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第三章 卵の中
2・今朝やっと実がなって、収穫してきたプチトマト。
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律歌を起こしたのは、みそ汁の匂いだった。天蔵に注文は、していないはずだった。自宅についたら寝室のドアも開けっ放しのまま、ベッドに倒れこむようにして寝たことは覚えている。
「もう、りっか、何時だと思ってるのさー?」
階段の下から、北寺の声だ。足音とともに、だんだん近づいてくる。
「ごはん冷めちゃうよ~?」
律歌が目を開くと、そのドアから、緑のチェック柄のエプロン姿の北寺が入ってきた。
「もう十一時だよ。さ、起きた、起きた」
柔和な笑みが、温かい。彼の手で束ねられていくカーテン、差し込む光が強くまばゆかった。すごくよく寝た気がする。
「……ん。おはよ」
夢でも見ている気分で半身を起こす。にっこりと微笑みをたたえた北寺が、そこに待っていてくれた。
「おはよう」
こんな風に起こされるというのは、とてもいいものだと思う。一緒に住むことは、断られていても。
「すぐ……行くから待ってて」
「わかった。あと」
北寺は肩につくかというほど長めの金髪を自分の手でつまんで、真上にあげた。
「りっかすごい寝ぐせ」
「んあ」
たしかに前髪が視界に見えない。
「あとで綺麗にやったげるね」
ふふふと笑いながら階段を降りていく北寺。どうやら律歌の髪の毛は今よっぽどひどいことになっているらしい。
うむ。早く支度をして髪をやってもらおう。楽しみが増えた。
さて、サクッと顔を洗って着替えよう――と、ベッドから降りようとしたら、全身がとてつもなく重いことに気が付いた。股と腰が重い。磁石にでもなったみたいに動かない。あとふくらはぎが痛い。筋肉痛だ。昨日あれだけ走ったから……。北寺の平気な顔に騙されたと思いながら、苦労してなんとか這い出る。今日は一歩も外に出まいと、ゆるいトレーナーに深緑色のスカートを合わせた。
階段を降りてダイニングへ入ると、テーブルに北寺の作った料理が並べられていた。プチトマトとモッツァレラチーズが紅白交互に並んだサラダに、焦げ目もなくつるんとした黄色いオムレツ、アスパラガスのベーコン巻き、白ご飯とお味噌汁。
「ごめんね、どれも簡単なもので」
言いながらエプロンを外して席に着く北寺。白いシャツ、茶色のハーフパンツ、彼も軽装だ。
「ええーううん! いただきます。ってかこのサラダだけイタ飯屋みたいね」
律歌も席について、自分の箸を手に取る。
「カプレーゼ」
「カプレーゼっていうの? ん。おいしい」
トマトの甘い酸味と、ぐにぐにとした触感で無味のチーズ、それにオリーブオイルとバジルが合う。白米と味噌汁、オムレツといった庶民的なラインナップの中に突如現れたイタリア料理だが、どこか馴染んでいると感じるのは、なぜかトマトがプチトマトだからだろう。
「プチトマト、育てていたやつなんだよ。今朝やっと実がなってさ、収穫してきた」
「あらっ! そうなの!」
なるほど。しかし自家製と言われてもわからないほどしっかりと赤くまんまるなプチトマトだ。大きさもどれも均一で、よく育っている。天蔵から配達されたものではなく、種を土に植えて肥料と水を毎日与えて育て、収穫――たった一粒の種と、その場にあった自然と、そして自らの労力でできているもの。
「今日はどうする? 律歌、だいぶ疲れてるでしょ」
「そうね」
全身の鈍痛は無視できるものではなかった。自分の力だけで、行ける限りまで走った証とでも言おうか。
「今日は――昨日の旅を振り返ってこれからの作戦を練るってのはどう?」
「オッケー」
律歌の返答に、北寺はにっこり笑って、ふと立ち上がる。おや? まだ食べ始めたばかりなのにどうして席を立つのか、と律歌が不思議に思っていると、彼は櫛を手にして背後に立った。そしてひと梳き、ふた梳き。そういえば前髪がはねたままだったことを律歌は思い出し、ちょっと恥ずかしくなる。北寺は仕上げに花のピンを何本か挿し入れると、
「りっか、元気になってよかった」
そう言って、頭を撫でてきた。愛おしげに。手の温かさを感じながら、律歌は北寺を見上げる。
「少し前では、想像もつかないほどだよ」
「そう?」
彼が指しているのは、きっと肉体のことではないのだろう。
「うん。このトマトを植えたの、覚えてるかな? りっかも一緒にいたよね」
「んー……そうだった、気もする」
もぐ、とトマトとモッツァレラチーズを噛みしめながら。
「覚えてない?」
「覚えてるけど……ぼんやり過ごしていたから」
脳裏を巡らせる。やはりひと月前の頃のことは、あんまり覚えていなかった。食べることも寝ることもできずに、涙をこぼし、しばらくすると泣くこともできなくなって、それで、何していたのだったか。何もしていなかった。太陽が東から昇り、西に降りていき、同じように月が出て、同じように沈む。それがなんだというのだ、と、そんなようなことを考えていた。あの時北寺が支えてくれていなかったら自分は今この形ではここにいられはしなかっただろう。自分は本当に少しずつ少しずつ気力を取り戻していった。北寺のおかげで。
あの頃も、こうして北寺が勝手に来て、律歌をつっついて構っては帰っていく。そんな風にして日々が流れていた。
「もう、りっか、何時だと思ってるのさー?」
階段の下から、北寺の声だ。足音とともに、だんだん近づいてくる。
「ごはん冷めちゃうよ~?」
律歌が目を開くと、そのドアから、緑のチェック柄のエプロン姿の北寺が入ってきた。
「もう十一時だよ。さ、起きた、起きた」
柔和な笑みが、温かい。彼の手で束ねられていくカーテン、差し込む光が強くまばゆかった。すごくよく寝た気がする。
「……ん。おはよ」
夢でも見ている気分で半身を起こす。にっこりと微笑みをたたえた北寺が、そこに待っていてくれた。
「おはよう」
こんな風に起こされるというのは、とてもいいものだと思う。一緒に住むことは、断られていても。
「すぐ……行くから待ってて」
「わかった。あと」
北寺は肩につくかというほど長めの金髪を自分の手でつまんで、真上にあげた。
「りっかすごい寝ぐせ」
「んあ」
たしかに前髪が視界に見えない。
「あとで綺麗にやったげるね」
ふふふと笑いながら階段を降りていく北寺。どうやら律歌の髪の毛は今よっぽどひどいことになっているらしい。
うむ。早く支度をして髪をやってもらおう。楽しみが増えた。
さて、サクッと顔を洗って着替えよう――と、ベッドから降りようとしたら、全身がとてつもなく重いことに気が付いた。股と腰が重い。磁石にでもなったみたいに動かない。あとふくらはぎが痛い。筋肉痛だ。昨日あれだけ走ったから……。北寺の平気な顔に騙されたと思いながら、苦労してなんとか這い出る。今日は一歩も外に出まいと、ゆるいトレーナーに深緑色のスカートを合わせた。
階段を降りてダイニングへ入ると、テーブルに北寺の作った料理が並べられていた。プチトマトとモッツァレラチーズが紅白交互に並んだサラダに、焦げ目もなくつるんとした黄色いオムレツ、アスパラガスのベーコン巻き、白ご飯とお味噌汁。
「ごめんね、どれも簡単なもので」
言いながらエプロンを外して席に着く北寺。白いシャツ、茶色のハーフパンツ、彼も軽装だ。
「ええーううん! いただきます。ってかこのサラダだけイタ飯屋みたいね」
律歌も席について、自分の箸を手に取る。
「カプレーゼ」
「カプレーゼっていうの? ん。おいしい」
トマトの甘い酸味と、ぐにぐにとした触感で無味のチーズ、それにオリーブオイルとバジルが合う。白米と味噌汁、オムレツといった庶民的なラインナップの中に突如現れたイタリア料理だが、どこか馴染んでいると感じるのは、なぜかトマトがプチトマトだからだろう。
「プチトマト、育てていたやつなんだよ。今朝やっと実がなってさ、収穫してきた」
「あらっ! そうなの!」
なるほど。しかし自家製と言われてもわからないほどしっかりと赤くまんまるなプチトマトだ。大きさもどれも均一で、よく育っている。天蔵から配達されたものではなく、種を土に植えて肥料と水を毎日与えて育て、収穫――たった一粒の種と、その場にあった自然と、そして自らの労力でできているもの。
「今日はどうする? 律歌、だいぶ疲れてるでしょ」
「そうね」
全身の鈍痛は無視できるものではなかった。自分の力だけで、行ける限りまで走った証とでも言おうか。
「今日は――昨日の旅を振り返ってこれからの作戦を練るってのはどう?」
「オッケー」
律歌の返答に、北寺はにっこり笑って、ふと立ち上がる。おや? まだ食べ始めたばかりなのにどうして席を立つのか、と律歌が不思議に思っていると、彼は櫛を手にして背後に立った。そしてひと梳き、ふた梳き。そういえば前髪がはねたままだったことを律歌は思い出し、ちょっと恥ずかしくなる。北寺は仕上げに花のピンを何本か挿し入れると、
「りっか、元気になってよかった」
そう言って、頭を撫でてきた。愛おしげに。手の温かさを感じながら、律歌は北寺を見上げる。
「少し前では、想像もつかないほどだよ」
「そう?」
彼が指しているのは、きっと肉体のことではないのだろう。
「うん。このトマトを植えたの、覚えてるかな? りっかも一緒にいたよね」
「んー……そうだった、気もする」
もぐ、とトマトとモッツァレラチーズを噛みしめながら。
「覚えてない?」
「覚えてるけど……ぼんやり過ごしていたから」
脳裏を巡らせる。やはりひと月前の頃のことは、あんまり覚えていなかった。食べることも寝ることもできずに、涙をこぼし、しばらくすると泣くこともできなくなって、それで、何していたのだったか。何もしていなかった。太陽が東から昇り、西に降りていき、同じように月が出て、同じように沈む。それがなんだというのだ、と、そんなようなことを考えていた。あの時北寺が支えてくれていなかったら自分は今この形ではここにいられはしなかっただろう。自分は本当に少しずつ少しずつ気力を取り戻していった。北寺のおかげで。
あの頃も、こうして北寺が勝手に来て、律歌をつっついて構っては帰っていく。そんな風にして日々が流れていた。
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