イージー・ゲン・ライダー

猫又

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次元の壁

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 その時、がたんと音がしたんだ。
 真夜中、俺はレポートを作成している途中だった。その日は美香子さんはまだ引っ越していない様子だった。昼間に運送屋が来た気配もなく、荷物を運び出した様子もなかった。すぐにでもいなくなるようなニュアンスで言っていたわりには荷造りをしている様子もなかった。ワンルームマンションで一人暮らしとはいえ、それなりに荷物はある。冷蔵庫も洗濯機もテレビもだ。必要なら手伝おうと思って様子を見ていたのだが引っ越すのさえ冗談なのかってくらい呑気だった。
 レポートが一段落したので休憩をしようと思って俺は立ち上がった。コーヒーをいれようとしてインスタントの瓶が空っぽなのに気がついた。しょうがないので、コンビニで夜食と飲み物を買いに行こうと上着を着た。ヘルメットとバイクのキーを持って外に出る。
 美香子さんの部屋は真っ暗だった。夜はたいてい部屋にいたのに、最近は留守にする事が多くなったのは事実だから、やはり何か生活に変化があったんだろうな。
 そのまま美香子さんの部屋を通り過ぎようとした時、がたんと音がした。確かに美香子さんの部屋の中からだった。俺は携帯で時間を確かめた。夜中の十二時だ。ちなみに俺の部屋も向こう隣の部屋にも電気がついているのは反対の窓側から確認出来る。だからまさか泥棒ではないだろうと思った。こんな木造のぼろアパートではたいした物も置いて無さそうだし、住人の大半が若い男達となれば、やっぱり泥棒も敬遠するんじゃないかと思うんだ。何かが落っこちた音かもしれないな、と思ったんだが、例えば、電球が切れてそれを交換しようとした美香子さんが落っこちた、のかもしれない。
 とりあえず、俺はドアをノックした。
「美香子さん、いるの?」
 確かに誰かがいるのは間違いない。がさごそと音がしたんだ。耳をすましてみたが、それっきりシーンとなった。
「美香子さん?」
 もう一度ドアをノックした。もちろん返事はない。非常識だがドアに耳を押しつけてみた。いる。誰かいる。息を飲む音がしたからだ。
 ドアノブを握ってみた。開かないかもしれないと思ったが、ノブはまわってぎいっと音がしてドアが薄く開いた。
 びびりな俺にしては考えが足りなかったかもしれない。
 俺はドアを開けて、入ってすぐの電気のスイッチを押したんだ。無意識にヘルメットを胸の前に当てていた。防御のつもりだったんだろう。
 中に飛び込む勇気はなかったけど、ワンルームマンションなので少し首をのばせば一目で中を見渡せた。
 中には美香子さんが倒れていた。
 そしてすぐ側に美香子さんが立っていた。美香子さんはウインドブレーカーの上下を着て、室内なのにランニングシューズを履いていた。
 俺は靴を脱いで、中に走り込んだ。
「美香子さん!」
「龍司君」
 美香子さんは失敗を咎められたような顔をして俺を見た。
「見逃して」
 と美香子さんが言った。
「どういう……」
「もう行かなきゃ」
「この人、もしかして向こうの美香子さん?」
「そうよ」
「一体何だって?」
「お願い、ようやく幸せになれる道がみつかったの、龍司君さえ見逃してくれたらそれでいいの。何も問題はないわ」
「でも!」
「行かなくちゃ……さようなら、龍司君、今までありがとうね」
 美香子さんは二、三歩後ずさって俺に微笑みかけた。
 それから美香子さんの姿は突然、消えた。

 美香子さんにしてはそのつもりだったのだと思う。だが俺が伸ばした手は確実に美香子さんの腕をつかんでいた。美香子さんの体に俺も引っ張られる。それは美香子さん一人の力ではなかった。もの凄い吸引力だった。俺の体は鯉のぼりの鯉のように横になびいていたんじゃないかと思われる。今にも手が滑って離れてしまいそうだった。咄嗟のことで彼女をつかんだのは片手だったのだ。もう片方の手を伸ばしてみたそれは美香子さんに届かなかった。ジェットコースターのような風力を体に感じていたが、その力は徐々に弱まり、やがて、俺の体も地面についた。気がつくと美香子さんの腕にしがみついて膝を地面につけたままの姿勢の俺がいた。
「龍司君ったらついきちゃってどうすんの?」
 美香子さんが頬を膨らませて俺を咎めた。俺は顔を上げて辺りを見渡した。そこはやはり美香子さんの部屋だった。美香子さんから手を離して、俺は立ち上がった。見渡す限りいつもの美香子さんの部屋だった。
 だけど、たったひとつだけ今までなかった物がある。初秋なのに部屋の中にはすでに暖房器具で暖められ、ミルクだろうと思われる甘い匂いがした。その匂いの元は足下ですうすうと寝息をたてている赤ちゃんだった。
 赤ちゃんって本当に赤いんだな、と一瞬、そんな事を考えた。
 赤ん坊は真っ赤な顔で眠っている。頭にはニットの帽子を被せられていた。
 美香子さんは俺のことよりも小さい布団で眠っている赤ん坊をのぞき込んで、
「いい子だったかな? 終わったよ~。これからはママとずっと一緒だからね~」
 と優しい声で言ったのだ。
「美香子さん。こっちの世界で暮らすつもりなの? っていうか、どうしてこんな事に。誰にこの世界の事を聞いたの?」
 俺は立ったままで間抜けなことを聞いた。鷹山さんが言ってたじゃないか。首謀者は龍司。美香子さんを巻き込んだのは龍司に違いない。
「ちょっと静かにして、起きちゃうでしょ」
「あ、ごめん」
「おむつ換えようねぇ」
 美香子さんは嬉しそうに赤ちゃんの布団をまくっておむつの交換をした。赤ちゃんは驚くほどに細く小さい。美香子さんの手が肌に触れるのがくすぐったのか、足がかすかに動く。赤ん坊は生まれて初めて見る動物みたいだった。
「美香子はねぇ、病気だったの」
 と美香子さんが言った。
「病気? こっちの美香子さん?」
 美香子さんはうなずいた。
「そう、癌だったの。もう助からないわ。実際さっき死んじゃったし」
「だから入れ替わったの?」
「そうよ、こんな可愛い赤ちゃん残して死ぬなんて無念でしょ? でもあたしだったら、あたしが美香子だもん。あたしが母親よ。これで全て解決よ」
 と美香子さんは言った。
「でも……」
「あたしの赤ちゃん、死んじゃったんだ」
「え?」
 美香子さんは俺の方に向かって優しく微笑んだ。
「結婚してた頃に赤ちゃん産んだんだけど、あたしの赤ちゃん死んじゃったんだ。その時にあたしも一緒に死んだ、つもりだった。すぐにでも赤ちゃんの所に行きたかった。龍司君は死ぬ死ぬ言う奴に限って死なないって言ったけど、あたしね、本当に早く死にたかったのよ。自分じゃ死ねなかったけどね。生き残ってぐだぐだと毎日暮らしてた。何の為に生きてるんだろうってずっと思ってた。そしたら、こっちじゃ母親が死にかけてて赤ちゃんが生き残った。その話を龍司君……こっちの龍司君ね……に聞いた時、神様っているんだと思った。こっちの美香子が死にかかってるって、赤ちゃんを残して死ねないって泣いてるって。だからあたしこっちに来たの。美香子と話し合って入れ替わる事に決めたの。彼女、安心して死んだわ。龍司君の……あなたの言う通りよ、あたしにはまだやらなきゃならない事がある。この子を育てるわ」
 赤ん坊の目が覚めて、ぷぎゅうというような声を発した。
 美香子さんはすぐに立ち上がって小さいキッチンでほ乳瓶の用意を始めた。俺はぷぎゅぷぎゅと動く赤ちゃんを眺めていた。
 赤ちゃんを抱き上げて、ミルクの入ったほ乳瓶の先を口に含ませる美香子さんの仕草はとても様になっていた。
「赤ん坊と二人でここで暮らすの?」
「ええ、そうよ。貯金は全部持ってきたもの。こっちの物価じゃこの子が大きくなるまでの生活費くらいは大丈夫なくらいのお金は持ってる。この子とずっと二人で暮らせるなんて夢みたい。あたし、本当に幸せ。生きててよかった」
 美香子さんは本当に嬉しそうに笑った。それから、
「龍司君、この事他言しないでくれるでしょ?」
 と言った。
「う……うん」
「こういうの取り締まる組織があるらしくてね、こっちの龍司君に絶対に捕まるなって言われてるの。あたしはもう二度とこの世界から動いたりしないから。お願い」
「でも、元いた世界の家族や友達とももう会えなくてもいいの?」
「あら、だって同じでしょ? こちらにだってみんな存在するじゃない。平行世界なんだからすべてが同じ、ただ物価が違うだけって龍司君が言ってたわ」
「それはそうかもしれないけど」
 本当にそうだろうか?
 疑問は残るけれどよく考えてみれば、美香子さんをこの赤ん坊から引き離して、誰が得をするっていうんだ。母親を失った赤ん坊は施設行きになるだろう。俺や龍司が育ったように育つ。美香子さんはいい母親になると思う。特にいい母親でなくてもいいんだ。普通でいい、普通に子供を育てる母親でいいんだ。赤ん坊と美香子さんが一緒にして二人が幸せになるならそれが一番いい。龍司が美香子さんにこっちの世界の事を教えたのもそう思ったからだと思う。施設行きの赤ん坊は少ないほうがいいんだ。絶対、そう思ったに違いない。
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