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1話

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 君に愛されたくて苦しかった。目が合うとそっぽを向かれて辛かった。
 俺を愛していないなら、愛することが出来ないなら、なぜ俺と生涯を共にすることを誓った?

 きっとどうしようもなかった。

 彼の愛する人を守るためには、俺と結婚するしかなかったんだ。

 その代償が今ここに。
 俺は彼に愛されることは一生ないのに、俺は彼に愛されたくて仕方ないのだ。
 きっとこれは神様が俺に与えた試練。

 試練の中、俺は頑張った。

 少しでも彼に見てもらいたくて、苦手な料理を頑張った。掃除もした。最初は目も当てられないほどの出来だったと思う。それでも彼に褒められたくて、「美味しい」の一言が欲しくて。

 でも彼は1度も言ってはくれなかった。

 どうしても言って欲しくて、「美味しい?」と彼に聞いたことがあった。俺はその瞬間の彼の顔を忘れない。

 今まで見たこともないような顔。冷たい目をして俺を見ていたのだ。眉間にシワがよっていて、彼が不機嫌なのは嫌でも分かった。それ以来、ご飯を一緒に食べても会話をしなくなった。
 そしてその出来事は、忘れたくても忘れられない思い出になった。

 彼と俺に会話らしい会話なんてものは存在しない。「おはよう」も「おやすみ」も「おかえり」も。俺が一方的に彼に言っているだけ。彼から返事が帰ってきたことは1度もない。
 そう、俺は愛する人から「おはよう」すら言って貰えないのだ。




 ねぇ神様。俺さぁ、今まで頑張ったよね?「彼に愛されたい」その一心でよく頑張ったよ。でもさ、でも、もう終わりでいいと思うんだ。

 3日前に街で見かけた彼。俺はスーパーの帰り道だった。彼に作る料理のために買い出しに行っていた。

 彼の隣には、彼の最愛の人と思われる華奢で可愛い女性。ゆるく巻かれたロングヘアがよく似合っていたのを覚えている。
 彼と彼女は笑っていた。腕を組みながら、楽しそうに。

 その時わかってしまった。

 ー俺じゃ彼の笑顔は見れないんだ。

 笑顔だけじゃない。彼から楽しそうな声も、嬉しそうな声も、愛おしそうに名前を呼ぶ声すらも聞くことは出来ないんだ。

 だから俺は限界なのだ。

 この3日間いつも以上に頑張った。料理も彼の好きな物しか出さなかった。掃除をしていく中で、少しずつ自分の私物を減らしていった。彼はきっと気づいてはいないけど。

 俺は、彼のことが好きで好きで、好きで仕方ないのだ。好きすぎて辛いのだ。だからこそ彼から離れなきゃいけない。
 彼のことをこれ以上好きになる前に、彼から離れられなくなる前に彼の元から去ることにした。

 彼が俺と結婚したのは、彼の家の会社が俺の父親の子会社だったからだ。会社のパーティーに来ていた彼に、俺が一目惚れしたのを父親にバレたのだ。そっからトントン拍子に結婚の話は進んで行った。

 〝息子と結婚したら援助をしよう〟

その一言で。

その一言で結婚が決まってしまった。彼に申し訳がなかった。彼には好きな人がいて、その人と付き合っているのに。俺が彼をお金で奪ってしまったんだ。

だから3日前から、離婚してここを出ていこうと思っていた。

心配しなくても、俺と彼が離婚しても彼の家には援助する。今までと一緒。

ただ俺がいないだけ。

きっと彼は喜ぶだろう。家を今まで通り援助して貰える上に、最愛のあの女性と結婚できるのだから。


今までありがとう。彼のそばにいれたことが俺にとっての幸せだ。心からそう思う。


出ていく準備をした俺と彼の家に、俺の私物はもうない。

俺はそっと指に手を当てた。冷たく硬いものを指から外す。彼がつけているとこを見たことはない、お揃いの結婚指輪を離婚届と共にテーブルに置いた。
〝離婚届〟の文字の横に指輪が、置いてあるのがなんとも心苦しい。



「俺も彼女みたいに、彼に愛されたかったなぁ。」



ガランとした部屋を見渡しながら出た言葉は、紛れもなく俺の願いだった。

ただ1つの。ただひとつの俺の願い。
彼には届かない。届いても叶うことはないこの願いは、ガランとした部屋に響いた。

ーさよなら、俺の愛する人。

今までありがとう。そして今までごめんなさい。

彼と一緒に入れた半年間。夜を共にすることは1度もなかったけど、彼と食べるご飯は会話がなくても美味しかった。

「おはよう」も「おやすみ」も「おかえり」も。俺が一方的に彼に言っているだけ。彼から返事が帰ってきたことは1度もない。
でも、それでも、彼に話しかけれるその時間が、俺にとっての唯一の幸せな時間だったんだ。


スゥっと息を吸う。彼との時間。そして息を吐く。彼との思い出。

俺はここに置いていく。

自分の荷物をまとめたバッグとキャリーケースはパンパンだ。きっと疲れるだろうな。
俺は履きなれた靴を履いて外に出た。
鍵を持つ手は震えていて頼りない。

「…」

言葉は出ない。ただ震えるだけのこの時間が永遠に感じる。一息ついて、手を回す。ガチャンと音になった扉は、もう一度回さないと開くことは無い。
そして俺も、閉じた扉の向こうを見ることはもうないだろう。





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