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前編

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 両親は厳しかった。
 靴の脱ぎ方から箸への触れ方に至るまで、叱責されない日はなかった。
 ──お前は周りと違うのだ。ひとよりも優れ、彼らを導く立場の人間なのだ。
 その決まり文句は、小鳥遊霞にとって誇らしかった。この厳しさには価値がある。自分は特別な人間であるからこそ、級友達は気にも留めない箇所にまで神経を研ぎ澄まし、そしてそのすべてにおいて[[rb:優 > まさ]]っていなければならない。

 そう信じて疑わなかった。
 周りの大人達は父や母、そして自分に対して深々と頭を下げる。
 当然だ。僕は──選ばれた人間なのだから。


 そんな誇りが砕かれたのは、小学五年生の頃だった。
 高級ホテルの絢爛なホールに並ぶ、真っ白な丸テーブルとその上を彩る食事。
 両親に連れられて、霞もそこにいた。
「ご無沙汰しております、霞様」
 オーダーメイドのスーツに身を包んだ重鎮たちが、霞に敬語で挨拶をし、頭を下げる。幼いながらも風格を湛えた返答をする霞。彼らが何者であろうが、霞にとっては知ったことではない。
 と、人の海の隙間から現れたのは、自分と同い年くらいの細身の少年であった。綺麗に整えられた柔らかな黒髪と夜色の涼やかな瞳をした彼は霞と目が合うと、「君が霞くんですね」と微笑んだ。
「……? 誰だお前は。馴れ馴れし……」
 言いかけるや否や、突然後頭部が乱暴に掴まれ、霞の視界は己の爪先と絨毯に変わる。
「何してる、霞! 頭を下げろ!」
 霞の頭を押さえた父親が、己の隣で深々と頭を下げている。
「父上……?」
「申し訳ございません、大和様。愚息にはよく言い聞かせておきますので……」
 頭を下げている? この僕が? 自分とそう歳の変わらぬこんな子供に?
「顔をお上げください、叔父上。気にしていません。歳の近い方とお会いできて嬉しいのです」
 目の前の少年は、さらさらと言葉を紡ぐ。しかしその言葉の意味は、霞の耳には入らない。
 世界が大きく揺らいだ気がした。
 他人より優れ、勝り続けていた己の人生に、黒星を突きつけられた気分だ。

 小鳥遊大和。
 己に床を見させたその少年の名は、霞を呪いのように縛り付けた。


 *

「……、……? ……なんだ、おまえは……?」
 そこに立っていた男の、その涼やかな瞳に、霞はいやというほど見覚えがあった。
「ご挨拶が遅れました。小鳥遊財閥現当主・小鳥遊幸作が嫡子。次期当主候補筆頭、小鳥遊大和です」
「…………?」
「大丈夫です? 頭ボケました?」
「いや……大和は今、そこで……」
 霞の指が力なく示したモニターでは、『小鳥遊大和』の生体認証により解錠されるゲートが表示されている。
「……」
 大和は音もなく小さく鼻で笑った。
「もう何年も会ってないうちに、僕が増殖してますね」
「騙したのか……? 私を……?」
「騙されたのは貴方でしょう」
「違う。……違う!これは──」
 霞はよろよろとパネルを操作し、そして動揺を振り切るように傍らの装置に並んだスイッチを手早く押した。動作状況を示すランプが、緑から赤へと変わる。

「──本物の小鳥遊大和ではない!」

 *

「止まれ、侵入者! さもなくば撃つ!」
 開いたゲートの向こうからも、銃を構えた防衛部隊が駆けてくる。
「囲んどいてさもなくば撃つぞは俺並みのバカっしょ」
「同感だ」
 相手の動きから察するに、訓練は受けているようだがアンセラでもない一般人をむやみに殺傷することは得策ではない。
もうひとりの『小鳥遊大和』は、製薬会社が武装とは随分なことだ、と皮肉りながら、太刀の刃の上下を引っくり返す。
「悪いが、俺達もこれが仕事でな」
 峰が防衛部隊の持つ銃──ハンドガンを弾き飛ばす。
 床を滑るそれを拾い上げた長門は、玩具を手に入れた子供のような顔で手の中でくるくると弄んだ。
「いいもんみっけ」
 そんな長門の背後に、警棒のようなものを手にした隊員の一人がにじり寄る。ゆっくりと振りかぶり、狙いを定めた瞬間──
 時雨の足払いが隊員の接地を刈る。
「っ!?」
 想定範囲外からの不意打ちに大きく動揺した隊員の首に素早く長門の腕が組み付き、一瞬で隊員の盾が完成する。
「さもなくば撃つんだろ? やってみろよ」
 人質のこめかみに銃口を突きつけて嗜虐的な笑顔に歪む長門に、周りの隊員たちは一斉に銃を向ける。
「卑怯者め!」
「撃たれたくなければ離せ!」
 喚く一同に長門は銃口を向け、破裂音が廊下に響いた。
「……!!」
 敢えて逸らして放たれた弾丸はリーダー格の隊員のヘルメットを掠め、バイザーにヒビが入る。
 と同時に、視界が急に白くなった。
「うわぁッ!?」
 上から水が降ってきたのだ。
 着弾によりスプリンクラーのパイプが破壊された為だった。あたりには警報音が鳴り響く。S部隊は混乱に乗じ、時雨が薙ぎ倒した進行方向の敵を踏み越えて奥の区画へと駆け出した。

「う、うぅ……」
「あ、やべ忘れてた。こいつ連れてきちった」
 長門に抱えられている隊員は、失神していたのか呻いてもぞもぞと動く。
「そんな大荷物を忘れるのか!?」
「だって動かなかったもんこいつ!」
「仕方ない……お前にも働いてもらうぞ」
「お、俺ですか……!?」
 時雨の言葉を受けて、未だ混乱している隊員は間抜けな声をあげた。

 *

「馬鹿め、大和……! その先は行き止まりだ!」
 モニターに表示された監視カメラの映像を見ながら、霞が声を張り上げる。
「はは、は……もうオリジナルに用はない。自分から餌箱に飛び込んでくれるとは、有り難いな!」
「僕が言うのも何ですけど、人を見る目がありませんねぇ」
 霞を背後から眺めている大和は、呆れたように呟いた。
「お前、大和に変装して私を騙すつもりだとでもいうんだろうが、残念だったな。銃の下手な金髪を護衛に回したのが仇だ。本命は今から死ぬ」
 大和は退屈そうな顔をしたまま何も答えない。霞はどうやら、時雨のことを大和だと信じ込み、目の前の男は偽物だと思っているようだ。
(……ほ、本当に、見る目がない……)
 霞とは小学生だか中学生だかの頃に二、三度顔を合わせただけだ。それも、家の形式的な行事である。他にも同じ場に居合わせることは無いこともなかったようには思われるが、特に用事も興味もなかった。
 先ほど霞が発した台詞を長門が聞いたら抱腹絶倒するだろう。
(瀬良長門ほど拳銃の扱いに長けた男は名坂には居ないんですけどね……)
 そう思いながら、大和は己が袖を通す白衣のポケットに左手を滑り込ませた。

「……。……何をする気ですか?」
「ほら、偽物。お前も見るといい。これはアンセラの制御試験場だ」
 モニターに映った真っ白な部屋を指差す。駆け込んだ長門たちをわらわらと隊員が取り囲むさまが見える。
「制御試験場?」
「文字通り、アンセラを制御するための部屋だ。研究はもう投与段階だ。実際に生体に投与してコントロールできるかどうかをテストする」
「生体に投与!? ……まさか、あのトラックで運ばれてきた子供たちを?」
「そうだ」
 霞はあっさりと頷いた。
「この時世だ、親を喪った子供も少なくない。また、子供はエネルギーの瞬間消費耐性が高い」
「……」
 霞の言葉に、大和は音が出るほど歯噛みした。
「……正気ですか?」
「なに?」
「生きた人間を、……子供を、実験に使うなど。正気かと問うているんです」
 はあ?と苛立ち混じりに霞が詰め寄る。
「我々の使命は目先の一人一人ではない。もっと大局を見ろ! 人類の希望を背負わねばならない、これは富める者にしかできないことだ! それがどうして分からない!」
「そうですね、聞き飽きました。それが人殺しに加担する言い訳ですか」
 大和は、霞を振り払い──あるいは己の怒りをも振り払おうと──傍らのデスクへと歩み寄り、腰で軽く凭れる。
「この研究が人を救う。コードファクターの完全制御ができれば、もうこんなクソみたいな時代は終わる! 誰も喰われなくていい、誰も! 死ななくていい!」
「未来の為ならば、その礎として今、人が死ぬのは構わないと?」
「犠牲なしに勝利は有り得ない。当たり前のことだ! 必要な犠牲だ! その為に身を切る覚悟が、俺にはある!」
 霞は、小鳥遊の人間として、家訓を誰よりも重んじてその信念を貫いてきた。EA機関から提携を打診された際、今までの努力が一気に報われたと感じた。人類の希望、その仕上げ段階。悲しみと憎しみしか生まない息の根を止めるための刃が、我が手に託されたと。

「──ふざけるな。」

 大和は凭れた机の上に置かれた紙束を乱暴に掴み、そのまま放り上げた。A4サイズの用紙に印刷されたそれは宙を舞い、視界を白く染める。
「……ッ!!」
 ──目眩ましか。
 霞は姿勢を低くし、紙吹雪──というにはあまりに大きい──の向こうに隠れた大和へと狙いを定める。
「人ひとりも救えない連中が、大衆を救えるわけがない」
 舞い散る白い壁の向こうから、夜色の影が突っ込んでくる。
 ──遅れをとった!
「ふざけるな……、ふざけるな!ふざけるなァッ!」
 霞が懐から拳銃を抜き放つ。と同時に大和はその懐に飛び込み、スライドを押さえ込まれた引き金はびくともしない。
「だから貴方は、駄目なんですよ」
 そのまま銃を持つ手を捻り上げ、背負い投げの要領で床へと叩き落とす。
「ックソが……!!」
 大和の胸倉を掴んで強引に引き倒す。腕力勝負ならば、体格に勝る霞の方が有利だ。さらりと揺れる黒髪を掴んで床に叩き付け、馬乗りになる。叩き付けられた衝撃で一瞬軽度の脳震盪を起こしたのか、大和の動きが鈍った。
 その隙に勢いよく首を掴み、上から押さえつけて気道を塞ぐ。
 大和がそれに抵抗して両手が塞がった隙に、その眼前に銃口が突き付けた。
 霞がその標的を見据えた瞬間、視界できらりと一瞬光るものがあった。
「……?」
 大和が提げていた、ネックレスが反射したのだ。
 霞はアクセサリーの類いに興味は無いが、この期に及んでこいつは着飾って涼しい顔をしている。それはひどく、気に食わなかった。

 ぱん。

 甲高い音が響いて、銃を握っていた霞の手に衝撃が走る。
「大和さん!!」
 霞が振り向くと、部屋の入り口にはクロスボウを構えた少女が肩で息をして立っている。
「何だお前、……この俺を射ったのか?」
「……っ」
 霞を気丈に睨み返しながら、赤城は第二射を装填する。
「赤城さん、後ろ!」
「このガキを撃て、千代田!!」
 大和と霞が叫ぶのは同時だった。
「!」
 赤城が振り返ると同時に、破裂音とともに鮮血が舞った。
「赤城さん!!」
 倒れる赤城の背後に姿を表した、その人物を見た瞬間──

  ──え?

 小鳥遊大和は、己の目を疑った。
 肩口で切り揃えられた茶髪。すらりと長い手足。少し勝ち気なつり目。
 銃口を向けるその女性は、紛れもなく、有賀ちとせそのものだったのだ。



「ねえねえ小鳥遊くん、理Ⅲのノート見せて欲しいんだけど……!」
 放課後の教室にひとり残っていると、その少女は唐突に声を掛けてきた。
「えっ……?あまり見せられるものではありませんけど……どうぞ」
「ありがとう~!じゃあさっそく……うげっ!?」
 受け取ったノートをぺらりと捲った彼女は、あからさまに妙な声を出して驚いた。
「……何か?」
「いや……何って凄いねこれ、先生の言ったこと全部メモしてんの?余白ないじゃん!?」
「走り書きなので汚いですよ」
「そんなことないって! ていうか、そんな敬語じゃなくって良いよ、あたしそーゆーの不慣れだし? 堅いじゃん。クラスメイトなんだしさ? てかあたしの名前わかる?」
 彼女は当たり前のように前の座席に腰掛けて、向かい合ってくる。
「……有賀ありがさん」
「苗字じゃないよ、フルネームだよ、小鳥遊大和くん!」
「ええ………、………すみません。名前覚えるの、得意じゃなくて」
「だと思った! あたしは有賀ちとせ。何でもいいよ、ちーちゃんとか? もうほんと、馴れ馴れしくていいよ。てか小鳥遊って苗字、変わってるよね。小鳥遊製薬と一緒じゃん?めっちゃCMしてるやつ」
「……たまたまです」
「そっか。……あ。明日、あたしここ当てられるんだよね~。ここ分かんなくてさ」

 彼女に一通り教え終わった頃には、外はとうに暗くなっていた。
「小鳥遊くん、教え方上手いね?! やっぱ学年トップは違うわぁ……爪の垢煎じてってやつ? てかごめんね、こんな遅くまで付き合わせちゃって」
「いえ、どうせいつもこの時間まで自習してるので」
「マジで~!?」
 騒がしい人は苦手だ。いつもクラスの中心にいて輝いている彼女はまさに、苦手なタイプだ。
 それが小鳥遊大和が、有賀ちとせに抱いた第一印象だった。



「特待生入学したの? 大和くんって」
「いや、一般枠だよ」
「ええ!? なんでさ!? そんなに頭いいのに? 勿体ないよ! ここ私立だよ?」
「はは……」
 持病のある家族を抱えた実家が貧しく、医師になって助けたいというちとせは授業料免除の特待生枠で入学し、その継続のために成績を維持する必要がある。
 大和もまた特待生枠を得ることはそう難しくない優秀な成績を修めていたが、実家が裕福であるため、『富めるものは貧しいものを救うことが使命』という家の方針に従い、敢えて特待生枠は使わずに他人に譲る形で一般枠受験をしたのだ。
 格好をつけるようで気恥ずかしくて、それはちとせには言えなかった。
 始めは騒がしくてどうにも苦手だと思っていたが、大和のアドバイスを真摯に聞き入れて勉学に励む彼女の姿は、まさしく大和が目指すべき姿のように感じられた。

 進路調査のプリントには、向かい合ったそれと同じ志望校の名を記入した。
 それが、大和にとって初めての、反抗期であり、思春期だった。

 *

「大和はさ、絶対いいお医者さんになるよ」
 マグカップに満たされたコーヒーが、医学書をなぞる視線の端にあらわれた。
 置かれたものと色ちがいのマグカップを手にした女性、有賀ちとせが己に向けられた視線に気付き、悪戯っぽく微笑む。
「……どうかな」
 嬉しさと照れくささをうまく表現できない自分自身への情けなさを隠すように、小鳥遊大和は渡された赤色のマグカップに唇を添え、ゆっくりと傾けた。
「ぅ熱ッ!?」
「そりゃそうだよ。今淹れたんだから」
 ちとせがけらけらと笑う。この笑顔こそ、医学生時からずっと大和を支え続けてきたものだ。そのままちとせも青色のマグカップに口をつける。
「ぶふッ」
「わざとか!?」
「違う!あたしのは先に淹れてたし絶対冷めてると思った!」
 こんな莫迦なやり取りも、もう何度繰り返しただろうか。そしてこれから、何度繰り返すのだろうか。
 机の引き出しにしまい込んだ指輪を、大和はまだ渡せずにいる。

 *

「あたしね。お医者さんの白衣って着てみたいんだ」
「ただの白衣だよ。レンタルリースの」
「違うんだよわかってないなぁ、ちょっとでいいから着せてくれたまえよ小鳥遊先生ぇ。このとーりだよぉ」
 両手を顔の前で合わせながら、あざとく小首をかしげて見せる。わざとらしいなぁ、と思いつつ、落とさないよう胸ポケットからPHSやボールペンを抜き取っていると、「あ、だめだめ、そーゆーのもそのままに着たいの」と制止された。
 大和は決して大柄な体躯ではないのだが、細く小さな身体にはさすがに男性ものの白衣は袖が余る。ちとせはベッドから飛び起きて、腕をまくってポケットに手を突っ込みポーズをとって見せる。人気女優が演じる、強気で破天荒な天才外科医のドラマの真似だろうか。
「ハイヒールがあれば完璧なのになぁ」
「流石に持ってないよ、そんなの。医者がどれだけ歩き回ると思ってるんだ」
「なぬー!国試受かったら医者気取りかー!まだ研修医のくせに、なまいきだぞー!」
 大和の腕をぽこぽこと拳が叩く。
 安寧の時間を、味気ないPHSの着信音が引き裂いた。
「また来てよね、小鳥遊せーんせ」
「気が向いたらね」
 小鳥遊大和は、昼下がりの病室をあとにした。



 指定された会議室は、ちとせのいる棟にあった。
 シナリオに沿った無意味な会議を終え、エレベーターを待つ年長医師たちを横目に階段を駆け降りる。ナースステーションのカウンターで目が合った看護師長に目礼を返す。この廊下を、あの病室へ向けて、何度歩いただろうか。
「師長。誰です?」
 大和が通り過ぎた後に、奥から作業中の看護師が声を掛ける。 
「研修医の……誰だっけ。ほら、美人のほうの……」
「あー、小鳥遊先生。最近よく来られてますよね。つか師長マジで面食いすよね」
「ここ十年で最高の顔面よ。あたしら飲み仲間の間ではあの人のこと『若』って呼んでんの」
「いやボジョレーヌーボーかよ。若って何すかそれ」
「通い婚」
「アホすか?」

「何書いてるの?」
「わっ!?」
 大和が声を掛けると、ちとせは何やら書いていたノートを慌てて閉じてしまった。
「ちょっと大和! びっくりさせないでよぉお……!?」
「ごめんごめん。僕に気付いてなさそうだったし、真剣に何を書いてるんだろうって」
「別にいいじゃん、何でもさ! そ……そのうち言うしっ!」
 頑なにノートを隠そうとするちとせの姿に、先程の会議の内容が過る。

 ──。

 背筋をぞっと冷たいものが滑り落ちた。目が一瞬で乾くおぞましさを振り払うように、思わずちとせの腕からノートを引ったくる。
「っ……」
 大和の剣幕に圧されたちとせは、申し訳なさげな表情で素直に抵抗を諦めた。
「……ご、ごめん。本当に大したものじゃないんだ」
「え……? 書類は……?」
 ノートを慌てて捲っていた大和は、そこに何の紙も挟まっていないことに怪訝な顔をする。
「へ、書類? えと、や、全然違くて……そのぉ……引かない?」
「……変な同意書とかでなければ」
「なに勘違いしてんのさ。超しょーもないんだけどね……」
 照れた顔でノートを指さし、大和から受け取るとぺらぺらとページを捲る。
「……見取り図?」
「うん。こんな部屋に住めたらいーなー、っていうか……あはは」
 いつもの、向日葵のような笑顔を浮かべるちとせは、耳まで真っ赤にして照れている。
「ご、ごめん……」
 とんでもない勘違いをしていたことが急に恥ずかしくなり、大和もまた自分の頬が熱くなるのを感じた。
 大和の憂いをよそに、目の前の花は、とうに未来を見据えて凛と咲いているのだ。
「まったく、小鳥遊せんせーは心配性だなぁ。この楽天家の夢を叶えておくれよ」
 茶化しながら細い指がノートの線を指す。
「窓は大きいのがいいな。太陽が射し込んでさ、午後とかにこの辺でごろ寝できるの。あたし昼寝好きじゃん?」
「うん」
「キッチンはさ、リビングに向かい合ってて欲しい。テレビ見ながらさ、わーわー言って支度すんの」
「そうだね……この四角は? 机?」
「あ、これね、……ここにちょっとした棚? が欲しいんだ。その……写真。……家族旅行、とかさ、記念写真をここに並べていきたくて……」
「……」
 思いもよらないアイデアに、大和はしばし返事の声を失う。
 家族旅行?
 大和が血相を変えて奪い、ちとせが『大したものじゃない』と称した大学ノートには、そのどちらにも当てはまらない、未来予想図が詰められていたのだ。
「へ……変かなぁ」
「変じゃない。絶対に作ろう」
 語気を強めた大和の声に、ちとせは顔を上げる。
「……婚礼写真から並べていかないとね」
 真っ直ぐに見詰められるのが照れくさくて、思わず目を逸らして声が揺らいでしまう。
 ──ああ、情けないなぁ。こんなことも目を見て言えない。
 ちとせの両手が大和の右手を握って、嬉しそうに答えた。
「当たり前じゃん。あたしが納得いくまで、いっぱい撮ってもらうからね!」
「……こら、ちとせ、指輪は外しておきなよ。また怒られるよ」
「いーじゃんいーじゃん。看護師さんが来たらちゃんと隠すもんね!」
 そう言いながら今度は大和の左手をとって、無理矢理腕時計を確認する。
「痛い」
「え~、そこは喜べよぉ……てかもう検温じゃん。やっば」
「誰かさんが引き留めるから」
「何言ってんの、いきなり来たのは大和じゃん!?」
 ちとせは唇を尖らせながら、しぶしぶ指輪を外してサイドテーブルの鍵付き引き出しを開ける。薄型のアクセサリーケースを取り出して、その定位置に指輪を収めた。傍らに飾られたネックレスは、誕生日に大和が贈ったものだ。誕生石のトパーズがあしらわれた、細身の上品なシルバーネックレス。ちとせはこれをひどく気に入り、どこに行くにも着けていたし、入院の際には着けられないと知りながらも病室に持ち込んでは眺めていた。
「好きだね、それ」
「あたしの宝箱だもん、どこにでも持ってくよ。あぁでも、金属だから火葬はダメか。そしたら大和が持っててよ」
「やめろ、縁起でもない」
「大和くんは知らないだろうけど、あたし実は不死身じゃないんだよ?!」
「はいはい。早く治そうね患者さん」

 大和と入れ違いに、担当看護師がカートを押して病室に入ってくる。
「有賀さん、今日は顔色が良いですね」
「えへへ、やっぱり? 今すごく調子良くて」
 看護師が差し出した肘枕に腕を乗せる。看護師はその腕に血圧計のカフを巻きながら悪戯っぽく小声で告げた。
「……師長が言ってましたよぉ? いい男は女にとってどんな治療より特効薬だって」
「何ですかそれ~? やめてくださいよぉ血圧上がるじゃん!」
「十年に一度の色男先生の為にもバリバリ治さないと、ですよ」
「あいつほっといたらコンビニ弁当とか冷食しか食べないんで、ちゃんと教えてやんないと」


「……」
「……」
「……逢瀬はお済みかな、小鳥遊先生」
「…………すみません」
 持ち場に戻った大和を待っていたのは、険しい顔をした指導医だった。

 *

 病院の一角。
 冷たく薄暗い廊下で、それはリノリウムの床を睨んでいた。

 病院関係者以外の立ち入りを想定していない、壁の手すりや長椅子もないただ四角い空間。何の飾り気もない、ステンレスの扉。

 あの日、画面に映し出された小さな空洞を指した震える指先に、担当医は「有意な所見ではない」と一言だけ返した。
「お願いします。せめてマーカーの検査だけでも」
「しつこいよ小鳥遊先生。君はこの患者にいやにこだわるね。主治医は私だ。私の治療方針に文句があるのなら──」

 わかっていた、担当でもない研修医にできることなど何もない。
 なにも、なかったのだ。

 薄汚れた廊下の先にある無機質な扉の向こうからは、換気機器の絶え間ない音と──ときおり金属どうしが奏でる、カシャンという軽い音が聞こえてくる。
 小鳥遊大和はそんなもの、何度も見てきた。何度もそこにいた。医学生の頃から、ただ仕事のひとつだと割り切っていた。
 原因の解明、究明。その正義を疑いもしなかった。ベッドに眠る患者が運ばれてくる。白い長靴を履いた医師たちに囲まれ、布団をめくり、病衣を掴まれて、金属のトレイに載せられて。ゴン、と頭がトレイにぶつかる音がする。壁のモニターに表示された数字をボールペンで手元の記録用紙に書き込むと、観音開きのドアが開く。無機質に眩しい白色灯に目を細めながら周囲の医師たちに続き、その銀色の部屋へと入っていく。
 換気扇の轟音が鳴り響く銀色の部屋に入れば、患者の病衣はただのラッピングだ。ラッピングを手早く剥がされたそれは、そのすべてが真っ白な蛍光灯のもとに露になる。
 「お願いします」の気怠げな声が響き、大振りな刃物とペンチが乗ったトレイが横たわる腹の上に無遠慮に置かれる。
 青白い皮膚に、メスが沈む。静かに赤い涙が滑り落ちて、ステンレスの台に落ちるとそのまま洗浄水に流されて消えてゆく。観音開きになった胸に露になった白い籠を、大きなペンチのような形をした切断器具を持った医師が覗き込む。
 ばつん。
 ばつん。
 ばつん。
 そうしてひとが、モノに変わる瞬間を、何度も見てきた。
 何度も。
 正義を盾に、その裏にある悲しみから目を背けて。

 季節は肌寒い。そんな時期に、病衣一枚だけを身にまとっていたちとせ。体を冷やしては大変だと、己の白衣を被せるわけにもいかない。
 被せたところで、何にもならない。

 神がこの世に居るのなら──僕はここに居なかった。要らなかった。

 病理解剖室。
 有賀ちとせは、そこにいた。

 有賀ちとせだったものが、そこにあった。

 *

 突き当たりに現れた、だだっ広い空間。追っ手を倒した後、『それ』はいつの間にかそこに立っていた。
 真っ白な髪に血の気のない肌。対照的に不気味なほど真っ赤な瞳が、虚ろに長門と時雨を捉えている。
「お前はさっき、車の上にいたアンセラ……!?」
 時雨が身構える。
「……」
 アンセラは答えない。口を縫いつけられているようだ。
 パーカーのような着衣のポケットから、スマートフォンのようなデバイスを取り出す。その画面に、さらさらと文章が現れた。
「……なんて?」
 画面の文字を読むには、今の間合いではやや遠い。
『あれはE16 オレたちの《にいさん》』
「にいさん? ……兄、か」
『オレのしごと ここをまもる』
 アンセラは少し腰を落とし、今にも飛び掛からんとする。
「だろうな。俺らはあんたの仕事の邪魔しに来たんだ。さっさと子供を返してもら──」
 銃を構えながら発された長門の言葉に、アンセラは目を少し見開いた。
『こども たすける?』
「ああ。ここにモルモットとして子供が連れてこられているだろう、それを取り返しに来た」
 無口のアンセラは少し首を傾げて、考える様子を見せた。
『こどもを つれてかえる?』
「あ?」
「待て瀬良。こいつは……意志疎通ができている?」
『ここのへや こども コードファクターうつ』
『だめなこども アンセラなる』
『たすからない アンセラたべる オレのしごと』
「……」
 長門は要領をいまいち得ていないような顔をして、銃口をアンセラに向けている。
「……ここに連れてこられた子供は、因子投与の実験をされている。不適合の子供は、アンセラとして発症してしまう。……アンセラになれば、助からない。だからそうして発症したアンセラを、お前が喰っている……んだな?」
 無口のアンセラはこくりと頷いた。
「おま、どうした時雨? 杉戸のあいつ倒したらアンセラ語までマスターした?」
「……適当に繋ぎ合わせた勘だ……」
『すこし たす』
『おとな つよいアンセラ ほしい』
『こども ころしあい させる』
「!」
 因子を投与した子供同士を戦わせ、淘汰させている。ここで行われているのはただの実験ではなく、何らかの選抜も兼ねているようだ。
『オレも このこども』
「……」
『オレ にんげんで びょうきした』
『いんし げんきになる』
『おきた まっしろ』
 ホールに、キンと一瞬、放送か何かのスイッチが入るような音がする。

『こども たすけて』

 そう表示されたスマートフォンが支える手を失い、目の前のアンセラの口がごぱりと大きく裂けた。
「発症を誘発された……!?」
「つか元々アンセラなのにいまさら発症とか言うんかな?!」
「そ、それは知らないが……」
 長門と時雨が改めて武器を構える。
「……やるぞ!」

 *

□八時間前 名坂支部 本館会議室

 ブリーフィングを終え、一同は会議室を後にした。赤城もそれに習って退室しようとしたとき、ルイスに呼び止められた。
「はい?」
「頼みたいお仕事があるんですけど~、構いませんか?」
「頼みたい……? 私にできることなら……いいですけど」
「わぁ。赤城さんにしか頼めなくて。ちょっとした護衛をお願いしたいんですよぉ」
 言いながら、ルイスは赤城に付箋を手渡す。
「指定時刻に、そこにお越しくださいね~☆」
 付箋には第二駐車場という文字と、車のナンバープレートらしき四桁の数字が書かれている。
 何だかこのようなシチュエーションに既視感があるような、ないような。

 定刻に指定された車のもとに向かうと、細身の男性が現れた。
「……へっ??」
 妙に雰囲気が異なっていたため一瞬戸惑ったが、悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑うその片腕が義手の男に、赤城はとても見覚えがあった。
「……お久し振りです、赤城さん。杉戸のアンセラ退治、お疲れ様でした」
「やややややや大和さん!?アンセラに襲われて生死不明って聞いて心配したんですよ!?髪切ってる暇があったら無事ですのひとことぐらい言ってくれたらどうなんですか!?」
 赤城は勢いよく大和に掴みかかる。綺麗に長かった黒髪は、今は鎖骨に届くかどうかという短さに切られてしまっていた。
「わぁ、すみません、ありがとうございます。お元気そうで何より……」
「敵にばれたらまずいっていうのは分かりますよ。でも!だからって!私たちにも黙ったままなんて……何かあったら気軽に相談してくださいって言ってくれたじゃないですか。不安で、怖くて、寂しくても……大和さん居ないし、皆忙しそうだし、ピリピリしてるし……」
 捲し立てる赤城に驚いたように目を見開いてから、やがてその涼しげな柔らかな微笑を浮かべた。
「……、……すみません」
「すみませんで済んだら俺ら要らないって、瀬良くん言ってました」
「これは手厳しい……。……不安にさせてごめんなさい。お気の済むまで、いくらでも、僕のことを謗ってください」
「えっ……」
「パンケーキ、ですっけ? 美味しいお店があるんですよね? お礼……いや、お詫びとして、そこで好きなメニューを好きなだけご馳走します」
「……。……約束ですよ?」
「はい」 
 大和はやはり、あまりにも女の扱いに手慣れているように感じる。
(大人ってずるい。すぐこうやって丸め込むんだから)
 なんだか悔しくてむぅと膨れたままの赤城を横目に見ながら、大和はやはり可笑しそうに笑う。
「僕にはやはり……隠れているより、こうして皆さんと関わる方が性に合ってますね」
「そーですか」
「そーです」
 走り始めた車内に、しばし沈黙が流れる。
(……あれ? 大和さん……)
 ハンドルを握る左手、その薬指に、銀色の指輪が光っていた。
(…………ですよね~)
 何だか落胆したような、それでも安心とも納得ともつかないごちゃごちゃの感情が赤城を脱力させる。
 今までは医療従事者という仕事上、アクセサリーを身に付けていなかったのではないか。ネックレスとピアスはいつも見ていたが、指輪を見つけたのは今日が初めてだ。
「大和さん。あれですか? 不在ってもしかして、……奥さんとお出かけとか、してたんです?」
「んぶっ……はい??」
 赤城の問い掛けがあまりに予想外だったのか、運転手は半分噴き出した。
「あぁ、これですか? ……にしても、女の人って本当に鋭いですよね……」
「鋭いっていうか、見えてますけど。普通に」
「普通指まで見ますか?」
「見ますよそりゃ! そんなにきらきらしてたら!」
「ふふ」
 笑って誤魔化したな、と赤城には容易に理解できた。本当にずるい大人だ、と思いながらシートに凭れる。しばらくの静寂ののち、やがて大和が口を開いた。
「……婚約指輪なんです」
「! どんな人ですか? お淑やかとか、お上品とか?」
「真逆です。長門くんのような」
「へっ!? あんな!?」
「ええ、似てますよ。向日葵みたいに明るい人でした」
「……えっ……」
 その語尾に、赤城がこれが大和にとって残酷な話題だったことに気付いたのと同時に。彼は静かに付け加えた。
「彼女は死にました。あまりに多くのものを残したまま」

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前を見据えて、思わずハンドルを握る手に力が籠った。

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