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後編
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東雲赤城は絶句していた。
目の前に居たのは、真っ白な髪と肌に、深紅の瞳をした──アンセラだったのだ。
彼は静かにスマートフォンをさらさらとタップし、その画面を赤城に見せる。
『やっほー』
「……」
医務棟、大和の執務室と化した診察室。
そのベッドに、E47は腰掛けていた。
「どういうことですか、大和さん!? 昨日ひとこともそんなこと言ってなかったでしょ!?」
「せ、戦利品ですよ、戦利品……! 発症状態からヒト型への可逆性のあるアンセラ。研究に役立つって言われて……」
大和に詰め寄る赤城の眼前に、横からルイスがタブレットを差し込んで視界を遮る。
「僕が欲しいな~って言ったんですよぉ。変な真似したら殺せばいいだけですから、ひとまず今は、この量産型戦闘兵器の研究をしないと」
「ルイスさん……」
ある意味名坂でもっとも容赦がなさそうな男の発言である。ルイスはそのままタブレットの角で大和の頭をごんごんと叩いてから、笑顔で書類を指差した。
「はい……」
仕事に戻れ、の圧を受けた大和は、しょげながら事務作業へと戻る。それにしてもすごい量だ。
「髪を切る暇があったらこっちの心配もしてくれ、というのはまったく同意ですねぇ。この半月、僕がどれほど苦労したか」
「あれ? 聞いてたんですか?」
「いえいえ、大和さんから聞いたんですよぉ。赤城さんに怒られたって」
言いながら、ルイスはハーフアップのブロンドを結い直す。
「時々怒ってあげてくださいね。大和さん、喜ぶので☆」
「……?」
「る……ルイスさん、余計なこと言わなくて結構ですので!」
「はぁい☆」
悪戯っぽく小さく肩を竦めてから、プラチナブロンドの悪魔はタブレットを抱えて診察室をあとにした。
「……にしても、アンセラさんが居るとは……」
「驚くのも無理はないですね。僕も反対しましたし……とりあえず彼は、S部隊の二人と共に作戦区域に同行してもらい、他のアンセラとの干渉状態をテストします。万一何かあれば、長門くんと時雨さんなら制圧可能でしょうから」
「なるほど……」
ベッドに腰掛けたままのE47は、赤城たちの会話などまるで耳に入っていない様子で医学書のひとつを手に取り、ページを捲っては顔をしかめている。
「……難しそうな本ですね……」
「そうですか? 僕は分かりやすいと思うのでここに持ってきたのですが……」
「えぇ……」
奇人変人の集う名坂支部において、大和のことはまだ常識人だと思っていたい赤城の認識は、微かに揺らぎ始めた。
やがて目の前の医師の名を呼ぶ大声が扉の向こうから響き渡り、大和はやれやれと席を立つ。
「……赤城さん。そこ離れた方がいいですよ。突っ込んできますから」
「は、はい」
□
□名坂支部 応接室
「お待たせしました」
大和とルイスが訪れた応接室のソファには、高級そうなスーツに身を包んだひとりの青年が座っていた。背後には彼の秘書と思われる男が控えている。
「TEARS名坂支部管制官、ルイス・ヴァリアントと申します。……小鳥遊霞さんですね?」
「ああ、小鳥遊だ。こちらは冬月……私の秘書官だ」
それぞれ名刺を受け取り、事前に調べていた肩書きと相違のないことを確認する。そもそも、このやり取りそのものが予定調和に過ぎない。
(……名刺ならいくらでも偽装できますけど、ねぇ)
それらを丁重にケースに仕舞い、目の前の男にやんわりと微笑みを投げ掛ける。僅かに背筋を伸ばした霞を見て、大和は可笑しそうに小さく肩を震わせた。
「そんなに緊張しなくても。言ったでしょう?」
「そ、そうだが」
小鳥遊製薬の一部が秘密裏にEA機関と結託し、非道な人体実験と生体複製を行っていた。それを不問にする代わりに、小鳥遊霞がその力の及ぶ範囲においてTEARSに全面協力する、という話を持ち掛けたのは、意外にも霞の方からだった。
「まあ、知らない仲ではありませんし、形式ばる意味もさほどありません。手早く済ませましょう」
「従兄さんがそう言うのなら、私もさっそく本題から話させてもらおう」
大和に促され、霞の合図で冬月がタブレット端末を机に差し出す。
「小鳥遊も一枚岩ではない。……これは、過去ここのラボの各部署責任者を勤めた人間と、その任期中の各実験の件数を示したものだ」
「近年は妙に頻繁に代わってますね」
「……内部告発制だ。所長の方針に異を唱えたりする者は悉く入れ替えられた。就任当初は所長に従順でも、アレを見たらまともな人間なら異常さに気付く」
「貴方もそれを、知っていたんですね?」
「知っていた。……情けない話だが、私はとにかく、小鳥遊に認められたかった。だから……非道だろうが何だろうが、未来の役に立つ成果が欲しかった」
霞の言葉を受けて、大和の表情が僅かに翳る。
生まれてから今まで、大和と比べられ続けてきた霞が盲目的に周りに認められたいと足掻く思いは想像に難くない。
「……が、あんただって同じ筈だ、従兄さん」
霞は大和を正面から見つめる。
「……はい?」
「あんたが連れていたあの赤髪の女子。あれは何だ? どうしてあれが、ここにいる?」
「──」
大和が一瞬息を呑んだ。それを見逃さなかった霞に、ルイスの視線が突き刺さる。白い手袋に包まれた指先が、霞の眼前をゆらゆらと踊る。
「貴方には恋人のひとりもできなかったこと、よぉく解りましたぁ」
「なっ……!?」
台詞と所作こそおちゃらけたものの、その声は低く、威圧と苛立ちの棘を含んでいた。
「いきなり何だ、それは関係無いだろう?」
「まさかレディを『あれ』呼ばわりできる男がこの世に居るなんて、我が耳を疑っちゃいましたよお。ね?」
大和はじきにルイスの真意に気付いたのか、動揺を圧し殺しながら英国紳士の第二装填を待つ。
「東雲赤城は名坂支部の大切な戦力であり、レディです。彼女が貴方の隣で大和さんを救おうとしたのをまさか見ていなかったとは、その目は随分と節穴なのでは? 小鳥遊大和に何一つ優れないのも納得です。見えないのならばその眼球、ふたつも必要ないでしょう。僕の指は何本か見えますか?」
白い悪魔はその顔に嗜虐の化粧を次第に色濃くしてゆく。霞はぽかんとして目の前に翳されるピースサインを眺めていた。
(ああ……ルイスさんのスイッチが入ってしまった……)
内心頭を抱える大和だったが、それらの空気も冬月の静かな咳払いによって断ち切られた。
「……」
「……失礼」
お楽しみを邪魔されたルイスは冬月を軽く睨んでから、霞に向き直る。
「赤城さんの前で土下座してくださいね」
「えっ……」
「えっ、ですって? 非礼も働いたうえ詫びることすらできないんですかあ? 小鳥遊大和は一周回ってお礼申し上げますけど? 大和さん、やっぱり小鳥遊のCEOにでも就任してこの男の性根叩き直した方がいいと思いますよ?」
「ちょっと!? 僕は関係なくないですか!?」
ルイスはもはや楽しんでいるのか苛立っているのかわからない。
やがて、控えめなノックと共に職員が扉の向こうから現れた。
「S部隊、現地到着まで間もなくです。オペレート準備をお願いします……」
「分かりました。……残念ですねえ、どうせならこの不届きタマ無し男をひん剥いくとこまでやりたかったのですけど……それはまた次の機会に」
次の機会があればの話ですけれど、と笑ってルイスは呆気なく席を外した。
しばらく考え込んでいた霞は、背後の冬月に目配せをして彼にも退室を促す。
「従兄さんと二人で話がしたい」
「……承知しました」
「教えてくれないか、従兄さん。どうして名坂に、アンセラがいる?」
「研究の為ですよ」
改めて詰め寄る霞を、大和は努めて冷静に受け流す。
「使えないものは切り捨てる。逆に言えば、使えるものは使えなくなるまで徹底的に使い倒す。それがルイスさんの方針です」
「……」
大和は、先程までルイスが座っていた席に視線を向けた。
「僕は、アンセラに襲われてから死にかけました。……いえ、ほぼ死んでいるようなものでした。目が覚めた僕に残っていたのは、僕ではない誰かの怒りと、とてつもない飢餓感。……目につく動くものすべてが、ご馳走に見えました」
隔離室の天井を思い返す。あの時の言い表しようのない猛烈な本能の衝動は、ありありと思い出せた。
「そんな僕を見てルイスさん、何て言ったと思います?」
──おはようございます、大和さん。お仕事溜まってますよぉ☆
それは本当に、いつもとなにも変わらない、毎日繰り返した戯れ言のような小言であった。ルイスが、肉を求めて唸る大和の姿を見て何を思ったのかは分からない。知りようがない。しかし──その平穏こそが、彼を小鳥遊大和へと引き戻したのだった。
「……なんだ、それは」
霞からすれば、拍子抜けもいいところだった。気の利いた台詞でもなんでもない。だが、
「僕にはそれで十分だったんです。僕にはまだやらねばならないことがある。戻らねばならない席がある──それを思い出すには、十分だった」
「そんな綺麗事があるか」
「普通ならば、支部の内部でアンセラに襲われたとなれば僕は殺されるべきです。他でもない名坂支部なら、なおさら」
この支部が悲壮な決断により閉ざされ、血に濡れたのはほんの数年前の話だ。
「ですが、ルイスさんは反対しました。『殺すのはいつでもできる。完全に発症したのなら、名坂支部の人間が大義名分と責任をもって堂々と殺せばいい──それが可能な者達が、今はここにいる。その時までは、経過観察をしてはどうか。感染した人間が、どう発症するのかを観察できるだけでも、得るものはあるのではないか』」
小鳥遊大和は、コードファクターのワクチン不適合体質だった。
アンセラに襲われたワクチン非接種の人間を、研究対象として隔離監視する。その博打に、名坂支部の各員が乗った。
◆
「大和」
車椅子に固定された大和が部屋への来客の呼び声に振り返ると、立っていた司令官は丸めた紙を投げて寄越した。
「わ、わっ」
安全を期すために義手と義足は外されたままの大和には、利き手でない左腕でそれを摘まむことは難儀した。
「もうちっと面白ェもんが見れるかと思ったんだがな……」
渋谷武蔵は帽子を外し、立ち上がって首を鳴らす。
「何にせよ、正気で何よりです。お仕事たんまり残してありますからね☆」
車椅子の背後に立つルイスが車輪にロックをかけ、大和の上体を車椅子の背凭れに固定していたベルトを外した。
「お前の主治医と名乗るにゃあれだが、医者の端くれとして言わせてもらうと、お前はまだ仕事にゃ使い物にならん。小鳥遊大和の健在は長門や時雨も知っちゃいるが、こうして隔離室を出ることを知るのは俺とルイス、山城の三人だけだ。メディカルチェックは朝昼晩。大人しく寝てろというのが見解だ」
「はい」
大和の返事を受け、武蔵は軍帽を目深に被り直す。
「そしてこれは軍人として──名坂支部司令官として伝達する」
歴戦の風格を思わせる深紅の双眸が、真っ直ぐに大和を捉えた。
「お前には研究業務に戻ってもらう。場所は旧地下作戦室。部屋には体温検知を備える監視カメラを設けた。支部には俺、ルイス・アリソン・ヴァリアント、瀬良長門のいずれかを常駐させ、小鳥遊大和がアンセラとして発症するようならば殺害をもってこれを処理する」
「はい」
長門は、まだ大和の復帰を知らされていない。が、武蔵から命令があれば、本人の納得など二の次にして、迷いなく大和へと引き金を引くだろう。
──彼にこれ以上、知り合いを手に掛けさせる訳には──
大和の表情から決意を読み取った武蔵は、それを肯定するようにゆっくりと頷いた。
「旧地下作戦室に居住設備を備えていますので、例の作戦が発動するまではそちらで過ごしていただきます。連絡はこちらの端末を使ってください」
渡された小型端末の連絡先にあるルイスの項目をタップすると、ルイスがポケットから同じ型の端末を取り出す。ルイスのコール画面には、『千代田ちとせ』と表示されていた。
「趣味悪いですね!?」
「まさか小鳥遊大和で登録するわけにもいかないでしょう☆ 司令官さんも同じ端末をお持ちです。司令官さん側の登録もまた別名義なのですが……」
ルイスに言われた武蔵が端末を操作すると、「!?」と目を見張った。
「ちょっ、武蔵さんのではどんな名前になってるんです、僕!?」
「え~、秘密です~☆」
「……ルイス。お前、この名前をどこで知った」
「企業秘密です~☆ 大和さんからコールがあるたび、嬉しい気持ちになれるでしょう?」
「なれるか馬鹿野郎」
まったく底の知れん奴だ、と武蔵は溜め息をつきながら、懐へとまた端末を仕舞った。
「修正しないんですか?」
「アホに付き合うのも面倒臭ェ……」
かつて軍部の避難豪として、名坂支部の地下にはさまざまな通路や空間が残されている。旧地下作戦室はその中の一つで、非常時にも作戦指揮を執れるよう設備が整えられていた。付随する居住スペースには、なるほど日用品や大和の私物が用意されていた。
武蔵の指示のもとでここを整備させていたのは他でもない大和なのだが、まさかここを武蔵ではなく自分が使うことになるとは、と苦笑する。
「大和さんの引き継ぎマニュアルにここが載っていたので、使わない手はないでしょう? 換気設備は24時間稼働なので、怪しむ人もいませんし」
「だからって、僕がこの机を使うなんて」
装着した義手の感覚を確かめながら、手入れの行き届いた机を撫でた。仮とはいえ、司令官が就くための席だ。大和にはかなり荷が重いと思われたが、これが自分の戦場であるのならば拒める理由はない。
「監査も近いことですし、うまく立ち回らないと……ですね☆」
ルイスが持参品の中から小型の充電器を取り出し、机に置いた。先程の、連絡用の端末に使うもののようだ。
「武蔵さんの端末って、誰の名前だったんですか?」
「そう焦らなくても、近いうちにお会いすると思いますよぉ」
「……? 存命の方なんですね」
「はい。なんてったって武蔵さんの──さて。大和さんに脚をあげないと……」
わざとらしく言いやめたルイスは、騎士を思わせる優雅な動作で大和の足元に屈み、義足の装着をする。
「戻ったら、赤城さんに声をかけてあげてくださいね。僕に訊きたそうにしてましたけど、とっても心配していましたから」
「赤城さん……」
生かすことを条件に、武蔵が戦うために引き取った瀬良長門。
守るものがあるからと、己から戦うことを志願した萩原時雨。
東雲赤城は違った。大和たちが身勝手な理由で、ごく普通の学生生活を送れていた少女を巻き込んだのだ。
「……僕は」
車椅子の上に乗せられた義手を見つめる。
「僕は、間違っているのでしょうか」
──僕は、欠けているのだろうか。
──常識が。信念が。覚悟が。あるいは、心が。
「…………」
ルイスは答えない。
舞台装置は揃いつつある。それは名坂支部のみならず、敵も同じであることは承知である。これから待っているのは、藪をつついて出た蛇を殺していく作業だ。否──殺させる作業だ。
数々の論文を読み漁り、やがて一つの仮説に至ったコードファクターの切り札が、最善である筈がないことはわかっていた。が、他にこれよりも優れた手段が、小鳥遊大和にはわからないままだった。
「僕が歩もうとしている、この道は……間違っているのでしょうか」
「そんなもの、僕に訊いて何になるんです? そんなことありませんよ大和さんは頑張っていますよと抱き締めれば気が済みますか? 僕は聖女様ではありません」
ルイスの白い手袋がさらさらと大和の義足をなぞり、腰をなぞり、腕をなぞり、彼を見上げる大和の頬を掴む。
「あなたの選択を肯定や否定できる者がいるとするのなら、それは紛れもなく──あなたの敵です」
ルイスは今まで聞いたことがないほど冷たく低い声で言い放つと、踵を返して作戦室を後にした。
「……」
鉄扉越しに遠ざかるハイヒールの足音を聞きながら、武蔵に投げられたくしゃくしゃの紙を思い出す。
広げたそれは封筒のようで、中央には見覚えのある力強い筆跡でくっきりと「辞表」と書かれていた。
「これは……」
中に入っていた紙を引き出すと、そこには封筒と同じ筆跡で、名坂支部内部で発症と感染事故を起こし死傷者を多数出した責任を取って名坂支部司令官をはじめいっさいの軍を辞任する旨が並んでおり、末尾に署名が添えられていた。
「渋谷──武蔵」
大和が発症したら、武蔵はこれを提出する腹だったのだろう。
(……それだけじゃない。あの人は──)
これを提出したあと、どうするつもりだろうか。答えがあまりにも容易に想像できてしまうその問いを、大和は紙の引き裂ける音をもって振り払った。
──武蔵さん。
──貴方にその選択は相応しくない。
──渋谷武蔵に、勝利の杯を。
その為ならば──小鳥遊が相手であろうと、利用してみせる。
◆
大和からこれまでのざっくりとした経緯を聞いた霞は、深く考え込んでいるようだった。
「……こういうことは、冬月には言えないのだが」
「……何か?」
「いや……、……あのルイスと名乗った彼女……」
「はい?」
霞が口にした三人称に、大和の胸中にいささかの不安が過る。
「…………いい」
「えっ?」
「凄く……いい。あの温度差、嗜虐的な唇、物憂げな睫毛、どれをとっても最高だ。あんなひとは初めて見た。独身だろうか? 名刺の連絡先は偽物だろう。また会いに来て構わないだろうか」
「……あ、あの……? ルイスさんはれっきとした男性ですが……」
「なに、そうなのか? あれほど美しい男がいるのか? ますます気に入った。美人というのなら従兄さんもそうだろうが、かれはまた少し違う──西洋人形のような、」
「わ、分かりました。分かりましたから。君が僕の従弟だということは悲しいぐらいによく分かりました! 名刺の連絡先はこの名坂支部に繋がることは確かですが、ルイスさん個人のものについては掛け合ってみます。……もう一度言いますね、男性ですよ、ルイス・アリソン・ヴァリアントは!」
「ありがとう、従兄さん! ……しかし男かどうかは脱がせてみないと分からないぞ!」
霞は勢いよく立ち上がり、最初の握手とは比べ物にならない力強さで大和の手をしっかりと握った。
「……男性というのは本当か? 従兄さんは見たのか? ついているのを!?」
「うるさいんですよ。ぶん殴りますよ義手で。宝具でこそありませんがそれなりに痛いですよ」
◇
期末試験を終えたクラスの空気は、毎年恒例行事のクラスマッチ一色だ。
クラス毎にそれぞれ委員の手によってデザインされたTシャツを着て、バレーボールやバスケットボール、そして文化系の生徒のために昨年から新設された将棋の種目によってクラス対抗戦を行う。
今はそのTシャツの配布中、もといお披露目だ。
野球部キャプテンの高橋くん──クラスマッチ実行委員だ──が、教壇ででかでかとTシャツを披露した。その傍らには、このクラスのTシャツ委員としてデザインを担当した美術部員・緒方おがた霰あられが恥ずかしそうに立っている。
「見ろこれ! 超イケてんだろ!」
高橋くんの声に呼応して、クラスメイトたちもわいわいと声を上げていく。
「Tシャツ賞はうちのもんだな!」
「センス光ってる! 緒方さんすげえ!」
「い、いえ……あたしは、そんな……」
普段から読書を好み、控えめでクラスの前に立つなどほとんどしたことがない子だ。浴びせられる称賛の嵐に足が震え、耳まで真っ赤になっている。
赤城も傍らに座る親友の舞風と五十鈴とともに、霰に拍手を送っていた。
「あたしもこれ好きだな~。表現力パない」
「私も。緒方さん凄いよね」
「今年はうちのクラス、高橋くんたちいるからいい線狙えるっしょ」
「瀬良くんは今日も、お休みかしら……?」
五十鈴が赤城の後ろの席に視線を向けると、同時に教室のドアが力強く開けられる。
「おは」
スポーツバッグを担いだ金髪のジャージ姿が、遅刻もなんのそのという様子で教室を見渡す。
「噂をすればなんとやら……!」
赤城の席の左右に陣取っていた舞風と五十鈴。舞風は長門の席から椅子を拝借していたらしく、慌てて返そうとしたが「あ、いーよ。使ってて」と辞された。長門はそのまま教室の反対側のロッカー棚に行儀悪く腰掛ける。
「あ、瀬良! 今クラスTシャツ配ってんだけど、瀬良もクラスマッチ出る!?」
「たりめーじゃん。そのために来たんだよ」
長門の返事を聞いた高橋くんは「今年の優勝は俺らのもんだ~!!」とガッツポーズを掲げる。高橋くんから受け取ったTシャツを広げた長門は、「いーじゃんこれ」と早速ジャージと自分のTシャツを脱いで袖を通し始める。気に入ったようだ。
高橋くんは実行委員の書類に目を通しながら、そのうちの一枚のプリントを掲げる。
「うちは男子が他のクラスより二人少ないんだ。人数不足のとこに補欠を回したくて、一人は決まったんだけどあと一枠がな。俺実行委員だから入れなくて……」
「決まってなかったの?」
「瀬良が来たら瀬良に頼もうと思って選手登録保留にしといた!」
「本番明日だぞ!?」
クラスからツッコミを受けながら、棚に腰掛ける長門のサムズアップを見た高橋くんは笑顔でプリントに名前を書き込む。
「これでバスケとバレーの優勝は決まったぞ」
「超余裕。俺の敵じゃないね」
日夜ゾンビと戦う男が言うのは説得力が違う。そう思うと噴き出しそうになるのを赤城は必死に抑え込んだ。
「じゃ、一時まで昼休みな! そのあとは各チームごとに集まって、作戦会議! よろしく! 解散!」
高橋くんはそう言って、元気よく教室を後にした。先ほど書いた選手登録書を提出しに行くのだろう。
「お昼ご飯買ってくるね。先食べてて!」
「おけまる~」
「お気をつけて」
舞風と五十鈴に見送られ、赤城は昼食の調達先に迷ったが近所のコンビニへと向かう。購買はどうせ人の嵐だ。
「あっ、緒方さん!」
「東雲さん」
廊下には霰がいた。美術の授業で同じ班になっていたため、しばしば話す仲だ。
「Tシャツ凄いね、緒方さん絵も上手いのに、デザインもできるなんて。どうやったら浮かぶの?」
「そんな、あたしは……褒められるようなことは……」
霰はあわあわと手を振る。
「えっと……うちのクラス、あたしみたいな暗……あ、いえ、大人しい人から、高橋くんや瀬良くんみたいな明るい人までいろんな人がいるけど、皆が力強く戦えることを表現しようと思って……イメージがすぐに浮いたの」
「ふうん?」
「あたし、市立図書館によく行くんだけど、ときどきそこで見かける男の人がいるんです。スラッとしててクールそうな、知的な人で……」
赤城の脳裏には代替イメージとして、長門の相棒である某文学青年が浮かぶ。
「でもあたし、この間見たの。その男の人が、女の人を助けるところ……」
(時雨さんも確かに、人を助けてるな……)
「そして日本刀を振るって、その女の人を襲ってた変な化け物を倒すところ!」
「ぶふッ」
「し、信じてない!? 信じられない……よね……? あたしもあんなの……ラノベみたいな……」
「いやっ、信じるよ! 大丈夫!」
信じる信じないの次元ではない。赤城にはその男のフルネームも好物もやべえ妹がいることも把握済みである。というか、普通に毎日顔を合わせる先輩である。今朝も挨拶した。
(緒方さん……隔離区域に迷い込んだことあるんだな……)
クラスメイトが身近であの恐怖と危険に晒されていたことに、やや心が重くなる。
「同じ人でも、場面や状況が変わると、違う面があるんだなって思って。それを表現しようとして……、」
歩きながら話していると、廊下と階段への分かれ道に差し掛かった。
「あっ、あたし、本を返しに行くから……こっちなの」
「そっか。また後でね、緒方さん!」
図書館へ続く渡り廊下へと向かう霰と別れてから、赤城は自分の下駄箱のある正面玄関へ続く階段に向かう。下駄箱には見慣れたジャージ姿があった。
「んぉ? 赤城パイセンじゃん。ちっすちっす」
「ちっすちっす」
今年に入ってから、有事の避難に備えて学校指定の上履きは体育館シューズのような紐の運動靴へと変わった。自分のローファーと履き替えて立ち上がると、長門がそのまま待っていた。
「赤城もご飯買いに行く?」
「うん。昼からあるかどうか分からなかったから、お弁当作らなかった。瀬良くんも?」
「だって購買のメロンパンも焼豚丼も売り切れてたし」
「……今朝もなんか仕事あったの?」
「うん。でも避難も済んでたし、雑魚処理だけだったし、時雨が大丈夫っつったからそのまま学校来た」
「あ……」
時雨の名に、先ほどの霰の話を思い出し、話してみることにした。
「ふーん。スラッとしててクールで知的……なあ……」
「瀬良くんとは真逆だね」
「うるせー。どう見たって俺の方が背高いしいかしてる」
「はいはい」
「あ! 聞いてねえ顔だ!」
コンビニは案の定名坂高生で繁盛していた。
「うわ、すごっ」
「いっつもこんなんだよ」
そう言いつつ、威圧的な風貌の長門には周りがほんのり道を開ける。……ジャージはともかく、金髪長身なのは長門の意図によるものではないのだが。赤城はこれ幸いと、長門の背に続いて狭い店内を進んでいった。
学校に戻ってくると、屋上で食べて昼寝すると言う長門とそのまま別れ、教室へと戻る。五十鈴とともに、赤城を待ち構えていたのは目を輝かせた舞風だった。
「ちょっと赤城!? 説明してもらおうかぁ!?」
「な、何を!?」
「瀬良長門と二人でコンビニ行ってたらしいじゃないですかぁ。目撃情報あったんすよォ」
「はっ!? 別に、行き先一緒だったからってだけだし!?」
「赤城さん、瀬良くんとはお話しする間柄なのね」
「ぐほぁ」
しまった。支部では作戦行動を共にすることをはじめとして普通に話していたが、学校ではさほど話してはいなかった……ように思う。というか長門が学校に来る頻度が低いせいもあって、クラスにおける長門の存在はやはりまだ少し近付き難いものがあるのだ。
「話してみると面白いよ。普通に優しいし……」
単なるフォローに過ぎないはずが、なんだかやけに顔が熱い。なんでだ。
結局、ミーハースイッチの入った舞風にあれやこれや訊かれて、かわすのに精一杯だった。
◇
クラスマッチ一日目、当日。
バレーボールだった赤城たちのチームは、トーナメント初戦から三年のバレー部員とバドミントン部員を固めた精鋭チームとかち合ってしまい、あっけなくストレート敗退した。
「運動部員は一チームあたり何人まで、とかいう制限欲しいよね」
「ほんそれ。高橋くんはともかく瀬良くんは帰宅部だから容赦なくぶちこめるし」
「うちのクラス、瀬良くんをこき使いすぎではないかしら……?」
赤城たち三人は、体育館の壁に凭れてスポーツドリンクをだらだらと喉に流し込みながら、他所のクラスの対戦を眺めていた。
「精鋭チーム作ったのはうちも同じでしょ。高橋くんに本郷くん、宇部くん、藤波くん、河内くん、瀬良くん……」
「は~、野球部、バド部二人、卓球部、バレー部……」
(……あと、アンセラ退治部?)
と、ばたばたと「あ! 萩尾たちー!」とクラスメイトの一人が駆けてきた。
「第一体育館で、次うちのバスケAチームやるって! 円陣組むって言ってる! 早く!」
「え!? もう!?」
「三年の超強いチームがいるんだよ。まじやばい」
「ぅわぁ、やっぱバスケの壁は3-4かぁ。北上きたかみ先輩いるもんな」
第一体育館は、近年耐震と近隣住民の避難所も兼ねられるよう整備され、アリーナのように観客席がある。しかしどうせなら間近で見たいと、コート脇へ陣取ることにした。
「2-5!」「「おーっ!」」
相手クラスは同じ二年だが、発声練習を繰り返したりと気合い十分だ。
「やば。赤城先輩、ちょっとあいつらイキってますねぇ。やっちまってくださいよ」
「私かよ……」
クラス集団の中で舞風とつつきあっていると、パス回しのウォーミングアップを終えた長門たちが戻ってきた。
高橋くんが高らかに告げる。
「2-3! 居るか~! 円陣組むぞーッ!! 朝練習した通りに行くぞ!」
コートの中央に赤城たちクラスメイトがわらわらと集まる。
「女子~! 恥ずかしがんな! 選手の間入って!」
「野郎共士気上げろーッ!! 女子と密着だーッ!!」
「宇部うるせえww」
舞風にぐいぐいと押されるままに輪に入ると、随分と上から肩を組まれた。後頭部で束ねた柔らかな長い金髪が、さらりと赤城の頬に落ちる。
「瀬……良くん!」
「見てろよ赤城、名坂のエースにしてS部隊隊長」
赤城にのみ聞こえるような小声でそう言うと、円陣のコールに入る。
「Are you ready!?」
「「Yeah!!」」
「Put ya guns on!!」
「「Yeah!!」」
コート脇では試合を終えた3-4組が2-5と入れ替わりながら、円陣を眺めていた。
「英語?」
「あのでかいの、帰国子女なんだってよ。アメリカかイギリスか忘れたけど」
「あぁ……あの金髪ね。ふぅん。そーなんだ」
「あ、おい。北上、見ないのか?」
「興味ないし。水ぐらい飲ませてくれよ、大井おおいさん」
「お前また、そうやってサボる気か」
「はわわ~、さっすが瀬良ちゃん! カッコいい!」
「あっ……朝比奈くん!? なんでここに……」
「彼氏の応援なんて当たり前でしょ? はぁ、またボール奪った! スッゴ~い」
いつの間にか赤城の隣には一年のはずの初瀬が陣取り、長門の一挙一動作に黄色い声援を送っていた。
「ふむ、本郷くんのバドで鍛えた機動力を生かしてドリブル突破、包囲を瀬良くんが長身で突き破り時にはボールを奪いシュートを狙い、ゴール下に控える河内くんがバレージャンプで叩き込む……」
「舞風? 何そのスポーツ漫画によくある解説キャラムーブ?」
「意外なのは瀬良がディフェンスなことだな……体格的には文句無しだが奴の性格を考えるにオフェンス特化だと思っていた……これは認識を改める必要があるな。どうだ赤城」
「どうもこうも。マジでお前誰だよ」
第一試合の流れは、長門たちのチームにあった。
「俺ら、なんか百年に一度の天才な気がしてきた!」
「オレに勝てるのは母ちゃんだけだ!」
「ガキの遊びほど真剣なものはねえ……!」
「天才ですから!」
しかし相手チームも食い下がり、ボールを奪いつ奪われつを繰り返す。
「ちッ……あのでけえ金髪、強え! ボール全部取られる!」
「ビビんな! でけえだけだ、バスケ部じゃない! ただの帰宅部だ!」
「うるせーー!! テメー名坂のエースに向かって何言いやがんだコラーー!!」
怒った長門はついぞボールすら触らせない鉄壁のディフェンスを披露した。
「ねえ赤城。瀬良くんってさ。怒ると本気出すタイプなの?」
「知らない……凶悪な笑顔しか見たことない……」
「凶悪な笑顔……?」
「瀬良ちゃんは♡ どんな顔しててもカッコいいよ♡」
「朝比奈くんは黙ってて」
いつの間にかギャラリーには自分たちのクラスの試合を終えたらしい一年が集まっており、きゃいきゃいと観戦していた。
「あ、いた! 本郷さ~ん!」
「藤波先輩! ファイト~!」
「あのでっかいヤンキーみたいな人が、噂の?」
「そうそう! 怖いよね」
長門を知らない一年生からの評価に、赤城は思わず噴き出した。
「分かります。怖いですよね、長門先輩」
「わ、五月雨ちゃんいつの間に……」
「お疲れさまです、赤城先輩。私だってバスケットボールで華麗に活躍する時雨くんを見たいのに、今朝その話をしたら『俺は球技は苦手だ……』ですって。剣道種目の追加を提案します」
「時雨さん、あんなに身軽だしスポーツ強そうなのにね」
「時雨くんは高校の体育祭でも選抜リレーの選手でしたよ。もちろんアンカーで他のクラスを颯爽と追い抜いて……はい……大変でした、とても」
静かな嫉妬の怒気を含む五月雨の声に、赤城はそっと視線をコートへと戻す。彼女の指す『大変』の始末を考えるだに恐ろしい。
赤城たちの目の前で、本郷くんからパスを受けた長門が踏み込む体育館シューズの底が床板を踊る。放たれたロングシュートは、吸い込まれるようにリングを抜けた。
「……長門先輩は、頭がいいですよね」
「ぅえっ?」
「戦闘において、の話です。普段から凶暴だとか言われてますけど、なんていうか、戦場のギリギリな世界において初めて鞘を抜くような」
「ふぅん……?」
長門の言動からしても、お世辞にも聡明だとは思えない。が、あの日赤城が放ったクロスボウの矢に対する反応は、確かに常人のそれを越えていたように思う。動き回る長門の脇腹には、癒えきらぬ生々しい傷痕が見え隠れしていた。
「……あれ?」
「? どうしました?」
「あ、ううん、何でもない……」
赤城がふいに思い出した光景は、先日サービスエリアで大和と食事をしたときのものだ。
大和は数人前をぺろりと平らげて満足そうにしていたし、赤城はそのさまを見て非常に驚いた。彼がお勧めするメニューを分けて貰ったし、それらも美味しかった。それと同時に、この人はさっきアンセラになりかけていたとは思えないなとつくづく考えていた。医師業に追われている、丁寧ながらぴんと張り詰めた雰囲気とはうってかわって無邪気な姿に意外さを覚えたものだ。
(……そうだ、私……)
赤城とて、背後から現れた千代田に撃たれた筈だ。痛かったし、苦しかった。なのに、サービスエリアではその痛みは全く感じなかった。身体機能の異常もなかったし、『撃たれたことを忘れてすらいた』。
(…………なんで?)
撃たれた直後の光景を、思い返す。脳がそれを拒否する。思い出すべきではない。思い出すべきではない!
「……い、赤城先輩!」
「ほわっ!?」
目の前に重い塊が飛んできた衝撃で我に返る。ボールをコートへと投げ返してスコアボードを見ると、試合時間は残りわずかだ。
「大丈夫ですか、赤城先輩? 長門先輩に見とれてました?」
「なんでよ」
チームの勝利はもはや確実で、舞風たちは決勝戦で当たるであろう3年チームの分析会議を始めている。
「北上先輩って人がどんだけ強いか知らないけど、瀬良ちゃんの敵じゃないからね♡」
「まだいたんだ朝比奈くん……。そういえば朝比奈くん、五月雨ちゃんと同じクラスなの?」
「違いますよ。こんな妄想癖の変人と一緒にしないでください」
「えー!? ブラコンに言われたくなーい! 近親相姦の方がヤバいしー!」
きっぱりと言い放つ五月雨に、初瀬はきゃんきゃん吠える。似た者同士だろうと言おうものなら刺されそうだ。
賑やかな体育館に、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
「ぅげ」
赤城たちクラスメイトのもとに凱旋した長門は、飛び付いてくる初瀬を見るなり露骨に嫌な顔をした。
「カッコよったよ瀬良ちゃん! 知ってたけど! おめでとう♡」
恋人アピールをしておかないと、ライバルが増えるというのが初瀬の言い分らしい。死んだ目の五月雨がそう赤城に教えてくれた。
「気持ちは分かりますが……」
「分かるんかい」
ヒーローショーを見た日の、時雨の腕に組み着きたがる五月雨を思い出しながら静かに納得する。時雨は時雨で、『妹とはそういうものだろう』と全く気にしていないのが恐ろしい。
明日の決勝戦に向けてのクラスの士気は十分だった。
◇
手入れの行き届いた日本庭園を横目に、和風家屋の渡り廊下を歩いていく足音が三つ。
「ふうん、見事なもんだ。これほどの庭を監獄のような塀で隠すのは実に惜しいな」
異国の軍服に身を包んだ大柄な男は、板張りの廊下を杖で叩きながら歩を進めてゆく。
「過去の栄光……遺物を修復したまでのこと。鼠といえど、見えるもののみで満足致しましょう」
「日本人ってのは称賛を素直に受け取らんな、まったく」
杖をつく男の少し前を、細身の青年が歩いて行く。彼らの先頭には、長い黒髪を切り揃えた少女がこちらには興味もなさそうに、事務的に案内してゆく背中がある。
「こちらです」
少女がひとつの障子の前で立ち止まり、膝をついてゆっくりとそれを開く。案内されたひとつの和室に、大柄な男は髭に包まれた口角を愉しげにつりあげ、杖を持ち上げてみせた。
「嫌がらせにしては単純すぎやしねェか?」
「まさか」
青年は和室へ踏みいると、そのまま部屋を横断し、突き当たりの襖を開く。
「……どうぞ」
襖の奥には廊下が続いている。
赤い絨毯の敷かれたそれは、洋間へと続いていた。
「先日の、あの獅子のような男は、本日は?」
「んん、ああ……。あれは莫迦ではあるが勘は鋭い。それに、今日は別に護衛されなきゃならねェような用事はねえ筈だろう?」
「流石はカイザー閣下。……話が早い」
左半分を包帯に巻かれた青年の顔、覗く右目がゆるりと細められた。
「にしても……日本建築と洋風建築をくっつけるたあ、こりゃあ贅沢なことだ」
卓についたカイザーは、反り返って笑う。仰いだ視界には、さながら英国の建築技術を用いて組まれた天井とそれを支える格子がある。目の前に置かれた資料には目もくれず、目線だけを正面に座る青年へと向ける。
「で、どうなんだ、鯉池は」
「かねて機関と近しい者がおりましたので、呆気ないものでした。四大支部のひとつがああも落ちるとは、向こうの士気にも関わりましょう。まあ……元より中央からはもっとも遠い支部。捨て石という話も否定はできませんが」
「……スギノト、だったか? あれといい、連中は随分と市民様の扱いが丁寧なことだ」
「ああ……杉戸と言えば。北方にも第五支部を設ける計画がある模様で」
「はッ。そりゃそうだ、極東が落ちりゃ太平洋はがら空きだ。お上の圧力は凄ェだろうよ」
杉戸市とその一帯は、コードファクターの感染爆発を起こし地域ごと封鎖された。
その際感染誘発を先導した旗艦個体、個体識別名『アケボノ』は、地元有志による自警団や連合防衛隊の妨害を受けるも、自警団の最後の一人が討ち取りに失敗し離脱したため、生き残っていたコアを機関に回収された。
行われた実験のうちメインとなったのは、己が食べた人間の記憶や顔立ち、声の修復機能回復の可否だ。複数人格の混在は見られたが、日常に擬態するには十分と判断され、動向監視付きで試験運用がなされた。より後に食べた者の記憶や意思の影響を多分に受けやすいのか、杉戸戦終盤に食べた者らに擬態することが多かった。名坂制圧戦の下準備として指定された名坂の地へ送り込まれたのち、インストラクターだった食事の記憶を利用し、誘発因子調整水を用いて潜在感染者の増加を成功させていた。
が、先月TEARS名坂支部に裏をかかれる形で敗北し、機関による組織片回収も不発に終わった。
「……はん。ざまぁねェな」
「旧型とはいえ、杉戸封鎖に関する情報は機密指定され、発症誘発因子の存在も秘匿されていた筈です」
「あの戦闘、もとい虐殺を生き残った自警団ってのは、今どこに居るんだ? あれを生き延びるんだ。相当な手練れだろ。いくら機密指定とはいえあれを逃がした以上、因子を知られてもおかしくはねェ」
「……」
青年の脳裏に、かつて軽く目を通しただけの資料が過る。杉戸封鎖戦を生き延びたという、ひとりの少年のデータだ。
(萩……なんとかいう、……あんな男が、アケボノを一人で討ったとでも?)
カイザーの言うような、相当な手練れにはとても思えなかった。
(『ゼクス』いや、……『アインス』、か)
己のスケープゴートたる《桐島》からの口頭報告を思い返す。
「名坂支部は制御因子さえ投与し、自戦力として運用しています」
「はッ。アンセラを殺すのにアンセラを使うってのか……ああ、いや……自戦力をアンセラにする、か」
(それぐらい知っているだろうに、白々しい)
苦い感情を腹の底に押し込める青年に、カイザーは身を乗り出して低い声で問う。
「で。名坂支部のドンってのは、渋谷武蔵で間違いねェんだな?」
「……?」
それこそ今更だ。渋谷武蔵の左遷先こそ、軍人の墓場たる名坂支部だ。
「こいつァ確認だ。俺はな、ダチの仇討ちにドイツくんだりからはるばる来たんだ。あんたが名坂を落とすんなら、首領の首は俺が貰い受ける」
目の前の大男から、並々ならぬ殺気と闘志が洩れる。隠す気のないそれは、この隻脚の猛将が海を渡ってここに居る理由を如実に語る。
「あの男はテメェの手に余る。そうだろ? 俺は借りを返せる。あんたは仕事が進む。アインスもゼクスも、好きにすりゃあいい。迷う価値すら無いと思うがね」
男の物言いは青年の神経をいくらか逆撫でしたが、背に腹を替えられぬ青年は、黙ってカイザーの手を握り返した。
「せいぜい期待させて貰うぜ、キリシマ」
手袋越しに伝わる厚い手の感触は、火傷痕にはやけにびりびりと不快に感じられた。
「ふん。片足の老い耄れが、渋谷を討つなどと」
カイザーを見送ったあと、キリシマは忌々しげに呟いた。
「指揮官。口が過ぎるかと」
「くだらないな。何が仇討ちだ、あれが『十七の贄』を欲していることは分かっている。見え透いた三文芝居に目眩すら覚えるよ」
傍らで静かに嗜める黒髪の少女は、愛想笑いの仮面を剥ぎ落とした指揮官を見遣る。
「あの男には、贄の件について訊かれたか?」
「はい。勿論否定しましたが」
やはりな、とキリシマは溜め息をついた。
「……ゼクスの件、『ヒュンフ』と調整はしています。ご支援いただいたおかげで、各種手続きも滞りなく」
「よろしく頼むよ」
少女に踵を返し屋敷を持ち場へと戻りながら、キリシマはひとり思案する。
(鯉池は『ハズレ』だった。だが名坂は違う──あの檻に巣食う狂った組織を、早急に取り払う必要がある)
(彼が道を誤るのならば、俺が正さなければならない)
──それがたとえ、かつての師と相対する道だとしても。
東雲赤城は絶句していた。
目の前に居たのは、真っ白な髪と肌に、深紅の瞳をした──アンセラだったのだ。
彼は静かにスマートフォンをさらさらとタップし、その画面を赤城に見せる。
『やっほー』
「……」
医務棟、大和の執務室と化した診察室。
そのベッドに、E47は腰掛けていた。
「どういうことですか、大和さん!? 昨日ひとこともそんなこと言ってなかったでしょ!?」
「せ、戦利品ですよ、戦利品……! 発症状態からヒト型への可逆性のあるアンセラ。研究に役立つって言われて……」
大和に詰め寄る赤城の眼前に、横からルイスがタブレットを差し込んで視界を遮る。
「僕が欲しいな~って言ったんですよぉ。変な真似したら殺せばいいだけですから、ひとまず今は、この量産型戦闘兵器の研究をしないと」
「ルイスさん……」
ある意味名坂でもっとも容赦がなさそうな男の発言である。ルイスはそのままタブレットの角で大和の頭をごんごんと叩いてから、笑顔で書類を指差した。
「はい……」
仕事に戻れ、の圧を受けた大和は、しょげながら事務作業へと戻る。それにしてもすごい量だ。
「髪を切る暇があったらこっちの心配もしてくれ、というのはまったく同意ですねぇ。この半月、僕がどれほど苦労したか」
「あれ? 聞いてたんですか?」
「いえいえ、大和さんから聞いたんですよぉ。赤城さんに怒られたって」
言いながら、ルイスはハーフアップのブロンドを結い直す。
「時々怒ってあげてくださいね。大和さん、喜ぶので☆」
「……?」
「る……ルイスさん、余計なこと言わなくて結構ですので!」
「はぁい☆」
悪戯っぽく小さく肩を竦めてから、プラチナブロンドの悪魔はタブレットを抱えて診察室をあとにした。
「……にしても、アンセラさんが居るとは……」
「驚くのも無理はないですね。僕も反対しましたし……とりあえず彼は、S部隊の二人と共に作戦区域に同行してもらい、他のアンセラとの干渉状態をテストします。万一何かあれば、長門くんと時雨さんなら制圧可能でしょうから」
「なるほど……」
ベッドに腰掛けたままのE47は、赤城たちの会話などまるで耳に入っていない様子で医学書のひとつを手に取り、ページを捲っては顔をしかめている。
「……難しそうな本ですね……」
「そうですか? 僕は分かりやすいと思うのでここに持ってきたのですが……」
「えぇ……」
奇人変人の集う名坂支部において、大和のことはまだ常識人だと思っていたい赤城の認識は、微かに揺らぎ始めた。
やがて目の前の医師の名を呼ぶ大声が扉の向こうから響き渡り、大和はやれやれと席を立つ。
「……赤城さん。そこ離れた方がいいですよ。突っ込んできますから」
「は、はい」
□
□名坂支部 応接室
「お待たせしました」
大和とルイスが訪れた応接室のソファには、高級そうなスーツに身を包んだひとりの青年が座っていた。背後には彼の秘書と思われる男が控えている。
「TEARS名坂支部管制官、ルイス・ヴァリアントと申します。……小鳥遊霞さんですね?」
「ああ、小鳥遊だ。こちらは冬月……私の秘書官だ」
それぞれ名刺を受け取り、事前に調べていた肩書きと相違のないことを確認する。そもそも、このやり取りそのものが予定調和に過ぎない。
(……名刺ならいくらでも偽装できますけど、ねぇ)
それらを丁重にケースに仕舞い、目の前の男にやんわりと微笑みを投げ掛ける。僅かに背筋を伸ばした霞を見て、大和は可笑しそうに小さく肩を震わせた。
「そんなに緊張しなくても。言ったでしょう?」
「そ、そうだが」
小鳥遊製薬の一部が秘密裏にEA機関と結託し、非道な人体実験と生体複製を行っていた。それを不問にする代わりに、小鳥遊霞がその力の及ぶ範囲においてTEARSに全面協力する、という話を持ち掛けたのは、意外にも霞の方からだった。
「まあ、知らない仲ではありませんし、形式ばる意味もさほどありません。手早く済ませましょう」
「従兄さんがそう言うのなら、私もさっそく本題から話させてもらおう」
大和に促され、霞の合図で冬月がタブレット端末を机に差し出す。
「小鳥遊も一枚岩ではない。……これは、過去ここのラボの各部署責任者を勤めた人間と、その任期中の各実験の件数を示したものだ」
「近年は妙に頻繁に代わってますね」
「……内部告発制だ。所長の方針に異を唱えたりする者は悉く入れ替えられた。就任当初は所長に従順でも、アレを見たらまともな人間なら異常さに気付く」
「貴方もそれを、知っていたんですね?」
「知っていた。……情けない話だが、私はとにかく、小鳥遊に認められたかった。だから……非道だろうが何だろうが、未来の役に立つ成果が欲しかった」
霞の言葉を受けて、大和の表情が僅かに翳る。
生まれてから今まで、大和と比べられ続けてきた霞が盲目的に周りに認められたいと足掻く思いは想像に難くない。
「……が、あんただって同じ筈だ、従兄さん」
霞は大和を正面から見つめる。
「……はい?」
「あんたが連れていたあの赤髪の女子。あれは何だ? どうしてあれが、ここにいる?」
「──」
大和が一瞬息を呑んだ。それを見逃さなかった霞に、ルイスの視線が突き刺さる。白い手袋に包まれた指先が、霞の眼前をゆらゆらと踊る。
「貴方には恋人のひとりもできなかったこと、よぉく解りましたぁ」
「なっ……!?」
台詞と所作こそおちゃらけたものの、その声は低く、威圧と苛立ちの棘を含んでいた。
「いきなり何だ、それは関係無いだろう?」
「まさかレディを『あれ』呼ばわりできる男がこの世に居るなんて、我が耳を疑っちゃいましたよお。ね?」
大和はじきにルイスの真意に気付いたのか、動揺を圧し殺しながら英国紳士の第二装填を待つ。
「東雲赤城は名坂支部の大切な戦力であり、レディです。彼女が貴方の隣で大和さんを救おうとしたのをまさか見ていなかったとは、その目は随分と節穴なのでは? 小鳥遊大和に何一つ優れないのも納得です。見えないのならばその眼球、ふたつも必要ないでしょう。僕の指は何本か見えますか?」
白い悪魔はその顔に嗜虐の化粧を次第に色濃くしてゆく。霞はぽかんとして目の前に翳されるピースサインを眺めていた。
(ああ……ルイスさんのスイッチが入ってしまった……)
内心頭を抱える大和だったが、それらの空気も冬月の静かな咳払いによって断ち切られた。
「……」
「……失礼」
お楽しみを邪魔されたルイスは冬月を軽く睨んでから、霞に向き直る。
「赤城さんの前で土下座してくださいね」
「えっ……」
「えっ、ですって? 非礼も働いたうえ詫びることすらできないんですかあ? 小鳥遊大和は一周回ってお礼申し上げますけど? 大和さん、やっぱり小鳥遊のCEOにでも就任してこの男の性根叩き直した方がいいと思いますよ?」
「ちょっと!? 僕は関係なくないですか!?」
ルイスはもはや楽しんでいるのか苛立っているのかわからない。
やがて、控えめなノックと共に職員が扉の向こうから現れた。
「S部隊、現地到着まで間もなくです。オペレート準備をお願いします……」
「分かりました。……残念ですねえ、どうせならこの不届きタマ無し男をひん剥いくとこまでやりたかったのですけど……それはまた次の機会に」
次の機会があればの話ですけれど、と笑ってルイスは呆気なく席を外した。
しばらく考え込んでいた霞は、背後の冬月に目配せをして彼にも退室を促す。
「従兄さんと二人で話がしたい」
「……承知しました」
「教えてくれないか、従兄さん。どうして名坂に、アンセラがいる?」
「研究の為ですよ」
改めて詰め寄る霞を、大和は努めて冷静に受け流す。
「使えないものは切り捨てる。逆に言えば、使えるものは使えなくなるまで徹底的に使い倒す。それがルイスさんの方針です」
「……」
大和は、先程までルイスが座っていた席に視線を向けた。
「僕は、アンセラに襲われてから死にかけました。……いえ、ほぼ死んでいるようなものでした。目が覚めた僕に残っていたのは、僕ではない誰かの怒りと、とてつもない飢餓感。……目につく動くものすべてが、ご馳走に見えました」
隔離室の天井を思い返す。あの時の言い表しようのない猛烈な本能の衝動は、ありありと思い出せた。
「そんな僕を見てルイスさん、何て言ったと思います?」
──おはようございます、大和さん。お仕事溜まってますよぉ☆
それは本当に、いつもとなにも変わらない、毎日繰り返した戯れ言のような小言であった。ルイスが、肉を求めて唸る大和の姿を見て何を思ったのかは分からない。知りようがない。しかし──その平穏こそが、彼を小鳥遊大和へと引き戻したのだった。
「……なんだ、それは」
霞からすれば、拍子抜けもいいところだった。気の利いた台詞でもなんでもない。だが、
「僕にはそれで十分だったんです。僕にはまだやらねばならないことがある。戻らねばならない席がある──それを思い出すには、十分だった」
「そんな綺麗事があるか」
「普通ならば、支部の内部でアンセラに襲われたとなれば僕は殺されるべきです。他でもない名坂支部なら、なおさら」
この支部が悲壮な決断により閉ざされ、血に濡れたのはほんの数年前の話だ。
「ですが、ルイスさんは反対しました。『殺すのはいつでもできる。完全に発症したのなら、名坂支部の人間が大義名分と責任をもって堂々と殺せばいい──それが可能な者達が、今はここにいる。その時までは、経過観察をしてはどうか。感染した人間が、どう発症するのかを観察できるだけでも、得るものはあるのではないか』」
小鳥遊大和は、コードファクターのワクチン不適合体質だった。
アンセラに襲われたワクチン非接種の人間を、研究対象として隔離監視する。その博打に、名坂支部の各員が乗った。
◆
「大和」
車椅子に固定された大和が部屋への来客の呼び声に振り返ると、立っていた司令官は丸めた紙を投げて寄越した。
「わ、わっ」
安全を期すために義手と義足は外されたままの大和には、利き手でない左腕でそれを摘まむことは難儀した。
「もうちっと面白ェもんが見れるかと思ったんだがな……」
渋谷武蔵は帽子を外し、立ち上がって首を鳴らす。
「何にせよ、正気で何よりです。お仕事たんまり残してありますからね☆」
車椅子の背後に立つルイスが車輪にロックをかけ、大和の上体を車椅子の背凭れに固定していたベルトを外した。
「お前の主治医と名乗るにゃあれだが、医者の端くれとして言わせてもらうと、お前はまだ仕事にゃ使い物にならん。小鳥遊大和の健在は長門や時雨も知っちゃいるが、こうして隔離室を出ることを知るのは俺とルイス、山城の三人だけだ。メディカルチェックは朝昼晩。大人しく寝てろというのが見解だ」
「はい」
大和の返事を受け、武蔵は軍帽を目深に被り直す。
「そしてこれは軍人として──名坂支部司令官として伝達する」
歴戦の風格を思わせる深紅の双眸が、真っ直ぐに大和を捉えた。
「お前には研究業務に戻ってもらう。場所は旧地下作戦室。部屋には体温検知を備える監視カメラを設けた。支部には俺、ルイス・アリソン・ヴァリアント、瀬良長門のいずれかを常駐させ、小鳥遊大和がアンセラとして発症するようならば殺害をもってこれを処理する」
「はい」
長門は、まだ大和の復帰を知らされていない。が、武蔵から命令があれば、本人の納得など二の次にして、迷いなく大和へと引き金を引くだろう。
──彼にこれ以上、知り合いを手に掛けさせる訳には──
大和の表情から決意を読み取った武蔵は、それを肯定するようにゆっくりと頷いた。
「旧地下作戦室に居住設備を備えていますので、例の作戦が発動するまではそちらで過ごしていただきます。連絡はこちらの端末を使ってください」
渡された小型端末の連絡先にあるルイスの項目をタップすると、ルイスがポケットから同じ型の端末を取り出す。ルイスのコール画面には、『千代田ちとせ』と表示されていた。
「趣味悪いですね!?」
「まさか小鳥遊大和で登録するわけにもいかないでしょう☆ 司令官さんも同じ端末をお持ちです。司令官さん側の登録もまた別名義なのですが……」
ルイスに言われた武蔵が端末を操作すると、「!?」と目を見張った。
「ちょっ、武蔵さんのではどんな名前になってるんです、僕!?」
「え~、秘密です~☆」
「……ルイス。お前、この名前をどこで知った」
「企業秘密です~☆ 大和さんからコールがあるたび、嬉しい気持ちになれるでしょう?」
「なれるか馬鹿野郎」
まったく底の知れん奴だ、と武蔵は溜め息をつきながら、懐へとまた端末を仕舞った。
「修正しないんですか?」
「アホに付き合うのも面倒臭ェ……」
かつて軍部の避難豪として、名坂支部の地下にはさまざまな通路や空間が残されている。旧地下作戦室はその中の一つで、非常時にも作戦指揮を執れるよう設備が整えられていた。付随する居住スペースには、なるほど日用品や大和の私物が用意されていた。
武蔵の指示のもとでここを整備させていたのは他でもない大和なのだが、まさかここを武蔵ではなく自分が使うことになるとは、と苦笑する。
「大和さんの引き継ぎマニュアルにここが載っていたので、使わない手はないでしょう? 換気設備は24時間稼働なので、怪しむ人もいませんし」
「だからって、僕がこの机を使うなんて」
装着した義手の感覚を確かめながら、手入れの行き届いた机を撫でた。仮とはいえ、司令官が就くための席だ。大和にはかなり荷が重いと思われたが、これが自分の戦場であるのならば拒める理由はない。
「監査も近いことですし、うまく立ち回らないと……ですね☆」
ルイスが持参品の中から小型の充電器を取り出し、机に置いた。先程の、連絡用の端末に使うもののようだ。
「武蔵さんの端末って、誰の名前だったんですか?」
「そう焦らなくても、近いうちにお会いすると思いますよぉ」
「……? 存命の方なんですね」
「はい。なんてったって武蔵さんの──さて。大和さんに脚をあげないと……」
わざとらしく言いやめたルイスは、騎士を思わせる優雅な動作で大和の足元に屈み、義足の装着をする。
「戻ったら、赤城さんに声をかけてあげてくださいね。僕に訊きたそうにしてましたけど、とっても心配していましたから」
「赤城さん……」
生かすことを条件に、武蔵が戦うために引き取った瀬良長門。
守るものがあるからと、己から戦うことを志願した萩原時雨。
東雲赤城は違った。大和たちが身勝手な理由で、ごく普通の学生生活を送れていた少女を巻き込んだのだ。
「……僕は」
車椅子の上に乗せられた義手を見つめる。
「僕は、間違っているのでしょうか」
──僕は、欠けているのだろうか。
──常識が。信念が。覚悟が。あるいは、心が。
「…………」
ルイスは答えない。
舞台装置は揃いつつある。それは名坂支部のみならず、敵も同じであることは承知である。これから待っているのは、藪をつついて出た蛇を殺していく作業だ。否──殺させる作業だ。
数々の論文を読み漁り、やがて一つの仮説に至ったコードファクターの切り札が、最善である筈がないことはわかっていた。が、他にこれよりも優れた手段が、小鳥遊大和にはわからないままだった。
「僕が歩もうとしている、この道は……間違っているのでしょうか」
「そんなもの、僕に訊いて何になるんです? そんなことありませんよ大和さんは頑張っていますよと抱き締めれば気が済みますか? 僕は聖女様ではありません」
ルイスの白い手袋がさらさらと大和の義足をなぞり、腰をなぞり、腕をなぞり、彼を見上げる大和の頬を掴む。
「あなたの選択を肯定や否定できる者がいるとするのなら、それは紛れもなく──あなたの敵です」
ルイスは今まで聞いたことがないほど冷たく低い声で言い放つと、踵を返して作戦室を後にした。
「……」
鉄扉越しに遠ざかるハイヒールの足音を聞きながら、武蔵に投げられたくしゃくしゃの紙を思い出す。
広げたそれは封筒のようで、中央には見覚えのある力強い筆跡でくっきりと「辞表」と書かれていた。
「これは……」
中に入っていた紙を引き出すと、そこには封筒と同じ筆跡で、名坂支部内部で発症と感染事故を起こし死傷者を多数出した責任を取って名坂支部司令官をはじめいっさいの軍を辞任する旨が並んでおり、末尾に署名が添えられていた。
「渋谷──武蔵」
大和が発症したら、武蔵はこれを提出する腹だったのだろう。
(……それだけじゃない。あの人は──)
これを提出したあと、どうするつもりだろうか。答えがあまりにも容易に想像できてしまうその問いを、大和は紙の引き裂ける音をもって振り払った。
──武蔵さん。
──貴方にその選択は相応しくない。
──渋谷武蔵に、勝利の杯を。
その為ならば──小鳥遊が相手であろうと、利用してみせる。
◆
大和からこれまでのざっくりとした経緯を聞いた霞は、深く考え込んでいるようだった。
「……こういうことは、冬月には言えないのだが」
「……何か?」
「いや……、……あのルイスと名乗った彼女……」
「はい?」
霞が口にした三人称に、大和の胸中にいささかの不安が過る。
「…………いい」
「えっ?」
「凄く……いい。あの温度差、嗜虐的な唇、物憂げな睫毛、どれをとっても最高だ。あんなひとは初めて見た。独身だろうか? 名刺の連絡先は偽物だろう。また会いに来て構わないだろうか」
「……あ、あの……? ルイスさんはれっきとした男性ですが……」
「なに、そうなのか? あれほど美しい男がいるのか? ますます気に入った。美人というのなら従兄さんもそうだろうが、かれはまた少し違う──西洋人形のような、」
「わ、分かりました。分かりましたから。君が僕の従弟だということは悲しいぐらいによく分かりました! 名刺の連絡先はこの名坂支部に繋がることは確かですが、ルイスさん個人のものについては掛け合ってみます。……もう一度言いますね、男性ですよ、ルイス・アリソン・ヴァリアントは!」
「ありがとう、従兄さん! ……しかし男かどうかは脱がせてみないと分からないぞ!」
霞は勢いよく立ち上がり、最初の握手とは比べ物にならない力強さで大和の手をしっかりと握った。
「……男性というのは本当か? 従兄さんは見たのか? ついているのを!?」
「うるさいんですよ。ぶん殴りますよ義手で。宝具でこそありませんがそれなりに痛いですよ」
◇
期末試験を終えたクラスの空気は、毎年恒例行事のクラスマッチ一色だ。
クラス毎にそれぞれ委員の手によってデザインされたTシャツを着て、バレーボールやバスケットボール、そして文化系の生徒のために昨年から新設された将棋の種目によってクラス対抗戦を行う。
今はそのTシャツの配布中、もといお披露目だ。
野球部キャプテンの高橋くん──クラスマッチ実行委員だ──が、教壇ででかでかとTシャツを披露した。その傍らには、このクラスのTシャツ委員としてデザインを担当した美術部員・緒方おがた霰あられが恥ずかしそうに立っている。
「見ろこれ! 超イケてんだろ!」
高橋くんの声に呼応して、クラスメイトたちもわいわいと声を上げていく。
「Tシャツ賞はうちのもんだな!」
「センス光ってる! 緒方さんすげえ!」
「い、いえ……あたしは、そんな……」
普段から読書を好み、控えめでクラスの前に立つなどほとんどしたことがない子だ。浴びせられる称賛の嵐に足が震え、耳まで真っ赤になっている。
赤城も傍らに座る親友の舞風と五十鈴とともに、霰に拍手を送っていた。
「あたしもこれ好きだな~。表現力パない」
「私も。緒方さん凄いよね」
「今年はうちのクラス、高橋くんたちいるからいい線狙えるっしょ」
「瀬良くんは今日も、お休みかしら……?」
五十鈴が赤城の後ろの席に視線を向けると、同時に教室のドアが力強く開けられる。
「おは」
スポーツバッグを担いだ金髪のジャージ姿が、遅刻もなんのそのという様子で教室を見渡す。
「噂をすればなんとやら……!」
赤城の席の左右に陣取っていた舞風と五十鈴。舞風は長門の席から椅子を拝借していたらしく、慌てて返そうとしたが「あ、いーよ。使ってて」と辞された。長門はそのまま教室の反対側のロッカー棚に行儀悪く腰掛ける。
「あ、瀬良! 今クラスTシャツ配ってんだけど、瀬良もクラスマッチ出る!?」
「たりめーじゃん。そのために来たんだよ」
長門の返事を聞いた高橋くんは「今年の優勝は俺らのもんだ~!!」とガッツポーズを掲げる。高橋くんから受け取ったTシャツを広げた長門は、「いーじゃんこれ」と早速ジャージと自分のTシャツを脱いで袖を通し始める。気に入ったようだ。
高橋くんは実行委員の書類に目を通しながら、そのうちの一枚のプリントを掲げる。
「うちは男子が他のクラスより二人少ないんだ。人数不足のとこに補欠を回したくて、一人は決まったんだけどあと一枠がな。俺実行委員だから入れなくて……」
「決まってなかったの?」
「瀬良が来たら瀬良に頼もうと思って選手登録保留にしといた!」
「本番明日だぞ!?」
クラスからツッコミを受けながら、棚に腰掛ける長門のサムズアップを見た高橋くんは笑顔でプリントに名前を書き込む。
「これでバスケとバレーの優勝は決まったぞ」
「超余裕。俺の敵じゃないね」
日夜ゾンビと戦う男が言うのは説得力が違う。そう思うと噴き出しそうになるのを赤城は必死に抑え込んだ。
「じゃ、一時まで昼休みな! そのあとは各チームごとに集まって、作戦会議! よろしく! 解散!」
高橋くんはそう言って、元気よく教室を後にした。先ほど書いた選手登録書を提出しに行くのだろう。
「お昼ご飯買ってくるね。先食べてて!」
「おけまる~」
「お気をつけて」
舞風と五十鈴に見送られ、赤城は昼食の調達先に迷ったが近所のコンビニへと向かう。購買はどうせ人の嵐だ。
「あっ、緒方さん!」
「東雲さん」
廊下には霰がいた。美術の授業で同じ班になっていたため、しばしば話す仲だ。
「Tシャツ凄いね、緒方さん絵も上手いのに、デザインもできるなんて。どうやったら浮かぶの?」
「そんな、あたしは……褒められるようなことは……」
霰はあわあわと手を振る。
「えっと……うちのクラス、あたしみたいな暗……あ、いえ、大人しい人から、高橋くんや瀬良くんみたいな明るい人までいろんな人がいるけど、皆が力強く戦えることを表現しようと思って……イメージがすぐに浮いたの」
「ふうん?」
「あたし、市立図書館によく行くんだけど、ときどきそこで見かける男の人がいるんです。スラッとしててクールそうな、知的な人で……」
赤城の脳裏には代替イメージとして、長門の相棒である某文学青年が浮かぶ。
「でもあたし、この間見たの。その男の人が、女の人を助けるところ……」
(時雨さんも確かに、人を助けてるな……)
「そして日本刀を振るって、その女の人を襲ってた変な化け物を倒すところ!」
「ぶふッ」
「し、信じてない!? 信じられない……よね……? あたしもあんなの……ラノベみたいな……」
「いやっ、信じるよ! 大丈夫!」
信じる信じないの次元ではない。赤城にはその男のフルネームも好物もやべえ妹がいることも把握済みである。というか、普通に毎日顔を合わせる先輩である。今朝も挨拶した。
(緒方さん……隔離区域に迷い込んだことあるんだな……)
クラスメイトが身近であの恐怖と危険に晒されていたことに、やや心が重くなる。
「同じ人でも、場面や状況が変わると、違う面があるんだなって思って。それを表現しようとして……、」
歩きながら話していると、廊下と階段への分かれ道に差し掛かった。
「あっ、あたし、本を返しに行くから……こっちなの」
「そっか。また後でね、緒方さん!」
図書館へ続く渡り廊下へと向かう霰と別れてから、赤城は自分の下駄箱のある正面玄関へ続く階段に向かう。下駄箱には見慣れたジャージ姿があった。
「んぉ? 赤城パイセンじゃん。ちっすちっす」
「ちっすちっす」
今年に入ってから、有事の避難に備えて学校指定の上履きは体育館シューズのような紐の運動靴へと変わった。自分のローファーと履き替えて立ち上がると、長門がそのまま待っていた。
「赤城もご飯買いに行く?」
「うん。昼からあるかどうか分からなかったから、お弁当作らなかった。瀬良くんも?」
「だって購買のメロンパンも焼豚丼も売り切れてたし」
「……今朝もなんか仕事あったの?」
「うん。でも避難も済んでたし、雑魚処理だけだったし、時雨が大丈夫っつったからそのまま学校来た」
「あ……」
時雨の名に、先ほどの霰の話を思い出し、話してみることにした。
「ふーん。スラッとしててクールで知的……なあ……」
「瀬良くんとは真逆だね」
「うるせー。どう見たって俺の方が背高いしいかしてる」
「はいはい」
「あ! 聞いてねえ顔だ!」
コンビニは案の定名坂高生で繁盛していた。
「うわ、すごっ」
「いっつもこんなんだよ」
そう言いつつ、威圧的な風貌の長門には周りがほんのり道を開ける。……ジャージはともかく、金髪長身なのは長門の意図によるものではないのだが。赤城はこれ幸いと、長門の背に続いて狭い店内を進んでいった。
学校に戻ってくると、屋上で食べて昼寝すると言う長門とそのまま別れ、教室へと戻る。五十鈴とともに、赤城を待ち構えていたのは目を輝かせた舞風だった。
「ちょっと赤城!? 説明してもらおうかぁ!?」
「な、何を!?」
「瀬良長門と二人でコンビニ行ってたらしいじゃないですかぁ。目撃情報あったんすよォ」
「はっ!? 別に、行き先一緒だったからってだけだし!?」
「赤城さん、瀬良くんとはお話しする間柄なのね」
「ぐほぁ」
しまった。支部では作戦行動を共にすることをはじめとして普通に話していたが、学校ではさほど話してはいなかった……ように思う。というか長門が学校に来る頻度が低いせいもあって、クラスにおける長門の存在はやはりまだ少し近付き難いものがあるのだ。
「話してみると面白いよ。普通に優しいし……」
単なるフォローに過ぎないはずが、なんだかやけに顔が熱い。なんでだ。
結局、ミーハースイッチの入った舞風にあれやこれや訊かれて、かわすのに精一杯だった。
◇
クラスマッチ一日目、当日。
バレーボールだった赤城たちのチームは、トーナメント初戦から三年のバレー部員とバドミントン部員を固めた精鋭チームとかち合ってしまい、あっけなくストレート敗退した。
「運動部員は一チームあたり何人まで、とかいう制限欲しいよね」
「ほんそれ。高橋くんはともかく瀬良くんは帰宅部だから容赦なくぶちこめるし」
「うちのクラス、瀬良くんをこき使いすぎではないかしら……?」
赤城たち三人は、体育館の壁に凭れてスポーツドリンクをだらだらと喉に流し込みながら、他所のクラスの対戦を眺めていた。
「精鋭チーム作ったのはうちも同じでしょ。高橋くんに本郷くん、宇部くん、藤波くん、河内くん、瀬良くん……」
「は~、野球部、バド部二人、卓球部、バレー部……」
(……あと、アンセラ退治部?)
と、ばたばたと「あ! 萩尾たちー!」とクラスメイトの一人が駆けてきた。
「第一体育館で、次うちのバスケAチームやるって! 円陣組むって言ってる! 早く!」
「え!? もう!?」
「三年の超強いチームがいるんだよ。まじやばい」
「ぅわぁ、やっぱバスケの壁は3-4かぁ。北上きたかみ先輩いるもんな」
第一体育館は、近年耐震と近隣住民の避難所も兼ねられるよう整備され、アリーナのように観客席がある。しかしどうせなら間近で見たいと、コート脇へ陣取ることにした。
「2-5!」「「おーっ!」」
相手クラスは同じ二年だが、発声練習を繰り返したりと気合い十分だ。
「やば。赤城先輩、ちょっとあいつらイキってますねぇ。やっちまってくださいよ」
「私かよ……」
クラス集団の中で舞風とつつきあっていると、パス回しのウォーミングアップを終えた長門たちが戻ってきた。
高橋くんが高らかに告げる。
「2-3! 居るか~! 円陣組むぞーッ!! 朝練習した通りに行くぞ!」
コートの中央に赤城たちクラスメイトがわらわらと集まる。
「女子~! 恥ずかしがんな! 選手の間入って!」
「野郎共士気上げろーッ!! 女子と密着だーッ!!」
「宇部うるせえww」
舞風にぐいぐいと押されるままに輪に入ると、随分と上から肩を組まれた。後頭部で束ねた柔らかな長い金髪が、さらりと赤城の頬に落ちる。
「瀬……良くん!」
「見てろよ赤城、名坂のエースにしてS部隊隊長」
赤城にのみ聞こえるような小声でそう言うと、円陣のコールに入る。
「Are you ready!?」
「「Yeah!!」」
「Put ya guns on!!」
「「Yeah!!」」
コート脇では試合を終えた3-4組が2-5と入れ替わりながら、円陣を眺めていた。
「英語?」
「あのでかいの、帰国子女なんだってよ。アメリカかイギリスか忘れたけど」
「あぁ……あの金髪ね。ふぅん。そーなんだ」
「あ、おい。北上、見ないのか?」
「興味ないし。水ぐらい飲ませてくれよ、大井おおいさん」
「お前また、そうやってサボる気か」
「はわわ~、さっすが瀬良ちゃん! カッコいい!」
「あっ……朝比奈くん!? なんでここに……」
「彼氏の応援なんて当たり前でしょ? はぁ、またボール奪った! スッゴ~い」
いつの間にか赤城の隣には一年のはずの初瀬が陣取り、長門の一挙一動作に黄色い声援を送っていた。
「ふむ、本郷くんのバドで鍛えた機動力を生かしてドリブル突破、包囲を瀬良くんが長身で突き破り時にはボールを奪いシュートを狙い、ゴール下に控える河内くんがバレージャンプで叩き込む……」
「舞風? 何そのスポーツ漫画によくある解説キャラムーブ?」
「意外なのは瀬良がディフェンスなことだな……体格的には文句無しだが奴の性格を考えるにオフェンス特化だと思っていた……これは認識を改める必要があるな。どうだ赤城」
「どうもこうも。マジでお前誰だよ」
第一試合の流れは、長門たちのチームにあった。
「俺ら、なんか百年に一度の天才な気がしてきた!」
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「天才ですから!」
しかし相手チームも食い下がり、ボールを奪いつ奪われつを繰り返す。
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「ビビんな! でけえだけだ、バスケ部じゃない! ただの帰宅部だ!」
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「凶悪な笑顔……?」
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「朝比奈くんは黙ってて」
いつの間にかギャラリーには自分たちのクラスの試合を終えたらしい一年が集まっており、きゃいきゃいと観戦していた。
「あ、いた! 本郷さ~ん!」
「藤波先輩! ファイト~!」
「あのでっかいヤンキーみたいな人が、噂の?」
「そうそう! 怖いよね」
長門を知らない一年生からの評価に、赤城は思わず噴き出した。
「分かります。怖いですよね、長門先輩」
「わ、五月雨ちゃんいつの間に……」
「お疲れさまです、赤城先輩。私だってバスケットボールで華麗に活躍する時雨くんを見たいのに、今朝その話をしたら『俺は球技は苦手だ……』ですって。剣道種目の追加を提案します」
「時雨さん、あんなに身軽だしスポーツ強そうなのにね」
「時雨くんは高校の体育祭でも選抜リレーの選手でしたよ。もちろんアンカーで他のクラスを颯爽と追い抜いて……はい……大変でした、とても」
静かな嫉妬の怒気を含む五月雨の声に、赤城はそっと視線をコートへと戻す。彼女の指す『大変』の始末を考えるだに恐ろしい。
赤城たちの目の前で、本郷くんからパスを受けた長門が踏み込む体育館シューズの底が床板を踊る。放たれたロングシュートは、吸い込まれるようにリングを抜けた。
「……長門先輩は、頭がいいですよね」
「ぅえっ?」
「戦闘において、の話です。普段から凶暴だとか言われてますけど、なんていうか、戦場のギリギリな世界において初めて鞘を抜くような」
「ふぅん……?」
長門の言動からしても、お世辞にも聡明だとは思えない。が、あの日赤城が放ったクロスボウの矢に対する反応は、確かに常人のそれを越えていたように思う。動き回る長門の脇腹には、癒えきらぬ生々しい傷痕が見え隠れしていた。
「……あれ?」
「? どうしました?」
「あ、ううん、何でもない……」
赤城がふいに思い出した光景は、先日サービスエリアで大和と食事をしたときのものだ。
大和は数人前をぺろりと平らげて満足そうにしていたし、赤城はそのさまを見て非常に驚いた。彼がお勧めするメニューを分けて貰ったし、それらも美味しかった。それと同時に、この人はさっきアンセラになりかけていたとは思えないなとつくづく考えていた。医師業に追われている、丁寧ながらぴんと張り詰めた雰囲気とはうってかわって無邪気な姿に意外さを覚えたものだ。
(……そうだ、私……)
赤城とて、背後から現れた千代田に撃たれた筈だ。痛かったし、苦しかった。なのに、サービスエリアではその痛みは全く感じなかった。身体機能の異常もなかったし、『撃たれたことを忘れてすらいた』。
(…………なんで?)
撃たれた直後の光景を、思い返す。脳がそれを拒否する。思い出すべきではない。思い出すべきではない!
「……い、赤城先輩!」
「ほわっ!?」
目の前に重い塊が飛んできた衝撃で我に返る。ボールをコートへと投げ返してスコアボードを見ると、試合時間は残りわずかだ。
「大丈夫ですか、赤城先輩? 長門先輩に見とれてました?」
「なんでよ」
チームの勝利はもはや確実で、舞風たちは決勝戦で当たるであろう3年チームの分析会議を始めている。
「北上先輩って人がどんだけ強いか知らないけど、瀬良ちゃんの敵じゃないからね♡」
「まだいたんだ朝比奈くん……。そういえば朝比奈くん、五月雨ちゃんと同じクラスなの?」
「違いますよ。こんな妄想癖の変人と一緒にしないでください」
「えー!? ブラコンに言われたくなーい! 近親相姦の方がヤバいしー!」
きっぱりと言い放つ五月雨に、初瀬はきゃんきゃん吠える。似た者同士だろうと言おうものなら刺されそうだ。
賑やかな体育館に、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
「ぅげ」
赤城たちクラスメイトのもとに凱旋した長門は、飛び付いてくる初瀬を見るなり露骨に嫌な顔をした。
「カッコよったよ瀬良ちゃん! 知ってたけど! おめでとう♡」
恋人アピールをしておかないと、ライバルが増えるというのが初瀬の言い分らしい。死んだ目の五月雨がそう赤城に教えてくれた。
「気持ちは分かりますが……」
「分かるんかい」
ヒーローショーを見た日の、時雨の腕に組み着きたがる五月雨を思い出しながら静かに納得する。時雨は時雨で、『妹とはそういうものだろう』と全く気にしていないのが恐ろしい。
明日の決勝戦に向けてのクラスの士気は十分だった。
◇
手入れの行き届いた日本庭園を横目に、和風家屋の渡り廊下を歩いていく足音が三つ。
「ふうん、見事なもんだ。これほどの庭を監獄のような塀で隠すのは実に惜しいな」
異国の軍服に身を包んだ大柄な男は、板張りの廊下を杖で叩きながら歩を進めてゆく。
「過去の栄光……遺物を修復したまでのこと。鼠といえど、見えるもののみで満足致しましょう」
「日本人ってのは称賛を素直に受け取らんな、まったく」
杖をつく男の少し前を、細身の青年が歩いて行く。彼らの先頭には、長い黒髪を切り揃えた少女がこちらには興味もなさそうに、事務的に案内してゆく背中がある。
「こちらです」
少女がひとつの障子の前で立ち止まり、膝をついてゆっくりとそれを開く。案内されたひとつの和室に、大柄な男は髭に包まれた口角を愉しげにつりあげ、杖を持ち上げてみせた。
「嫌がらせにしては単純すぎやしねェか?」
「まさか」
青年は和室へ踏みいると、そのまま部屋を横断し、突き当たりの襖を開く。
「……どうぞ」
襖の奥には廊下が続いている。
赤い絨毯の敷かれたそれは、洋間へと続いていた。
「先日の、あの獅子のような男は、本日は?」
「んん、ああ……。あれは莫迦ではあるが勘は鋭い。それに、今日は別に護衛されなきゃならねェような用事はねえ筈だろう?」
「流石はカイザー閣下。……話が早い」
左半分を包帯に巻かれた青年の顔、覗く右目がゆるりと細められた。
「にしても……日本建築と洋風建築をくっつけるたあ、こりゃあ贅沢なことだ」
卓についたカイザーは、反り返って笑う。仰いだ視界には、さながら英国の建築技術を用いて組まれた天井とそれを支える格子がある。目の前に置かれた資料には目もくれず、目線だけを正面に座る青年へと向ける。
「で、どうなんだ、鯉池は」
「かねて機関と近しい者がおりましたので、呆気ないものでした。四大支部のひとつがああも落ちるとは、向こうの士気にも関わりましょう。まあ……元より中央からはもっとも遠い支部。捨て石という話も否定はできませんが」
「……スギノト、だったか? あれといい、連中は随分と市民様の扱いが丁寧なことだ」
「ああ……杉戸と言えば。北方にも第五支部を設ける計画がある模様で」
「はッ。そりゃそうだ、極東が落ちりゃ太平洋はがら空きだ。お上の圧力は凄ェだろうよ」
杉戸市とその一帯は、コードファクターの感染爆発を起こし地域ごと封鎖された。
その際感染誘発を先導した旗艦個体、個体識別名『アケボノ』は、地元有志による自警団や連合防衛隊の妨害を受けるも、自警団の最後の一人が討ち取りに失敗し離脱したため、生き残っていたコアを機関に回収された。
行われた実験のうちメインとなったのは、己が食べた人間の記憶や顔立ち、声の修復機能回復の可否だ。複数人格の混在は見られたが、日常に擬態するには十分と判断され、動向監視付きで試験運用がなされた。より後に食べた者の記憶や意思の影響を多分に受けやすいのか、杉戸戦終盤に食べた者らに擬態することが多かった。名坂制圧戦の下準備として指定された名坂の地へ送り込まれたのち、インストラクターだった食事の記憶を利用し、誘発因子調整水を用いて潜在感染者の増加を成功させていた。
が、先月TEARS名坂支部に裏をかかれる形で敗北し、機関による組織片回収も不発に終わった。
「……はん。ざまぁねェな」
「旧型とはいえ、杉戸封鎖に関する情報は機密指定され、発症誘発因子の存在も秘匿されていた筈です」
「あの戦闘、もとい虐殺を生き残った自警団ってのは、今どこに居るんだ? あれを生き延びるんだ。相当な手練れだろ。いくら機密指定とはいえあれを逃がした以上、因子を知られてもおかしくはねェ」
「……」
青年の脳裏に、かつて軽く目を通しただけの資料が過る。杉戸封鎖戦を生き延びたという、ひとりの少年のデータだ。
(萩……なんとかいう、……あんな男が、アケボノを一人で討ったとでも?)
カイザーの言うような、相当な手練れにはとても思えなかった。
(『ゼクス』いや、……『アインス』、か)
己のスケープゴートたる《桐島》からの口頭報告を思い返す。
「名坂支部は制御因子さえ投与し、自戦力として運用しています」
「はッ。アンセラを殺すのにアンセラを使うってのか……ああ、いや……自戦力をアンセラにする、か」
(それぐらい知っているだろうに、白々しい)
苦い感情を腹の底に押し込める青年に、カイザーは身を乗り出して低い声で問う。
「で。名坂支部のドンってのは、渋谷武蔵で間違いねェんだな?」
「……?」
それこそ今更だ。渋谷武蔵の左遷先こそ、軍人の墓場たる名坂支部だ。
「こいつァ確認だ。俺はな、ダチの仇討ちにドイツくんだりからはるばる来たんだ。あんたが名坂を落とすんなら、首領の首は俺が貰い受ける」
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「あの男はテメェの手に余る。そうだろ? 俺は借りを返せる。あんたは仕事が進む。アインスもゼクスも、好きにすりゃあいい。迷う価値すら無いと思うがね」
男の物言いは青年の神経をいくらか逆撫でしたが、背に腹を替えられぬ青年は、黙ってカイザーの手を握り返した。
「せいぜい期待させて貰うぜ、キリシマ」
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