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 ーー分かってた。ただの性欲処理の相手だったことは。
 それでも、どういう意図があったのかは分からないけど、最近やたら可愛いって言ってきたり、ただ名前を呼ばれるだけでも嬉しかった。ーーそれなのに。

「綾人くん!!」

 翠と仁の制止を無視し、気付けば俺は家を飛び出していた。
 好きなはずの仁の俺を呼ぶ声よりも、いつも何を考えているか分からないような笑みを浮かべて澄ましている翠の必死に俺を呼び止める声が、頭から離れなかった。




 ーーピンポーン

 翠と仁の家のすぐ隣にある自分の家に戻ってからすぐに、玄関のチャイムが鳴った。

 ーーもしかして、翠·····?

 さっき言ったのは嘘だ、間違いだと弁明しに来てくれたのだろうか。
 素直に、すぐに追ってきてくれたことが嬉しかった。
 考えるよりも先に体が動き、鍵を開け、扉の外にいる人物が翠だと信じて疑わなかった俺は勢いよくドアノブを引いた。

「翠っ········!」

 期待に胸を弾ませ、見上げた目線の先にいたのは、想像していたのとは違う人物だった。

「じ····、ん·····」

 ーー翠じゃ、なかった。

 そんな俺の思考が表情に出ていたのか、視線が重なった仁は視線を逸らして俯くと、
「俺で悪かったな」
 と眉を寄せつつ頭を掻いた。

 それもそうか。冷静に考えれば、翠が追って来るわけがない。タイプじゃないと、気まぐれだと先ほど言っていたのだから。
 それが何かの間違いであって欲しいと思うが、あれはおそらく翠の本音なのだろう。

 ーー分かってたけど、辛い。

「··········綾?」
「あ··········」

 気付けば、目の端から零れる涙が頬を伝っていた。ぐいっと指先で拭うが、拭えど拭えど熱を持っている瞼から溢れ落ちる涙が止まらず、指が追いつかなかった。

「っ、なんで·····、止まらな、ーーっ」

 ーーその時、体が温かい体温に包み込まれた。

 視界が暗闇に覆われ、俺に覆い被さるようにぎゅうと圧迫されると、少しだけ息が苦しかった。
 ぷは、と顔を上げると、目の前には仁の顔。唇が触れてしまうんじゃないかと思うほど、その距離は近かった。

 緊張で体が強ばると同時に、これが翠だったら、と思っている自分もいた。
 ーー本当に、どうかしてる。

「·····仁、離しーー·····んっ、」

 離して欲しい。そう言葉にしようとした時にはもう、遅かった。
 重ねられた唇、交わる視線。熱い呼吸が混じり合う。
 それはほんの一瞬のことだったのに、まるで時が止まったのかと錯覚するほど、長い時間に感じた。
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