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第三章 卵の中
3・月は東に、日は西に。生まれいで、やがて死にゆく。
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打ちひしがれ、ここで何をするでもなくぼんやりと過ごしていた頃を思い出す。
○
「りっか、遊びに来たよ」
「あ……。こんにちは」
「こんにちは。ごはん、食べた?」
首を縦に振る。
「いいね。おいしかった?」
「まあ、……そうね」
「そっか、よかったね」
「うん……」
つまらない会話をして、ため息が胸の中に充満するのを感じて、ため息をつく。
そんな日々をただむやみに送っていた。
人というのはこんな会話をするために生きているのだろうか。呼吸をする。米を食べる。月は東に、日は西に。生まれいで、やがて死にゆく。
――くだらない。
絶えず痛み続けていたずたずたの心は、少しだけ治って、触れなければ痛くはない。けれども、相変わらず身動きはとれない。
そんな頃の自分に、北寺は根気よく話しかけてくれたのだ。
「ほかに、食べたいものはある?」
「食べたいもの?」
「うん。天蔵に売ってないものでもいいから」
おや、この人は、不思議なことを言うな、と当時思った。
天蔵にはひと通りなんでもある。でも、細かいことを言い出せば、ないものだってある。ちょうどそれがわかってきたころのことだった。
「フォンダンショコラ」
律歌がその時思いついたのは、甘くて冷たい焼き菓子。電子レンジで仕上げるタイプのチョコパンで似たようなものはあったが、フォンダンショコラというには少々物足りない。
「チョコレートは中からとけて出てくるの」
昔、喫茶店で食べたような出来立てのものが食べてみたいと思った。
「上にはアイスが乗ってて」
でもここには売っていない。それならば仕方ない。と、思っていた。北寺は心得た、というようににんまりと微笑んで言ってくれた。
「じゃあ、明日、おれの家に来てくれるかい?」
「北寺さんの家に?」
「うん。作るから。ごちそうする」
「行く」
「よし。材料も注文した」
そう言って、今度は挑むように笑う。律歌はその顔を見ながら、明日、フォンダンショコラ、食べられるのだろうかと考えた。食べられるかもしれないし、食べられないかもしれない。
その日の夜、翌日のことを考えながら、目を閉じた。太陽が昇るのが、少しだけ楽しみになっていた。
翌日、律歌は北寺の家に行ってみた。
「いらっしゃい、りっか」
出迎えてくれた北寺の手には、天蔵の段ボールが抱かれていた。律歌が不思議に思い中を覗き込むと、「あ、これね?」と彼は隠すことなく中身を見せてくれた。綿が敷き詰められていて、親指くらいの大きさの、黒いまだら模様の卵が二列に八個並んでいた。
うずらの卵だろうか。
「実は、ペットを飼おうかと思ってさー」
「ペット?」
「そう。でも天蔵に生き物は売っていないから、いろいろ考えたあげくね――さ、あがって」
用意されていたスリッパを履いて、廊下を行く。前を歩く北寺が言う。
「うーんでも、なかなかうまくいかなくてね。捨てるのももったいないし、最近じゃ毎日卵料理だよ」
律歌は、食材として天蔵に売っている卵を、温めて孵化させようとしているのだと気が付いた。しかし、そんなことができるのだろうか? 疑問に思ったことを口にしてみる。
「でも、売られているのは、親鳥から離してしまった卵でしょう」
保育園に通っているころ、律歌もやったことがあった。母親からはほほえましいと放っておかれたが、当時は真剣だった。片時も離すまいと、登園時もこっそりポケットに忍ばせて持ち歩いた。つぶさないように、そうっと。しかし、給食時に他の園児にばれてしまい、騒ぎになった。知恵のある男子に「親のにわとりから離してスーパーに並べちゃったんだぞ、温めたってもうヒナになるわけないだろ、そんなことも知らないのか」と笑われたのを発端に、他の園児からも冷笑を浴びせられた。保育園に持ってくるというリスクを冒してまで必死に温め続けたのだ。なんだ、そうか、とがっかりした気分と、悔しく恥ずかしい気持ちがないまぜになって、その頃の律歌はこれ見よがしにコップに卵を割ってかき混ぜ、たまごかけごはんにして自慢げに給食を食べることで無理やりプライドを守ったのだが、やはり先生には「そんなもの保育園に持ってきちゃだめでしょう!」と叱られた。
そんな苦い記憶を思い返して「そんなことしても、無駄じゃないの?」と律歌が言うと、北寺は一つ頷いて、
「うん、まあ基本的にはね。でも、保温するまでは成長が開始しないんだ。だからスーパーに置いてあっても数日は生存が可能なんだよ」
そう教えてくれた。
「有精卵を温めれば、ヒナが孵るよ。あ、無精卵じゃだめだよ。スーパーで売ってるにわとりの卵は無精卵だね。でも、隣に並んでいるうずらの卵なら、結構な確率で有精卵が混じってるんだ」
話によると、うずらはにわとりと違ってオスとメスの判別が難しく、飼育の際にメスの中にオスが混じってしまうため有精卵がうっかり生まれてしまうらしい。
あんなに馬鹿にしてきた男子園児も、まさかそこまでは知らなかったのだろう。
「もっと早く、知りたかったな」
「え?」
「もっと、二十年くらい前に」
そんなことを教えてくれる友達はもちろん、親も先生も、律歌の傍にはいなかった。
「そう?」
「うん」
よく片付けられているリビングに通され、テーブルの上に段ボール箱をそっと置く。
「よし。りっかも、転卵やってみる? コロコロって。そっとね、そっと」
「転卵……? うん」
「こうやるんだ、見ててね」
北寺は八つの内の一つの卵を人差し指で触れ、半回転させた。下になっていた面が上を向く。うずらの卵はどれも自ら動くことなどなく、じっとそのまま佇んでいる。律歌も指を出し、真似してみようと卵に触れた。硬く暗い模様をした殻――どきっとした。
「あったかい」
生命の温度を感じた。
「うん。鳥の体温に近い状態を作っているんだ」
――ふうん。
「転卵しないとどうなるの?」
「孵化率が落ちる」
卵をじっと見つめながら、ごく当然のようにそう説明をくれる。あまりにも淀みなく、気取った風もなく返すので、
「孵化しやすくなるの? どうして?」
律歌はそう突っ込んで聞いてみた。北寺は律歌の方をちらと振り返り、
「殻に胎盤がくっついちゃうからだよ。人間の赤ちゃんだってお腹の中で動いているだろう?」
「うん」
そう言ってまた卵に意識が戻る。律歌の手が止まるのを見て、残っていた四つを、順番に一つずつ転卵させていく。
この人は、本当になんでもよく知っている。と改めて思った。ものしりだ。
これが卵の向きをひっくり返す仕事だとしたら、律歌は新人アルバイトで、北寺は跡継ぎを嘱望されている住み込み職人のよう。経験豊富で、頼もしくて――
「私は……これから、どうしたらいいの」
その答えも知っているかもしれない、とまで思った。
「悩んでいるんだね」
「そうよ。答えが、知りたい……」
律歌は力なく椅子に座る。北寺も、真向かいに腰掛ける。
「おれも、できることなら、教えてあげたいよ。でもね、その問いの答えは、りっかにしかわからないんだ。りっかが自分で解く以外に方法がないんだよ」
テーブルに肘をついて、頭をのせ、うずくまる。うずらの卵のように、静かに動くこともなく、北寺に抱かれていたいと思う。
「どれだけ時間がかかってもいいんじゃない? それまで、おれも付き合うよ」
「北寺さんは、今、楽しい?」
「うん。楽しい」
「私といて、楽しいの?」
「楽しいから、今日もこうして、傍にいる」
「……そう」
そのまま、眠った。
よく眠れた。
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「りっか、遊びに来たよ」
「あ……。こんにちは」
「こんにちは。ごはん、食べた?」
首を縦に振る。
「いいね。おいしかった?」
「まあ、……そうね」
「そっか、よかったね」
「うん……」
つまらない会話をして、ため息が胸の中に充満するのを感じて、ため息をつく。
そんな日々をただむやみに送っていた。
人というのはこんな会話をするために生きているのだろうか。呼吸をする。米を食べる。月は東に、日は西に。生まれいで、やがて死にゆく。
――くだらない。
絶えず痛み続けていたずたずたの心は、少しだけ治って、触れなければ痛くはない。けれども、相変わらず身動きはとれない。
そんな頃の自分に、北寺は根気よく話しかけてくれたのだ。
「ほかに、食べたいものはある?」
「食べたいもの?」
「うん。天蔵に売ってないものでもいいから」
おや、この人は、不思議なことを言うな、と当時思った。
天蔵にはひと通りなんでもある。でも、細かいことを言い出せば、ないものだってある。ちょうどそれがわかってきたころのことだった。
「フォンダンショコラ」
律歌がその時思いついたのは、甘くて冷たい焼き菓子。電子レンジで仕上げるタイプのチョコパンで似たようなものはあったが、フォンダンショコラというには少々物足りない。
「チョコレートは中からとけて出てくるの」
昔、喫茶店で食べたような出来立てのものが食べてみたいと思った。
「上にはアイスが乗ってて」
でもここには売っていない。それならば仕方ない。と、思っていた。北寺は心得た、というようににんまりと微笑んで言ってくれた。
「じゃあ、明日、おれの家に来てくれるかい?」
「北寺さんの家に?」
「うん。作るから。ごちそうする」
「行く」
「よし。材料も注文した」
そう言って、今度は挑むように笑う。律歌はその顔を見ながら、明日、フォンダンショコラ、食べられるのだろうかと考えた。食べられるかもしれないし、食べられないかもしれない。
その日の夜、翌日のことを考えながら、目を閉じた。太陽が昇るのが、少しだけ楽しみになっていた。
翌日、律歌は北寺の家に行ってみた。
「いらっしゃい、りっか」
出迎えてくれた北寺の手には、天蔵の段ボールが抱かれていた。律歌が不思議に思い中を覗き込むと、「あ、これね?」と彼は隠すことなく中身を見せてくれた。綿が敷き詰められていて、親指くらいの大きさの、黒いまだら模様の卵が二列に八個並んでいた。
うずらの卵だろうか。
「実は、ペットを飼おうかと思ってさー」
「ペット?」
「そう。でも天蔵に生き物は売っていないから、いろいろ考えたあげくね――さ、あがって」
用意されていたスリッパを履いて、廊下を行く。前を歩く北寺が言う。
「うーんでも、なかなかうまくいかなくてね。捨てるのももったいないし、最近じゃ毎日卵料理だよ」
律歌は、食材として天蔵に売っている卵を、温めて孵化させようとしているのだと気が付いた。しかし、そんなことができるのだろうか? 疑問に思ったことを口にしてみる。
「でも、売られているのは、親鳥から離してしまった卵でしょう」
保育園に通っているころ、律歌もやったことがあった。母親からはほほえましいと放っておかれたが、当時は真剣だった。片時も離すまいと、登園時もこっそりポケットに忍ばせて持ち歩いた。つぶさないように、そうっと。しかし、給食時に他の園児にばれてしまい、騒ぎになった。知恵のある男子に「親のにわとりから離してスーパーに並べちゃったんだぞ、温めたってもうヒナになるわけないだろ、そんなことも知らないのか」と笑われたのを発端に、他の園児からも冷笑を浴びせられた。保育園に持ってくるというリスクを冒してまで必死に温め続けたのだ。なんだ、そうか、とがっかりした気分と、悔しく恥ずかしい気持ちがないまぜになって、その頃の律歌はこれ見よがしにコップに卵を割ってかき混ぜ、たまごかけごはんにして自慢げに給食を食べることで無理やりプライドを守ったのだが、やはり先生には「そんなもの保育園に持ってきちゃだめでしょう!」と叱られた。
そんな苦い記憶を思い返して「そんなことしても、無駄じゃないの?」と律歌が言うと、北寺は一つ頷いて、
「うん、まあ基本的にはね。でも、保温するまでは成長が開始しないんだ。だからスーパーに置いてあっても数日は生存が可能なんだよ」
そう教えてくれた。
「有精卵を温めれば、ヒナが孵るよ。あ、無精卵じゃだめだよ。スーパーで売ってるにわとりの卵は無精卵だね。でも、隣に並んでいるうずらの卵なら、結構な確率で有精卵が混じってるんだ」
話によると、うずらはにわとりと違ってオスとメスの判別が難しく、飼育の際にメスの中にオスが混じってしまうため有精卵がうっかり生まれてしまうらしい。
あんなに馬鹿にしてきた男子園児も、まさかそこまでは知らなかったのだろう。
「もっと早く、知りたかったな」
「え?」
「もっと、二十年くらい前に」
そんなことを教えてくれる友達はもちろん、親も先生も、律歌の傍にはいなかった。
「そう?」
「うん」
よく片付けられているリビングに通され、テーブルの上に段ボール箱をそっと置く。
「よし。りっかも、転卵やってみる? コロコロって。そっとね、そっと」
「転卵……? うん」
「こうやるんだ、見ててね」
北寺は八つの内の一つの卵を人差し指で触れ、半回転させた。下になっていた面が上を向く。うずらの卵はどれも自ら動くことなどなく、じっとそのまま佇んでいる。律歌も指を出し、真似してみようと卵に触れた。硬く暗い模様をした殻――どきっとした。
「あったかい」
生命の温度を感じた。
「うん。鳥の体温に近い状態を作っているんだ」
――ふうん。
「転卵しないとどうなるの?」
「孵化率が落ちる」
卵をじっと見つめながら、ごく当然のようにそう説明をくれる。あまりにも淀みなく、気取った風もなく返すので、
「孵化しやすくなるの? どうして?」
律歌はそう突っ込んで聞いてみた。北寺は律歌の方をちらと振り返り、
「殻に胎盤がくっついちゃうからだよ。人間の赤ちゃんだってお腹の中で動いているだろう?」
「うん」
そう言ってまた卵に意識が戻る。律歌の手が止まるのを見て、残っていた四つを、順番に一つずつ転卵させていく。
この人は、本当になんでもよく知っている。と改めて思った。ものしりだ。
これが卵の向きをひっくり返す仕事だとしたら、律歌は新人アルバイトで、北寺は跡継ぎを嘱望されている住み込み職人のよう。経験豊富で、頼もしくて――
「私は……これから、どうしたらいいの」
その答えも知っているかもしれない、とまで思った。
「悩んでいるんだね」
「そうよ。答えが、知りたい……」
律歌は力なく椅子に座る。北寺も、真向かいに腰掛ける。
「おれも、できることなら、教えてあげたいよ。でもね、その問いの答えは、りっかにしかわからないんだ。りっかが自分で解く以外に方法がないんだよ」
テーブルに肘をついて、頭をのせ、うずくまる。うずらの卵のように、静かに動くこともなく、北寺に抱かれていたいと思う。
「どれだけ時間がかかってもいいんじゃない? それまで、おれも付き合うよ」
「北寺さんは、今、楽しい?」
「うん。楽しい」
「私といて、楽しいの?」
「楽しいから、今日もこうして、傍にいる」
「……そう」
そのまま、眠った。
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