農業女子はじめました

夏木

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第17話 達成感とご褒美が待っていた

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 ゴールデンウィークが近づく四月の第三週、第四週目の土曜日と日曜日。適度に休憩をとりながらも朝から夕方まで時間を使うことで、種まきを終えることができた。
 動けば体が痛む。だからと言って、もう農業をやりたくないという気持ちはない。体は辛くても、精神面では元気だった。セクハラ上司もいなければ、仕事を押しつけられることもない。
 冬の田起こしから米作りを始めて、たった数ヶ月。まだまだ秋の収穫までは程遠いが、大切なステップである種まきを終えたという達成感がとても気持ちがよかった。
 それは匠も同じようで、顔には汗がにじんでいるが、まっすぐな目で並べ終えた育苗箱を見ていた。

 苗代田から歩いて家へ戻ると、先に戻っていた晴美が美奈子たちを待ち構えていた。
 すでに汚れた作業着から着替え、七分丈のシャツにデニムのパンツを履いている。
 笑顔で迎える晴美が、どこか不気味で一瞬美奈子は後ずさりした。


「な、何よ……?」

「やあーねぇー。そんなに気張らなくてもいいじゃない! 別に変なことしないわよ」

「そう言っても、なんか気味悪いし」


 ニヤニヤしながら近寄ってくるので、どんどん美奈子は後ろに下がっていく。
 コンクリートの塀が美奈子の背中に当たるまで、下がったところで晴美は後ろから何かを出した。


「こーれっ! 頑張ってくれたから、二人にプレゼント!」


 晴美は美奈子の手に何かを握らせる。


「何これ? ……チケット?」


 手を開いて見てみると、二枚のチケットがあった。
 それは隣の県にある水族館のチケットで、本来なら大人一人の入館料でも二千円以上するが、このチケットは日付指定されていない入館チケットだった。つまり、受付時にこれを提示すれば入館無料になる。


「どうしたの? これ……」


 隣の県の水族館になんて、小学生以来行ったことがない。チケット自体、水族館で買うものだと思ってたし、晴美がわざわざ水族館まで行って買ってくるとは思えなかった。


「スーパーの懸賞で当たったのよ。本当は五千円分こ商品券がほしかったんだけど、それが当たっちゃって。ほら、お父さんは人混み嫌いだから、絶対行かないでしょう?」


 美奈子も匠もなるほどなと思った。
 市内に数店舗しかない小さなチェーン店のスーパーは、多くの地元民が使っている。度々購入レシートで応募できるキャンペーンをやっていたのは美奈子も匠も知っていた。
 まさか商品券ではなかったが、水族館の無料チケットが当たっただけでも、かなり運がいい。
 晴美は出かけることが好きだが、賢治はそうでもない。わざわざ並んだり、混んでいる場所へ行くことは絶対にしない。
 美奈子はそれがわかっていた。


「お父さんが行かないなら、お母さんも行かないし、二人で行って来なさいな」

 二人で、ということはデートではないか。
 今更それに気付き、美奈子の心臓はうるさいほどにバクバクと音を立てる。


「お。懐かしいな、その水族館。小学校の遠足以来じゃないか?」

「そ、そうだったっけ?」

「ハッキリとは覚えてないけど、行ったことは確かだよ。あれからリニューアルしたらしい」


 美奈子たちが小学生のとき、といえばもう二十年近く前のことだ。どんな作りだったか、どんな生き物がいたのか覚えていない。


「種まきが終わったら、時間にも余裕ができるし、行ってきなさいね」


 ニコニコと笑う晴美は、そのまま家の中へと足を進める。


「ありがとうございます。時間合わせて、行ってきますね」


 晴美が見ている訳でもないのに、礼儀正しく、頭を下げて感謝を伝える匠。
 自分は水族館デートに緊張しているのに、この男はそんなことを何一つ感じていないのかと、匠に対して少し腹が立った。


「いつが空いてる?」


 美奈子の苛立ちを知ることのない匠の問い。


「次の作業が何なのか知らないから、わかんないなぁ」

「それもそうだな。まずはお父さんに確認してからだな。俺は土日なら問題ないから、都合のいい日があったら教えてくれ」

「うん、わかった」


 後で賢治に予定を確認しなくては、出かける予定を立てることができない。
 忘れないうちに聞いておかなければと、脳内のやることリストに加えた。


「種まきも終わったし、俺は帰るわ。二人によろしく伝えといて」


 今日の農作業は終わりである。やることはもう他にないので、匠は踏み出す。


「お疲れ様! 今日はありがとう……またね」

「おう、またな」


 高校生以来、「またね」と言った気がした。
 その言葉は、「また後で会おうね」という約束でもある。
 今まで何も感じていなかったが、また会えると思うと心が弾んだ。


「うーっんと! お風呂はーいろ」


 チケットを握ったまま、大きく息を吸い込みながら体をグッと伸ばした。
 体のあちこちが痛むが、気持ちは晴れ晴れとしている。
 長い種まきでかいた汗を流そうと、軽い足取りで家の中へと入った。
 泥だらけの作業着を脱ぐ。汚れの分だけ、自分が働いたことを表している。
 都会では土で汚れることもなかった。人工的に作られたコンクリートの中での生活では、土に触れる機会すらない。

 土の汚れが数ヶ月前の自分とは違うのだと思わせてくれる。
 浴室の鏡に映った自分。夜遅くまで働き、朝早く起きて会社へ行っていた時とは違い、化粧気のない顔。だが、目の下のクマはなく、自分でもわかるくらい顔色がよくなった。


「よしっ」


 これからも頑張るぞ、という気持ちで両頬を叩く。美奈子の目には力強い意思があった。

 全身を綺麗にし、自室へ戻った美奈子はふと思い出す。
 今後の米作りの予定を聞くこともそうだが、水族館へ行くのに何を着ていこうかということを。
 もうすぐ三十路だというのに、服装に頭を悩ませた。
 クローゼットを開け、ハンガーに掛けられた洋服たちを見て悩んでいると、廊下を歩く足音が聞こえた。
 建てられてから半世紀が経っている美奈子の家。足音もよく響く。美奈子と両親の三人暮らしなので、その足音が誰のものなのかまで容易にわかる。


「お父さん」


 自室の扉を開けて、廊下を歩いていた人物――賢治を呼んだ。


「なんだ?」

「このあとの農作業って、いつ何をやるの?」


 賢治はまさに汚れたつなぎを脱いで、着替えたところであった。賢治の手にはそのつなぎがある。


「そうだな……しばらく苗を確認しつつ、育てる。苗が育ったらビニールを剥がす。頃合いを見て田植えだな。それまでに代かきもするが」

「代かきはいつ?」

「まだいいだろう」


 具体的にいつという答えがあれば、この先の予定も立てやすかったのだが、期待した答えは得られなかった。


「じゃあ、時間に余裕ができるのっていつ?」


 今一番に知りたいのは、いつが休日になるのか。
 余裕がある日でないと、出かけることもままならない。


「……夏、だな」

「夏って……まだまだ先じゃん!」

「先だな」

「先かぁ……」


 驚きのせいで美奈子は、賢治の言葉をオウム返ししてしまう。
 これでは水族館に行くのはかなり先であり、春服よりも夏服を着ることになる。服装を考えることはまだしばらく経ってからだな、と考えることをやめた。


「美奈子」


 美奈子が部屋にこもるために扉を閉めようとしたとき、賢治に止められた。


「何?」


 お疲れと言われるのか、それとも浮かれるなと怒られるのか。一体何を言われるのかとドキドキしつつ賢治の方へ顔を向ける。


「明後日。朝七時から用水路の掃除。人手が足らないから参加しろ」

「うえ……」

「伝えたからな」


 次の作業は、掃除。
 その日までに体が完全に回復するとは思えない。
 思わず美奈子の顔は引きつった。
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