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「すーー」
「なんで戻ってきたわけ?」

 "翠" 愛しい名を呼ぶために紡いだ言葉は、冷たく鋭い翠の声によってかき消されてしまった。
 長い前髪からわずかに覗かせる俺を見据えるその瞳は、昨晩から今朝まで共に過ごしていた翠とは別人に思えた。
 思いもよらない翠の言葉に思わず目を見開くと、翠はあざけるようにふっと笑った。

「仁くんに告られたんでしょ?てっきり今日はこっちには戻って来ないと思ってたんだけどね」
「··········え、」
「なにとぼけてんの。付き合うんでしょ?良かったじゃん。安心してよ、もう無理やりシたりしないからさ」

 ーーなぜ、そんなことを言うのだろうか。
 たまに吐いていた甘い言葉は、嘘だったのだろうか。それがなくても、ふとした時に見せてくるあどけない笑顔とか、意地悪だけどたまに甘えてきたりとか、幼なじみだからというのもあるが、気は許されていると思っていた。
 だから俺は自意識過剰ながらも、翠も俺のことを憎からず思っていると思ったのに。
 俯きながらもぐっと涙をこらえる俺を見下ろした翠はまさかさ、とふっと笑った。

「本気にした訳じゃないよね?」

 その冷たく放たれた言葉が胸に突き刺さると、瞼に並々に溜まっていた涙が栓を失ったように溢れてしまった。
 我慢していたせいだろうか、止めようにも止まらない。情けなくぐちゃぐちゃな顔を見られたくなくて、思わず屈んで顔を膝に埋めた。

「あ、やとくん··········」

 すると、困惑した様子の翠がこちらに手を伸ばしてきた。
 涙越しに伸びてくる翠の影が、視界の端に映った時だった。
 
 ーーパシッ

 頭上で、手を掴むような音がした。

「·······翠、お前なに綾泣かしてんだ」

 その声にパッと顔を上げた。そこには鋭い目付きで翠を睨み、俺を庇うように翠との間へ入る仁がいた。

「··········じん?」

 真上にいる仁を、未だ熱もっている瞼をごしごしと擦って見上げた。
 すると、仁の眉が次第に眉間に寄っていくのが分かった。

「翠、お前··········」

 翠の手首を掴む手に力が入ったのか、「っ痛ってえな」とイラついたように呟く翠は仁の手を払うと、長い前髪の間からじっと仁を睨んだ。

「·····仁くんには関係ないでしょ。········早く綾人くん連れてったら?」
「翠、本当にいいんだな。後で返せとか言うなよ」
「·····言うわけないでしょ」

 低く吐き捨てるように呟く翠はきびすを返し、家の中へ歩みを進めた。

「翠っ··········!」

 ーーまだ、俺との話は終わってない。ちゃんと、気持ちを伝えたい。
 咄嗟に立ち上がった俺は翠の方へ手を伸ばした。すると、昨晩から今朝まで翠と体を重ねていた疲労が溜まっていたのか、視界が突然ぐらっと歪んだ。

「綾人くん·····っ」

 視界の端で、翠がこちらに振り返ったように見えた。
 ーーやっと、俺の目を見てくれた。
 安心した俺は静かに目を閉じると、その時、背後から手を掴まれ、ぐいっと腰を抱かれた。

「大丈夫か、綾」

 見上げると、心配そうに俺を見下ろす仁。目の前にはもう、こちらに振り返ったはずの翠の姿はなかった。
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