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menu.2 後悔味の焼き鮭(4)
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吉祥寺から歌舞伎町まで、一体どうやって帰ったのか詳しく思い出せなかった。
奏汰の料理を食する幸運を得たという幸せな気持ちよりも、奏太の存在をどうやって“奴”から一秒でも長く隠し通すかよりも、玄関から出る間際に仕掛けられたキスの方が、修一に与えた衝撃は大きかった。
(俺、は……)
く、と唇を噛む。でなければ、電車内という公共交通機関の中で唇を指でなぞってしまいそうだったからだ。
出入り口の手すり付近にもたれ掛かって立っている修一。ドアの窓ガラスに目を向ける。
困ったような、怒っているような、複雑な顔をした男がうっすらと映った。
はぁ……、と重いため息をついて、目を反らす。
小動物のようなナリをしてその実体は立派な雄だということを知らしめてきた奏太。
おそらく自分と再会するためにまた【prism-butterfly】に来るのだろう。
「……しばらく店には行けないな……」
5日以上来ないと連打のごとく着信とメールをよこしてくる紫苑の小言がうるさい。
彼女は彼女で心配してくれているのは分かるのだが、奏太の命には代えられないだろう。
「……」
奏太が諦めてくれればいいのだが。
『新宿、降り口は――……』
到着アナウンスが流れた。そこで修一は一度思考を浮上させる。
新宿駅から徒歩約10分。歌舞伎町の中央エリアにある雑居ビルの一室が、今の修一の住まいだ。
便利屋という看板は出しているが、本人が仕事にやる気を見いだせていないため特にPRなどはしたことなく、閑古鳥が鳴いている。
薄暗い階段をひたすら登り、最上階の階段から一番遠いドアノブに鍵を差し込む。
が、一般的なシリンダー錠は開錠の手ごたえを感じさせなかった。
「……」
ああ、来ている。
絶望に身を浸したような気になりながら、修一は立ち尽くす。
逃げてしまいたい。が、それも許されない。
実家の監視は今もまだついているはずだ。
修一は、身震いする身体を誤魔化すように、大きく息を吸って、吐いた。
ゆっくりと鍵を引き抜き、ノブを回す。僅かに軋む声を上げるドアを開けた。
便利屋の事務所部分は、一応は見苦しくないように毎日整えてはいる。むしろ、日中はほぼそれか怠惰を貪るしかやることがない。資料らしい資料もないに等しいのだ。
ドアから見て正面、最奥。そこには事務机と金庫、安物のキャビネットなどがある。その事務机に、一人の男が座っている。
ブラインドが下げられっぱなしの窓から漏れ出す日光によって、ある程度の明るさが担保されている。その明るさで男の表情がある程度見えた。
「よう、ルカァ。朝帰りたぁいい度胸だな」
暗褐色に染めた短髪、オーダーメイドと思われる黒いスーツの下からでも分かる鍛え上げられた筋肉の鎧、精悍に整った顔のつくり。世の男性が憧れるような恵まれた体格と容姿を持つ男。
その男が、事務椅子の背もたれに無慈悲にもたれかかり、高級革靴に包まれた足をどっかりと机に乗せている。
彼の姿を認めた途端、修一の表情から総てが抜け落ちた。
義務でしかない足取りで事務所に入る。後ろ手にドアを閉めた。
バタン、という音がどこか重い。
男は足の上下を組み替えながら、一見優し気に訊いてくる。
「どーこほっつき歩いてたんだ? ん?」
「……紫苑の店で飲んでいたが」
瞬間、笑みの形を浮かべていた男の表情が一変した。
ガン! と応接テーブルに踵落としを食らわせ怒号を浴びせる。
「そのあとどこに行ってたかって話をしてんだこちとらァ!」
……ああ、これは【prism-butterfly】以外にも行っているということはバレているとみてもいいな。
もしそれだけなら、全身全霊で隠し通そう。白状させようとはするだろうが、自分の命を盾にすればあるいは……、と修一は感情をシャットダウンした表情で考える。
能面で立ち尽くす修一に、男は怒りの表情で言う。
「てめぇにゃ、俺に嘘はつくなって散々躾てやったはずなんだがなぁ」
足を床に下ろし、男は立ち上がる。
ドアを背に背負ったままの修一にゆったりと近づきながら、もう一度訊ねてきた。
「もう一度聞く。昨日はどこに行ってた」
「……」
男との身長差は2㎝ほどしかない。ほぼ同じ視線の高さでメンチを切ってくる男に、修一は虚ろな目を返す。
チッ、と男は舌打ちした。修一の唇がピクリとも動かないのを見て業を煮やしたのだ。
おもむろにスーツの内ポケットに手を伸ばす。取り出したのはピルケースだった。
じゃらじゃら音を立てて修一の眼前に見せつけながら、男は酷薄に告げる。
「またこいつで躾直しかぁ? ルカよぉ」
「……」
修一は何も言わない。物言わぬ人形のようだ。ただ少しだけ、視線を下にずらす。
そんな彼にとうとう忍耐の限界が来たのか、再度舌打ちした男。修一の腕を乱暴に取って居住スペースになっている隣の部屋に引きずる。
壊れるのではないかと思うほどに乱暴な開閉をされたドアの音が、空しくこだました。
奏汰の料理を食する幸運を得たという幸せな気持ちよりも、奏太の存在をどうやって“奴”から一秒でも長く隠し通すかよりも、玄関から出る間際に仕掛けられたキスの方が、修一に与えた衝撃は大きかった。
(俺、は……)
く、と唇を噛む。でなければ、電車内という公共交通機関の中で唇を指でなぞってしまいそうだったからだ。
出入り口の手すり付近にもたれ掛かって立っている修一。ドアの窓ガラスに目を向ける。
困ったような、怒っているような、複雑な顔をした男がうっすらと映った。
はぁ……、と重いため息をついて、目を反らす。
小動物のようなナリをしてその実体は立派な雄だということを知らしめてきた奏太。
おそらく自分と再会するためにまた【prism-butterfly】に来るのだろう。
「……しばらく店には行けないな……」
5日以上来ないと連打のごとく着信とメールをよこしてくる紫苑の小言がうるさい。
彼女は彼女で心配してくれているのは分かるのだが、奏太の命には代えられないだろう。
「……」
奏太が諦めてくれればいいのだが。
『新宿、降り口は――……』
到着アナウンスが流れた。そこで修一は一度思考を浮上させる。
新宿駅から徒歩約10分。歌舞伎町の中央エリアにある雑居ビルの一室が、今の修一の住まいだ。
便利屋という看板は出しているが、本人が仕事にやる気を見いだせていないため特にPRなどはしたことなく、閑古鳥が鳴いている。
薄暗い階段をひたすら登り、最上階の階段から一番遠いドアノブに鍵を差し込む。
が、一般的なシリンダー錠は開錠の手ごたえを感じさせなかった。
「……」
ああ、来ている。
絶望に身を浸したような気になりながら、修一は立ち尽くす。
逃げてしまいたい。が、それも許されない。
実家の監視は今もまだついているはずだ。
修一は、身震いする身体を誤魔化すように、大きく息を吸って、吐いた。
ゆっくりと鍵を引き抜き、ノブを回す。僅かに軋む声を上げるドアを開けた。
便利屋の事務所部分は、一応は見苦しくないように毎日整えてはいる。むしろ、日中はほぼそれか怠惰を貪るしかやることがない。資料らしい資料もないに等しいのだ。
ドアから見て正面、最奥。そこには事務机と金庫、安物のキャビネットなどがある。その事務机に、一人の男が座っている。
ブラインドが下げられっぱなしの窓から漏れ出す日光によって、ある程度の明るさが担保されている。その明るさで男の表情がある程度見えた。
「よう、ルカァ。朝帰りたぁいい度胸だな」
暗褐色に染めた短髪、オーダーメイドと思われる黒いスーツの下からでも分かる鍛え上げられた筋肉の鎧、精悍に整った顔のつくり。世の男性が憧れるような恵まれた体格と容姿を持つ男。
その男が、事務椅子の背もたれに無慈悲にもたれかかり、高級革靴に包まれた足をどっかりと机に乗せている。
彼の姿を認めた途端、修一の表情から総てが抜け落ちた。
義務でしかない足取りで事務所に入る。後ろ手にドアを閉めた。
バタン、という音がどこか重い。
男は足の上下を組み替えながら、一見優し気に訊いてくる。
「どーこほっつき歩いてたんだ? ん?」
「……紫苑の店で飲んでいたが」
瞬間、笑みの形を浮かべていた男の表情が一変した。
ガン! と応接テーブルに踵落としを食らわせ怒号を浴びせる。
「そのあとどこに行ってたかって話をしてんだこちとらァ!」
……ああ、これは【prism-butterfly】以外にも行っているということはバレているとみてもいいな。
もしそれだけなら、全身全霊で隠し通そう。白状させようとはするだろうが、自分の命を盾にすればあるいは……、と修一は感情をシャットダウンした表情で考える。
能面で立ち尽くす修一に、男は怒りの表情で言う。
「てめぇにゃ、俺に嘘はつくなって散々躾てやったはずなんだがなぁ」
足を床に下ろし、男は立ち上がる。
ドアを背に背負ったままの修一にゆったりと近づきながら、もう一度訊ねてきた。
「もう一度聞く。昨日はどこに行ってた」
「……」
男との身長差は2㎝ほどしかない。ほぼ同じ視線の高さでメンチを切ってくる男に、修一は虚ろな目を返す。
チッ、と男は舌打ちした。修一の唇がピクリとも動かないのを見て業を煮やしたのだ。
おもむろにスーツの内ポケットに手を伸ばす。取り出したのはピルケースだった。
じゃらじゃら音を立てて修一の眼前に見せつけながら、男は酷薄に告げる。
「またこいつで躾直しかぁ? ルカよぉ」
「……」
修一は何も言わない。物言わぬ人形のようだ。ただ少しだけ、視線を下にずらす。
そんな彼にとうとう忍耐の限界が来たのか、再度舌打ちした男。修一の腕を乱暴に取って居住スペースになっている隣の部屋に引きずる。
壊れるのではないかと思うほどに乱暴な開閉をされたドアの音が、空しくこだました。
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