太陽の季節

マサヤ

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太陽の季節

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 彼の他に動く者は誰もいない。男たちは腹をさばき、女たちは喉を突いて果てた。室内には濃厚な血のにおいが充満している。だが、すぐ気にならなくなるだろう。
 一族の総領である彼は、皆の死を見届けた上で、正座になり、おむもろに衣服の前をはだけると、短刀を抜いて腹に切っ先を当て、ぐいと一息に押し込んだ。
 その顔には、苦悶とともに、奇妙な笑いが浮かんでいる。
 やがて、前のめりに倒れながら、彼は思った。

 あの時、雨さえ……

「徳川殿討ち死に! 弾正山(だんじょうやま)にて徳川殿討ち死に!」
 伝令が馬から転がり落ちるようにして面前に這いつくばり、息も絶え絶えになお声を枯らして叫ぶのを、彼は呆然として聞いた。
 すでに周囲の軍勢は崩れつつあった。
 しのつく雨音の向こうから、大きな歓声が近づいてくるのがわかる。武田兵どもが迫ってきているのだ。
 こんな馬鹿なことがあってたまるものか、と彼は歯噛みして思った。それは勝敗が明らかになり始めた時から、繰り返し彼が吐き捨てるようにつぶやいている言葉だった。
「こんな馬鹿なことがあってたまるものか!」
と、彼はとうとう叫んだ。しかしそれに答える者はいない。

 彼と盟友の徳川家康の率いる連合軍が、設楽原(したらがはら)の西に陣を布いたのは、昨日の早朝である。
 設楽原は広い原っぱであったが、すすきが一面に生えて、前方の視界を遮っていた。
 彼は部下に命じてすすきを刈り取らせると、三重の柵を作らせて砦を築いた。
 勇猛果敢な武田兵は、戦闘開始と同時に突撃してくるに違いない。その際の足止めとして、彼は柵を使うことにしたのだ。
 ほんのちょっとでも動きを封じることができれば、あとは鉄砲が始末してくれる。
 鉄砲!
 彼はこの新兵器を今更のように恨めしく思った。
 はるか南の島に、さらにはるか彼方の南蛮から伝えられたという。火薬を用いて鉛玉を飛ばし、その殺傷力と飛距離は弓矢をはるかにしのぐ。強力な殺戮兵器。だが、その法外な値段と、火薬の入手のしづらさ、また一回撃ったら再び弾を込めるのに時間がかかるという欠点のために、大名の誰もが自軍に取り入れるのをためらった。
 その鉄砲を堺の商人から三千挺も仕入れたのは、まさしく彼の才覚のなせるところであり、英断であった。彼は足軽たちを訓練し、一大鉄砲隊を組織した。
 彼には予感があったのだ……この新兵器が、従来のいくさのやり方を一変させるという、ある種の天才のみが感じ得る戦慄とも恍惚ともつかぬ予感が。
 だが、昼前までは雲一つなかった青空が、時がたつにつれて次第に曇り始め、同時に設楽原の東に勝頼率いる武田兵が姿を現し、陣形を整えていくにつれて、薄墨で掃いたような不安が彼の胸中をふとよぎった。
 その不安は、一粒の雨水となって彼の鼻先に落ちてきた。
 一粒の雨水はやがて烈しい風をともなう大雨となり、設楽原をもみくちゃに揺さぶり始めた。
 鉄砲が撃てない! 火縄が消える!
 味方側の全軍に動揺が走るのを狙い澄ましたように、武田兵は一斉に鬨の声をあげて攻撃を開始してきたのだった。
 予備として配置しておいた弓兵が奮戦したものの、鉄砲の代わりは勤まらず、三重の柵は乗り越えられ、壊されてしまった。
 そして今、目前に敵が迫ろうとしている。

 彼の周りには、彼を守るべく控えるはずの小姓たちの姿はない。
 敵を迎え撃つため、みな前に出払ってしまっている。
 ぐはっと絶息する声に我に返ると、徳川討ち死にの報をもたらした伝令が倒れ伏していた。そのままぴくりともしない。見れば、首筋から背中にかけて、矢が針山のように幾本も突き刺さっている。最後の力を振りしぼって、ここまでやってきたのだろう。
 壊滅寸前の本陣の中で、彼はたった独りでいる自分に気づいた。
 彼の軍は、将である彼を残して敗走していた。彼の軍がそうである以上、将を失った徳川の軍もやはり敗走しているはずだった。
 この大敗は……と、彼は茫乎として佇んだまま、鬱蒼と考えた。
 やはり、おれのせいなのだろうか? 鉄砲などという不確かなものを採用してしまったおれの手落ちなのだろうか?
 いや、と彼は首を振った。鉄砲を中心に据えて部隊を組織するという考え方は、決して間違っていないはずだった。おかしいとすれば、それはこの忌々しい天気の方だ。
 なぜ、今日このときに大雨が降ったのか。なぜ太陽が隠れてしまったのか。それがおかしい……
 とりとめのないことを考え続ける彼の頭に、不意に飛んできた礫が直撃した。かぶっていた甲が脱げて地に転がった。目の前に火花が散り、彼はふらついて片膝をついた。
 くらんだ目が元に戻ると、すぐ手前に大きな丸い石が転がっているのが見えた。
 武田方の投石部隊が投げてきたらしい、その、灰色の、雨に濡れて黒々とした、無愛想な塊を眺めているうちに、彼の内部から、ヒステリックな笑いがこみあげてきた。
 鉄砲が石に負けた!
 一挺二十両もする鉄砲が、南蛮渡来の最新兵器が、そこらの河原で拾った石ころに負けてしまった。かくも原始的な飛び道具に、大将であるこの俺が一撃されてしまった。
 こんな馬鹿なことは……こんな馬鹿なことは、もう笑うしかない。
 彼は笑った。
 身をのけぞらせて笑った。
 降りしきる雨に打たれ、ざんばら髪が濡れそぼつのにも構わずに、彼はたった独りでひゃあひゃあと息の抜けた声で笑い続けた。
 心の底からおかしげに。

 戦場から離脱した後、彼と彼の一族は縁故を頼って西に逃げた。
 だが、敵の追撃は執拗だった。
 包囲され、ついに逃げ場を失った彼は、寄宿していた寺に自ら火を放つと、一族郎党もろともに自害して果てた。
 腹に短刀を突き立てたときも、彼の顔には、なんともいえない皮肉な微笑みが浮かんでいた。

 あの時、雨さえ……

 天王山麓の寺で切腹し、己の血だまりの中に倒れた武田勝頼の顔には、安らかともとれるかすかな笑みがあった。いまわのきわの白昼夢を愉しむがごとく。
(完)
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