CODE;FACTOR -コードファクター-

ゆづのすけ

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前編

CODE;FACTOR CODE;05 rain & offshoot

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「そうつれないこと言わないでおくれよ。寂しいじゃないか、次期当主様」
 アパート前の道路に横付けした、ミニバンの車内。エンジンの小さな振動をともにする招かれざる乗客が、最後列に居た。
荷物を運ぶことが多い大和のこの車において、三列目のシートははじめから畳まれておりトランクルームと一体化している。成人男性であっても十二分に潜める広さがあった。
「……」
 大和はカウンターコーヒーの飲み口に口を付けたまま、スマートフォンの画面に視線を落としている。ふと、思い出したかのように顔をあげた。
「……ああ、そうだ。長門くんを眠らせてくれたのは感謝します。……不快な人物に遭ってから、自室でよく眠れていないようだったので」
「それはどうも」
 茶髪の男は、ルームミラー越しに大和の瞳を睨み返しながら口の端をつり上げて笑顔を作る。
「僕には分からないんだよ。小鳥遊のワクチンが完成すれば、文字通り世界は君のものになる。何百、いや何億人という罪なき人々が救われる。だというに、君はそれを継がない。一人でも多くの人を救うのが医者だろう?ああ、それとも……」
「……」
「人ひとりさえ救えない君には、無理かな?」
 その一言は、大和の激情を誘うに十分な筈だった。が、それに応えたのは、大和ではなく、トランクドアだった。
「こんばんは☆」
「ッ!?」
 勢いよく開かれるトランクのドア。それと同時にエンジンの重低音が響き渡り、ミニバンが急発進する。
 慣性により、トランクにいた男が車外へと転がり落ちた。その男を、三発の銃弾が射抜いた。
「あッははは!!良いですねぇ良いですねぇ、痛がってください?演技力の見せ所ですよぉ?あははは!!」
 サイレンサーを装着したスナイパーライフルを携えたルイスが、無様に転げ落ちた男を見下ろす。ブーツのヒールが、男の背を刺した。
「ふふふふっ。そうでしょうそうでしょう、治らないでしょう?」
「う、ぐッ……?」
 のたうつ男を、愉しそうに蹴飛ばす。
「色々訊いてみたいことはあるんですけど、それは本物じゃないと。偽物に用事はないので、僕と踊ってもらいましょうか」
 ルイスがワンフレーズ発するごとに関節をひとつずつ、弾丸が撃ち抜いていく。対コードファクター破壊因子コーティング加工を為された弾丸に撃ち抜かれた肉は焼け、アスファルトが鉄板でもあるかのようにジュウゥと音を立て雨に晒されてゆく。試作段階とはいえ、同じく試作複製体である肉体にはよく効くようだ。
「かわいそうに。オリジナルになりたくて頑張ってたのに、こうやって切り捨てられて、雨の中でオモチャにされて。ふふっ」
 男は答えない。答えられない。
 既に喉を撃ち潰され、声帯はその機能を失っている。
「……」
 既に抵抗の体力を失った標的に、ルイスの瞳から興奮の色が消える。もう飽きたという様子で頭部に銃口を向けた彼の傍らで、ひとつの足音が止まった。
「……僕に、やらせていただいても良いですか」
「僕はもうコレには興味がないので構いませんけど……?」
 大和の申し出に、ルイスは不思議そうにしながらも素直に銃を手渡す。
「分家、まして模倣品とはいえ小鳥遊の人間には、僕が始末をつけます」
 受け取った銃を構え直し、雨に洗われる肉片の頭部に狙いを定める。
「愚か者には、天罰を」

 *

「もう、大人しい顔して本当に人使いが荒いですよねぇ?直帰しますだなんて、しかも今から来いだなんて」
「すみません。コンビニがあったので、時間稼ぎはしたつもりですが」
「まあ、赤城さんをそのままほっぽりだすわけにはいきませんしねぇ~」
 ミニバンの車内。
 処理班の肉片回収と始末を待つ間、ルイスは助手席でコンビニの期間限定さくらパフェプリンを頬張りながら、報酬としてそのパフェを買わせた雇用主に急な呼び出しの苦情を申し入れていた。
「日本人、味覚センスどうなってるんです?」
「舌に合いませんか?」
「逆ですよぉ。その辺のチェーン店舗にこんな美味しいデザートがあるだなんて」
 正体は人間に擬態した異形だったとはいえ、人を撃ちまくった後にこんなに美味しそうにデザートを頬張れる精神構造もどうかと思うが、それは己も同じことかと思い直して大和もまた缶のポタージュに口をつけた。
「何にせよ、赤城さんの居場所が敵に知られたのは痛手ですが。得たものだってありますよぉ。敵は確実に赤城さんを追っている」
「少々急ぎすぎたかとは思いましたが……赤城さんをうちに呼べたのは幸いでした。勿論、寮なら安全だという話もしています……ですが、赤城さんは、入寮をどこか迷っているように見えました」
「赤城さんは来ますよ。悪いとは思いますけど、彼女には少々高い授業料を支払っていただきましたので」
「……まさか」
「いえいえそんなぁ、別に手なんか出してませんよぉ。むしろ逆」
 ルイスの口振りから、大和は彼が何を指しているのかをおぼろげに察したらしい。
「…………」
「大和さん。もう賽は投げられちゃったんですよ。迷ってる暇はありません」
 大和としても、それは重々承知している。
 TEARSとして、軍人として。そして小鳥遊の人間として。いくら大和が跡継ぎを拒んだとて、小鳥遊の家から逃げることは不可能だ。TEARSには小鳥遊製薬に言えない機密情報もある。それと同じように、小鳥遊製薬にもまた、TEARSには明かせない極秘の動きがある。二つの組織に身を置く大和の目から見て、事態はまったく良い方向に進んでいるとは言えない。それを誰にも打ち明けられない、打開策を打ち出せないもどかしさが、大和に躊躇いを生んでいた。

 東雲赤城を校長室で初めて見たとき、大和は内心愕然とした。
 東雲赤城は、ただの少女だった。
 己が何なのかも分かっておらず、のほほんと学生生活を謳歌していた。大和の説明に難しそうな顔をしていた。彼女を巻き込むべきではなかった。第二の瀬良長門を生み出すに等しい行為だ。
 『赤城』が何であれ、あの少女そのものは、ただの一般人になれていたのに。
 笑顔で己を慕う彼女の瞳を、真っ直ぐに見られないままでいた。

 *

 目が覚めると、そこは見慣れた車内だった。
 妙な姿勢で寝ていたためか、全身が痛む。伸びようにも、長身を構成する腕や足がシートにぶつかって、彼の意識を強制的に覚醒させた。
 車内には既に運転手や赤城の姿はない。車が現在停まっているのは、オートロックマンションの駐車場だ。
 ドアロックが掛かっていることを確認し、ポケットからスマートフォンを取り出して、マンション内に居るであろう車の主にコールする。
『はい、大和です。おはようございます、長門くん』
 電話の相手はすぐに出た。
「……はよ」
『鍵ですね?今開けに行きますから』
 そう告げると、電話は切れた。
 以前同じように車で眠ってしまった際、起きてドアロックを自分で内側から解除して降りると、車のセキュリティアラートが作動し大和にしこたま怒られたことがあった。今回はその教訓だ。
 やがて、マンションのエントランスから見慣れた影が駆け寄ってきた。起きてからそう時間が経っていないのか、長い髪は結ぶことなく、スラックスにワイシャツ姿だ。肘から先が空っぽな右腕の袖口が、彼の動きに合わせてひらひらと揺れる。
「狭いところですみません。赤城さんはともかく、長門くんを僕では一人で上へ運べないので……」
「大丈夫大丈夫。よく寝たよ」
 眠っていた長門が昨夜の出来事を知らないであろうことを察した大和は安堵した。模造品とはいえあの男は、長門の心に深く傷を残した張本人だ。その傷が未だ癒えていないことも、明らかだった。
「今何時?」
「四時半です。まだ時間はありますし、シャワーでも浴びますか?」
「そーする」
 大和が住む新築のオートロックマンションは、郊外の住宅地に建っている十階建てだ。採光を重視した近代的な建築で、見張らしも良い。
 昇り降りが面倒だと言うあたりが彼らしいが、それでも最上階と九階をまるまる買い取っているこの男の財力は流石小鳥遊財閥の御曹司と言うべきか。もっとも、彼がまだ製薬会社に勤務していた頃に買ったものだ。思い入れは少なからずあるようで、少し離れた名坂支部に勤務する今も、継続してここに住んでいる。最上階というのは防諜上、結果的に役に立っている。
 他の一般入居者が使用できる中央エレベーターは最上階直通ではなく、八階で止まる。十階へ向かうにはエレベーターを乗り換えるか、階段を昇るか、直通の非常用エレベーター──動作点検などという名目で、実質大和の専用エレベーター状態だ──を使うかのいずれかだ。大和は普段非常用エレベーターを使ったが、長門はわざわざ八階で停めて降り、そこから階段を駈け上がることを好む。身体を動かすことが好きな彼らしい話だ。
 十階に到達したエレベーターの扉が開くと、そこには得意気な顔をした長門が息を弾ませて立っていた。
「朝の運動ですね」
「そうそう」
 大和の自室は、階下の一般フロアと異なり、間取りのひとつひとつが広く設計されている。これはかつて、婚約者が語った間取りをそのまま再現させたものだ。独り暮らしの大和には広すぎる気もするが、長門をはじめとして彼の部屋に泊まるものはさほど少なくもない。
 仕事の都合などで支部で寝泊まりすることも少なくないが、やはり寛げる自室も良いものだ。

「んじゃ大和ぉ、シャワー借りるね」
「はい、どうぞ」
 脱衣室の扉が閉まる音を聞きながら、点けたテレビに視線をやる。未明のニュース番組ばかりで、どこの局もEA機関の新理事長就任を報じていた。他に放送できるような目立ったトピックもないのだろう。画面の中では、昨夜雨に濡れていたものと同じ顔の男が、爽やかに演説を垂れている。
(桐島……ね)
 長門を迎える前に淹れていたため少しぬるくなったコーヒーを口に含みながら、つまらなさそうにその顔を眺める。武蔵はこの男を見て、彼の知る『キリシマ』という男とは髪の色や質も背格好も声も、まったくの別人だと断じていた。大和はキリシマという男を知らないが、何にせよキリシマと無関係ではないだろう。敵に大きな動きがあった以上、一層の警戒が要求される。
 昨夜撃った男は、その体細胞を自在に変化させられるという特性を持ったものだった。処理班に持ち帰らせルイス主導のもと解析を進めるよう指示を出したが、敵には既に、実在する人間に擬態させ固有の意思を持つ細胞体の制御に成功する技術があるということになる。大和は敵には既にその可能性があったことを把握できていた。まだ組成が不完全な試作段階であったためコーティング弾で対処でき、あの場で仕留めることに成功したのが救いだ。あたかも男が長門を眠らせているかのようにハッタリを仕掛け、そのハッタリに男が乗り長門を起こさなかったのも大きかった。長門の体力消耗が激しいことも把握していたし、彼が起きないことは予想済みだった。日頃から前線に出続けている彼を不必要に交戦させることは避けたかった。赤城がコンビニで随分と迷っていたことで、ルイスを含めた処理班の到着への時間を稼げたことも大和に利した。
(にしても、オートマ車って凄いな。あれほどの急加速が可能とは)
 ルイスはルームミラーとサイドミラーの視角を把握しており、ミラー越しに大和にのみ視認できる角度から接近していた。振り落とせるかはあの場で思い付いた賭けだったが、愛車の馬力は、彼の期待にそれ以上に応えた。急加速をもってしても長門が起きなかったことは流石に予想外だったが。

 ソファに置いてあった義手を右腕に装着する。はじめこそ手間取ったが、神経接続時の痛みも含めて、もう慣れたものだ。手を握ったり開いたり捻ったりを繰り返して、今日も動作に問題がないことを確かめる。
 着替えながら脇目に見る天気予報では、雨はしばらく続くらしい。
 長門を送るついでに、アパートに寄って赤城も連れていこうか。しかし、連絡をするにはまだ時間は早すぎるようにも思われた。

 空になったマグカップを眺めて、広いリビングをぼんやりと見やる。もしも自分が彼女を救えていたら。もう何度繰り返したかわからない問いを反芻する。あの時、担当医に逆らえていたら。その後悔は恐怖となり、今も大和の歩みの足枷となる。
伏せられた写真立ての傍らに置いてあるシルバーのネックレスを首に掛ける。チェーンこそ男性のそれに付け替えたが、トップは女性ものだ。彼にとって後悔の象徴だった。

「あがったよ~」
 乾ききらないままの髪をヘアゴムで結わえた、着替えのTシャツにジャージ姿の長門がリビングに入ってきた。そのままリビングに向かい合ったシステムキッチンに立ち、冷蔵庫の中身を確認する。
「お。レタスあんじゃん」
「頼まれてたので買ってきました」
「えらいえらい」
 いくつかの食材と、調理器具が並ぶ音がする。料理が苦手な大和に代わって、泊まりに来たときにはこうして長門が食事を作るのが宿泊費代わりのお約束だ。
「今日もしばらく雨だそうですよ」
「えぇ~、めんどくさいなあ」
「赤城さんのところに寄っていこうと思うんですけど、どうします?」
「良いんじゃない?つかお前マジで赤城好きだね」
「そういう話ではないんですけど……」
「ちとせさん泣くよ?」
「あの人は笑い飛ばすでしょう」
 いや~、大和も若い女の子が好きか~、なるほどねぇ。妬かせるねぇ~!などとけらけら笑う姿は容易に想像できる。もっとも、彼女が歳を取ることは、もう二度と無いのだが。

 とりとめのない話をいろいろとしているうちに、パンの焼ける香りが部屋に広がる。
 日頃の見た目や言動から意外なことに長門は、幼い頃から母の料理を手伝っていたらしく、料理の腕はなかなかだ。母親はイギリス人なこともあり、洋風メニューが得意らしい。スクランブルエッグとハム、パリパリに焼いたベーコン、レタスを挟んだ分厚いホットサンドが乗ったテーブルに運ばれてくる。食べ応えのあるこのホットサンドは、近隣の喫茶店ではなかなか味わえない魅力があり、大和の好物でもあった。半熟の目玉焼きやキューブ状のベーコンが乗った、レタスのシーザー風サラダと、卵のスープ。卵づくしは、なるほど運動量の多い長門にはちょうどいいだろう。
「いつも思うんですけど、売れますよ、これ」
「別にこんぐらい誰でも作れるじゃん。焼くだけだし」
「長門くんの言う『誰でも』には、少なくとも僕は含まれていませんね」

 雨天のせいか、空は暗いままだ。食器の片付けを済ませていると、大和の通信機が着信を告げた。
「はい、小鳥遊です」
『もしもーし?あ、僕です~☆ 今お時間大丈夫ですか~?というか、ちょっと急ぎの用件なんですけど』
「はい」
『槻戸より支援要請あり、予想最大レベルは三。現在配置中の戦闘部隊がDE部隊、あと時雨さんなんですよぉ。で、五月雨さんがですね、出撃したいって仰るんです~。その出撃許可をお願いしたいんですけど』
「五月雨さんが?」
『はい。何でも時雨さんは似たような個体と杉戸で交戦経験があるらしくて。長門さんはそちらにいますし、赤城さんも居ませんし。人数不足を補いたいと』
 杉戸。故郷を、愛しい人を奪われた悔しさは、萩原兄妹も同じだろう。
「……分かりました。E部隊に仮編入し、レベル一の対処をお願いします。時雨さんをレベル三に集中させ、D部隊をその支援に回してください」
『了解です~☆』
 やり取りを傍らで聞いていた長門は、ドライヤーで乾かしてきたらしい髪を手櫛で整えながら「朝っぱらなんて珍しいね」と声を掛けた。
「俺要るかな?」
「口振りからして、おそらく敵を時雨さんが既に確認。レベル三への対処自体は彼一人で何とかなると判断したんだと思います。逆に言えば今は名坂は丸裸なので、のんびりはしていられませんね」
「最強の強面が居んじゃん。瞬殺だよ」
「それはそうですけど」
 鬼武蔵の異名を取る司令官は伊達ではない。日向が率いる名坂支部剣道部は社会人大会において県内や地区大会でも強豪だが、渋谷武蔵の前では赤子も同然だ。
「ん、赤城から返事来てる。よろしくお願いしますだってさ」
「わかりました」
 二人は予想外に慌ただしく自室を後にする羽目になった。

 *

 長門からあと五分ほどで着くと連絡を受けた時、赤城はアパートの廊下を歩いていた。
 外は生憎の雨が続いていた。昨日帰ってきたときよりも雨足は強い。廊下には吹き込んだ水溜まりがいくつかできており、それらを跨いでミニバンが停まるであろう道路を目指していた。
 いつも大家には帰ると挨拶をしていたが、昨日大和に送ってもらった際には、大家の部屋には灯りが点いていなかったため留守だと思い訪れなかったのだ。
 朝にはなってしまったが、声だけでも掛けていこう。そう思い立ち大家の部屋の呼び鈴を押したが、返事はない。料理好きな大家は作業中手が離せないことがしばしばあった。案の定、扉の鍵は開いている。

 玄関に踏み込んだ瞬間、赤城の本能が、逃げなければと叫ぶのを感じた。足が震え、唇が氷のように冷たくなる。腕が、喉が、足が痺れる。それでもただ、大家が無事であることを確かめたかった。
 つい先日、談笑しながら鍋をつついたローテーブル。その上に、女性が仰向けに横たわっていた。
 食い散らかされた腹からは白い骨と茶色に変色した細長いチューブのようなものがこぼれている。
 アパートに見知らぬ金髪の男を連れてきた赤城をからかって細められていた、少し皮膚のたるんだ穏やかな双貌は、いまは虚空を見つめている。赤城とともにお菓子を頬張っていた口はだらしなく開かれ、顎が落ちているせいで頬が痩けている。土色の顔はまるで別人だ。


 大家が、腹を食われて死んでいた。




「長門くん!」
 大和が鋭く叫ぶ。長門はダッシュボードからハンドガンを素早く抜き取ると車の停止も待たずに助手席から飛び降り、アパートの一室へと土足も構わず駈け込んだ。
 へたり込んだ赤城の前に立ち、大家だったものに銃口を向ける。
「……死んでる」
『……そうですか。赤城さんは?』
 長門が赤城に向き直ると、瞬きすら忘れた様子で亡骸から目を離せずにいた。ジャージの上着を赤城に頭から被せ、視界を遮る。
「怪我はなさそう。他に誰もいない……とは思う。一応見てから、車に戻るよ」

 大家は食われた衝撃による絶命がコードファクターの寄生よりも早く、感染発症に至らなかったものと思われる。室内を一通り見て回ったが、やはり大家を襲ったらしい者の姿はどこにもなかった。長門が索敵から戻ってきても、赤城はジャージを被ったまま動けずにいた。
「……」
 抱き締めた小さな身体は、小刻みに震えている。
 見慣れた部屋で親しい者が無惨な姿に成り果てる悲しみを、長門もまた嫌というほどに知っていた。当たり前の平穏が崩れるのはいつも一瞬だ。

 長門に抱きかかえられてきた赤城は完全に憔悴しきっており、受け答えもできない状態だった。後部座席で長門に支えられ、やっと座っていられるという有り様だ。
「これで学校行けっつーのも酷でしょ。立てないよ」
「……そうですね」
「とりあえず医務室に連れてく?」
「山城さんにお話してみます」

 名坂支部の医務室に赤城を預けて、司令官執務室を目指し本館への中庭を歩いている長門のもとに、時雨が駆け寄った。
「瀬良」
「ん、おはよ。どう?」
「今朝の襲撃、俺の方は問題なかったんだが……レベル一に対処した部隊が練度不足で負傷者が出た。今医務班で二次判定にかけさせているが……油断はしないでくれ」
 発症者と交戦し負傷した者は、コードファクターに感染していないかどうかの簡易的な検査がキットにより行われる。コードファクターに抵抗できる抗体を持っていたり感染の心配がない場合と異なり、疑いが強い場合にはさらに精度の高い二次判定にかけられる。戦闘に不馴れな部隊であるため、念のために二次判定にかけたのだろう。
「妹は?」
「五月雨は怪我こそしたが、転んだ際の傷だ。感染の可能性は低い」
「ちげーよバッカお前、だからってほったらかして来たの?慣れない戦闘で不安がってるかもじゃん?」
「……そ……そう言われると……す、すまない……」
 時雨は珍しく項垂れた。親しい者が傷付く姿に動揺しているのが見て取れる。自分がついていながら、という不甲斐なさは、おそらく彼を今後さらに強くするだろう。
「ま。後はいいからさ、五月雨んとこにいてあげなよ」
「……わかった……。恩に着る。……ついでに上着も着ろ、風邪引くぞ」
「うるせーよ。バカは風邪引かねー」


 長門が執務室を訪れた時には、既に大和から武蔵に報告が届いていた。
 執務室には先客としてルイスが居り、中央の執務机に腰掛ける部屋の主は難しい顔をしている。大家が狙われることは、ルイスが予想していたというのだ。
「……は?じゃあ何でお前、もっと言わねえんだよ?大和も……武蔵も、知ってたのかよ?」
 ルイスの胸倉を掴み食って掛かろうとする長門を、武蔵は静かに制する。
「……むしろ逆だ。俺はそんなもん、こいつの提示する可能性のひとつに過ぎんと思っていた」
「……」
「連中が欲しがってんのは赤城だ。目の前に赤城があんのに、それを無視して大家だけを狙うという目的が分からん」
 俺だって分かるわけない、と視線で訴える長門に、ルイスが続ける。
「……それは大家さんが、『ただの一般人』だった場合、に限る話ですけれど」
「…………は?」
 意味を理解しかねた長門が怪訝な声をあげるのと同時に、通信機が助けを求める緊急連絡の受信を告げた。

 *

 視界が白い。
 真っ白な病室だ。

 赤城が目覚めた場所は、医務室の隣に設けられた安静室のベッドだった。オレンジ色のカーテンで仕切られた空間で、ぼんやりと天井を眺める。
 傍らには畳まれた紺色のジャージの上着が置かれている。赤城の知らないその上着がわずかに放つ、よく知る匂いは彼女をずいぶんと安心させた。
 今何時だろうか。
 時計の秒針の音も、誰かの気配も感じ取れない。

 ──静かすぎる。

 そう気付いた瞬間、頭から冷水を被せられたような恐怖が降りかかる。それを振り払うかのように無理矢理起き上がった。震える身体を包むようにしてジャージの上着を羽織り、右も左もわからぬ廊下へと飛び出す。
「……え?」
 廊下には、点々と血痕が走っていた。

 *

 明け方の戦闘では、E部隊に負傷者が生じた。予備班であり、実戦経験が不足していたのだ。多数の患者の処置に、朝から大和ら医務班も奔走する羽目になった。
「小鳥遊先生!」「先生、お願いします!」
 あちこちから呼びつけられる。一人一人に十分な時間をかけられないもどかしさが、大和に歯噛みさせた。
 焦りが滲むのは看護スタッフたちも同じだ。金属トレイがひっくり返る耳障りな音と、悲鳴が響く。
「た……小鳥遊先生ッ!!」
 スタッフの金切り声が耳をつんざいた。
 そんなに叫ばなくても聞こえてい──

 振り返った大和の目の前に、頬まで裂けたヒトの口腔が迫っていた。

 飛び掛かってきた軍人の体格には大和の腕力は敵わない。周囲のカートを巻き込みながらリノリウムの床に叩きつけられる。看護スタッフは患者を引き剥がそうと懸命に服を引っ張るが、びくともしない。大和に馬乗りになって獣のように吼えたくる患者の頬に右手の拳を叩き込むが、上半身を押さえつけられているせいで振り抜きが甘い。その拍子に軍人のバランスが左に大きく逸れる。大和がしまった、と青ざめるのと同時に、


  左肩に鈍く深い痛みが走った。

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