村の籤屋さん

呉万層

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8:賭け禄

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 拳が振り上げた一郎の心の中には、怯えるクラスメートに対する気遣いはなかった。



 ただ「お前が逃げたら、俺はどうなる!」という、自分勝手な怒りしかなかった。



「なんだよ、その目は、文句あるっていうのか!」



 鼻血を流し、痛みと理不尽さに対する不満を込めた目を向けるクラスメートに向けて、一郎は更に手を挙げた。



 拳の痛みを無視して、数十秒間クラスメートを殴打し続けた。



 途中で飛んだ血と歯は間違いなくクラスメートのものだったが、上がった叫び声の発生源は、クラスメートと一郎自身からだった。



 蹲るクラスメートの肩を、上から踵で踏み抜くと、叫び声は一方からだけとなった。



 鈍い音がして、クラスメートの腕が伸びた。



「あああっ!」



「坊や、お友達、肩が変になっちゃったね。大丈夫かなぁ。フフフ」



 機械的で金属的なトーンでありながら、どこか楽しげな調子で、籤屋が笑った。



 ガキ大将の立場としては、食ってかかるべきだろう。だが、恐怖から顔の向きを変えられない一郎には不可能だった。



 目の前の弱者を、完全な八つ当たりとして、必要以上に痛めつける卑劣な行為のみが、小学生の一郎にできる全てだった。



 息が上がった一郎が、荒い呼吸をしながら黙った時、亀のような姿勢をとるクラスメートは、肩を抑えて小刻みに震えていた。



「肩が、痛いんだ。もう、許してよ」



 地べたで泣きながら懇願するクラスメートを前にしても、一郎の心は動かなかった。



 生贄の羊となるべき弱者を、荒い息のまま見下ろしていた。



 例え心が動いていても、一郎の喉は乾ききっており、何らの言葉も発せなくなっていた。



「ウゲェッ」


 砂漠のようになった一郎の喉に痰が絡みつき、胃液を地面に撒き散らした。



 吐瀉の飛沫が、クラスメートの白いシャツにシミを作り、半ズボンから伸びた一郎の足に掛かった。



 涎を垂らしながら、肩の痛みについての弱音を吐き続ける機械のようになったクラスメートを、一郎は見つめていた。



 不意に、良いアイディアが一郎の頭に浮かんだ。



「……いいこと思い付いた」



 冴えたアイディアを思い付いた自身の頭脳を自賛しつつ、一郎は口を開く。



「肩が折れたか、外れたんだっけか」



 荒い息を吐きながら、一郎は引き攣った半笑いを浮べた。



 口の端から垂れる涎に頓着せず、一郎はクラスメートの肩に触れた。



「痛いよ! 助けて、ちょっと動かしただけで、痛くてたまらないんだ。助けを呼んで」



「嫌だ」



 至極常識的に助けを求めるクラスメートに、一郎は、非情な言葉で応じた。



 冷徹なようで、頭の真の部分が、熱っぽく感じていた。



 ストレスに押し潰されそうな子供らしく、弱者を踏みにじる行為にも、一郎は羞恥を覚えなかった。



「なんでさ。本当に痛いんだ」



 やはり、抗議しながら肩を押さえるクラスメートに対する一郎の口調は、更に非情なものだった。



「助けが欲しいなら、籤屋さんに頼めよ。籤を引けば、助けてくれるかもしれないぞ。ケガを治してもらうんだ」



 一郎の言を聞いた籤屋は、弱った獲物を前にした猫科の猛獣じみた、嬉しそうな声を出した。



「傷の治療なら、任せて。賭け禄は……君は、確か、漁師の秋山さんとこの子だよね。君とご両親、それと、妹ちゃんの親子四人」



「そうだけど……何で」



 クラスメートである秋山の家は、確かに漁師を営んでいて、小一の妹もいる。何故、籤屋が知っているのだ、とは、どうしてか、一郎は疑問に思わなかった。



 籤屋なら、何を知っていても不思議はないと、一郎は半ば本能で理解していたからだ。この不可解な判断は、籤屋を前にした者だけにしか、理解できないだろう。子供に「大人になれば分かる」と、いうような不誠実な説明と似たものであっても、ともかく、籤屋と遭遇しなければ、わからない感覚に違いなかった。



「じゃあさ、妹ちゃん、賭けてよ」



 だからだろうか、籤屋が人間を、家族を賭けるように、秋山へ迫る姿を目の当たりにしても、一郎にはごく自然な態度にしか感じられなかった。

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