農業女子はじめました

夏木

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第25話 独り立ちしようとしたのになぁ

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 雑草を抜いて、肥料を与える。それに加えて、稲の生長に合わせ、田んぼの中の水を抜く。

 これを「中干し」と呼び、真夏に行われる。田んぼの水を抜いて、しばらく経つと地面にヒビが入る。こうすることによって、土の中の不要なガスを抜き、根を強く張らせることができる。また、地面が固くなることで、刈り取る際の効率も上がり、一石二鳥である。しかし、メリットだけあるわけではない。長期間干していると、地面がガチガチに固くなってしまい、逆に稲に悪影響となってしまうというリスクがある。どの程度まで中干しをしたらいいのか、それを見極めることは、長年農家をやっている賢治にはお茶の子さいさいであった。


「地面が白くなるまで乾かしたらダメだ。まだ、完全に水を抜くわけじゃないしな。稲刈るときには水を抜くけどな」


 毎朝恒例の田んぼの見回り。それをしつつ、賢治から教えてもらい、新しい知識をどんどん身につける。
 どんな些細なことであっても、それが後に大きな結果をもたらすかもしれない。
 手袋をしているとは言え、泥だらけの手でメモを残すことはできないので、ポイントとなることは毎日帰ってからノートに書き込んでいる。


「今朝やってた天気予報じゃ、今週は天気がいいから、二日間水を止めればいいだろう。美奈子はもう田んぼの位置は覚えたか?」


 都会で七年ほど勤めていた会社を辞め、冬の田起こしから農家として働き、早くも半年が経過している。始めは美奈子が行う農作業のほとんどを賢治が監督していたが、ここ最近は一緒に田んぼへ来ているが、それぞれが作業に徹している。それは美奈子が独り立ちの準備をしているようでもあった。

 田起こしや、代かき、田植えで全ての田んぼを一通り回っているので、どこが自分の家の所有している田んぼなのかやっと分かってきたところだった。


「なんとなくわかってるよ。なんとなくだけど。でもどうして?」

「そろそろ田んぼの見回りぐらい、一人でやってもいいだろ? 手分けした方が効率がいい」

「確かに」


 ずっと二人で田んぼを見て回っていた。
 見て回る以外に仕事はあまりないので、晴美は家事をしたり、組合で必要な書類を用意したりする事務手続きをやっていた。

 実質外での作業は、今は美奈子と賢治でやりくりしている。
 二人一緒だと、一日では全ての田んぼを見て回ることができない。全ての田んぼを見るのに、四日はかかっている。もし、分担して見回りをすれば、かかる日数が大分減るだろう。


「明日は中干ししたままだから、明後日からは一人で田んぼを見てこい。俺が北側の田んぼを見るから、美奈子は南だ」


 どこまでが北で、どこから南の田んぼなのかというのは、特に決まっているわけじゃない。何となくこの辺りは北の田んぼかなと、ふわっとした区切りでやっていた。所有する田んぼの中で、南に位置しているのはあそこらへんかなと考える。田んぼの広さで言えば、北の田んぼよりも狭い。賢治はそれをわかっていて、美奈子に南の田んぼを託した。

 こうして稲刈りまでの期間、美奈子の一人での作業が始まった。


「日干ししたら、肥料もやらねぇといけねぇんだ。穂肥《ほごえ》つって、穂によく栄養がいくためにやることだ」


 真夏の農作業。再び熱中症になっては困るので、朝しか農作業をしない。なので朝に、やることを説明していると、時間がなくなってしまう。だから作業の説明は、前日の夜に行っていた。


「穂のための肥料っと……」


 手元のノートに「穂肥」についてメモをする。


「穂が出る前にまくんだ。そうすることで穂が出たときに、よく栄養がいく。穂の一つ一つが大きくよくなる」

「中身スカスカの穂が出来てもダメだ……ってこと?」

「そういうこった」


 専門的な知識のない美奈子にもわかりやすく、言葉を選んで説明をする賢治は、湯飲みにつがれた熱い緑茶を口にする。


「植物に必要な栄養素、知ってるか?」

「へ?」


 米についてというよりも、さらに広い植物についての質問に答えられず、首をかしげる。


「知らない。肥料は肥料でしょ? それをあげればいいんじゃないの?」

「その肥料に何が入ってんだ、って話だ」

「……栄養」

「授業でやっただろ? 窒素、リン、カリって。そいつらが絶妙なバランスで配合された肥料をまく。どれかが多すぎても少なすぎてもダメ」


 義務教育で学ぶ知識ではあったが、使うことがなかった知識。言われてみれば、学校のテストで出た気がする。


「前みたいに、田んぼの中に入って撒こうとするなよ? そんなことしたら、稲の根が傷む。畔から撒け」

「畔からね、オッケー」


 何をするかを理解した美奈子。
 翌朝、早速言われたとおりに穂肥を使用としたときに驚きの光景を目の当たりにした。


「……え、嘘?」


 順調に育ってきた稲。昨日までは一面緑色だったが、今朝は違った。
 細く、ガタガタの整備されていない田んぼ道の隣。緑の稲の上に一台の黒い軽自動車がすっぽり落ちてしまっていた。

 美奈子はおそるおそるその車へ近づく。
 初めは片側前輪だけ落ち、どうにかして田んぼ道に戻ろうとしたのか、七メートルほど田んぼの中を走ったタイヤの跡が残っている。

 その跡は、稲を踏み潰して進んでおり、稲は根元の方から折れてしまっている。
 どうあがいても車は田んぼから出ることが出来なかったようで、田んぼの中に置き去りにされていた。

 まさか車が田んぼに落ちているとは思わない。穂肥の肥料を撒くよう言われていただけなので、こういうときにどうするか分かるわけがない。
 肥料を片手に呆然と立ち尽くす美奈子。


「あのぅ……こちらの田んぼの持ち主の方でしょうか……?」

「あ、はい。一応そんな感じです」


 どこからか現れ、美奈子の後ろからビクビクしながら声をかけてきたのは、若い女性だった。
 真っ黒な髪に、化粧気がなく幼い顔。その目元には、うっすらとクマが見える。美奈子よりも若いが、二十歳は過ぎているようだった。

 若い女性は、美奈子の返事を聞き、ものすごい勢いで頭を下げた。


「たいっへん、申し訳ありませんでした!」


 先ほどの弱々しい声と裏腹に、大きな声で謝罪をする女性。
 どうやらこの女性が、目の前にある車の所有者であることがわかる。


「夜勤明けで帰宅する際、道から落ちてしまって……慌てて出ようとしたら、出られなくて。あの、ほんと、すみません!」


 ずっと頭を下げたままの女性。
 言葉をかけようにも、問題ないと言うべきか、何を言うべきか思いつかない。
 そろっと目の前の女性から、田んぼの中の車に視線を移す。よく見ると車には緑色の初心者マークがついていた。


「その、私、事故とかどうしたらいいか分かんなくて。どこに連絡するのかも……えと、私はどうしたら……?」

「そうですね……とりあえず、うちの父に連絡してもいいですか? 私じゃちょっと分からないので……」

「はい、もちろんです」


 お互いにこのような車が田んぼに落ちてしまう経験がないので、頼りは賢治だった。
 賢治もこの場から離れた北の田んぼで肥料を撒いているはず。分からなかったら放置しないで、すぐに聞くようにしているので、賢治はいつでも連絡がとれるよう携帯電話を持っている。
 案の定、賢治への電話はツーコール目で繋がった。


『なんだ?』

「あ、もしもし、お父さん? 実は……」


 美奈子は、目の前のことを細かく伝える。


『そうか、わかった。すぐ行く』


 美奈子一人では、田んぼ内に落ちた車を適切に処理することが出来ないと判断した賢治は、短い返事を返し、電話を切った。


「今から、私のお父さんが来るんで、待っててもらえますか?」

「はい」


 今にも泣き出しそうな女性は、小さく返事をした。
 電話をしてから五分。賢治は軽トラックで美奈子たちの所へやってきた。


「こりゃ……出られそうにもねぇな。完全に落ちてらぁ。上から吊って出すしか」


 車の様子を見た賢治は、ボソボソと言う。


「いつ落ちたんだ?」

「く、九時すぎです……どうにかしようとあがいたんですけど、余計に悪化してしまって……」


 今の時刻は九時半。まだこの車は落ちてから時間が経っていなかった。
 女性の言葉と、現状から状況を理解した賢治は的確に指示を出す。


「まずは警察に連絡だ。あと車の保険会社。俺が警察にかけるから、あんたは保険会社に連絡してくれ」

「は、はいっ」


 女性は慌ててスマートフォンを取り出して操作し始める。どうやら、インターネットで保険会社の電話番号を調べるようで、画面に触れる指は震えていた。

 二人がそれぞれ連絡をし、先に現場に来たのは警察だった。
 どんな状況で、車が落ちてしまったのかを説明する女性。不安そうに話す女性の隣で美奈子と賢治も話を聞く。
 警察が帰る際には、保険会社が手配したレッカー車が到着した。


「本当に申し訳ありません!」


 レッカー車で車を引き上げる間、女性は何度も何度も謝罪を繰り返した。本気で謝る女性を見ていると、美奈子は自分が悪いことをしているような気分になってくる。
 美奈子は助けを求めるように賢治を見ると、賢治はいつもの変わらない表情で、つり上げられた車を見ていた。


「ここの稲、もう実らなくなってしまうんですよね? 弁償します」

「いや、それは不要だ。見たところ、車からオイルが漏れたり、ガラスが飛び散ったりしたわけじゃないし、損害は大したことない。うちに賠償金払おうとするなら、その金を車の修繕費にでも使ってくれ。そこそこ金がかかるだろう?」


 つり上げられた車の下側から見える緑色。それは稲の葉や茎であった。また、水を含んだ茶色い土がこびりついている。

 自走できるのかどうかわからないが、必要に応じて部品交換などもしなければならない。それには費用もかかる。車の修繕費に加え、稲の賠償するとなると、ただでさえショックが大きい運転初心者の彼女の心と財布を痛めつけることになる。

 稲がダメになってしまった部分は、決して広くない。この面積分の収穫量が減っても、微々たるレベルのようである。
 だが収穫量などわからない彼女は、賢治の言葉を聞いても受け入れることができず、「お支払いします」と何度も言い続けていた。


「構わん。どうしてもっていうなら、店でうちの米を買ってくれ」

「は、はい! もちろんです……! もう一生買い続けます」


 女性はこぼれ落ちる涙をぬぐいながら、頷いた。


「車の移動、終わりました。運転手さん、助手席に乗っていただけますか?」


 レッカー車に車を積み終え、女性に乗るように促す。
 女性は最後に深く頭を下げ、破損した車と共に去って行った。
 車が見えなくなるまで見送ったのち、ダメになってしまった稲と賢治を交互に見る。


「よかったの? お父さん」


 大事な商品となる稲を一部なくしたが、相手を咎めることも、一円とも費用を請求することもしなかった。
 それで本当によかったのかと、賢治に問いかける。


「そんなもんだろ。何年かに一度、田んぼに落ちるやつはいるしな。起きたものはしょうがない」

「そりゃそうだけどさ……でも、手塩にかけて育ててきたものがダメになるって悲しいなぁ……」


 春の種まきから灼熱地獄で除草剤を撒き、こまめに水量を調節して育て、秋の収穫まであと少しというところまで来ていた。

 故意でやったことではないにしても、稲がダメになってしまったことは悲しい。
 美奈子は膝を抱えてしゃがみ込んだ。


「どんな人でも事故は起きる。俺だって、田んぼ道を車で走ってたら、田んぼに落ちないって確信は出来ない。ならば事故を起こさないためにどうするか、事故を起こしてしまったら、そこからどうするかだろ?」

「どうする、ねぇ……起きたことは戻せないもんね」

「ああ、そうだ。まあ俺は、わざわざこの田んぼ道を走ろうとするやつは、馬鹿だと思ってるけどな」

「え?」


 今まで車を落としてしまった女性を擁護するような発言をしていたのに、急に手のひらを返す発言をする賢治に驚き、目の前の田んぼから、賢治へ視線を向ける。


「何だ? この道は、農家の人たちが金を払って作った道だし、農家のための道だ。ただの普通の人の近道な訳ないだろ。公道じゃねえんだ」

「へぇー」

「この道に入れないように柵を付けたって問題ないんだ。今は誰でも通れるようにしてあるが、何があっても自己責任。ああやって田んぼに落ちるんだから、遠回りしてでも安全な道を行くべきだ」

「私も、この道は怖いなぁ……落っこちそう」


 直角に曲がらなくてはいけない田んぼ道。よそ見をすれば、田んぼに落ちてしまうほどの細い道。
 結局一度も田んぼ道を車で走る練習をしていない美奈子は、田んぼに落ちた車を見て、自分の運転技術ではこの道を走ることは無理だと感じた。


「いや、美奈子にもそのうち練習してもらうけどな」

「はい? 無理すぎる……」

「何事も練習だ。さて、肥料は撒き終わってるのか?」


 話はこれでおしまいだ、と言わんばかりに軽トラックの荷台から肥料を取り出す賢治。
 まだ何も仕事をしていない美奈子は、慌てて立ち上がる。


「なんだ、まだなのか。どうやら今日も二人でやる羽目になるみたいだな」

「すんません……」


 初めて一人で作業を頑張るぞと気合いを入れたが、出鼻をくじかれた。
 美奈子と賢治は二人で肥料を撒く。
 今日は仕方ない、だから次こそ一人で頑張ろうと決めた美奈子だった。
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