雨の庭【世にも奇妙なディストピア・ミステリー】

友浦乙歌@『雨の庭』続編執筆中

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第六章 境界線にて

3・精神科医を自称する男は嗤って告げた。

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「あ、あれ……? こんなところに……何かしら? 家がある……?」
 ふと視界に、不自然なものが入っていることに気が付いて、律歌は足を止めた。
 律歌も北寺も、この村に知らない住人はいないと思っていたが、それは初めて見る建物だった。こんな山奥に建てられた白い立方体のようなデザインの建物――シュールな光景だ。野菜や海藻と共にみそ汁の中に沈んでいるとうふを思わせるような。図形ツールを使って適当に立方体オブジェクトを配置しただけかもしれない。
「誰か、いるのかしら」
「見てみる?」
 この世界の真実に気付きかけた今、スルーするという選択はなかった。
「うん」
 いったい何の施設なのかもわからないままに、律歌は扉らしき亀裂に触れ、押し開けた。音もなく回転し「あ」律歌は後ろから回ってきた扉に押されるようにして中に入ってしまった。
 意外にも中は薄暗く、扉からの光がなくなると、目を凝らさないとほとんど何も見えないほどだった。そしてなんだか消毒液のような、久しく嗅ぐことのなかった臭いがした。
 北寺の元に戻ろうと思ったその時、何者かの呻き声が奥から響いた。人の声のようだ。
「誰か、いるの?」
 よく見るとベッドが置かれている。姿の見えない知らない相手。あまり気を抜ける状況ではない。狭い世界、顔の知らない住人などいないのだ。しかし相手が新しくここに来たばかりの人で、偶然誰にも会わずにここに住み着いた可能性は十分ある。そうだとしたら相手は律歌以上に不安で恐ろしいことだろう。山の中で迷ったままひもじい思いをしているかもしれない。せめて天蔵への注文の仕方などを教えてあげるべきだ。
「だ、大丈夫よ! 私は敵じゃない。いつからここに住んでるの? ちょっと、話を聞いてくれますか?」
 一度外に出てまた北寺と戻ってこようか? だが、必要以上に相手を刺激したり怖がらせたくはなかった。
「私は律歌! 末松律歌です! この山を下りた村に住んでいるんです! あなたは?」
 少しして、衣擦れの音がして、乾いた声が響いた。
「あぁ!? 末松、律歌だと?」
 知らない男の人の声だった。待っても、相手はこちらに来ない。薄暗いが、外と同じく内側の壁も真っ白なのが判るくらいには目が慣れてきた。相手はベッドに横になっているようだ。起き上がれないのかもしれない。
「は、……入りますね」
 壁伝いに歩きながら、ベッドに近寄っていく。
「あなたは?」
 細身の体が横たわっている。年は四十を超えているだろうか。もしかしたら五十? 若く見えると思ったのは一瞬で、よく見れば疲労したように皺が刻まれていた。その男が起き上がれない理由は見てすぐに分かった。拘束衣を着せられているのだ。白い服のいたるところにベルトがついていて、両手を胸の前でクロスするように縛られ、両足は一つにまとめられている。そして四方の金具をベッドに繋がれていた。
「……だ、……て、……チッ」
 何かを言っているが、か細くて聞き取れない。律歌は少し傍に寄り、耳をそばたてた。
「……くそみたいな世……こっちがこのざまだよ……」
 意外にも乱暴な物言いに対して律歌は驚きを隠しながらも、会話を試みる。
「こ、このざまって?」
「見てわかん……ねえか? 俺まで患者、だっつーことだよ。精神科医の俺までな……。ふざけやがって……」
 精神科医? この人は、医者なのだろうか。精神科の? どうしてこんなところに拘束されているのだろう。
「……これ、外せ……」
「や……、その、でも」
 何かわけがあって拘束されているとしたら、言われるがまま外すのはさすがに危険だ。まずは北寺を呼んでこようと思い、律歌は少し口を結ぶ。この人は、自分まで患者……と言った。この白亜の建物はもしかして病院なのだろうか? 自分のことを医師だと名乗っているが、本当だろうか?
「あの……患者さんなんですか? えーと、この村に、病院なんてあったのね」
 目の前の男は眉根を寄せ、その鋭い眼光でこちらをぎろっと睨む。だが自力では動けないらしい。沈黙したままやや待つと彼はかろうじて言葉を紡ぐ。
「末松律歌って、アンタも患者なんだな。こんなとこでぬくぬくとなァ」
「私を知ってるの?」
「この業界で、てめーを知らないヤツなんて、いねーよ」
 彼は声を上げて言い返した。
「え?」
 蔑み嘲るように、精神科医を自称する男は嗤う。
「……ほおー。記憶喪失か。なるほどなるほど。そりゃ、いいご身分だな」
 記憶喪失だということまで、どうしてわかるのだろう。この人が精神科医というのは本当なのだろうか。荒っぽい口調に、律歌は少したじろぐ。北寺はまだ来ない。目の前の男は息も絶え絶えに、「思い出させてやらぁー」と吐き捨てると、ぎりっと、革のベルトが細く歪むまで身を乗り出して告げた。
「末松律歌、お前が日本を終わらせた」
「え?」
「よーし診察の時間だ。いいかてめーは――」
 そこへ、
針間はりま先生!! なにやってるんですか!!」
 回転扉を勢いよく回して入ってきたのは、丸眼鏡をかけ白衣を着た、また別の若い男性だった。ぱっと電気が点く。目の前に寝ている自称医師(今、針間先生と呼ばれていた)と比較するとずいぶん小柄で巻き毛の可愛い顔立ちだ。
「おい邪魔すんな! 俺は今、診察中だ」
「もう先生は、何もしなくていいんですよ!! もう、やめてください……」
「俺に意見するたぁ、南も偉くなったな? ここから、出せ!!」
「せっかく特例でこっちに入れてもらえたんですから……」
 大慌てでなだめようとする南と呼ばれたその男の後ろから、北寺が付いてきた。
「りっか、ごめん大丈夫?」
「北寺さん」
 見知った顔にほっとする。
「その小さなお医者様に呼び止められて……おまたせ」
 指さした先は、口論している白衣の男と、消え入りそうな声色の拘束衣の男の二人。会話から、どうやら二人とも医者のようである。
「その状態で、これ以上仕事をしようなんて思わないでください、先生が死んでしまいます。針間先生だって精神科医なんですからわかっているでしょう!?」
 ベッドに縛り付けられた針間が何か言おうとしていた。それを遮るように、
「みなさん、ここは病室です!! すみませんが、面会謝絶でお願いします。ごめんなさい」
 ぺこりとお辞儀をする様までまるで子供のような南医師に、しかしはっきりと追い出されてしまった。

 あの場所はなんだったのだろう。病室、とか言っていたけど……。北寺の家に向かいながら森を歩いていると、少しだけ冷静さが戻ってきた。
 あのベッドに縛り付けられた男が言いかけた、「末松律歌、おまえが日本を終わらせた」という言葉。自分が失った記憶には何か意味があるに違いない。聞いてみないことには始まらない。いったい自分は過去に何をして、何を思ったのか。記憶を抹消するほどの、何を。
 律歌は心を決め、口を開く。
「教えて、私が何者だったのか。北寺さん、本当は知っているんでしょう?」
 優しい北寺の顔が、こちらを向く。彼が覆い隠してくれている、おそらく優しくない真実。彼はついに来たかというように一つ呼吸をし、
「りっかも、本当は聞くのが怖かったんじゃないの」
 そう言った。
 その通りだった。
 真っ先に彼に自分の過去を問い詰めることもできたのに、律歌は後回しにし続けていた。ネットも電話も繋がらない、どこか不思議な村に迷い込んだことに乗じて、都合の悪そうな過去に向き合うことをうやむやにした。幸い、今まではそれで困りはしなかった。全部無料で衣食住を配達してくれるサービス付きで暮らせる。そこにはなんの義務もない。
「やめよう」
「で、でも……」
 でも、ここが仮想空間で、元は自分が所属していた大企業が何か大きく絡んでいることまでわかってきた。
「ねえ、あの拘束されてる人は、私が日本を終わらせたって言ってたけど……」
 そして北寺は事情を知っていそうだ。
「どうなの?」
 聞けば、北寺は即答で安心させてくれるだろう。期待と信頼から、律歌は問い詰める。
「北寺さん?」
 だが、返事がない。
 何を突っ立っているのだろう。私がこんなに不安になっているというのに、早くなんとか言いなさいよ。とっとと安心させなさいよ、と、北寺の気の利かなさを責めるような気持ちで律歌は彼をにらむ。
 だが北寺は黙っていた。
 安心させてくれる言葉を、一言、くれればいいのに……っ。
 律歌は焦りながら、苛立ちまじりに詰め寄った。
 そんな律歌の様子に気圧され、彼はようやく口を開く。重い頬肉を持ち上げるような微笑みを浮かべて、言った。
「ね、りっか。もっと別の話しない?」
 強引に、まだ引っ張って。
 だがここまで躊躇わせる「何か」が自分の過去の中にあるのだ。さすがに底知れぬものを感じ、ぞくりと背筋が凍る。まさか、自分は本当に何かまずいことをしてしまったのだろうか。いやいや、大げさに言われているだけだ。嫌な想像をして不安になってしまっただけだ。早く確かめてしまう方がいい。律歌が首を横に振ると、「本当に?」と北寺に確かめられたが、律歌は撤回したりはしなかった。
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