イージー・ゲン・ライダー

猫又

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善か悪か

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 龍司が歩き出したので俺も慌てて後を追った。公園のすぐ側の木造アパートに霧島が入って行く。昼下がりで誰もいないのが幸いだ。ナイフを持った霧島を見られたらすぐに通報されるだろう。
 子供の後から霧島は一階の一番端の部屋に入って行った。すぐに中から怒鳴り声がして、開いたドアから俺達は中をのぞき込んだ。
 派手な化粧に着飾った洋服を着た女がいた。金と男にしか興味がない下品な様子が見て取れる。女は霧島に何か怒鳴っていたが、いきなり子供の顔を叩いた。子供はうつむいて小さくなっているが泣いている様子はない。いつもの事なのだろう。泣いたり、口答えをすると余計に折檻されるので黙ってやり過ごすしかないという事を知っているようだ。
「止めないと」
 俺が中へ入って行こうとするのを龍司が止めた。
「ほら」
 女が霧島にヒステリックな金切り声を向けた。霧島は悲しそうな顔で女を見た。女はまた子供に向かって叱咤し、手を上げたのだがそれを霧島が止めた。女は霧島を振り払ってまたぎゃあぎゃあと喚いた。霧島は酷く苦しそうな表情だった。女から浴びせられる声で窒息しそうな顔をしてた。女の叫びはやむことがなく、アパート中を揺るがすような大声と汚い言葉を吐き続けた。下品な女だ。人の言葉は通じない、自分の欲望しか頭にない人間だ。こういう人間は男とか女とか種別は関係なく、みな同じ表情をしている。ただただわめき、自分以外の人間を威嚇する。
 やがてそれに耐えられなくなった霧島が甲高い声で叫び続ける女の胸にいきなりナイフを突き刺した。
「あっ」
「ひゅー、やるぅ」
 と龍司が言った。二人の様子を見ていた子供はずっと無表情だったのだが、その時だけまん丸な目を大きく見開いた。霧島ははっとした顔でナイフを引き抜いたが、恐ろしい形相の女の顔を見て、
「お、お前が悪いんだ」
 と震える声で言った。
 女、霧島の母親は小さい霧島に「早く誰か呼んできなっ」と叫んだ。子供は大きく見開いた目で女の首筋から血が流れ出るのを見ている。固まって体が動かないのだろうが、長年母親にくわえられた虐待のせいで感情がなくなっているのかもしれない。驚いたような顔をしているが、それは恐怖の為ではなく、突然現れた非日常にどう対応していいのか分からないだけだ。殴られる、蹴飛ばされる、罵倒されるのが日常だったからだ。
 霧島は血に濡れたナイフをもう一度振りかざした。元々不安定だった霧島も母親を刺した事で完全に我を失っていた。母親からの血しぶきに濡れながら、女の胸、腹の辺りを二、三度刺した。母親は壊れた人形のようにかくんと倒れた。霧島自身がわけの分からない事をつぶやきながら、倒れた母親の体の側にしゃがみこんだ。泣いているのかもしれない。
 この騒ぎにアパートの住人が誰も助けに来ないのが霧島家の嫌われ度を物語っている。
 龍司が小さい子供に向かって、
「おい、これでお前も楽になるぞ。この女は悪魔だ。お前をいじめる悪魔はもう死んだんだからな。喜べ。施設行きになるだろうが、この女といるよりはましだ」
 と言った。そしてけけけけと笑った。
 その途端、ウーウーとサイレンのような音が聞こえて来た。
「やべえ、逃げるぞ!」
 龍司は俺の腕をつかんで、そして霧島の所まで走った。サイレンの音はすぐ近くまで来ている。
「霧島、逃げんぞ!」
 龍司がそう言い、霧島の体にタックルするように飛びついた。
 そして、次の瞬間にまた景色が変わった。

「復讐は完結した」
 と龍司が言った。霧島はびくっと体を震わせて少し顔を上げたが、またうつむいた。
 俺達はまた元のコンビニの前にいた。霧島の子分は解散したらしく誰も残っていなかった。龍司は疲れた様子で首をこきこきと鳴らした。霧島はうなだれてしまっている。その顔と体は血で赤黒く汚れていたが、もともと汚れていたトレーナーなのでそう目立ちはしない。母親を殺したという事実を実感していない様子だった。俺もそうだ。夢をみていたような気がする。リアルな映画か超怖いお化け屋敷から命からがら戻ったみたいな感じだった。
 俺は財布から小銭を出して暖かい缶コーヒーを三本買った。龍司と霧島にそれぞれ渡すと霧島はちょっと頭を下げてそれを受け取ったが血で汚れたその手はぶるぶると見て分かる程に震えていた。
「どうしてあんなに早く警察が来たんだ? 誰かが見てて通報したにしても早すぎない?」
 と俺が言うと龍司が、
「ありゃ、警察じゃない。DMSの奴らだ。あの次元ではもう完全に次元の転移が一般化されてるんだ。もちろん申請なしの転移は違法だし、一般人には夢物語に過ぎない。お偉い学者や研究者しか許されていない。けど、何にでもアンダーグラウンドはある。もの凄く高価での闇取引が存在する。だからあそこの世界はめっぽう取り締まりが厳しいんだ。違法に転移した者はセンサーにひっかっかってすぐに居場所が知れるみたいだぜ。何度か試してみたけど、すげえ厳しく張ってる。こっちのDMSなんぞは遊びみたいなもんさ」
「そういう危ない事をよく試せるな」
 俺が呆れたように言うと、
「面白いぜ。スリルとサスペンス。俺一人だと割と時間が取れるんだけどな、今日は三人一気に転移したからすぐばれたな」
 と龍司が笑って、
「霧島、今夜はお前は俺とは会わなかった。仲間と一晩中遊んでいた。いいな」
 と言った。その言葉に霧島が顔を上げた。
「どういう意味?」 
 と俺が聞くと、
「もしかしてあっちの世界から追っ手がくるかもしれないだろ。誰かに見られてたかもしれないしな。だから俺達はここで会合なんて開かなかったって事にしようぜ。これで解散だ。いい事した日はよく眠れるぞ」
 と答えた。
「いい事って……」
 龍司は俺をまじまじと見て、
「いい事だろうが。これであの世界の霧島は施設行きになって、少しはまともな飯が食えるようになる。学校へも行けるし、将来はこんな繁華街の落ちぶれたチーマーじゃなく、サラリーマンになれるんだぜ。彼女も出来て、結婚もする。ローンを組んで一軒家を購入するかもしれない、な、あの女に飼い殺しにされるよりよっぽどましさ」
 と楽しそうに言った。まあ、そうかもしれない。霧島もきっとそう思ったんだろう、顔を上げて少しほっとしたような顔をしている。
 夜が明けてきていた。辺りはすっかり白くなり、新聞配達のバイクが道路を走って行った。
「帰ろうぜ」
 と龍司が言い、俺は立ち上がった。まだ座り込んでいる霧島を置いて、俺達はコンビニを後にした。
 その夜、もうすでに朝だが、俺達は龍司の部屋に帰り着いてすぐにベッドに潜り込んだ。もう一秒も目を開けていられないほどに疲れていたので、俺は俺の世界に戻るって事すら忘れていた。龍司のベッドは広くて、俺達が二人で横になってもまだ余裕があった。俺達は双子のように寄り添って眠った。こんな風に誰かの体温を感じながら眠った記憶はほど遠く、それもそんなに幸せじゃなかった日々の中だった。
 俺は誰かが側にいると眠れない質なのだが、今夜は酷く疲れていたし、龍司の気配はとても安心するものだった。
 俺達は深く深く眠った。
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