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冬
第4話 農業始める準備が必要でした
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父のお見舞いを終え、翌日実家でくつろいだ後、そそくさと新幹線に乗って都会へと戻った。自然が少なく、コンクリートだらけの都会に戻ってきた時の感想は「空気が汚い」だった。この空気が汚れた中での生活は、もうすぐ終わる。そう思い、アパートへと帰る。そして、翌日には再び会社へ向かった。いつもなら目の下に出来たクマを化粧でなんとか隠し、死にそうな顔で仕事をしていたが、今日は違う。まず実家でリフレッシュしたので、クマがない。さらに、すでに意思を固めた美奈子の表情は明るく、行動が早かった。
「おはようございます、部長。突然ですが、私、今日で仕事辞めます」
「ええっ!? いきなりどうしたの?」
美奈子は朝一番に、大嫌いなセクハラ部長へ退職を伝える。
すっとんきょうな声を出して驚く部長だが、他の社員はそれを気にすることなくパソコンへ向かい、黙々と仕事を続けている。
「辞められたら困るよー。うちの有力な社員がいなくなったら、仕事が回らなくなっちゃうよ。うちは辞めるのは二ヶ月前に言ってからって決まってるし。それにここの華がなくなっちゃうし。私の憩いの君がいなくなるのは……」
最早部長の言葉の後半はセクハラである。
この言葉に鳥肌が立った美奈子は、自らの腕を服の上からさすった。こんな上司のせいで、全身に鳥肌が立つのはこれで最後。今日こそは言ってやろうと、一度息を吐いてから口を開いた。
「私、もう無理なんです! 部長のセクハラにも、理不尽に押しつけられた仕事を続けるのも! 部長が辞めさせないと言うのなら、社長に直訴しますので! 部長が今までやってきたこと、ここに証拠が残っているので、全部言います!」
「そ、そんな……」
ドンっとデスクを叩き、USBをちらつかせると、部長はしどろもどろな動きを見せる。今までの気持ち悪いメールの記録は残っている。それに、辞めていった女性社員から、ボイスレコーダーに録音された数々のセクハラ発言のデータを、別れ際にもらっている。それだけでセクハラの証拠としては充分であった。もう一押しでいけると思った美奈子は、とどめをさした。
「いいですよね!? 今までの人たちだって、みんな急に辞めてましたし。私、明日からはもう来ませんので。今まで、ありがとうございました!」
退職届は帰省中に用意した。
それを部長のデスクに置き、その場を離れる。
大きな声を出したため、何事かと手を止めて美奈子を見る社員が数人いた。長年勤めている社員ほど、このような光景を見慣れているため、見ているのは若い社員だけだった。だが、今日でこの会社からはおさらばだと思えば、そのような視線を浴びてもどうでもよく感じていた。
「――……で、美奈子は今までやってた仕事を辞めてきたわけ?」
今は全ての荷物をまとめて、再び実家へと帰ってきた。
以前と同じように駅まで母の車で迎えに来てもらい、退職に至った経緯を話す。
運転しながらも母は真剣に話を聞いていた。
「そうよ! もう本当、あり得ないでしょう!? セクハラを訴えたら勝てるぐらい!」
「あんたがそれでいいと思うなら、お母さんは何も言わないよ。ただし、働かざるもの食うべからず。しっかりうちで働いてもらうからね。あとは兼業農家として、こっちでの仕事も探しなさいね」
「わかーってる。やるよ」
「農家も仕事もやって、その次ぐらいには、お婿さんでも探さないとね。農家を継いでもらわないとだし」
「私が継ぐのはいいけど、婿はいなさそう……」
「そんなことないわよ。狙うなら長男以外ね。次男、三男あたりがいいと思うわ。農家も結婚も頑張ってもらうわよ!」
「あはは……」
今まで恋愛経験がなく、付き合った人すらいない美奈子は、結婚という縁遠い言葉に苦笑いしかできなかった。
☆
都会から田舎へUターンしてから数日間はまだ休んでいていいと母に言われ、自分の部屋にこもっていた。
テレビも冷暖房がある部屋は快適で、お昼まで眠る日が二日続いた。化粧もせず、ラフな姿で一日中自由に過ごせるだけで、心も体もリラックスできている。
実家に戻ってきてから三日目。ダラダラとふかふかのベッドで横になり、昔買っていた少女マンガを読んでいた。だがふと気になって、スマートフォンのトークアプリを確認する。久しく使っていないアプリだったが、新着メッセージが昨日届いていた。
誰からだろうと相手の名前を見る。
「あっ、たっくんじゃん! 懐かしー!」
相手の名前は山崎匠。美奈子の幼なじみであり、保育園から高校まで同じところへ通っていた。
高校卒業後、成人式で一度会ったほどで、しばらく顔を見ておらず、連絡すらしていない相手である。
「ん? でも何の用が……?」
懐かしい人ではあるが、美奈子からは用事もない。なぜ連絡してきたのか分からないが、取り敢えず内容を見てみることにした。
『お前、仕事辞めてこっちに戻ってきたんだって? 飯どう?』
「なんで知ってるんだろう……?」
まだ戻ってきて二日しか経っていない。
どこから自分のことが知れ渡ったのかと、考える。
「あ。あー……」
その答えは三秒で出た。
戻ってきたことを知っているのは母の晴美のみ。賢治にはお見舞いに行った晴美が伝えているかもしれないが、あまり喋るような人手はない。おしゃべり好きな晴美が、どこかで誰かに言ったのだろうと容易に推測できる。
田舎の住民は、近所との交友も多く、情報伝達が早い。
誰の子供がどこの学校へ行って今はどんな職業に就いた、誰が何で亡くなった、誰の家で犬を飼っている、そんな細かい情報まですぐに広まる。
何やともあれ、連絡をしてきた匠に返事をしなければならない。
「まだそんな気分でもないしな……」
まだ家でのんびりしていたい美奈子は、『また後でね』とだけ返信をし、飲み物を探しに台所へと向かった。
「あ、ちょうどよかったわ。美奈子、車の免許はオートマ限定でしょ?」
台所にある食卓で、母が何やら紙を広げていた。
「うん。そうだけど?」
大学時代にとったオートマ限定の自動車普通免許は、就職してから全く使うことがなかった。移動は電車が多かったからだ。仮に乗ったとしても、タクシーかバス。もう何年も運転していないため、無事故無違反の免許証は身分証明書代わりにしかなっていない。
「まずは限定解除と、あと大型特殊ね!」
「え?」
「お母さんの車はオートマだけど、マニュアルの軽トラも、大型特殊のトラクターもコンバインも乗るでしょう? 免許とらなきゃ」
広げられていた紙は、教習所のチラシだった。
美奈子の家にあるトラクターやコンバインは大型特殊の免許が必要である。私有地、つまり庭や田んぼの中だけを走るのなら免許は必要ないが、自宅から田んぼまでの道を走るためには必要である。
田植え機もあるが、こちらは小型特殊免許で問題ない。今の美奈子の普通免許では、この田植え機しか乗ることが出来ない。
「まずは限定解除ね! これはすぐに出来るでしょう? そうしたら大型特殊にするから! あ、お金はお母さんが出すから大丈夫」
確かに家を継ぐとは言ったが、母の行動の早さに驚いた。
そして、自分の運転技術が不安になる。
「お母さんでもマニュアル運転できるんだから、あんたにも出来るわよ!」
「もう、ペーパー歴十年になるんだけど? ペーパーを舐めちゃダメだって」
「そんなこと言ってられないでしょ! 田舎じゃ車がないと生きていけないわよ。都会と違ってバスもないんだから。いつまでも自転車に乗ってるのは、九十歳過ぎた中野さんだけよ」
「中野さん、まだ健在だったんだ」
「中野さん、今朝も自転車に乗っていたわ。ほんと、元気よねぇ」
美奈子が小さい頃から、中野さんと呼ばれる老婆は自転車に乗って買い物へ行ったり、田畑の世話をしていた。美奈子が直接会話する機会はなかったが、名前ぐらいは知っている。
「車がないとやっていけないのは分かってるんだけどねぇ……あれ、アクセルって右だっけ、左だっけ?」
「……あんたが本当に免許持ってるのか不安になったわ」
「ペーパーだもん」
農業を始めるまで、まだステップを踏む必要があった。
「おはようございます、部長。突然ですが、私、今日で仕事辞めます」
「ええっ!? いきなりどうしたの?」
美奈子は朝一番に、大嫌いなセクハラ部長へ退職を伝える。
すっとんきょうな声を出して驚く部長だが、他の社員はそれを気にすることなくパソコンへ向かい、黙々と仕事を続けている。
「辞められたら困るよー。うちの有力な社員がいなくなったら、仕事が回らなくなっちゃうよ。うちは辞めるのは二ヶ月前に言ってからって決まってるし。それにここの華がなくなっちゃうし。私の憩いの君がいなくなるのは……」
最早部長の言葉の後半はセクハラである。
この言葉に鳥肌が立った美奈子は、自らの腕を服の上からさすった。こんな上司のせいで、全身に鳥肌が立つのはこれで最後。今日こそは言ってやろうと、一度息を吐いてから口を開いた。
「私、もう無理なんです! 部長のセクハラにも、理不尽に押しつけられた仕事を続けるのも! 部長が辞めさせないと言うのなら、社長に直訴しますので! 部長が今までやってきたこと、ここに証拠が残っているので、全部言います!」
「そ、そんな……」
ドンっとデスクを叩き、USBをちらつかせると、部長はしどろもどろな動きを見せる。今までの気持ち悪いメールの記録は残っている。それに、辞めていった女性社員から、ボイスレコーダーに録音された数々のセクハラ発言のデータを、別れ際にもらっている。それだけでセクハラの証拠としては充分であった。もう一押しでいけると思った美奈子は、とどめをさした。
「いいですよね!? 今までの人たちだって、みんな急に辞めてましたし。私、明日からはもう来ませんので。今まで、ありがとうございました!」
退職届は帰省中に用意した。
それを部長のデスクに置き、その場を離れる。
大きな声を出したため、何事かと手を止めて美奈子を見る社員が数人いた。長年勤めている社員ほど、このような光景を見慣れているため、見ているのは若い社員だけだった。だが、今日でこの会社からはおさらばだと思えば、そのような視線を浴びてもどうでもよく感じていた。
「――……で、美奈子は今までやってた仕事を辞めてきたわけ?」
今は全ての荷物をまとめて、再び実家へと帰ってきた。
以前と同じように駅まで母の車で迎えに来てもらい、退職に至った経緯を話す。
運転しながらも母は真剣に話を聞いていた。
「そうよ! もう本当、あり得ないでしょう!? セクハラを訴えたら勝てるぐらい!」
「あんたがそれでいいと思うなら、お母さんは何も言わないよ。ただし、働かざるもの食うべからず。しっかりうちで働いてもらうからね。あとは兼業農家として、こっちでの仕事も探しなさいね」
「わかーってる。やるよ」
「農家も仕事もやって、その次ぐらいには、お婿さんでも探さないとね。農家を継いでもらわないとだし」
「私が継ぐのはいいけど、婿はいなさそう……」
「そんなことないわよ。狙うなら長男以外ね。次男、三男あたりがいいと思うわ。農家も結婚も頑張ってもらうわよ!」
「あはは……」
今まで恋愛経験がなく、付き合った人すらいない美奈子は、結婚という縁遠い言葉に苦笑いしかできなかった。
☆
都会から田舎へUターンしてから数日間はまだ休んでいていいと母に言われ、自分の部屋にこもっていた。
テレビも冷暖房がある部屋は快適で、お昼まで眠る日が二日続いた。化粧もせず、ラフな姿で一日中自由に過ごせるだけで、心も体もリラックスできている。
実家に戻ってきてから三日目。ダラダラとふかふかのベッドで横になり、昔買っていた少女マンガを読んでいた。だがふと気になって、スマートフォンのトークアプリを確認する。久しく使っていないアプリだったが、新着メッセージが昨日届いていた。
誰からだろうと相手の名前を見る。
「あっ、たっくんじゃん! 懐かしー!」
相手の名前は山崎匠。美奈子の幼なじみであり、保育園から高校まで同じところへ通っていた。
高校卒業後、成人式で一度会ったほどで、しばらく顔を見ておらず、連絡すらしていない相手である。
「ん? でも何の用が……?」
懐かしい人ではあるが、美奈子からは用事もない。なぜ連絡してきたのか分からないが、取り敢えず内容を見てみることにした。
『お前、仕事辞めてこっちに戻ってきたんだって? 飯どう?』
「なんで知ってるんだろう……?」
まだ戻ってきて二日しか経っていない。
どこから自分のことが知れ渡ったのかと、考える。
「あ。あー……」
その答えは三秒で出た。
戻ってきたことを知っているのは母の晴美のみ。賢治にはお見舞いに行った晴美が伝えているかもしれないが、あまり喋るような人手はない。おしゃべり好きな晴美が、どこかで誰かに言ったのだろうと容易に推測できる。
田舎の住民は、近所との交友も多く、情報伝達が早い。
誰の子供がどこの学校へ行って今はどんな職業に就いた、誰が何で亡くなった、誰の家で犬を飼っている、そんな細かい情報まですぐに広まる。
何やともあれ、連絡をしてきた匠に返事をしなければならない。
「まだそんな気分でもないしな……」
まだ家でのんびりしていたい美奈子は、『また後でね』とだけ返信をし、飲み物を探しに台所へと向かった。
「あ、ちょうどよかったわ。美奈子、車の免許はオートマ限定でしょ?」
台所にある食卓で、母が何やら紙を広げていた。
「うん。そうだけど?」
大学時代にとったオートマ限定の自動車普通免許は、就職してから全く使うことがなかった。移動は電車が多かったからだ。仮に乗ったとしても、タクシーかバス。もう何年も運転していないため、無事故無違反の免許証は身分証明書代わりにしかなっていない。
「まずは限定解除と、あと大型特殊ね!」
「え?」
「お母さんの車はオートマだけど、マニュアルの軽トラも、大型特殊のトラクターもコンバインも乗るでしょう? 免許とらなきゃ」
広げられていた紙は、教習所のチラシだった。
美奈子の家にあるトラクターやコンバインは大型特殊の免許が必要である。私有地、つまり庭や田んぼの中だけを走るのなら免許は必要ないが、自宅から田んぼまでの道を走るためには必要である。
田植え機もあるが、こちらは小型特殊免許で問題ない。今の美奈子の普通免許では、この田植え機しか乗ることが出来ない。
「まずは限定解除ね! これはすぐに出来るでしょう? そうしたら大型特殊にするから! あ、お金はお母さんが出すから大丈夫」
確かに家を継ぐとは言ったが、母の行動の早さに驚いた。
そして、自分の運転技術が不安になる。
「お母さんでもマニュアル運転できるんだから、あんたにも出来るわよ!」
「もう、ペーパー歴十年になるんだけど? ペーパーを舐めちゃダメだって」
「そんなこと言ってられないでしょ! 田舎じゃ車がないと生きていけないわよ。都会と違ってバスもないんだから。いつまでも自転車に乗ってるのは、九十歳過ぎた中野さんだけよ」
「中野さん、まだ健在だったんだ」
「中野さん、今朝も自転車に乗っていたわ。ほんと、元気よねぇ」
美奈子が小さい頃から、中野さんと呼ばれる老婆は自転車に乗って買い物へ行ったり、田畑の世話をしていた。美奈子が直接会話する機会はなかったが、名前ぐらいは知っている。
「車がないとやっていけないのは分かってるんだけどねぇ……あれ、アクセルって右だっけ、左だっけ?」
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