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前編
CODE;FACTOR CODE;03 girl & bear
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「瀬良長門、および同行隊員、東雲赤城。これより索敵を開始する」
長門がそうインカムに告げると、赤城のインカムにも『こちら管制。了解です~』と男性の声が返ってきた。機械を通しているため若干の違和感はあるが、間延びした口調からも声の持ち主はルイスだろう。
先日赤城が襲われた隔離区域の旧呑み屋街とは異なり、こちらは住宅地のようだ。しかし道端に空き缶等のごみが目立つ。あまり治安は良くない場所のように思われる。
「まだ日が高い。あいつらは夜みたいに暗いときとか、日の届かない建物内の方が活発に動くけど、別に日光が駄目なわけじゃない。油断はすんなよ」
「うん……」
塀に背をつけながら区画と区画を抜けて索敵を続ける長門の姿は、そのまま学校で習った戦闘訓練そのものだ。長門は赤城に合わせて速度を落としているのだろうが、それでも不馴れな赤城には速すぎる。
『普段なら、偵察部隊が目標を捕捉してそれをもとに敵の居場所を知るんですけど、今回はミッションEなので偵察部隊が居ません。というわけで、索敵からの訓練です~。長門さんに倣って、周辺状況の把握をしてください』
「訓練!?これ実戦ですよね……!?」
『ミッションE、つまり mission : exam 。試験官が被験者の実力を実戦方式で判定するミッションです。試験とはいえ実戦であることは間違いありません。発見された時点では発症レベル一ではありますが、侵食の進み具合などでレベルの上昇や未発見の発症者が潜んでいる場合もあります。頑張って下さいね~☆』
「ちょっ……!?」
文句を言いたかった赤城を、長門が手で制する。
「黙って。そこに居る」
住宅街の道路の真ん中で、人が蹲り呻いている。人……というには、少し大きい。こちらに気が付いていないようだ。
「とりあえずさあ、好きなようにでいいから、あいつに数発食らわせてみてよ。やばそうなら俺が何とかするって。あいつが飛び掛かるよりも俺の早撃ちの方が速いから」
長門はそう言いながら、武器を構えるジェスチャーをして見せる。
「こちら瀬良。ターゲット確認、レベル一が一体。これよりミッションE、交戦開始する」
『こちら管制。はい、了解です~』
震える手でクロスボウを構え、背後から距離を詰める。これがレベル一?冗談じゃない。
あと一歩。あと一歩近付いたらあの露出した赤い部位に撃ち込もう。そう思いながら近付くほどに、蹲る発症者には指や耳など、人間の部位に見えるものが覗く。
「ボサッとすんな、来るぞ!」
長門の声にはっとした赤城が引き金を引くよりも先に、敵が振り返った。
「……赤城。赤城~。……おーい、赤城ちゃ~ん。……えぇ……?」
赤城はというと、射撃の反動を受けてその場にひっくり返ってしまい、そのまま上の空状態だ。長門の腕の中でぼんやりしている。
「……マジか……」
手を離すと自立できずに倒れてしまう。道路のど真ん中に倒れた肉片の傍らでしゃがみこんで赤城を抱えているのは、ここに餌がありますよと自ら囮になるようなものだ。とりあえずは物陰に移動すべきと考えて赤城を抱きかかえた。
頬に触れる温もりにぼんやりと目を開くと、そこは真っ暗だった。真っ暗ではあるが、確かに温もりを感じる。黒い布だ。
「ん。起きた?」
頭上から降ってくる声は、随分と近い。かなり近い。そっと視線を上げると、金髪碧眼の男の顔がそこにあった。
声にならない悲鳴をあげる赤城の口を大きな手が塞ぐ。
「あーあーはいはいごめんごめん。悪かった悪かった」
周囲に気を配る長門の姿に、今赤城たちがいる場所はいつ襲いかかられてもおかしくないものだということを思い出す。
「その辺に寝かせても良かったんだけどさあ、制服気に入ってるみたいだし、新品だし?いつでも動けるようにやむなしってことで……本当に何もしてないよ。大和に誓って」
そこで何故大和の名前が出てくるのかは赤城にはまだ謎だったが、異性とこれほど密着したことなど彼女の記憶の範囲には無い。黒かった視界は長門のジャージの色だ。……柔軟剤のいい匂いがした。
「索敵すんだけど……あ。見とく?最初の戦果」
言われてやっと、先程交戦しようとしていたことを思い出した。が、赤城には敵に振り返られたところまでの記憶しかない。長門がとどめを刺してくれているのだろが、赤城の矢もかすってでも当たっていれば御の字だ。
長門に促されて、彼の背越しにおそるおそる敵の遺骸を覗いた。
振り返ったのがかえって功を奏したらしい。
咄嗟に引き金を引いたクロスボウの矢は、振り返り大口を剥いた敵の上顎から脳天を見事に貫いていた。
「あんなに接近するとは思わなかったけど……おかげで俺の出番は無かったよ。やるじゃん」
まぐれとはいえ一撃で仕留めたのだ。
唖然としながらも、長門が差し出した拳にそっと己の拳を返した。
あのような遺骸の処理は、相応の知識と装備を持った処理班が片付けるのだという。コードファクターに対する耐性を、常人よりも持つが戦闘に向くほどは持たない。そういった体質の者が専門知識を得て処理にあたっている。組織類は単に捨てるだけではなく、処理をして今後の研究等に生かされる。対コードファクター保有細胞抗体、通称『ワクチン』の開発も、これらの尽力による賜物だ。
索敵を続けていると、キャッチボールができそうな広さの公園に差し掛かる。
「前にさあ……こーゆー公園で唸る声がしたから見に行ったら、茂みで爆睡してた酔っぱらいのおっさんだったことがあんだよね……」
隔離区域とは何なのか。長門の困惑ももっともだ。
「瀬良くんは、お酒とか煙草とかやらないの?」
「お前さあ、俺を何だと思ってんの?どう見てもユートーセーじゃん。」
見てみ?と両手を広げる金髪ジャージ姿は、こんな隔離されたゴーストタウンでゾンビとサバイバルをするような格好ではない。どちらかというと夜のコンビニ前か、青いペンギンのいる黄色い量販店の方がお似合いだ。……その腰に物騒な銃を提げていることを除いては。
「じゃ、索敵の練習ね。この公園、二手に分かれて端からぐるっと回って、向こうで落ち合おう。いい?」
索敵の練習、と言えど、長門はポケットに手を突っ込んで普通に歩いているだけだ。おそらく、一周するのが面倒だったのだろう。彼の様子から察するに、この公園に敵はいないらしい。そう思いながら遊具群の横を通りかかった時、生き物の気配を感じた。
(……何か、居る?)
注意深く、ひとつひとつ茂みを含めて遊具を確認していく。滑り台の裏、ベンチの下。土を盛られた小山を貫くように配置された土管を覗いた時だった。
「あ!?」
「っ……!!」
赤城の声に反応して、ちょうど反対側にいた長門がとっさに銃を向ける。臨戦態勢で距離を詰める長門に、銃を下げろとジェスチャーで伝えた。表情に疑問符を浮かべながら銃口を下げたが、銃はホルスターにしまわずに片手に持ったままだ。長門が訝しんでいると、赤城の横に、5歳くらいの小さな女の子が顔を出した。
女の子──ミユちゃんは、飼い猫を追い掛けていて閉鎖前の隔離区域に迷い込んでしまったらしい。巡回の隊員が来たが、怖くて身を隠し続けているうちに出られなくなってしまったようだ。
「そうだよね……隊員さん、武器とか色々持ってるもんね……」
混乱を避けるため、一般人へのコードファクターの情報は伏せられている。ネットでも様々な情報が飛び交うが、それらのほとんどは憶測によるデマにすぎない。
ミユは大柄な長門を怖がり、赤城の裾を掴んで離さなかった。ミユの緊張をほぐすため、幼稚園で流行っている遊びや好きなキャラクターの話をして歩く。妹のいない赤城には、自らをおねえちゃん、おねえちゃんと慕うミユの姿は非常に愛らしかった。
「……赤城。その子連れて、北へ走れる?」
長門がふいに、低い声でそっと問うた。
「2ブロック先ぐらいに敵が居る。俺はそいつを始末する。迂回にはなるけど……安全策をとる。もしも途中で敵に出くわしたら、交戦はしないこと。その時は北口からの脱出をやめて、俺の方へ誘導して。連絡は随時インカムで。いい?」
長門はゆっくりと銃のマガジンを入れ換える。赤城には分からなかったが、おそらくは弾の種類が異なるのだろう。
赤城が頷いて、ミユを背負う。
長門の「散開!走れ!」という鋭い声と共に、北を目指して駆け出した。
どれほど走ったであろうか、赤城の背でふいに「おねえちゃん、あれ……」と声がした。ミユが指さした方を見ると、住宅のバルコニーに人影がある。
「やあご機嫌よう、お嬢さん」
人影は軽やかに降りてくる。細身の彼の茶髪がさらりと揺れた。長門が大型犬だとすると、この青年は猫……だろうか。
「君はTEARSの人かな?僕としたことが、お腹いっぱいになって寝てたら閉じ込められちゃって。困っちゃうよねえ」
ミユのように、迷い込んでしまった一般人だろうか。服装も特に汚れや乱れはない。怪我はしていないようだ。
「このままじゃ死んでしまうだろう?それは嫌だけど、どうしたらいいのか分からなくて」
「私達、北の出口へ向かってるんです。良かったら一緒に出ませんか?」
「わあ、いいのかい?それは助かるよ。嬉しいなあ、ありがとう」
赤城の申し出に、爽やかな男は手を叩いて喜んだ。
*
赤城たちを逃がした長門は、銃を構えながら路地へ飛び込んだ。
そこには発症者が蠢いている。人間の形を残してはいるが、右肩から腕の部分が大きく欠けている。増殖が不完全なのか、あるいは──
(……喰われた、か)
長門の姿を見ると、醜く折れ曲がった足を引き摺りながら、助けを乞うかのように這い寄ってくる。相貌から涙のように血を流す哀れなその眉間に、銃口を向けた。
*
北口のゲートはすぐそこで、リーダー端末に腕章をかざす。
茶髪の青年は「ありがとう、助かったよ。何もお礼ができなくて申し訳ないな。ありがとう」と何度も礼を言っていた。
ゲートが開くと、そこにはキャンプとスタッフ、そして私服の女性がいた。赤城たちを見るなり、女性は一直線に「ミユ!」と駆けてきた。ミユも「ママ!」と叫んで駆け出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ママ。見つからなかったの」
「いいのよ深雪。ママこそごめんね……」
母の腕の中で、わんわんと泣きじゃくるミユ──深雪の姿に、周囲には安堵の空気が広がった。スタッフは赤城に敬礼をしながら「准尉の指示で、こちらの北口で待機しておりました。ご無事ですか」と彼女を気遣う。
「ありがとうございます。あの……もう一人、若い男の人が……」
「男の人?准尉でしたらこちらに向かうとのことです」
ジュンイ?あの男性はジュンイという名前なのだろうか。赤城は周囲を見渡したが、茶髪の男の姿はもうどこにも見当たらなかった。
「あの、瀬良くんはどこに?」
「えっ?こ、こちらに向かう、と……」
「こちら瀬良。状況終了、隔離区域解除。区域内にて民間人一人を救助」
キャンプ車内でゼリー飲料を飲みながらインカムに告げる長門の声を聞いて、赤城はそういえばいつからか自分の耳からインカムが無くなっていたことに気付く。どおりで長門やゲート外の動向がわからなかったわけだ。走っていたせいで落としてしまったのだろうか、と思いダメ元で携行ポーチを探ると、インカムはそこに入っていた。無意識に外して入れてしまったのだろう。ミユを背負って走っていたのだ、耳にインカムが着いたままだといつ落としてもおかしくない。自分の無意識に感謝しながら、走る車の振動に背を預けた。
「……から……感じ……違…」
「……るほど……態……までに……い……」
遠くで声が聞こえる。意識が少しずつ覚醒してくるのを感じた。
目を開けば、そこは大和に連れられて最初に訪れた応接室だ。机を挟んで長門と大和が向かい合っている。その長門の隣に、ソファに横たわって眠っていたようだ。
「あ。赤城さん、気が付きましたか?おはようございます」
大和の声がして、長門がこちらに振り向く気配がする。大きな手は赤城の髪の乱れを軽く直すと、また戻っていった。
起き上がると、赤城には黒いジャージと薄手のコートが布団代わりに被せられていたらしい。それぞれ長門と大和の上着だろう。長門はというと、上着を脱いでいるからか半袖姿だ。
「おはよう……ございます」
「長門くんから聞きましたよ。大戦果ですね」
大和はどこか嬉しそうだ。
「キャンプで爆睡して起きないんだもんよ。まあ無理もないけどさ……医務室行ったら大和居ねーし」
「僕だって暇じゃないんですよ。なんにせよ、赤城さんに怪我がなくて何よりです」
「えっ俺は!?」
「怪我したんですか?長門くんともあろう人が?」
「しっ……してねえけどさあ!!」
長門はハンバーガーの空袋を握り潰して吠える。二人の様子から察するに、これが彼らの日常なのだろう。大和は中身を飲み干した橙色のマグカップを下ろして立ち上がった。
「というわけで報告書、お願いできますね?」
「えぇー俺!?やだよめんどくさい……」
「赤城さんを武蔵さんのところに連れて行かないといけませんから。赤城さん一人で執務室に行けというのも酷でしょう?いろいろと」
「たけぞうんとこなら俺が行くってばーー!!」
「駄目です、それこそ話が面倒なことになりますから。長門くんもたまには報告書書いとかないと、書き方忘れてしまうでしょうし」
「ちぇー!大和のケチー!おっさん!ド変態!赤城気を付けとけよ、そいつド変態だかんな!」
ぎゃんぎゃんと喚く長門をあしらい、大和は赤城を促した。
「はいはい。では赤城さん、報告も兼ねて、司令官のところに挨拶に行きましょうか」
「執務室はここ本館の三階です。海がよく見えるんですよ。夏には港で花火大会があるんですけど……まさにこの地を護る者へのご褒美とばかりの特等席です」
大和の話を聞きながら、階段を上る。本館の三階へ踏み込むのは、これが初めてだ。
大和は流れるような動作で大きな扉をノックし、一呼吸置いてから「失礼します」と開く。「東雲赤城さんをお連れしました」
こんなもの高校入試の時に練習したが、緊張してどうにもぎこちなかったのを覚えている。そして今この部屋の主は、そんな緊張など非にもならないような空気を纏っていた。
中央の大きな執務机には、これまた大柄な男性が深紅の椅子に鎮座している。
銀鼠色の軍服に、白い重厚な上着を羽織っている。軍帽を目深に被り、その瞳の表情は窺い知れない。その出で立ちはまさしく、殲滅部隊を擁する軍隊の司令官の肩書きに相違ないものだった。
「……東雲か」
言葉を発せずにいると、巌のような低い声で名を呼ばれた。背骨が鉄筋になったのかと思うほど、背筋が伸びる。
「っは、はい!東雲赤城です……!」
返事は裏返り、考えていた挨拶の言葉もどこかへ吹っ飛んでしまった。
そんな赤城の様子を見て困ったように微笑みながら、扉を閉めた大和が続ける。
「はい。本日付でTEARS候補生として名坂支部に仮配属されました、東雲赤城さんです。各種手続き含め正式配属も滞りなく、現在遂行中です」
「ご苦労」
部下の労を手短に労いながら銀鼠の男は椅子から立ち上がり、赤城の前へと歩いてきた。長門も大柄であったが、この男はさらに縦横に大きいと感じるのは、彼が放つ厳の空気によるものだろうか。軍帽を取ると、後ろに流した淡い金髪と、額の大きな傷痕が露になった。
「名坂支部司令官、渋谷武蔵武蔵だ。階級は大佐」
大佐という階級は、さすがに赤城にも聞き覚えがある。……が、具体的にどれほどのものなのかはわからない。ひとつだけ分かるとするなら、日向も堅気ではなさそうだったがこの男──武蔵は首領だ。
すっかり縮こまって小さく震え始めてしまった赤城をしばらく見た武蔵は、大和と顔を見合せ、帽子を被り直しながら「取って食いやしねェよ……」と呟いた。
「大和、模擬戦の調子は?」
「それが……長門くんが『どうせなら実戦で雑魚撃った方がいーじゃん』とのことで、いきなり実地デビューでした。ちょうどレベル一の小規模発生がありましたので、ミッションEを展開しました。結果は上々で、市民の救出にも成功しています。長門くんの見立てとしては、すげえ度胸が据わってる、と」
「成程な……長門が褒めるとは相当だな。期待させてもらうぞ、赤城」
司令官は縮こまったままの赤城の頭を大きな手でわしわしと撫でると、「野郎まみれの軍施設をあまり連れ回しても酷だろ。早いとこ帰してやれ」と大和に告げながらもとの執務机へと戻っていった。
「ぷはぁ……!」
執務室を辞すると、一気に緊張が解けた。足がもつれて、共に出てきた大和の足を踏んでしまう。
「あ、ごめんなさい……!!」
「いえいえ、ありがとうございます」
「えっ?」
「口が滑りました。すみません。お気になさらず」
緊急の救護活動にも駆り出されていた大和だ。彼もきっと疲れているのだろう。忙しい合間を縫って、こうして赤城のチュートリアル活動にも尽力してくれている。義手だとなおさら、赤城には想定もつかないちょっとしたことが不便だったりするのだろう。
「あの、大和さん」
「はい?何でしょう」
「こんな私でもお手伝いできることがあったら、何でも言ってください。……その、沢山、お世話になっているので」
赤城の言葉を受けて、大和はぱちくりと目を見開いてから、柔和な笑顔を返した。
「ありがとうございます。……じゃあ、何か頼りたいことができたら、よろしくお願いしますね」
その笑顔に嬉しさが滲んでいたので、赤城も嬉しい。普段人に尽くす立ち位置の人だ。彼に尽くす優しさがあってもいいのではないだろうか。
帰り際に長門が「西新町っつったっけ?家まで送るよ。こないだみたいに何があるか分かんないしさ」と申し出てくれた。悪いと思って断ろうとしたが、「たけぞ……ああ。さっきのごっついおっさんにも言われてんだよ。それにコンビニにも行きたいしさ、ちょうどいいや」と笑う。長門が軽く掲げてみせる紙袋には、赤城の着替えと荷物がまとめられていた。
二人が正門を抜けたとき、門柱の脇に立った女性と目が合う。困ったような顔をしている。何事かと思いよく見ると、その女性の影に少女が座っていることに気が付いた。
「どうしたの?」
声を掛けると少女は顔を上げ、ぱぁっと嬉しそうな顔をした。
「お母さん、このひとだよ!このひとがたすけてくれたの!」
あの時の女の子だ。
「おねえちゃん、ありがとう……あのね……これね!ミユのお気に入り…」
少しずつ照れ臭くなってきたのか、母親の後ろに隠れてもじもじし始めてしまう。おずおずと差し出された手には、くまの小さなぬいぐるみがついたキーホルダーが乗っている。
「……?かわいいね」
赤城がそう返すと、母親が助け船を出した。
「ミユのこと助けてくれたお礼にね、お姉ちゃんにあげるのよね」
ミユは、笑顔で大きくうなずいた。
女の子は母親に無理を言い、おそらく名坂支部所属であろう赤城をここで待っていたのだという。
帰り道、手のひらのキーホルダーを何度も見返した。
ちっぽけな自分にも、救えた人がいる。その喜びが、赤城の足取りを軽くした。
下宿先に帰ったら、大屋さんに自慢しよう。
長門はこれまで数えきれないほどの人と戦場で出会い、ある時は救い、ある時は見捨ててきた。だが、目の前の赤城の笑顔を見ていると、この戦いには意味があるのではないかと思えた。
ふいに赤城が足を止め「ここだよ、ありがとう」と長門に頭を下げた。見ると、三階建てのアパートの前だ。「引っ越しの時はお世話になるかも……」と部屋を見上げる赤城に、背後から声がかかる。
「あらぁ赤城ちゃん。おかえりなさぁい」
見ると、買い物袋を提げた初老の女性が立っていた。
「大家さん。ただいま」
「お友達かしら?ふふっ、それとも……」
「あ、ええと」
一瞬言い淀んだ赤城の横で、長門は「んじゃ、おやすみ」と紙袋を渡して、大家に軽く一礼して通り抜ける。
その背を見送りながら、大家は小さい声で「……赤城ちゃん?悪い遊びでもしてるの?ダメよ。悩みがあるならあたしに言いなさいね?」と告げてくる。金髪ジャージという長門の風貌を見れば仕方のないことだろう。思わず笑う赤城は、ふと先程のくまのキーホルダーを思い出した。
「そうだ大家さん。私の話聞いてほしいの」
赤城の言葉に、「もちろん。今日はちょうどシーズン遅れだけど、お鍋にしようと思って買ってきたのよ。入って入って」と大家は笑顔で自室の鍵を開けた。
外はすっかり暗くなっている。
夜の帳は、すぐそこにおりていた。
*
特にコンビニに行く用事も無かった。
長門の目から見て、赤城は無理をしていたのが明らかだったから帰りの付き添いを申し出ただけだ。ただの疲労で眠っていただけはない。脳貧血を起こして倒れたことはすぐに分かった。キャンプ車内でも、真っ青な唇をして震えていた。彼女が『機関』の手に渡る前に、何としてもTEARSに獲得しておくべきだと大和と武蔵が腐心しているのを知っていた。彼女が『何なのか』は知らないが、一年越しにようやくひとつ目標を達成できて、長門の上司が安堵するのならばそれでいい。彼らの努力の結晶たる彼女を守るのが、きっと恩人への恩返しにつながるのだろう。
橋を潜る川は、目の前の海に注いでいる。港の灯りを反射して揺れていた。遠くに小型フェリーの影が見える。
橋を抜ければ、左右を高い壁に囲まれた道へと景色を変える。ここは軍敷地を貫く形で公道が繋がっているためだ。長門には見慣れた道であり、通学路でもあった。
赤城を逃がす時に感じた敵の気配。あれは、とても発症レベル一などというようなものではなかった。肌がびりりと痺れるような、経験したことのない気配だ。気配は一瞬で消え失せたが、それが気のせいだと断じられる自信は、今の彼にはなかった。
なぜなら。
その時と全く同じ気配が、まさに長門の目の前にあるからだ。
*
──同刻、司令官執務室
「……案の定だったな」
「案の定でしたね……」
「ガチガチだったな」
「それはそうでしょう……」
「……大和。俺はそんなに怖ェか?」
「名坂支部の首領、鬼武蔵は伊達ではありませんね」
「高校への面会は、お前に任せて正解だった」
「同感です。出迎えたのが武蔵さんだったら、三つ指ついて断っていたでしょうね、赤城さん」
「酷ェ言い種だな……。……お前まだ言ってねェだろうな?」
「言ってませんよ。踏まれた時にちょっと言いかけましたけど」
「瀬良長門、および同行隊員、東雲赤城。これより索敵を開始する」
長門がそうインカムに告げると、赤城のインカムにも『こちら管制。了解です~』と男性の声が返ってきた。機械を通しているため若干の違和感はあるが、間延びした口調からも声の持ち主はルイスだろう。
先日赤城が襲われた隔離区域の旧呑み屋街とは異なり、こちらは住宅地のようだ。しかし道端に空き缶等のごみが目立つ。あまり治安は良くない場所のように思われる。
「まだ日が高い。あいつらは夜みたいに暗いときとか、日の届かない建物内の方が活発に動くけど、別に日光が駄目なわけじゃない。油断はすんなよ」
「うん……」
塀に背をつけながら区画と区画を抜けて索敵を続ける長門の姿は、そのまま学校で習った戦闘訓練そのものだ。長門は赤城に合わせて速度を落としているのだろうが、それでも不馴れな赤城には速すぎる。
『普段なら、偵察部隊が目標を捕捉してそれをもとに敵の居場所を知るんですけど、今回はミッションEなので偵察部隊が居ません。というわけで、索敵からの訓練です~。長門さんに倣って、周辺状況の把握をしてください』
「訓練!?これ実戦ですよね……!?」
『ミッションE、つまり mission : exam 。試験官が被験者の実力を実戦方式で判定するミッションです。試験とはいえ実戦であることは間違いありません。発見された時点では発症レベル一ではありますが、侵食の進み具合などでレベルの上昇や未発見の発症者が潜んでいる場合もあります。頑張って下さいね~☆』
「ちょっ……!?」
文句を言いたかった赤城を、長門が手で制する。
「黙って。そこに居る」
住宅街の道路の真ん中で、人が蹲り呻いている。人……というには、少し大きい。こちらに気が付いていないようだ。
「とりあえずさあ、好きなようにでいいから、あいつに数発食らわせてみてよ。やばそうなら俺が何とかするって。あいつが飛び掛かるよりも俺の早撃ちの方が速いから」
長門はそう言いながら、武器を構えるジェスチャーをして見せる。
「こちら瀬良。ターゲット確認、レベル一が一体。これよりミッションE、交戦開始する」
『こちら管制。はい、了解です~』
震える手でクロスボウを構え、背後から距離を詰める。これがレベル一?冗談じゃない。
あと一歩。あと一歩近付いたらあの露出した赤い部位に撃ち込もう。そう思いながら近付くほどに、蹲る発症者には指や耳など、人間の部位に見えるものが覗く。
「ボサッとすんな、来るぞ!」
長門の声にはっとした赤城が引き金を引くよりも先に、敵が振り返った。
「……赤城。赤城~。……おーい、赤城ちゃ~ん。……えぇ……?」
赤城はというと、射撃の反動を受けてその場にひっくり返ってしまい、そのまま上の空状態だ。長門の腕の中でぼんやりしている。
「……マジか……」
手を離すと自立できずに倒れてしまう。道路のど真ん中に倒れた肉片の傍らでしゃがみこんで赤城を抱えているのは、ここに餌がありますよと自ら囮になるようなものだ。とりあえずは物陰に移動すべきと考えて赤城を抱きかかえた。
頬に触れる温もりにぼんやりと目を開くと、そこは真っ暗だった。真っ暗ではあるが、確かに温もりを感じる。黒い布だ。
「ん。起きた?」
頭上から降ってくる声は、随分と近い。かなり近い。そっと視線を上げると、金髪碧眼の男の顔がそこにあった。
声にならない悲鳴をあげる赤城の口を大きな手が塞ぐ。
「あーあーはいはいごめんごめん。悪かった悪かった」
周囲に気を配る長門の姿に、今赤城たちがいる場所はいつ襲いかかられてもおかしくないものだということを思い出す。
「その辺に寝かせても良かったんだけどさあ、制服気に入ってるみたいだし、新品だし?いつでも動けるようにやむなしってことで……本当に何もしてないよ。大和に誓って」
そこで何故大和の名前が出てくるのかは赤城にはまだ謎だったが、異性とこれほど密着したことなど彼女の記憶の範囲には無い。黒かった視界は長門のジャージの色だ。……柔軟剤のいい匂いがした。
「索敵すんだけど……あ。見とく?最初の戦果」
言われてやっと、先程交戦しようとしていたことを思い出した。が、赤城には敵に振り返られたところまでの記憶しかない。長門がとどめを刺してくれているのだろが、赤城の矢もかすってでも当たっていれば御の字だ。
長門に促されて、彼の背越しにおそるおそる敵の遺骸を覗いた。
振り返ったのがかえって功を奏したらしい。
咄嗟に引き金を引いたクロスボウの矢は、振り返り大口を剥いた敵の上顎から脳天を見事に貫いていた。
「あんなに接近するとは思わなかったけど……おかげで俺の出番は無かったよ。やるじゃん」
まぐれとはいえ一撃で仕留めたのだ。
唖然としながらも、長門が差し出した拳にそっと己の拳を返した。
あのような遺骸の処理は、相応の知識と装備を持った処理班が片付けるのだという。コードファクターに対する耐性を、常人よりも持つが戦闘に向くほどは持たない。そういった体質の者が専門知識を得て処理にあたっている。組織類は単に捨てるだけではなく、処理をして今後の研究等に生かされる。対コードファクター保有細胞抗体、通称『ワクチン』の開発も、これらの尽力による賜物だ。
索敵を続けていると、キャッチボールができそうな広さの公園に差し掛かる。
「前にさあ……こーゆー公園で唸る声がしたから見に行ったら、茂みで爆睡してた酔っぱらいのおっさんだったことがあんだよね……」
隔離区域とは何なのか。長門の困惑ももっともだ。
「瀬良くんは、お酒とか煙草とかやらないの?」
「お前さあ、俺を何だと思ってんの?どう見てもユートーセーじゃん。」
見てみ?と両手を広げる金髪ジャージ姿は、こんな隔離されたゴーストタウンでゾンビとサバイバルをするような格好ではない。どちらかというと夜のコンビニ前か、青いペンギンのいる黄色い量販店の方がお似合いだ。……その腰に物騒な銃を提げていることを除いては。
「じゃ、索敵の練習ね。この公園、二手に分かれて端からぐるっと回って、向こうで落ち合おう。いい?」
索敵の練習、と言えど、長門はポケットに手を突っ込んで普通に歩いているだけだ。おそらく、一周するのが面倒だったのだろう。彼の様子から察するに、この公園に敵はいないらしい。そう思いながら遊具群の横を通りかかった時、生き物の気配を感じた。
(……何か、居る?)
注意深く、ひとつひとつ茂みを含めて遊具を確認していく。滑り台の裏、ベンチの下。土を盛られた小山を貫くように配置された土管を覗いた時だった。
「あ!?」
「っ……!!」
赤城の声に反応して、ちょうど反対側にいた長門がとっさに銃を向ける。臨戦態勢で距離を詰める長門に、銃を下げろとジェスチャーで伝えた。表情に疑問符を浮かべながら銃口を下げたが、銃はホルスターにしまわずに片手に持ったままだ。長門が訝しんでいると、赤城の横に、5歳くらいの小さな女の子が顔を出した。
女の子──ミユちゃんは、飼い猫を追い掛けていて閉鎖前の隔離区域に迷い込んでしまったらしい。巡回の隊員が来たが、怖くて身を隠し続けているうちに出られなくなってしまったようだ。
「そうだよね……隊員さん、武器とか色々持ってるもんね……」
混乱を避けるため、一般人へのコードファクターの情報は伏せられている。ネットでも様々な情報が飛び交うが、それらのほとんどは憶測によるデマにすぎない。
ミユは大柄な長門を怖がり、赤城の裾を掴んで離さなかった。ミユの緊張をほぐすため、幼稚園で流行っている遊びや好きなキャラクターの話をして歩く。妹のいない赤城には、自らをおねえちゃん、おねえちゃんと慕うミユの姿は非常に愛らしかった。
「……赤城。その子連れて、北へ走れる?」
長門がふいに、低い声でそっと問うた。
「2ブロック先ぐらいに敵が居る。俺はそいつを始末する。迂回にはなるけど……安全策をとる。もしも途中で敵に出くわしたら、交戦はしないこと。その時は北口からの脱出をやめて、俺の方へ誘導して。連絡は随時インカムで。いい?」
長門はゆっくりと銃のマガジンを入れ換える。赤城には分からなかったが、おそらくは弾の種類が異なるのだろう。
赤城が頷いて、ミユを背負う。
長門の「散開!走れ!」という鋭い声と共に、北を目指して駆け出した。
どれほど走ったであろうか、赤城の背でふいに「おねえちゃん、あれ……」と声がした。ミユが指さした方を見ると、住宅のバルコニーに人影がある。
「やあご機嫌よう、お嬢さん」
人影は軽やかに降りてくる。細身の彼の茶髪がさらりと揺れた。長門が大型犬だとすると、この青年は猫……だろうか。
「君はTEARSの人かな?僕としたことが、お腹いっぱいになって寝てたら閉じ込められちゃって。困っちゃうよねえ」
ミユのように、迷い込んでしまった一般人だろうか。服装も特に汚れや乱れはない。怪我はしていないようだ。
「このままじゃ死んでしまうだろう?それは嫌だけど、どうしたらいいのか分からなくて」
「私達、北の出口へ向かってるんです。良かったら一緒に出ませんか?」
「わあ、いいのかい?それは助かるよ。嬉しいなあ、ありがとう」
赤城の申し出に、爽やかな男は手を叩いて喜んだ。
*
赤城たちを逃がした長門は、銃を構えながら路地へ飛び込んだ。
そこには発症者が蠢いている。人間の形を残してはいるが、右肩から腕の部分が大きく欠けている。増殖が不完全なのか、あるいは──
(……喰われた、か)
長門の姿を見ると、醜く折れ曲がった足を引き摺りながら、助けを乞うかのように這い寄ってくる。相貌から涙のように血を流す哀れなその眉間に、銃口を向けた。
*
北口のゲートはすぐそこで、リーダー端末に腕章をかざす。
茶髪の青年は「ありがとう、助かったよ。何もお礼ができなくて申し訳ないな。ありがとう」と何度も礼を言っていた。
ゲートが開くと、そこにはキャンプとスタッフ、そして私服の女性がいた。赤城たちを見るなり、女性は一直線に「ミユ!」と駆けてきた。ミユも「ママ!」と叫んで駆け出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ママ。見つからなかったの」
「いいのよ深雪。ママこそごめんね……」
母の腕の中で、わんわんと泣きじゃくるミユ──深雪の姿に、周囲には安堵の空気が広がった。スタッフは赤城に敬礼をしながら「准尉の指示で、こちらの北口で待機しておりました。ご無事ですか」と彼女を気遣う。
「ありがとうございます。あの……もう一人、若い男の人が……」
「男の人?准尉でしたらこちらに向かうとのことです」
ジュンイ?あの男性はジュンイという名前なのだろうか。赤城は周囲を見渡したが、茶髪の男の姿はもうどこにも見当たらなかった。
「あの、瀬良くんはどこに?」
「えっ?こ、こちらに向かう、と……」
「こちら瀬良。状況終了、隔離区域解除。区域内にて民間人一人を救助」
キャンプ車内でゼリー飲料を飲みながらインカムに告げる長門の声を聞いて、赤城はそういえばいつからか自分の耳からインカムが無くなっていたことに気付く。どおりで長門やゲート外の動向がわからなかったわけだ。走っていたせいで落としてしまったのだろうか、と思いダメ元で携行ポーチを探ると、インカムはそこに入っていた。無意識に外して入れてしまったのだろう。ミユを背負って走っていたのだ、耳にインカムが着いたままだといつ落としてもおかしくない。自分の無意識に感謝しながら、走る車の振動に背を預けた。
「……から……感じ……違…」
「……るほど……態……までに……い……」
遠くで声が聞こえる。意識が少しずつ覚醒してくるのを感じた。
目を開けば、そこは大和に連れられて最初に訪れた応接室だ。机を挟んで長門と大和が向かい合っている。その長門の隣に、ソファに横たわって眠っていたようだ。
「あ。赤城さん、気が付きましたか?おはようございます」
大和の声がして、長門がこちらに振り向く気配がする。大きな手は赤城の髪の乱れを軽く直すと、また戻っていった。
起き上がると、赤城には黒いジャージと薄手のコートが布団代わりに被せられていたらしい。それぞれ長門と大和の上着だろう。長門はというと、上着を脱いでいるからか半袖姿だ。
「おはよう……ございます」
「長門くんから聞きましたよ。大戦果ですね」
大和はどこか嬉しそうだ。
「キャンプで爆睡して起きないんだもんよ。まあ無理もないけどさ……医務室行ったら大和居ねーし」
「僕だって暇じゃないんですよ。なんにせよ、赤城さんに怪我がなくて何よりです」
「えっ俺は!?」
「怪我したんですか?長門くんともあろう人が?」
「しっ……してねえけどさあ!!」
長門はハンバーガーの空袋を握り潰して吠える。二人の様子から察するに、これが彼らの日常なのだろう。大和は中身を飲み干した橙色のマグカップを下ろして立ち上がった。
「というわけで報告書、お願いできますね?」
「えぇー俺!?やだよめんどくさい……」
「赤城さんを武蔵さんのところに連れて行かないといけませんから。赤城さん一人で執務室に行けというのも酷でしょう?いろいろと」
「たけぞうんとこなら俺が行くってばーー!!」
「駄目です、それこそ話が面倒なことになりますから。長門くんもたまには報告書書いとかないと、書き方忘れてしまうでしょうし」
「ちぇー!大和のケチー!おっさん!ド変態!赤城気を付けとけよ、そいつド変態だかんな!」
ぎゃんぎゃんと喚く長門をあしらい、大和は赤城を促した。
「はいはい。では赤城さん、報告も兼ねて、司令官のところに挨拶に行きましょうか」
「執務室はここ本館の三階です。海がよく見えるんですよ。夏には港で花火大会があるんですけど……まさにこの地を護る者へのご褒美とばかりの特等席です」
大和の話を聞きながら、階段を上る。本館の三階へ踏み込むのは、これが初めてだ。
大和は流れるような動作で大きな扉をノックし、一呼吸置いてから「失礼します」と開く。「東雲赤城さんをお連れしました」
こんなもの高校入試の時に練習したが、緊張してどうにもぎこちなかったのを覚えている。そして今この部屋の主は、そんな緊張など非にもならないような空気を纏っていた。
中央の大きな執務机には、これまた大柄な男性が深紅の椅子に鎮座している。
銀鼠色の軍服に、白い重厚な上着を羽織っている。軍帽を目深に被り、その瞳の表情は窺い知れない。その出で立ちはまさしく、殲滅部隊を擁する軍隊の司令官の肩書きに相違ないものだった。
「……東雲か」
言葉を発せずにいると、巌のような低い声で名を呼ばれた。背骨が鉄筋になったのかと思うほど、背筋が伸びる。
「っは、はい!東雲赤城です……!」
返事は裏返り、考えていた挨拶の言葉もどこかへ吹っ飛んでしまった。
そんな赤城の様子を見て困ったように微笑みながら、扉を閉めた大和が続ける。
「はい。本日付でTEARS候補生として名坂支部に仮配属されました、東雲赤城さんです。各種手続き含め正式配属も滞りなく、現在遂行中です」
「ご苦労」
部下の労を手短に労いながら銀鼠の男は椅子から立ち上がり、赤城の前へと歩いてきた。長門も大柄であったが、この男はさらに縦横に大きいと感じるのは、彼が放つ厳の空気によるものだろうか。軍帽を取ると、後ろに流した淡い金髪と、額の大きな傷痕が露になった。
「名坂支部司令官、渋谷武蔵武蔵だ。階級は大佐」
大佐という階級は、さすがに赤城にも聞き覚えがある。……が、具体的にどれほどのものなのかはわからない。ひとつだけ分かるとするなら、日向も堅気ではなさそうだったがこの男──武蔵は首領だ。
すっかり縮こまって小さく震え始めてしまった赤城をしばらく見た武蔵は、大和と顔を見合せ、帽子を被り直しながら「取って食いやしねェよ……」と呟いた。
「大和、模擬戦の調子は?」
「それが……長門くんが『どうせなら実戦で雑魚撃った方がいーじゃん』とのことで、いきなり実地デビューでした。ちょうどレベル一の小規模発生がありましたので、ミッションEを展開しました。結果は上々で、市民の救出にも成功しています。長門くんの見立てとしては、すげえ度胸が据わってる、と」
「成程な……長門が褒めるとは相当だな。期待させてもらうぞ、赤城」
司令官は縮こまったままの赤城の頭を大きな手でわしわしと撫でると、「野郎まみれの軍施設をあまり連れ回しても酷だろ。早いとこ帰してやれ」と大和に告げながらもとの執務机へと戻っていった。
「ぷはぁ……!」
執務室を辞すると、一気に緊張が解けた。足がもつれて、共に出てきた大和の足を踏んでしまう。
「あ、ごめんなさい……!!」
「いえいえ、ありがとうございます」
「えっ?」
「口が滑りました。すみません。お気になさらず」
緊急の救護活動にも駆り出されていた大和だ。彼もきっと疲れているのだろう。忙しい合間を縫って、こうして赤城のチュートリアル活動にも尽力してくれている。義手だとなおさら、赤城には想定もつかないちょっとしたことが不便だったりするのだろう。
「あの、大和さん」
「はい?何でしょう」
「こんな私でもお手伝いできることがあったら、何でも言ってください。……その、沢山、お世話になっているので」
赤城の言葉を受けて、大和はぱちくりと目を見開いてから、柔和な笑顔を返した。
「ありがとうございます。……じゃあ、何か頼りたいことができたら、よろしくお願いしますね」
その笑顔に嬉しさが滲んでいたので、赤城も嬉しい。普段人に尽くす立ち位置の人だ。彼に尽くす優しさがあってもいいのではないだろうか。
帰り際に長門が「西新町っつったっけ?家まで送るよ。こないだみたいに何があるか分かんないしさ」と申し出てくれた。悪いと思って断ろうとしたが、「たけぞ……ああ。さっきのごっついおっさんにも言われてんだよ。それにコンビニにも行きたいしさ、ちょうどいいや」と笑う。長門が軽く掲げてみせる紙袋には、赤城の着替えと荷物がまとめられていた。
二人が正門を抜けたとき、門柱の脇に立った女性と目が合う。困ったような顔をしている。何事かと思いよく見ると、その女性の影に少女が座っていることに気が付いた。
「どうしたの?」
声を掛けると少女は顔を上げ、ぱぁっと嬉しそうな顔をした。
「お母さん、このひとだよ!このひとがたすけてくれたの!」
あの時の女の子だ。
「おねえちゃん、ありがとう……あのね……これね!ミユのお気に入り…」
少しずつ照れ臭くなってきたのか、母親の後ろに隠れてもじもじし始めてしまう。おずおずと差し出された手には、くまの小さなぬいぐるみがついたキーホルダーが乗っている。
「……?かわいいね」
赤城がそう返すと、母親が助け船を出した。
「ミユのこと助けてくれたお礼にね、お姉ちゃんにあげるのよね」
ミユは、笑顔で大きくうなずいた。
女の子は母親に無理を言い、おそらく名坂支部所属であろう赤城をここで待っていたのだという。
帰り道、手のひらのキーホルダーを何度も見返した。
ちっぽけな自分にも、救えた人がいる。その喜びが、赤城の足取りを軽くした。
下宿先に帰ったら、大屋さんに自慢しよう。
長門はこれまで数えきれないほどの人と戦場で出会い、ある時は救い、ある時は見捨ててきた。だが、目の前の赤城の笑顔を見ていると、この戦いには意味があるのではないかと思えた。
ふいに赤城が足を止め「ここだよ、ありがとう」と長門に頭を下げた。見ると、三階建てのアパートの前だ。「引っ越しの時はお世話になるかも……」と部屋を見上げる赤城に、背後から声がかかる。
「あらぁ赤城ちゃん。おかえりなさぁい」
見ると、買い物袋を提げた初老の女性が立っていた。
「大家さん。ただいま」
「お友達かしら?ふふっ、それとも……」
「あ、ええと」
一瞬言い淀んだ赤城の横で、長門は「んじゃ、おやすみ」と紙袋を渡して、大家に軽く一礼して通り抜ける。
その背を見送りながら、大家は小さい声で「……赤城ちゃん?悪い遊びでもしてるの?ダメよ。悩みがあるならあたしに言いなさいね?」と告げてくる。金髪ジャージという長門の風貌を見れば仕方のないことだろう。思わず笑う赤城は、ふと先程のくまのキーホルダーを思い出した。
「そうだ大家さん。私の話聞いてほしいの」
赤城の言葉に、「もちろん。今日はちょうどシーズン遅れだけど、お鍋にしようと思って買ってきたのよ。入って入って」と大家は笑顔で自室の鍵を開けた。
外はすっかり暗くなっている。
夜の帳は、すぐそこにおりていた。
*
特にコンビニに行く用事も無かった。
長門の目から見て、赤城は無理をしていたのが明らかだったから帰りの付き添いを申し出ただけだ。ただの疲労で眠っていただけはない。脳貧血を起こして倒れたことはすぐに分かった。キャンプ車内でも、真っ青な唇をして震えていた。彼女が『機関』の手に渡る前に、何としてもTEARSに獲得しておくべきだと大和と武蔵が腐心しているのを知っていた。彼女が『何なのか』は知らないが、一年越しにようやくひとつ目標を達成できて、長門の上司が安堵するのならばそれでいい。彼らの努力の結晶たる彼女を守るのが、きっと恩人への恩返しにつながるのだろう。
橋を潜る川は、目の前の海に注いでいる。港の灯りを反射して揺れていた。遠くに小型フェリーの影が見える。
橋を抜ければ、左右を高い壁に囲まれた道へと景色を変える。ここは軍敷地を貫く形で公道が繋がっているためだ。長門には見慣れた道であり、通学路でもあった。
赤城を逃がす時に感じた敵の気配。あれは、とても発症レベル一などというようなものではなかった。肌がびりりと痺れるような、経験したことのない気配だ。気配は一瞬で消え失せたが、それが気のせいだと断じられる自信は、今の彼にはなかった。
なぜなら。
その時と全く同じ気配が、まさに長門の目の前にあるからだ。
*
──同刻、司令官執務室
「……案の定だったな」
「案の定でしたね……」
「ガチガチだったな」
「それはそうでしょう……」
「……大和。俺はそんなに怖ェか?」
「名坂支部の首領、鬼武蔵は伊達ではありませんね」
「高校への面会は、お前に任せて正解だった」
「同感です。出迎えたのが武蔵さんだったら、三つ指ついて断っていたでしょうね、赤城さん」
「酷ェ言い種だな……。……お前まだ言ってねェだろうな?」
「言ってませんよ。踏まれた時にちょっと言いかけましたけど」
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