上 下
30 / 51

第三十話

しおりを挟む
「結構ですよ。そうしてもらましょう」
 と言った声の主はなんと! 炎ちゃんだった。
「な! 炎さん!」
 誰よりも驚いていたのは静さんだった。炎ちゃんはいつだって、静さんに言う事にただうなずいているような人だったのに。静さんに逆らうような事など何一つした事はないに違いない。だからこそ静さんは驚いたのだ。
 炎ちゃんはいつもと変わりなく、穏やかな口調だった。
「それで結構ですとも。静さん。あなたが美登利さんを可愛いのと同様に、私達も桜が可愛いのです。桜を犠牲にしてまで、贅沢な暮らしをしたいとは思いません。あなた方に頂いた物はすべてお返ししますし、あの家も出て行きます」
「炎さん、よくもそんな事が言えるもんだね! あんた達一条寺家が何不自由なく暮らせたのは誰のおかげなんだい! あんたの娘が、孫が人の道に反する事をした時にだって、このあたしが口添えしてやらなけりゃあんた達一家は路頭に迷ってたじゃないか! それなのに、この恩知らずが!」
 炎ちゃんを指さして静さんは立ち上がった。かなり興奮しているみたいだ。
 だけど、炎ちゃんは静さんに優しい視線を送った。
「あなたのおっしゃる通りですよ、静さん。でも、私達の過去は過去。今の若い人達には関係のない事です」
「関係ないだって! あつかましい。桜が大学に通えるのだって私達の援助のおかげだろうよ。あの家を出て、やっていけるものならやってごらんよ!」
 だ、だから、嫌だったのよ! 
 あたしのせいで炎ちゃんは……たった一人の友達を失ってしまう。
「もう、やめて下さい……あたしは……湊さんとは……」
 言いかけたあたしを炎ちゃんが遮った。
「桜、いいのですよ。生きていればこんな事も往々にあるでしょう」
 そして、炎ちゃんは湊の方に振り返った。
「湊さん、私達はどこか遠くへ行きます。あなたの御迷惑になるような事は致しません。ただ、桜の事だけはお願いしてよろしいでしょうか」
「もちろんですよ。それにあなた方の事も……」
「いいえ。ただ、桜の事だけをお願いします」
「ええ、それはもう」
「これで安心いたしました。愛、未稀、帰りますよ。早速、荷造りをしなくちゃね」
「おばあちゃん! ったらやるじゃないの。それでこそ、一条寺家の筆頭ね」
 未稀さんが奇声を発した。愛さんはいつも通りにただにこにこと笑っている。
「炎ちゃん」
 あたしはようやく顔を上げる事ができた。
 あたしは大ばか者だ。傷つけまいとして、大勢の人を傷つけてしまった。
「桜、私達はとても幸せに生きてきました。あなたも幸せになりなさい」
 炎ちゃんはそれだけ言うと、静さんにお辞儀をした。
「炎さん、あんたは私達の七十年さえ捨てるつもりなんだね……」
「静さん、あなたには本当に感謝していますとも」
 一瞬だけ、二人の視線が絡み合った。
 未稀さんが田代一家の前につかつかと歩いて行き、
「隆次さん、お元気で。さよなら」
 とにっと笑ってそう言った。未稀さんは田代さんと別れるつもりだ! 
 田代さんは何だか悲しそうな顔をしていた。
 夫人はあっけに取られ、真弓はくやしそうな顔だった。
 ただ、真由子さんだけが、
「お元気で」
 と言った。
 あたしはどうすればいいんだろう。
 炎ちゃんと愛さんと未稀さんは最後に皆にお辞儀をすると、そろって出て行った。
「それじゃ、俺達もこれで」
 と湊が言い、あたしを連れて出て行こうとした。
「一也さん。何とも思わないのかい。美登利の事を可哀想だとか、少しも思わないのかい」
 静さんの声が追いかけてくる。
「今更善人ぶって、美登利さんにもいい人があらわれますよと言った所で、何の慰めにもならないでしょう。正直言って、俺も今は切羽詰まってますよ。あなたを敵に回してしまったんだから、今の内に備えとかないとね」
 湊がくすくすと笑った。
「そうかい、しっかり覚悟をしとくんだね」
「分かってますよ」
 そして、あたし達は松本家を後にした。

しおりを挟む

処理中です...