っている……」

 先細る謝罪にリアムは聞き間違いかと耳を疑った。見上げたヴィクターの表情は、影になり判然としないが、冗談を言っている雰囲気ではない。リアムの沈黙を拒絶と勘違いしたのか、ヴィクターは唇を歪ませた。

「同族が誘えば、簡単についていくんだな」
「ち、違います。ぼ、僕はちゃんとヴィクターさんの相棒になりたくて……。つ、つよくなりたいんですっ」

 ヴィクターの後ろに隠れていれば居心地がいい。
 言われるがままそばにいたい。ぬるま湯のように心地の良いぬくもりに包まれていたい。
 だが、自信のないまま今の状況に甘えていては、彼に迷惑をかけてしまう。
 好きだからこそ、胸を張ってヴィクターとともにありたいのだ。
 身勝手極まりないが、彼にふさわしくなるために、今は離れなければならない。
 リアムはハンチング帽を脱ぎ、ヴィクターに差し出した。

「ぼ、僕が頼りがいのある奴になったら、ま、また、相棒にしてくれませんか……」

 これで胸の内を伝えきった。
 ヴィクターとは真正面から向き合いたいから、なけなしの勇気を振り絞ったのだが。

「いまさら何を言っている?」

 ヴィクターはつま先で石畳を蹴りつけながら、呆れたように呟いた。
 必死の懇願がまったく届いておらず、リアムは肩を落とす。

 ――そうだよね。迷惑かけ続けて虫がいいにもほどがあるよね。

「何をそんなに気負ってんのか、俺には理解できんが。……引き止めたところで、考えは変わんねえんだろ」
 つま先を打ちつけるのをやめ、ヴィクターはハンチング帽を押し返した。

「お前はどこに行っても俺の相棒だ。肌見放さず持っとけ」
「い、いいんですか?」
「失くしたら、バディ解消だ」
「し、死んでもなくしませんっ」
「それじゃ意味ねえだろ」

 苦笑するヴィクターにリアムは胸を撫で下ろす。
「何がおかしい?」
 ヴィクターは照れ隠しなのかぶっきらぼうに告げるとリアムの頭を耳もろとも、掻き回した。かさついているが、温かくて大きな手。リアムは涙を喉の奥に流し込んだ。胸いっぱいにヴィクターの匂いを吸いこんでいると、彼はリアムを胸元に引き寄せる。

「な、な、な……」
「俺の匂い覚えとけ。……何処にいても帰ってこれるようにな」

 ヴィクター愛用のフロックコートには、煙草の甘苦い香りと汗の匂いが混じり合っている。

 帰ってこい。

 物心ついた頃から安住の地はなかった。いつも追われ続けてきたリアムにとって、願っても手にすることができなかった言葉をヴィクターは与えてくれる。
 ヴィクターはリアムの宝物だ。

 ――彼を守れるよう強くなろう。

 リアムはヴィクターの胸元に鼻先を押し付け、コートの背中を両手で握りしめた。
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