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menu.2 後悔味の焼き鮭(6)

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 男がマンションから出てきたのは、14時を回った頃だった。
 修一は彼の“イロ”であり所有物であり宝物であるからして、彼が意識を飛ばした後、温タオルで体を拭ってやったり毛布を掛けてやったりはした。
 涙の跡が残る顔を、マーキングのように舐めねぶってから額に一つ口づけを落とす。毎回のルーティーンに含まれているその行動に、修一は全く気づいてもいないし、気づきも理解も出来ないだろう。
 ゆったりとした足取りで、最上階から一階までの階段を降りる。その間に火のついた煙草を口から摘み、ため息と共に紫煙を吐き出す。昨今愛煙者に厳しい世の中になりつつあるが、このビルに限ってはその限りではない。
「あー……」
 煙草を再びくわえ、頭をかく。
 散々抱いてやった躯は、とっくに抱かれる快楽に慣れて熟れきっているというのに、心は決して靡こうとしない修一。
 彼の矜持を順番にへし折って、ようやく行動は従順になってきた。最も愛用しているセーフハウスを名義ごと与える準備も、とっくに整っている。だというのに、完全に己が手に堕ちてきてくれない。
 どうやって心も堕とすか、それが男のここ1、2年の悩みであった。
「……何が悪いんだろうなぁ……」
 重々しく呟く。その声音だけ切り取れば、恋に悩むただ一人の男である。
 しかし、男の立場がそれを物騒なものにしている。
 ここは男が管理を任されているビルの一つ。つまり、中に入っているテナントも事務所も、男と同じ世界に生きる者たちが跋扈しているということだ。
 ビルの出入り口から入ってきた、明らかに人相の悪い男たち。2、3人の集団だが、悠然と歩いてくる男に気づいた瞬間、ザッ、と道を譲り、深く頭を下げる。
「若頭補佐! お疲れさまです!」
「おう」
 軽く手を挙げて答えてやる。男たちは、男がビルから出るまでそのままの姿勢を崩さない。崩すことを許される立場ではないのだ。





 エントランスのドアを開けると、黒塗りの高級車がすぐ前に横付けされていた。
 慣れたように後部座席、運転席の斜め後方のドアを開け乗り込む。
 運転席にいる男が、ちらりとルームミラー越しに男に視線を送ってきた。
「若、ルカさんはどうでしたか」
「……訊くんじゃねー」
 滑らかに発車された車中で、男はぐったりとシートに身を預ける。
 運転手は、眼鏡のレンズ越しにその怜悧な目つきを窄ませる。どこか呆れたような目つきだった。
 ため息をついてから、感心するように言う。
「ルカさんの精神力には脱帽しますよ。普通、セックスドラッグまで使われたら心折れて色狂いになってます」
「……だよなぁ……」
 運転手――自らの右腕の男に言われ、男は煙草の灰を携帯灰皿に落とす。
 実際、彼が修一を初めて抱いた――一般的に見ればそれはレイプだった――とき、あまりの抵抗の激しさに幾つかの拘束具と催淫薬を使わざるを得なかったのだ。その後も身の程を弁えさせる、という名目のもと、様々な快楽責めをしたのだった。
 修一が自分から離れられないようにするには、と考えた結果、快楽漬けにすればいいのではと考えた結果がそれだ。
 だが、修一は男の想定と思惑を外れた。躯は堕ちたかもしれない。しかし心は堕ちなかった。それどころか、完全に心を閉ざしてしまったのだ。
 器用な引き籠もり方だな、と男は思う。【prism-butterfly】の店主にはある程度心を開いているようなのに、自分たち側の人間には全くもってそういうそぶりがない。
 だが修一は、元々酔っぱらいのチンピラに囲まれても毅然と職務を果たしていたのだ。平均よりも強靱なメンタリティを有していた証拠だろう。
 そんな彼の強さに男は惚れ込んだ。好ましいと思ったからこそ、どのような手を使っても欲したのだ。
「……それがルカのいいところだろうが」
 男は言いながら、フィルター近くまで短くなった煙草を携帯灰皿に放り込む。
 そんな上司に、運転手はまたちらりとルームミラーごしに視線をやる。今度は完全に呆れた目をしていた。
「でも今盛大に悩んでらっしゃいますよね」
「うるせえ」
 図星を突かれた。思わず男は運転席のヘッドレストに張り手を入れる。
 ばす、と男はソファーに沈み込む。短めにしている前髪をかき上げ、またため息をついた。
「……なあ英治えいじよう」
「はい」
「……これ以上、何をやればルカは俺に完全に靡くんだろうな」
「さあ……」
 都会の街並みを走る高級車の中に、また盛大なため息が落ちる。





 日本最大級の指定暴力団、鹿鞍かくら会系青木おおぎ組。若頭補佐兼次期組長候補、青木剛おおぎ ごう
 それが、修一を囲っている者の名である。










 続く
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