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危険な魔族

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 ―――少しの間、気を失っていたようだ。
 はっと目を開けた娘は飛び起きたが、月の位置に変わりはなく、闇夜はしんと静まり返ったままだった。
 安心した途端、全身がずきんと痛む。
「っ」
 娘は恐る恐る手足を見たが、幸運なことに打ち身と擦り傷以外に怪我はなさそうだ。
 思い出して傍らを見ると、黒衣の男が伸びていた。椅子ごと石造りのバルコニーに倒れ込んだようで、ぴくりともしない。
 その少し遠くではグラスが砕けている。
「勘弁してよ…ってて」
 気が抜けたら、左手の爪がまた痛んだ。筋肉痛か、腕も痛い。よろよろと四つん這いで、男の傍に寄る。
 なんにしても、けしからんヤツだ。
 ため息をついた娘は男の顔を覗きこんで、
「―――」
 静かに目を見開く。
 優しい月明りの中、力なく瞼を閉じていたのは美しい若者だった。
 滑らかな白い肌に、ほんのりと色づいた頬。癖のない黒髪と同じ色の睫毛は扇のような長さで、淡く月光を宿している。すっと伸びた鼻梁は繊細な造りで、官能的な唇のバランスも完璧―――なんだか現実味がない。
「つ、作り物…?」
 思わず若者の頬に手が伸びる。指先で、ほんの少しだけ突く。生々しい弾力に娘は「ひっ」と仰け反る。
「なに…こいつ…」
 呆然と娘は呟いた。
 夜の闇もあまりの美しさの前では遠慮するものなのだろうか、その人物の周りだけ薄ぼんやりと輝いているようにすら見えた。
「…えっ、えっと、その―――女の人?」
 背格好からてっきり男性だと思ったのだが、娘の自信が揺らぐ。
 人の形をした魔族は『人間』たちを誘惑するために、整った容姿を持つと聞く。確かに、たまに村に立ち寄る地方警吏士にしても中性的な顔立ちの者が多いが、この若者は桁違いだ。
「…」
 美しすぎる魔族を見下ろしたまま、ぽかんと口を開けていた娘だったが、風の音でハッと我に返る。
 慌てて、女か男か分からないその人物の肩を叩いた。
「あの…」
 魔族に反応はない。
「ちょっと、あんた…」
 少し強めに叩いてみても綺麗な顔に変化はなく、娘はにわかに青ざめた。
「えっと、ごめん…もしもし?」
 人助けのつもりが、まさかの自殺ほう助…。
 低いうめき声が聞こえたのはそのときだった。
「っ…う」
「あっ、生きてた!」
 反射的にぱっと顔を輝かせた娘の前で、その人物はうっすらと目を開ける。
 密な睫毛の奥に収まっていたのは深い金色の瞳だった。
「!」
 目が合った瞬間、娘の両腕にぞわりと鳥肌が立つ。指先が冷たいような温かいような。感覚が鈍くなる。音が消え、闇が消え、目の前の魔族しか見えなくなる。眩しいほどの光だった。この魔族に愛を感じる。この魔族に支配されたい。愛されたい。
 だから。もし死ねと言われたら従いたい…。
「―――なんだ、君は…」
 耳を打ったテノールに娘はハッとする。途端に感覚が戻ってきた。
「…?」
 今の、なに?
 ごくりと生唾を飲み込む。一瞬前のことなのに、具体的なことが思い出せない。
「…あ、あんた、今、なにか…」
 思わす問いかけて、娘は口を引き結ぶ。分かっている、なにもしていない。ただ目が合っただけだ。
 それより―――
「やっぱ男だったのか…! 気持ち悪!」
「…状況はよく判らんがの、なぜ初対面の娘に『気持ち悪い』と言われねばならないのか」
 怒るでもなく呟くと、女のような魔族の男は側頭部を手で押さえながら、のろのろと上半身を起こした。
 男の髪か首筋からか、目眩のするような芳香がふわりと漂う。
「…っ、動かないで!」
 またうっとりとしてしまった娘は、無理矢理眉をつり上げた。
 慌てて腰の短剣を閃かせる。
「あんたに聞きたいことがあるの。正直に答えなさい」
「なんだい」
 剣の鋭い輝きにも魔族の男は動じない。
「僕に分かることかな? もしかして手洗いの場所か?」
「…馬鹿にして…!」
 かっと、娘の頭に血が上る。
 座り込んだままの男との距離を詰めると、その喉元に短剣を突きつけた。
「本気よ」
「ふむ」
「魔王はどこ?」
 その名を聞いても男の表情は変わらない。
 ほんの少しだけ首を傾げると、覗きこむように娘の目を見る。そんな所作ひとつにしても実に優雅で、娘はとっさにたじろいてしまう。
 …美人の視線とはどうしてこうも居たたまれないのだろうか。
 少しの間のあと、男が美しい唇を開いた瞬間だった。
「陛下!?」
 激しく扉を叩く音が響いた。突然の物音に、娘は喉の奥で悲鳴を押し殺す。
 対する男はゆったりとした動作でバルコニーに面した部屋の奥に視線を移すと、悪戯が見つかったような渋い顔を作った。
「陛下! 今の音は何事ですか? いかがされましたか!?」
「あー…」
 娘に短剣で脅されている男は部屋の向こう、おそらくは廊下か続き部屋で血相を変えているだろう衛兵に向かって、よく通る声で返した。
「なんでもない」
「なにか凄い音が致しましたが」
「えっと…、鳥がな」
「このような深夜に?」
「そう、フクロウが。バルコニーにいたら、いきなりこちらに向かって飛んできたもので、驚いて転んでしまったのだ」
 上から体当たりを食らわせた娘は口をぽかんと開けて、呑気に笑う男を見る。
「怪我はないから安心をし。動物のすることだ、騒がなくてもいい」
「ですが…」
「大げさなのは嫌いだよ。お下がり」
 口調は柔らかなものの、有無を言わせない雰囲気に扉の向こうは押し黙る。しばらくして「お休みなさいませ」と一言告げて、人の気配は去っていった。
 どこか遠くで「ホーホー」とフクロウが鳴いたような気がした。
「――――今の」
「うん?」
「どういう意味?」
 混乱するあまり、娘は上手く声が出せない。
「あ、あんた…あんたがもしかして、その…」
「君は幸運だね。広大な城を探し回る手間が省けたぞ」
「…じゃあ、本当に…あんたが…」
 自分の美しさを理解しているもの特有の、傲慢で自信に溢れた笑み。からかうように色っぽい目つきをすると、男は頬にかかった髪を細い指先で払った。
「あんたが、魔王!?」
「いかにも」
 娘の驚愕が面白かったのか、世界征服者である魔王陛下は小さく声を立てて笑った。
歌うような、青く瑞々しい声。それでいて芳醇な深みのある声。
 だが、今の娘にときめいている余裕はない。
「…う、嘘だ。こんな女か男か分からないようなやつが…」
 魔王陛下といえば、残虐非道な魔族の王だ。
 彼がなにをしたのかはどんな幼い『人間』の子どもでも知っている。
 大小の魔族を従え、軍用竜を操り、家を焼き、田畑を荒らし、途方もない数の『人間』たちの命を奪ったのだ。
 戦後生まれの娘にとって実体験ではないが、村の大人たちはそろって魔族に対する恨み事を口にする。老人の昔語りを耳にするたび、幼いころから魔族の王の姿を想像したものだった。
 まず背丈は見上げるような高さであること。それも筋骨隆々だ。
 頭から捻じれた角を生やし、目は血のように赤い。衣装は『人間』たちの皮膚で作られ、お気に入りのアクセサリーは『人間』の指の骨で作ったネックレスとブレスレットに違いない…。
「…それは怪物じゃあないかな」
 無意識にブツブツと呟かれた娘の言葉が聞こえたのか、陛下は呆れたように眉尻を下げる。
「あるいは物語の読みすぎだよ」
「少なくとも、あんたみたいな…えぇと、なんかよく分からないけど、ひ弱そうなやつが―――」
 言いかけて、娘の脳裏に兵士たちの会話がよぎった。
『危険な方だったろう』
『…い、いかに陛下が危険な方であろうと、その任務に私情など…』
 確かに、危険だ。
 一目見れば恋に落ち、近くに寄れば極上の芳香に腰が砕ける…とても仕事にならない。
 それに―――初めて目が合ったときの不思議な感覚。言葉では表現できないような。あれは、多幸感に近い。それも乱暴なほどに強いものだ。
正体はよく分からないが、危なかった気がする。
「…でも、こんな若造が本当に…」
 娘はごくりと喉を鳴らした。
 魔族と『人間』の生理は大きく異なるが、それでも物事には限度というものがあるはずだ。
染み一つない肌や真珠色の歯は娘と同年輩の若々しさで、戦前・戦中・戦後を通して生きてきた老人にはとても見えない。
 娘の動揺を陛下は鼻で笑った。
「誰にものを言っているのだ、小娘。少なく見積もって、僕は君の曾おじい様などよりもうんと年長者だぞ」
 それはそれで怪物だ。
 なにも言えずにいる娘を愉快そうに見返すと、陛下は「…で?」と金色の目を細める。
「このような夜中に、一人きりで、正門からでなく、わざわざ僕に会いに来てくれた君は誰だ?」
「…」
「魔族の娘でないことは分かる。―――とすると、ますます君は大変な危険を冒しているのではないのかな」
 彼には侵入者を咎める雰囲気もなければ、衛兵を呼ぶ気配もない。
 淡々と無謀を指摘するような調子に説教をされているような気分になって、娘は決まり悪く目を伏せる。
「なんの用だか知らんが、『人間』のお嬢さん」
「…」
「君の冒険はここまでにして、お帰り。陳情ならば集落単位で規定の書類を用意して地方役人に渡すこと。…今日のところは僕が一晩匿ってあげるから」
 意外なほど穏やかな口ぶりだ。罠だろうか。
 しかし、自分を捕まえる気があるのなら、先ほど廊下の向こうから無事を問われたときに一言、「侵入者だ!」と叫べば済んだはずだ。
「―――馬鹿にすんな」
「ふむ」
「私は、」
 娘は顔を上げると、傲岸な世界征服者を睨みつけた。
『人間』を踏みつけにした侵略者を睨みつけた。
下げかけていた短剣を持ち直す。
「あんたを倒しに来た勇者だ!」
「!」
 娘の宣言に、初めて陛下の表情が崩れた。
 ハンバーグだと思って食べたら、チョコレートケーキだったときのような顔だった。
 ぱちりと目を見開いたあと、思わずといったふうに吹き出す。
「なんで笑うのよ、馬鹿! グーで殴るわよ!」
「や…、そうかそうか…。すまんの、ふふっ」
 拳を握る勇者に、魔王陛下はひらひらと手を振ってみせる。喉元に突きつけられた刃物などまるで気にする素振りがない。
「そう怒らんで。や、僕はその、感動したのだ。まだ〈勇者〉がいたのか」
 勇者とは文字のとおり、勇敢な者を表す言葉だ。
 そこから転じて、『人間』たちの間で一つの職業が生まれたのは、ずいぶんと昔のことだ。
 始まりは害獣を駆除する者などに広く与えられた称号だった。
 時が流れ、魔族との戦争が激化していくと、魔族に対する間諜や暗殺者だけを指す呼び名に変化していった。
 敗戦後、魔族に支配される今では完全に有名無実…とても『勇者職』では生活できない。
 そうしたわけで世襲が多かった勇者の子孫たちも、ほとんどが剣を鍬に持ち替えたのだった。
「久しぶりに聞いたな…。いやはや懐かしい。昨今の勇者はずいぶんと可愛らしくなったものだ」
 陛下は笑いながら、しげしげと勇者を見つめる。
 勝気な表情ながら小作りな鼻や口は品良く整っていて、ぱっちりと大きな瞳は夜空の星を映すようだった。
「…まだまだ、子どもだな」
「馬鹿にすんな! 今年成人よ!」
「確か十八かそこらだったろう…、魔族の歳ならおしめが取れていないな」
 本当か冗談か、娘には分からない。
 陛下は楽しそうだ。
「そうだ、土産にドレスを一着あつらえてやろう。君に似合いそうなデザインを思い付いた」
「なんの話よ! 女だからって舐めてるの!?」
 なんと破壊力のある笑顔だろうか。
 うろたえて声を高くする彼女に、陛下は唇の前で人差し指を立ててみせた。
「しかし声が大きいな、君は」
「なんっ」
「このあたりは僕の従者たちが休んでいる部屋もある。昼行性の者がほとんどだ、真夜中に外で騒ぐのは良くない」
 陛下はバルコニーに面した部屋に向かって細い顎をしゃくった。常識的な顔つきで常識的なことを言われ、勇者は口をへの字にする。
 残虐非道な魔王陛下はご近所迷惑を気にするのですか。
「…罠じゃないでしょうね」
「なにが。下手をすると、また兵士が飛んでくるぞ」
 真顔で言われ、勇者は渋々短剣を引いた。
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