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第三章 卵の中
1・ほんの少しだけ、冷たい眼差し。
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北寺の家に着いた時には夜の七時を回っていた。
「ついたっ、つ、ついたー……」
幸いにも雨に降られることはなかったが、田舎道は真っ暗で、自転車にはライトもなく(二百万円のくせに不便だ)、闇から逃げるようにして走り続けた律歌は玄関のドアを閉めた瞬間ごろりと廊下に倒れこんだ。
「り~っか~、じゃ~ま~」
ぴょんと迷惑そうにまたいで律歌を越えていく北寺。彼に対してリアクションを取る体力も律歌には残っていなかった。
ここを出たのが朝の六時半ごろだから、八時間以上走っていたことになる。途中、井戸端会議に参加したり、お昼ご飯を食べたり、昼寝しすぎたりしたものの、今日一日の大半は自転車の上にいた。
「北寺さん、私ここで寝るから」
一歩も動きたくない。廊下のフローリングにぴたりと頬をくっつけながらそう思った。
既に上半身裸になっている北寺は、洗面所からひょいと顔を出して呆れ果てたようにため息をついて、シャワーを浴びに行ってしまう。彼も彼なりに疲れているのだろうか。自転車も手荷物もすべて投げ出した状態のまま、律歌はその水音を聞くともなしに聞いていた。すると「あー! ボディソープ切れてる!」という悲鳴が浴室から届く。なんだと……。シャンプーもコンデショナーもトリートメントも自分好みのブランドを置かせてもらっているが、ボディーソープは共有だ。ここには薬局もコンビニもない。あったとしても買いにいく元気もない。しかし、この世界には便利な便利なダッシュボタンがあるから大丈夫だろう。予期したより早くチャイムが鳴った。三分も経っていないのではないだろうか。「りっかー、代わりに出てくれるー? アマトだと思うー!」という声にむくりと起き上がり品物を受け取って開封すると、浴室のドアの前においてあげた。洗剤やトイレットぺーパーなど限られた種類ではあるが日用消耗品にはダッシュボタンがあり、押せばアマトが即時持ってきてくれるのだ。前にも醤油を切らした時に使ったことがあり、その時もすぐに駆けつけてくれたことに驚いた。
それから間もなくして出てきたほかほかの北寺に礼を言われ、入れ替わった。補充されたボディーソープを使って、出たらドライヤーを借りて、置いてある部屋着に着替えてそのままベッドイン。
「じゃ、おやすみ」
寝室、やや硬質なマットレスに身を沈め、羽根布団にくるまりこんだ。そして北寺の方をちらりと見やると、
「ちょちょちょちょっと待って待ってりっか!」
観念したように彼が駆けつけてくるのはいつものことだ。
「りっかー? はーい、ここ、おれのおうちだからねー、起きようかー」
「いいじゃん、ベッドでかいんだから!」
「そーゆー問題じゃないよー」
……いつもの、ことだ。
「でももう疲れて動けなーい」
キングサイズのベッドの脇に膝をついて、北寺は寝そべる律歌に視線を合わせる。じっと目を見つめて。
彼のそのいつもの困り顔を見ていると、律歌は胸がしめつけられたような気分になる。
「……はいはい、わかりましたよ。帰るわよっ」
むくりと半身を起こした。
「送るよ」
北寺は申し訳なさそうに手を差し出してくる。律歌はその手を取ると、腰を上げるふりをして思い切りそのままベッドに引きずり込んだ。
「わわわわわわわわわ」
律歌の思っていたよりずっと容易く北寺は布団の中に滑り込んできた。律歌のスペースに、少しだけひんやり冷たい肌が入り込む。湯上りの体温が布団の中でさらに熱くなった。パジャマと薄手のパーカー越しに、二人混ざり合うように体温が移動し合う。心地いい。満たされる。安心する。
「私もあなたも疲れてるの……。仕方ないからここで寝かせなさいよ……?」
眼前間近で囁いてみせる。
「やれやれ、仕方ない、な……」
かかる息がこそばゆい。
「うん」
北寺の長い前髪。金色の隙間からのぞく深いグリーンの瞳。その瞳に映る自分。
ここにいるのは自分一人じゃなくて二人なのだ、二人で生きているのだと、全身で感じられる。
眼差しは、ほてり頬の律歌を愛しさで包み込むように慈愛に満ちて優しげで、どこか、大人びていて、
「おれが……ソファで寝るしかないか」
ほんの少しだけ、冷たい。
「……っ!」
律歌は両腕を突っ張ると、布団を蹴って起き上がった。
「嫌い、嫌いっ。北寺さんなんて!」
「ごめんねりっか」
傷ついたような顔をして、ずるい。
「謝らないでよ! 北寺さんなんて大嫌いだもん」
「うん、うん、ごめんね……」
手を握られた。優しく包み込むように――。その手を振りほどく。
「触らないで、もう!」
「……うん」
自分から拒んでおいてそんな泣きそうな顔をされても、困る。
傷ついているのはこっちだ。
北寺さんは、私と同じようには、私を求めてはくれないのだ。
律歌は立ち上がると玄関まですたすた歩き、着替えも荷物も置いたまま、
「じゃ、またね」
「うっ、うん……! りっか、また明日ね……っ!」
振り返ると、階段と廊下を走って追いかけてきた北寺が、縋るようにもう一度念を押した。「あの、お願いだから……、ねえ、明日も、来てね……?」
その顔があまりにも必死の形相なので、つい、
「ふん。もう来てあげなーい」
意地悪を言いたくなる。
「やだっ、やだよ!」
「じゃあ一緒に住も?」
「それは……ダメ」
「むう」
「だめだよ~、ふしだらふしだら。ね?」
ごまかすように北寺は律歌の肩を掴みくるりと外を向かせる。
これ以上突っ込んで聞いたら、この関係が壊れてしまうのだろうか。
“そこまで好きじゃない”のかな。それとも――その瞳に映るのは私でも、心に映っているのは別の誰かなの?
今日は、もう帰ろう。
「わかってる。そんなの当ったり前でしょ! 明日は朝四時集合だからねっ!」
そして扉を閉める。
それでも北寺さんはここに来ていいって、言ってくれる。少なくとも嫌われているわけじゃない。
暗く寒い道がのびている。部屋着のまま一人きりで走って、もやもやした心を霧散させていく。
私は一人なの?
私は一人じゃない。
明日も一人じゃない。だから――これを受け入れよう。
「ついたっ、つ、ついたー……」
幸いにも雨に降られることはなかったが、田舎道は真っ暗で、自転車にはライトもなく(二百万円のくせに不便だ)、闇から逃げるようにして走り続けた律歌は玄関のドアを閉めた瞬間ごろりと廊下に倒れこんだ。
「り~っか~、じゃ~ま~」
ぴょんと迷惑そうにまたいで律歌を越えていく北寺。彼に対してリアクションを取る体力も律歌には残っていなかった。
ここを出たのが朝の六時半ごろだから、八時間以上走っていたことになる。途中、井戸端会議に参加したり、お昼ご飯を食べたり、昼寝しすぎたりしたものの、今日一日の大半は自転車の上にいた。
「北寺さん、私ここで寝るから」
一歩も動きたくない。廊下のフローリングにぴたりと頬をくっつけながらそう思った。
既に上半身裸になっている北寺は、洗面所からひょいと顔を出して呆れ果てたようにため息をついて、シャワーを浴びに行ってしまう。彼も彼なりに疲れているのだろうか。自転車も手荷物もすべて投げ出した状態のまま、律歌はその水音を聞くともなしに聞いていた。すると「あー! ボディソープ切れてる!」という悲鳴が浴室から届く。なんだと……。シャンプーもコンデショナーもトリートメントも自分好みのブランドを置かせてもらっているが、ボディーソープは共有だ。ここには薬局もコンビニもない。あったとしても買いにいく元気もない。しかし、この世界には便利な便利なダッシュボタンがあるから大丈夫だろう。予期したより早くチャイムが鳴った。三分も経っていないのではないだろうか。「りっかー、代わりに出てくれるー? アマトだと思うー!」という声にむくりと起き上がり品物を受け取って開封すると、浴室のドアの前においてあげた。洗剤やトイレットぺーパーなど限られた種類ではあるが日用消耗品にはダッシュボタンがあり、押せばアマトが即時持ってきてくれるのだ。前にも醤油を切らした時に使ったことがあり、その時もすぐに駆けつけてくれたことに驚いた。
それから間もなくして出てきたほかほかの北寺に礼を言われ、入れ替わった。補充されたボディーソープを使って、出たらドライヤーを借りて、置いてある部屋着に着替えてそのままベッドイン。
「じゃ、おやすみ」
寝室、やや硬質なマットレスに身を沈め、羽根布団にくるまりこんだ。そして北寺の方をちらりと見やると、
「ちょちょちょちょっと待って待ってりっか!」
観念したように彼が駆けつけてくるのはいつものことだ。
「りっかー? はーい、ここ、おれのおうちだからねー、起きようかー」
「いいじゃん、ベッドでかいんだから!」
「そーゆー問題じゃないよー」
……いつもの、ことだ。
「でももう疲れて動けなーい」
キングサイズのベッドの脇に膝をついて、北寺は寝そべる律歌に視線を合わせる。じっと目を見つめて。
彼のそのいつもの困り顔を見ていると、律歌は胸がしめつけられたような気分になる。
「……はいはい、わかりましたよ。帰るわよっ」
むくりと半身を起こした。
「送るよ」
北寺は申し訳なさそうに手を差し出してくる。律歌はその手を取ると、腰を上げるふりをして思い切りそのままベッドに引きずり込んだ。
「わわわわわわわわわ」
律歌の思っていたよりずっと容易く北寺は布団の中に滑り込んできた。律歌のスペースに、少しだけひんやり冷たい肌が入り込む。湯上りの体温が布団の中でさらに熱くなった。パジャマと薄手のパーカー越しに、二人混ざり合うように体温が移動し合う。心地いい。満たされる。安心する。
「私もあなたも疲れてるの……。仕方ないからここで寝かせなさいよ……?」
眼前間近で囁いてみせる。
「やれやれ、仕方ない、な……」
かかる息がこそばゆい。
「うん」
北寺の長い前髪。金色の隙間からのぞく深いグリーンの瞳。その瞳に映る自分。
ここにいるのは自分一人じゃなくて二人なのだ、二人で生きているのだと、全身で感じられる。
眼差しは、ほてり頬の律歌を愛しさで包み込むように慈愛に満ちて優しげで、どこか、大人びていて、
「おれが……ソファで寝るしかないか」
ほんの少しだけ、冷たい。
「……っ!」
律歌は両腕を突っ張ると、布団を蹴って起き上がった。
「嫌い、嫌いっ。北寺さんなんて!」
「ごめんねりっか」
傷ついたような顔をして、ずるい。
「謝らないでよ! 北寺さんなんて大嫌いだもん」
「うん、うん、ごめんね……」
手を握られた。優しく包み込むように――。その手を振りほどく。
「触らないで、もう!」
「……うん」
自分から拒んでおいてそんな泣きそうな顔をされても、困る。
傷ついているのはこっちだ。
北寺さんは、私と同じようには、私を求めてはくれないのだ。
律歌は立ち上がると玄関まですたすた歩き、着替えも荷物も置いたまま、
「じゃ、またね」
「うっ、うん……! りっか、また明日ね……っ!」
振り返ると、階段と廊下を走って追いかけてきた北寺が、縋るようにもう一度念を押した。「あの、お願いだから……、ねえ、明日も、来てね……?」
その顔があまりにも必死の形相なので、つい、
「ふん。もう来てあげなーい」
意地悪を言いたくなる。
「やだっ、やだよ!」
「じゃあ一緒に住も?」
「それは……ダメ」
「むう」
「だめだよ~、ふしだらふしだら。ね?」
ごまかすように北寺は律歌の肩を掴みくるりと外を向かせる。
これ以上突っ込んで聞いたら、この関係が壊れてしまうのだろうか。
“そこまで好きじゃない”のかな。それとも――その瞳に映るのは私でも、心に映っているのは別の誰かなの?
今日は、もう帰ろう。
「わかってる。そんなの当ったり前でしょ! 明日は朝四時集合だからねっ!」
そして扉を閉める。
それでも北寺さんはここに来ていいって、言ってくれる。少なくとも嫌われているわけじゃない。
暗く寒い道がのびている。部屋着のまま一人きりで走って、もやもやした心を霧散させていく。
私は一人なの?
私は一人じゃない。
明日も一人じゃない。だから――これを受け入れよう。
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