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menu.1 憧れのだし巻き卵(2)
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「……何故今ここで初めて遭遇したばかりの貴様に、個人的なことを教えねばならん」
え、とカナタはあっけに取られた。
確かに、ワンナイトラブの相手を探しているのでもないのに、長々と話をする必要はないだろう。
しかし酒の席での一期一会というのもこういう店の醍醐味ではないのか、とカナタは思う。
唸っている間に男はカナタに興味を失ったらしい。タバコを灰皿に置くと再びスマートフォンを出してイヤホンを耳にかけ始めた。
ママに焼酎のロックを頼みながら、カナタは不審がられないように男のスマートフォンに視線を送る。
見覚えのある動画サイトのレイアウト。店内BGMにかき消されて微かに判別出来る程度にしか聞こえない聞き覚えのあるジングル。
カナタは思わず男の手元を覗き込み始めた。それに気づいて、男は盛大に舌打ちしながらスマートフォンを左側に寄せる。
「おい、勝手に他人の」
「お兄さん、ひょっとしてその動画、『奏汰のcookin'ちゃんねる』?」
その言葉が男の心のどこかに触れたのか、男の表情から険しさが少し消えた。眉間の皺が消えかけている。
す、と男が息を吸う音が聞こえた。
その一瞬が、カナタにとっては数分にも等しかった。どのような返答が来るか分からなかったからだ。
そして、男はイヤホンを片方外しながら言葉を紡ぐ。ようやくカナタを視界に納めて。
「……お前も、奏汰のファンなのか?!」
ん?! とカナタは一瞬面食らう。
今見たばかりとはいえ、この顔と声で誰かを連想出来ないものか、と思ってしまった。
一方、男は黒く沈みきっていた目をほんの少しだけ輝かせている。そのまま、オタク特有の長文語りのゴングを鳴らした。
「俺は基本的に他人には興味がない。だが、奏汰に関しては別だ。ここ数年他人にほとんど興味関心を抱かなかったが、奏汰の動画と料理には盛大に心を動かされたんだ!」
先ほどまで、感情というものがあるのかどうかすら疑わしかった無表情だったのに、今はうっすら笑みを浮かべながら、イヤホンをスマートフォンから外していそいそと画面をカナタに見せてくる。
動画の内容は、数日前にアップされたぶり照りの作り方動画が流れていた。
「ああそうだ、お前も見てみろ。この奏汰という投稿者が作る料理の数々は素晴らしいの一言に尽きる。この繊細な食材への心遣いから巧みな包丁捌き、火の通し加減の見極めや食器へのこだわり。すべてが素晴らしい……!」
「え、あの、」
「俺が感動したのは昨年遂行した《食材の収穫をするところからおせちを作ってみた》シリーズだな。まさか調味料以外のすべての食材、特に野菜は家庭菜園をレンタルするところから、魚介類は釣りに行くところから、肉類は食肉動物のオーナーになるところから始めるなど思ってもみなかった!」
「あ、あの……」
その時、どん! と、男の注文したウィスキーとカナタが注文していた焼酎をそれぞれの眼前に、テーブルに叩き込むようにママが置いた。
「アンタねえ、オタク特有の早口でまくし立てるのやめてあげなさいよ、困惑してるじゃない。ごめんねぇカナタちゃん。こいつ普段はむっつりしてるくせに推しのコトになると途端に早口になっちゃって~」
「あ、いえ……」
まさに立て板に水を体現していた語りを止められ、男はまた元の無表情に戻った。スマホをしまいながらカナタに冷たく言い放つ。
「というわけだ。他をあたれ」
うっすら結露し始めたグラスを持とうとする男の右手に、カナタはそっと自身の左手を重ねた。
「ええ~? そう言わずにさぁ……。それに僕が、」
そこでカナタの目が光った。
さすがに接触されて完全に無視を決め込めなかった男は、そこで初めてカナタの存在をしっかりと認識するに至る。
これまでに何回も見てきた、一夜の相手を口説こうとする男の目。不愉快を感じた瞬間、まるで少女のような唇から男にとっては看過できない言葉が漏れ出した。
「奏汰を知ってる、って言ったらどうする?」
「………………は?」
「ついでに言えば、撮影スタジオ兼自宅にも行ける、って言ったら?」
そう言い、カナタはにっこりと笑う。
しかし、芸能人や有名人と知り合いだ、と自らのテリトリーに連れ込む手口はある意味使い古されたものだ。
男は嘘だろうと断じ、眉間の皺が深くなっていく。
「……そう言って、俺をどこぞに連れ込もうとする気か? その手には……」
とそのとき、男の目が見開かれた。カナタの手を振り払おうとした際に目に付いた彼の左手を見て硬直する。
「……ど、どうしたの?」
「……この爪の形は……!!」
男はそう言うと、ガッとカナタの左手首を掴み、そのまま手首を起点にぐるぐると手を回し舐め回すように検分し始めた。
されるがままに左上半身を揺さぶられながら、カナタは声を上げることしか出来ない。
「えっ、えっ、なに?!」
それには答えず、男は鋭い眼光でカナタの左手を観察していく。
そうして一通り見終わった後、男は初めて、無表情以外の表情……困惑と驚きがない交ぜになったような、微妙な顔でカナタを直視する。
一見すれば男性か女性か分からないほどの、中性的な美貌。まるで子猫のようにぱっちりとした目に、すっと筋の通った鼻梁、やや薄めなものの血色のいい唇。
間違いない。今目の前にいる顔は、この数ヶ月ほぼ毎日画面越しに見てきた顔だ。
「……貴様、もしや……、……奏汰本人……、なのか……?」
震える声でそう言う男に、カナタは逆に驚いた。爪の形から左手をぐるぐる見られただけだ。だというのに、目の前の男は自分の正体を看破した。
一体何者なんだろう、という興味が、初めて今夜の行きずり相手候補への肉欲を僅かに凌駕する。
(……面白いな。ママには悪いけど、絶対今日の相手はこのお兄さんだ)
ニマリと浮かんだ口元の笑みを隠すように、観念したように見えるようなポーズ付きでカナタはため息をついてみせた。
「……はぁ……。えーなに、お兄さんこっわ……。左手を見ただけで見抜いた人とかいないんだけどぉ~」
そう言ってやってから、先ほどとは種類の違う笑みを浮かべてやる。
「それにしても、さっきのオタクトーク、凄かったなあ。こんなに熱烈な感想、動画のコメント欄ぐらいでしか目の当たりにしてないから面食らっちゃった」
その言いぐさに、男は今度こそ瞠目する。
「……では、やはり」
「そ、俺が料理系動画クリエイター、奏汰だよ。よろしく、俺のファンくん。……ところで、」
すい、とカナタが男に顔を近づけた。
自身の出せる最上級の艶声で囁く。
「これも何かの縁だし、お近づきになった印に一緒に飲もうよ。ああ大丈夫、何もしないから」
すると男は、先ほどまでの鋭い眼光から一転し戸惑っているような顔になった。
もう一押ししてみよう、とカナタはゆるりと笑う。
「あ、せっかくだし俺の家に招待してあげるよ。俺の手料理で飲まない?」
その文句に、彼らの会話が聞こえていたすべての人間が、ぎょっとして男の返答を確認しようと視線を向ける。
男は、ふい、とカナタから目を反らした。
目の前の相手は、俺がどんな立場に置かされているか知っていて声をかけているのだろうか、と思案する。
……だが、正直言ってしまえば、奏汰の料理は一度でいいから食べてみたいと思っているのも本当のことだった。
動画を見て作り方を知ったとしても、それは「奏汰のレシピで自分が作った料理」であり、決して「奏汰本人が自分のレシピで作った奏汰の料理」ではないのだ。
それを思った瞬間、天秤がカナタ――奏汰について行くに傾きかける。
だが、すぐに脳内であの忌々しい男の姿が浮かぶ。
男にとっては、恐怖と支配と絶望の象徴。ある時から、彼がどのような顔の造作をしているのかすらまともに認識できなくなったほどに、男が命ある限り憎悪を抱いている相手だ。その後遺症で、今目の前で自分を気遣わしげに見ているたった一人の友人とその恋人以外の他人もうっすらとしか認識出来なくなった、最たる元凶。今の自分を自らのテリトリー内で飼い殺し、望みもしていない方法で支配している人物。
だが、もう男はその生活に疲れ果てていた。
(……そうだ)
最後の晩餐がいつになるか分からないのだから、心残りはなるべく潰しておきたい。
それに、後天的に背負わされた精神的障害のせいで、目の前の他人という存在をぼんやりとしか認識できないはずの今の自分が、こうまではっきりと生身の奏汰を認識出来ている訳も探りたかった。
男はそう決めると、スマートフォンの電源ボタンを長押しし始めた瞬間に奏汰に返答する。
「……分かった。よろしく頼む」
その言葉に、ママと彼らを注視していた客が目を剥いた。思わず立ち上がりかけた者もいる。
対して奏汰は諸手を上げて喜びを表した。
「やったぁ! じゃあ早速行こうか! ママ~、今日のところは帰るねー。今日のお代はこのお兄さんの分も一緒に僕にツケといて~」
そう言い、焼酎のロックを一口含んだ奏汰。彼が焼酎を飲み下したのと、男がスマートフォンの電源が切れたのを確認したのは同時だった。
そこで、あっけに取られていたママが動いた。とっさに拳をカウンター裏の作業台に叩きつける。ダンッ、と重い音が響く。
「ちょっと待ちなさい修一! 知り合って間もない、それもテメェのケツ狙ってるヤツの家に行くってお前、狂ってんの!?」
スツールから立ち上がっていた男は、奏汰に左腕を組まれながらママに言い返す。
「奏汰が俺なんぞにわざわざ直々に料理を振る舞うと言っているんだぞ。それを逃がす手があるか」
「アンタねえ、あのヒトがそのこと知ったらカナタに何するか予想つかないわけないでしょうが……!!」
ママの言葉に、えっ、と奏汰が思わず叫んだ。
もしかしてとんでもない地雷を引き当ててしまったんだろうか、と今更ながら思案を始める。
だが、その考えは見上げた男の表情で霧散した。
「人生に希望もクソもない俺が、何の因果か奏汰の料理を食えるんだぞ。それさえ叶えば人生に悔いなどもうない」
ドブのような目で、吐き捨てるように言う男。まるで能面の、生気のない作り物めいた顔をしている。ぐ、とママは押し黙った。
そして、彼を見上げ、なんて顔をしているんだ、と奏汰は思った。
例え一時の自己満足でも構わない。先ほど、自分の動画について語っていた時のような生き生きとした姿をまた見てみたい。
組んでいた腕をほどき、手を繋ぐ。それに気づいた男が視線を向けるよりも早く、奏汰は出入り口に向かって早足に歩き出した。
「さ、行こ行こ! 時間は有限だからね!」
「……そうだな」
引っ張られるまま、無抵抗に歩き出す男。
背後ではママがカウンターから出ようとしているが、焦ってカウンタードアに引っかかっていた。
歩きながら、奏汰はそういえば、と切り出す。
「きみのこと、なんて呼んだらいい?」
それに、男がしばし逡巡する。
奴から呼ばれる名前は、どうしてか奏汰には教えたくなかった。
奏汰がドアを開けたとき、わざとドアベルの音に紛れ込ませるように、抑えた声で答える。
「……修一、でいい」
ばたん、とドアが閉まった。にこりと奏汰が笑う。
「そっか、オッケー! じゃあ修くん、って呼ぼうかな」
一見、邪気はなさそうな人当たりのいい笑み。それにつられて、修一も少しだけ口角が上がった。
例え騙されていたとしても構わない。何故なら、自分も騙している立場だからだ。奏汰を責める立場にはないことは、俺が一番よく分かっている。
内心自嘲しながら、修一は奏汰の停めたタクシーに乗り込んだ。
修一と奏汰が去った店内。
ドアが閉まった瞬間に静まりかえった――店内BGMがむなしく流れているその場で、修一の唯一の友であるママは頭を抱えていた。
「……あいつ、信じられないわ……」
もし、彼に事が露見した場合、危険が及ぶのは奏汰どころではない。
ママが苦労の末築き上げたこの店も、かの人の機嫌一つでどうなるか分からない。ただでさえ、自身も修一の友という事で目を付けられているのだ。
ママは、また一つ、特大のため息をついた。
え、とカナタはあっけに取られた。
確かに、ワンナイトラブの相手を探しているのでもないのに、長々と話をする必要はないだろう。
しかし酒の席での一期一会というのもこういう店の醍醐味ではないのか、とカナタは思う。
唸っている間に男はカナタに興味を失ったらしい。タバコを灰皿に置くと再びスマートフォンを出してイヤホンを耳にかけ始めた。
ママに焼酎のロックを頼みながら、カナタは不審がられないように男のスマートフォンに視線を送る。
見覚えのある動画サイトのレイアウト。店内BGMにかき消されて微かに判別出来る程度にしか聞こえない聞き覚えのあるジングル。
カナタは思わず男の手元を覗き込み始めた。それに気づいて、男は盛大に舌打ちしながらスマートフォンを左側に寄せる。
「おい、勝手に他人の」
「お兄さん、ひょっとしてその動画、『奏汰のcookin'ちゃんねる』?」
その言葉が男の心のどこかに触れたのか、男の表情から険しさが少し消えた。眉間の皺が消えかけている。
す、と男が息を吸う音が聞こえた。
その一瞬が、カナタにとっては数分にも等しかった。どのような返答が来るか分からなかったからだ。
そして、男はイヤホンを片方外しながら言葉を紡ぐ。ようやくカナタを視界に納めて。
「……お前も、奏汰のファンなのか?!」
ん?! とカナタは一瞬面食らう。
今見たばかりとはいえ、この顔と声で誰かを連想出来ないものか、と思ってしまった。
一方、男は黒く沈みきっていた目をほんの少しだけ輝かせている。そのまま、オタク特有の長文語りのゴングを鳴らした。
「俺は基本的に他人には興味がない。だが、奏汰に関しては別だ。ここ数年他人にほとんど興味関心を抱かなかったが、奏汰の動画と料理には盛大に心を動かされたんだ!」
先ほどまで、感情というものがあるのかどうかすら疑わしかった無表情だったのに、今はうっすら笑みを浮かべながら、イヤホンをスマートフォンから外していそいそと画面をカナタに見せてくる。
動画の内容は、数日前にアップされたぶり照りの作り方動画が流れていた。
「ああそうだ、お前も見てみろ。この奏汰という投稿者が作る料理の数々は素晴らしいの一言に尽きる。この繊細な食材への心遣いから巧みな包丁捌き、火の通し加減の見極めや食器へのこだわり。すべてが素晴らしい……!」
「え、あの、」
「俺が感動したのは昨年遂行した《食材の収穫をするところからおせちを作ってみた》シリーズだな。まさか調味料以外のすべての食材、特に野菜は家庭菜園をレンタルするところから、魚介類は釣りに行くところから、肉類は食肉動物のオーナーになるところから始めるなど思ってもみなかった!」
「あ、あの……」
その時、どん! と、男の注文したウィスキーとカナタが注文していた焼酎をそれぞれの眼前に、テーブルに叩き込むようにママが置いた。
「アンタねえ、オタク特有の早口でまくし立てるのやめてあげなさいよ、困惑してるじゃない。ごめんねぇカナタちゃん。こいつ普段はむっつりしてるくせに推しのコトになると途端に早口になっちゃって~」
「あ、いえ……」
まさに立て板に水を体現していた語りを止められ、男はまた元の無表情に戻った。スマホをしまいながらカナタに冷たく言い放つ。
「というわけだ。他をあたれ」
うっすら結露し始めたグラスを持とうとする男の右手に、カナタはそっと自身の左手を重ねた。
「ええ~? そう言わずにさぁ……。それに僕が、」
そこでカナタの目が光った。
さすがに接触されて完全に無視を決め込めなかった男は、そこで初めてカナタの存在をしっかりと認識するに至る。
これまでに何回も見てきた、一夜の相手を口説こうとする男の目。不愉快を感じた瞬間、まるで少女のような唇から男にとっては看過できない言葉が漏れ出した。
「奏汰を知ってる、って言ったらどうする?」
「………………は?」
「ついでに言えば、撮影スタジオ兼自宅にも行ける、って言ったら?」
そう言い、カナタはにっこりと笑う。
しかし、芸能人や有名人と知り合いだ、と自らのテリトリーに連れ込む手口はある意味使い古されたものだ。
男は嘘だろうと断じ、眉間の皺が深くなっていく。
「……そう言って、俺をどこぞに連れ込もうとする気か? その手には……」
とそのとき、男の目が見開かれた。カナタの手を振り払おうとした際に目に付いた彼の左手を見て硬直する。
「……ど、どうしたの?」
「……この爪の形は……!!」
男はそう言うと、ガッとカナタの左手首を掴み、そのまま手首を起点にぐるぐると手を回し舐め回すように検分し始めた。
されるがままに左上半身を揺さぶられながら、カナタは声を上げることしか出来ない。
「えっ、えっ、なに?!」
それには答えず、男は鋭い眼光でカナタの左手を観察していく。
そうして一通り見終わった後、男は初めて、無表情以外の表情……困惑と驚きがない交ぜになったような、微妙な顔でカナタを直視する。
一見すれば男性か女性か分からないほどの、中性的な美貌。まるで子猫のようにぱっちりとした目に、すっと筋の通った鼻梁、やや薄めなものの血色のいい唇。
間違いない。今目の前にいる顔は、この数ヶ月ほぼ毎日画面越しに見てきた顔だ。
「……貴様、もしや……、……奏汰本人……、なのか……?」
震える声でそう言う男に、カナタは逆に驚いた。爪の形から左手をぐるぐる見られただけだ。だというのに、目の前の男は自分の正体を看破した。
一体何者なんだろう、という興味が、初めて今夜の行きずり相手候補への肉欲を僅かに凌駕する。
(……面白いな。ママには悪いけど、絶対今日の相手はこのお兄さんだ)
ニマリと浮かんだ口元の笑みを隠すように、観念したように見えるようなポーズ付きでカナタはため息をついてみせた。
「……はぁ……。えーなに、お兄さんこっわ……。左手を見ただけで見抜いた人とかいないんだけどぉ~」
そう言ってやってから、先ほどとは種類の違う笑みを浮かべてやる。
「それにしても、さっきのオタクトーク、凄かったなあ。こんなに熱烈な感想、動画のコメント欄ぐらいでしか目の当たりにしてないから面食らっちゃった」
その言いぐさに、男は今度こそ瞠目する。
「……では、やはり」
「そ、俺が料理系動画クリエイター、奏汰だよ。よろしく、俺のファンくん。……ところで、」
すい、とカナタが男に顔を近づけた。
自身の出せる最上級の艶声で囁く。
「これも何かの縁だし、お近づきになった印に一緒に飲もうよ。ああ大丈夫、何もしないから」
すると男は、先ほどまでの鋭い眼光から一転し戸惑っているような顔になった。
もう一押ししてみよう、とカナタはゆるりと笑う。
「あ、せっかくだし俺の家に招待してあげるよ。俺の手料理で飲まない?」
その文句に、彼らの会話が聞こえていたすべての人間が、ぎょっとして男の返答を確認しようと視線を向ける。
男は、ふい、とカナタから目を反らした。
目の前の相手は、俺がどんな立場に置かされているか知っていて声をかけているのだろうか、と思案する。
……だが、正直言ってしまえば、奏汰の料理は一度でいいから食べてみたいと思っているのも本当のことだった。
動画を見て作り方を知ったとしても、それは「奏汰のレシピで自分が作った料理」であり、決して「奏汰本人が自分のレシピで作った奏汰の料理」ではないのだ。
それを思った瞬間、天秤がカナタ――奏汰について行くに傾きかける。
だが、すぐに脳内であの忌々しい男の姿が浮かぶ。
男にとっては、恐怖と支配と絶望の象徴。ある時から、彼がどのような顔の造作をしているのかすらまともに認識できなくなったほどに、男が命ある限り憎悪を抱いている相手だ。その後遺症で、今目の前で自分を気遣わしげに見ているたった一人の友人とその恋人以外の他人もうっすらとしか認識出来なくなった、最たる元凶。今の自分を自らのテリトリー内で飼い殺し、望みもしていない方法で支配している人物。
だが、もう男はその生活に疲れ果てていた。
(……そうだ)
最後の晩餐がいつになるか分からないのだから、心残りはなるべく潰しておきたい。
それに、後天的に背負わされた精神的障害のせいで、目の前の他人という存在をぼんやりとしか認識できないはずの今の自分が、こうまではっきりと生身の奏汰を認識出来ている訳も探りたかった。
男はそう決めると、スマートフォンの電源ボタンを長押しし始めた瞬間に奏汰に返答する。
「……分かった。よろしく頼む」
その言葉に、ママと彼らを注視していた客が目を剥いた。思わず立ち上がりかけた者もいる。
対して奏汰は諸手を上げて喜びを表した。
「やったぁ! じゃあ早速行こうか! ママ~、今日のところは帰るねー。今日のお代はこのお兄さんの分も一緒に僕にツケといて~」
そう言い、焼酎のロックを一口含んだ奏汰。彼が焼酎を飲み下したのと、男がスマートフォンの電源が切れたのを確認したのは同時だった。
そこで、あっけに取られていたママが動いた。とっさに拳をカウンター裏の作業台に叩きつける。ダンッ、と重い音が響く。
「ちょっと待ちなさい修一! 知り合って間もない、それもテメェのケツ狙ってるヤツの家に行くってお前、狂ってんの!?」
スツールから立ち上がっていた男は、奏汰に左腕を組まれながらママに言い返す。
「奏汰が俺なんぞにわざわざ直々に料理を振る舞うと言っているんだぞ。それを逃がす手があるか」
「アンタねえ、あのヒトがそのこと知ったらカナタに何するか予想つかないわけないでしょうが……!!」
ママの言葉に、えっ、と奏汰が思わず叫んだ。
もしかしてとんでもない地雷を引き当ててしまったんだろうか、と今更ながら思案を始める。
だが、その考えは見上げた男の表情で霧散した。
「人生に希望もクソもない俺が、何の因果か奏汰の料理を食えるんだぞ。それさえ叶えば人生に悔いなどもうない」
ドブのような目で、吐き捨てるように言う男。まるで能面の、生気のない作り物めいた顔をしている。ぐ、とママは押し黙った。
そして、彼を見上げ、なんて顔をしているんだ、と奏汰は思った。
例え一時の自己満足でも構わない。先ほど、自分の動画について語っていた時のような生き生きとした姿をまた見てみたい。
組んでいた腕をほどき、手を繋ぐ。それに気づいた男が視線を向けるよりも早く、奏汰は出入り口に向かって早足に歩き出した。
「さ、行こ行こ! 時間は有限だからね!」
「……そうだな」
引っ張られるまま、無抵抗に歩き出す男。
背後ではママがカウンターから出ようとしているが、焦ってカウンタードアに引っかかっていた。
歩きながら、奏汰はそういえば、と切り出す。
「きみのこと、なんて呼んだらいい?」
それに、男がしばし逡巡する。
奴から呼ばれる名前は、どうしてか奏汰には教えたくなかった。
奏汰がドアを開けたとき、わざとドアベルの音に紛れ込ませるように、抑えた声で答える。
「……修一、でいい」
ばたん、とドアが閉まった。にこりと奏汰が笑う。
「そっか、オッケー! じゃあ修くん、って呼ぼうかな」
一見、邪気はなさそうな人当たりのいい笑み。それにつられて、修一も少しだけ口角が上がった。
例え騙されていたとしても構わない。何故なら、自分も騙している立場だからだ。奏汰を責める立場にはないことは、俺が一番よく分かっている。
内心自嘲しながら、修一は奏汰の停めたタクシーに乗り込んだ。
修一と奏汰が去った店内。
ドアが閉まった瞬間に静まりかえった――店内BGMがむなしく流れているその場で、修一の唯一の友であるママは頭を抱えていた。
「……あいつ、信じられないわ……」
もし、彼に事が露見した場合、危険が及ぶのは奏汰どころではない。
ママが苦労の末築き上げたこの店も、かの人の機嫌一つでどうなるか分からない。ただでさえ、自身も修一の友という事で目を付けられているのだ。
ママは、また一つ、特大のため息をついた。
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