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十話 招待
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ヴィクターが指定した場所は、富裕層街のなかでも高級住宅地にあるアパルトマンだった。
ホコリ一つない正面玄関を進み、階段を最上階まで登り切った先、すぐ左手の黒光りする扉に向き合ったはいいものの、リアムは立ちすくむ。
磨かれた黒檀の扉は不安そうなリアムの顔を映しており、ハンチング帽のなかで耳がびくびくと痙攣した。新しいシャツの襟元が首を締め付けてくるような錯覚さえしてくる。
階下でフロントマンが部屋の主に来客を告げているので、逃げ帰ることもできない。
深呼吸後、弱々しくノッカーを打ち鳴らした。
扉の向こうから、ヴィクターが出迎えてくれたが、リアムは彼の格好に驚きを隠せない。
「……何か言いたそうだな」
仏頂面のヴィクターは、柔らかそうな生地のシャツにエプロンをつけていた。黒いエプロンにはところどころ、汚れがこびりついている。
「い、いえ、美味しそうな匂いがしているなぁと……」
ヴィクターの背後から、ほのかにスープの匂いが漂っていた。スープの他に、何かを焼いた香ばしい匂いが混じっている。リアムはごくりと唾を飲み込んだ。
「早く入れて頂戴よ」
混乱し立ちすくむリアムを、ジャズが押しのけた。おろしたてのブラウスとスカートを身に着けたジャズは、どこかの貴婦人と言っても通用しそうだったが、口を開くと酒場の女将のままなので、台無しである。
「なんでアンタも来てるんですか」
「おや、リアムと二人きりになって、何するつもりだったんだい?」
「どうもしない……過保護すぎる雇い主は嫌がられますよ」
「こっちは従業員怪我させられてんだよ。どの口がいってんだい?」
右腕の包帯は、シャツの下に巻いているので外から見えることはないのだが、リアムは思わず右腕を背後に隠した。
からかうジャズにヴィクターは舌打ちし、「もういいから入れ」と身体をずらして二人を招いた。
玄関の真正面はリビングで、通りに面した窓のそばに、ダイニングテーブルが設置されている。
「うわ……」
テーブルには色鮮やかな料理が沢山並べられ、見た目にも賑やかだ。
――な、何がどうなってるの?
ヴィクターに呼び出された理由が、ますます分からなくなっていく。なぜヴィクターは食事の用意をしているのか。
誰か教えてほしい。
「こ、これヴィクターさんが作ったんですか?」
「ああ」
「でも、どうしてこんな……」
リアムの疑問にヴィクターは答えず、壁沿いのキッチンでスープを盛り付けはじめた。
「て、手伝います」
「気にするな。……そこの図々しい女を見習って座っとけ」
振り返れば、ジャズはスカートの裾がはだけるのも厭わず脚を組んで席につき、ワインのコルクを抜いている。
「さすが、ルージェンド家のご子息様は良いもの知ってるね」
グラスの中身を揺らしながら、ジャズはワインを喉に流し込み、鼻歌を歌った。
リアムは華奢な猫脚の椅子に腰をおろしたものの、落ち着かずヴィクターの背中を覗いながら、部屋の中を見回した。
テーブルセットの他、リアムの背後には、書き物机がある。書類が山積みで、今にも床に崩れ落ちそうだ。その横には天井まで高さのある本棚が並び、分厚い背表紙の書物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
それ以外に調度品の類はない。
「何を見ている」
テーブルにスープ皿を置きながら、ヴィクターは鋭く言い放った。
「す、すみません」
不躾に見すぎたかと、リアムは慌てて食卓の並ぶテーブルに向き直る。
「アンタ、これ持ち出したら駄目でしょ」
グラスを揺らしつつ、リアムの背後に回ったジャズは、書き物机の紙束を乱暴に掴み上げた。
「……! おいっ」
「見られたくなかったら、ちゃんとお片付けしましょうね、ヴィッキー」
ジャズが掻き回したせいで、机上の紙が見事床に散らばった。足元に滑り込んできた紙片を、リアムはそろりと拾い上げる。
『NO.1531 裏路地街にて監視中の容疑者 リアムに関する報告書』
まさか自分の名が書かれているとは思わず、リアムは反射的に文字を目で追った。
『……同容疑者は、……的、温厚で、反抗の……なし。問題があるとすれば……』
難しい単語を飛ばしながら読んでいると、大きな手に遮られる。ヴィクターは険しい表情でリアムから紙片を奪い、派手な音をたて握りつぶした。
「ああ、もう。せっかくの料理冷めちゃうわよ。アンタたち早く席につきな」
「誰のせいで……」
「隠さないアンタが悪いんでしょうが」
何か言い返したそうに口を開いたヴィクターだったが、諦めたのか無言で椅子を乱暴に引き、腰を落ち着けた。
葉物野菜を混ぜ込んだキッシュはふんわりと口溶けがよく、ジャガイモのスープは透き通っているのに、味がしっかりついていた。混ざり物のない柔らかなパンにいたっては、手でちぎるとなんとも言えない香ばしい香りがして、食欲をそそる。
リアムは口と自由に動く左手を忙しなく動かし続けた。
その間にもヴィクターとジャズは口喧嘩をしている。どちらも本気の言い争いではないようで、リアムはほっとし、料理に舌鼓を打つことに専念した。
ジャズにつられヴィクターも酒が進み、和やかに時間は流れていく。
「……で、これは口止め料ってこと?」
テーブル上の料理をあらかた食べ尽くした頃。
頬杖をついたジャズは、ヴィクターに管を巻いた。
ワインに口をつけようとしていたヴィクターは、焦点の合わない目でジャズを見返す。
――そういえばヴィクターさん、お酒弱かったような……。
リアムはテーブルに転がるワインボトルの数を数え、
――ご、五本!
ほぼジャズが飲んでいたと思うが、二人で空ける量ではない。
「……人聞きの悪いことを言うな」
ヴィクターは、心なしか呂律が回っておらず、リアムはそわそわした。
「リアム好みの料理まで用意して、言い訳できないでしょう?」
ジャズはワイングラスを握りしめたまま、ヴィクターの顔を指差し挑発する。その売り言葉を買うように、ヴィクターはコツコツと床板を靴先で叩き始めた。
――ヴィクターさん、怒ってる……!
リアムはヴィクターとジャズの表情を交互に見比べる。喧嘩になってしまったら止められるだろうかと不安になった矢先、ヴィクターはリアムを一瞥し、
「……少し席を外してくれないか」
と、静かに告げた。リアムはキッシュを咀嚼していたが、素早く飲み込み腰をあげる。
「いや、お前じゃない。こっちの、がめつい女主人に言ったんだ」
「……アタシに借りがある癖に、口が悪いわね」
「……しばらく席を外してくれませんか?マダム•フリッカー」
ヴィクターはジャズに向かって、金貨を一枚弾いた。ジャズは不満げに空中で金貨を掴む。
どうやらヴィクターはリアムだけに話をしたいようだ。もともとそのつもりで呼び出されたのだから、リアムは覚悟ができている。
――僕は大丈夫。
リアムはジャズを安心させるように頷いた。
金貨を指の間で玩ぶジャズは、テーブルに手をついて立ち上がる。
「……ヴィクターに襲われそうになったら、そこの窓開けて叫びなさい。通り向かいのカフェにいるから」
ジャズは赤髪とスカートの裾をなびかせ、玄関口へと大股で近づき、荒々しく扉を閉じて出ていった。
しんと静まり返った室内で、リアムは視線を彷徨わせる。
――ど、どうしよう……。
ジャズに見せた自信は萎み、リアムは途方に暮れた。
ホコリ一つない正面玄関を進み、階段を最上階まで登り切った先、すぐ左手の黒光りする扉に向き合ったはいいものの、リアムは立ちすくむ。
磨かれた黒檀の扉は不安そうなリアムの顔を映しており、ハンチング帽のなかで耳がびくびくと痙攣した。新しいシャツの襟元が首を締め付けてくるような錯覚さえしてくる。
階下でフロントマンが部屋の主に来客を告げているので、逃げ帰ることもできない。
深呼吸後、弱々しくノッカーを打ち鳴らした。
扉の向こうから、ヴィクターが出迎えてくれたが、リアムは彼の格好に驚きを隠せない。
「……何か言いたそうだな」
仏頂面のヴィクターは、柔らかそうな生地のシャツにエプロンをつけていた。黒いエプロンにはところどころ、汚れがこびりついている。
「い、いえ、美味しそうな匂いがしているなぁと……」
ヴィクターの背後から、ほのかにスープの匂いが漂っていた。スープの他に、何かを焼いた香ばしい匂いが混じっている。リアムはごくりと唾を飲み込んだ。
「早く入れて頂戴よ」
混乱し立ちすくむリアムを、ジャズが押しのけた。おろしたてのブラウスとスカートを身に着けたジャズは、どこかの貴婦人と言っても通用しそうだったが、口を開くと酒場の女将のままなので、台無しである。
「なんでアンタも来てるんですか」
「おや、リアムと二人きりになって、何するつもりだったんだい?」
「どうもしない……過保護すぎる雇い主は嫌がられますよ」
「こっちは従業員怪我させられてんだよ。どの口がいってんだい?」
右腕の包帯は、シャツの下に巻いているので外から見えることはないのだが、リアムは思わず右腕を背後に隠した。
からかうジャズにヴィクターは舌打ちし、「もういいから入れ」と身体をずらして二人を招いた。
玄関の真正面はリビングで、通りに面した窓のそばに、ダイニングテーブルが設置されている。
「うわ……」
テーブルには色鮮やかな料理が沢山並べられ、見た目にも賑やかだ。
――な、何がどうなってるの?
ヴィクターに呼び出された理由が、ますます分からなくなっていく。なぜヴィクターは食事の用意をしているのか。
誰か教えてほしい。
「こ、これヴィクターさんが作ったんですか?」
「ああ」
「でも、どうしてこんな……」
リアムの疑問にヴィクターは答えず、壁沿いのキッチンでスープを盛り付けはじめた。
「て、手伝います」
「気にするな。……そこの図々しい女を見習って座っとけ」
振り返れば、ジャズはスカートの裾がはだけるのも厭わず脚を組んで席につき、ワインのコルクを抜いている。
「さすが、ルージェンド家のご子息様は良いもの知ってるね」
グラスの中身を揺らしながら、ジャズはワインを喉に流し込み、鼻歌を歌った。
リアムは華奢な猫脚の椅子に腰をおろしたものの、落ち着かずヴィクターの背中を覗いながら、部屋の中を見回した。
テーブルセットの他、リアムの背後には、書き物机がある。書類が山積みで、今にも床に崩れ落ちそうだ。その横には天井まで高さのある本棚が並び、分厚い背表紙の書物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
それ以外に調度品の類はない。
「何を見ている」
テーブルにスープ皿を置きながら、ヴィクターは鋭く言い放った。
「す、すみません」
不躾に見すぎたかと、リアムは慌てて食卓の並ぶテーブルに向き直る。
「アンタ、これ持ち出したら駄目でしょ」
グラスを揺らしつつ、リアムの背後に回ったジャズは、書き物机の紙束を乱暴に掴み上げた。
「……! おいっ」
「見られたくなかったら、ちゃんとお片付けしましょうね、ヴィッキー」
ジャズが掻き回したせいで、机上の紙が見事床に散らばった。足元に滑り込んできた紙片を、リアムはそろりと拾い上げる。
『NO.1531 裏路地街にて監視中の容疑者 リアムに関する報告書』
まさか自分の名が書かれているとは思わず、リアムは反射的に文字を目で追った。
『……同容疑者は、……的、温厚で、反抗の……なし。問題があるとすれば……』
難しい単語を飛ばしながら読んでいると、大きな手に遮られる。ヴィクターは険しい表情でリアムから紙片を奪い、派手な音をたて握りつぶした。
「ああ、もう。せっかくの料理冷めちゃうわよ。アンタたち早く席につきな」
「誰のせいで……」
「隠さないアンタが悪いんでしょうが」
何か言い返したそうに口を開いたヴィクターだったが、諦めたのか無言で椅子を乱暴に引き、腰を落ち着けた。
葉物野菜を混ぜ込んだキッシュはふんわりと口溶けがよく、ジャガイモのスープは透き通っているのに、味がしっかりついていた。混ざり物のない柔らかなパンにいたっては、手でちぎるとなんとも言えない香ばしい香りがして、食欲をそそる。
リアムは口と自由に動く左手を忙しなく動かし続けた。
その間にもヴィクターとジャズは口喧嘩をしている。どちらも本気の言い争いではないようで、リアムはほっとし、料理に舌鼓を打つことに専念した。
ジャズにつられヴィクターも酒が進み、和やかに時間は流れていく。
「……で、これは口止め料ってこと?」
テーブル上の料理をあらかた食べ尽くした頃。
頬杖をついたジャズは、ヴィクターに管を巻いた。
ワインに口をつけようとしていたヴィクターは、焦点の合わない目でジャズを見返す。
――そういえばヴィクターさん、お酒弱かったような……。
リアムはテーブルに転がるワインボトルの数を数え、
――ご、五本!
ほぼジャズが飲んでいたと思うが、二人で空ける量ではない。
「……人聞きの悪いことを言うな」
ヴィクターは、心なしか呂律が回っておらず、リアムはそわそわした。
「リアム好みの料理まで用意して、言い訳できないでしょう?」
ジャズはワイングラスを握りしめたまま、ヴィクターの顔を指差し挑発する。その売り言葉を買うように、ヴィクターはコツコツと床板を靴先で叩き始めた。
――ヴィクターさん、怒ってる……!
リアムはヴィクターとジャズの表情を交互に見比べる。喧嘩になってしまったら止められるだろうかと不安になった矢先、ヴィクターはリアムを一瞥し、
「……少し席を外してくれないか」
と、静かに告げた。リアムはキッシュを咀嚼していたが、素早く飲み込み腰をあげる。
「いや、お前じゃない。こっちの、がめつい女主人に言ったんだ」
「……アタシに借りがある癖に、口が悪いわね」
「……しばらく席を外してくれませんか?マダム•フリッカー」
ヴィクターはジャズに向かって、金貨を一枚弾いた。ジャズは不満げに空中で金貨を掴む。
どうやらヴィクターはリアムだけに話をしたいようだ。もともとそのつもりで呼び出されたのだから、リアムは覚悟ができている。
――僕は大丈夫。
リアムはジャズを安心させるように頷いた。
金貨を指の間で玩ぶジャズは、テーブルに手をついて立ち上がる。
「……ヴィクターに襲われそうになったら、そこの窓開けて叫びなさい。通り向かいのカフェにいるから」
ジャズは赤髪とスカートの裾をなびかせ、玄関口へと大股で近づき、荒々しく扉を閉じて出ていった。
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