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第一章 楽園

1・本当にお代はいらないんですか?

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 律歌は待ちきれなくて目を覚ました。旅立ちの日のように思考が冴えていた。息もつかぬまま顔を洗って歯を磨き、クローゼットを開ける。真新しい洋服が並んでいて、最初に目についたブラウスに袖を通し、キュロットを合わせた。鏡も見ずに、感覚だけでこめかみに花のピンを挿し入れながら、早足で階段を駆け下りて玄関へ。まだ薄寒い外へ、大きな音を響かせドアを開け、一思いに出てしまう。どこまでも野原が続き、タンポポの花が傘のように閉じたまま朝日を待っている。静寂そのもので、空気が澄んでいて、アルプスの山間のように牧歌的で、やっぱりまだ見慣れない。袖の中を通った風が、脇からわき腹をすうっと冷やした。
 隣の家には三十秒ほどでついた。鍵はむろん開いている。律歌は靴を脱ぎ散らかし、薄暗い廊下を電気もつけないまま一直線に突き進む。そして寝室の扉までくると開け放ち、
「北寺さんっ! も・う・朝~~~~っ!」
 そのまま、無防備なベッドにダイブした。
「ぐえ」
 律歌の全身の下でもぞもぞと動く物体。
「りっか……今、何時……」
「五時っ」
 律歌の返答を聞いた瞬間、その物体は急速に収縮を始めミノムシのように布団を巻き付けて小さく丸くなった。
「……は、や、すぎィィィィ……っ。おやすみ」
「やだーっ!」
 律歌は力任せに布団をひっぺがえそうとして、北寺の力が意外と強くて失敗。
「もうっ、五時に出発って言ったでしょ! 行こう北寺さん! 出かけよう!」
「んん……そんなこと……言ってない……まじで言ってないよ……」
 すやすやと寝息が立ち始めてしまう。
「いいのーっ。ほら、朝ごはん食べるよっ。北寺さん!」
 律歌は北寺の顔を覗き込み、彼の首元までまっすぐ流れている長い髪をちょいとかきわける。金色の髪が美しい彼の寝顔は、見方によっては人形のように無垢にも見えたし、都心の暗いビルで働きづめの疲れたホストのようにも見えた。それにしても起きる気配がない。
 律歌はあきらめてベッドを降り、階段を下っていく。そろそろ朝ごはんが届くはずだ。と、下っている途中でチャイムの音がした。
「こんにちはー。アマト運輸です」
「あっ、はーい! おはようございまーす」
 時間通りだ。玄関に行きドアを開けると、見慣れた段ボールが積み上げられていた。白い作業着を着たお姉さんがその横に立っている。彼女の被っている帽子にはトレードマークのシロネコのイラストが。
「食品が二点、雑貨が五点、衣料品が二点、家電が一点と、家具が一点と、あとは自転車が二台ですね。お荷物の置き場はこちらでいいですか?」
「はい!」
「じゃ、ここにお受け取りのサインを」
「はいはい」
 受け取りのサイン欄には家主の名前を代理で書くべきか、自分の名前を書くべきかいつも悩むのだがどちらでもよさそうなので深く考えずに末松と自分の名を記入している。そんなことよりも。
「あの、本当にお代はいらないんですか?」
 律歌は挨拶代わりの質問をぶつける。お姉さんはきょとんとした顔になり、
「もちろんです。送料も商品代金も無料となっておりますので」
 こちらもお決まりの返事がかえってきた。
「それってどういうことなんでしょう?」
「さあ……? ごめんなさい、ちょっと、私には」
 困惑する配達員……聞いたって仕方がないのはわかっていたが、毎日確かめずにはいられなかった。
「おっと、すみません失礼しますね。次がつかえてまして」
「あっ、ごめんなさい」
 後ろには大きなトラックが停まっている。今日一日でどれだけのものを配るのだろう。
「お仕事、大変ですね」
「まあ、そうですね」
 お姉さんはシロネコアマトと書かれた帽子を目深にかぶりなおし、
「本当にここは、天国ですね」
 そう言うと、忙しなく行ってしまった。
「天国、か……」
 一番上の段ボールを手に取る。いつものようにお弁当だ。毎度贅沢に松花堂弁当にしている。重厚感のある正方形の箱が十字に仕切られていて、その各空間に陶器の小さなお皿があって、その上に季節の料理が品よく盛り付けられている。炊き立てほかほかご飯付き。
(まあ、だって、代金は必要ないって言うし……)
 どうして……なのかはわからない。無料? どうして? ここは、どういう仕組みで成り立っているのだろうか。こんな早朝にだって配達してくれる。
 そもそもここは、いったいどこなのだろう。
 牧場のようなこの景色を、アマト運輸のトラックが、どこかへと走り去る。ブロロロロと排気ガスを吐き出す音が、明け方の青く静謐な空気を、なんだか懐かしく震わせていた。
 律歌はテーブルに、その豪華なお弁当を二つ並べ、熱いお茶を淹れた。北寺はまだ起きてこない。
(さて、どうしようかしら)
 一日に行動できる量は限られる。時間を無駄にはしたくなかった。北寺をあんな風に起こしてはいるが、でも、強要してはいけないという自制心は持っているつもりだ。ここは、誰にも強制されないところだよ――という彼の言葉に救われた過去だけは、律歌も忘れてはいなかった。
 窓の外、辺りはまだまだ薄暗く、台所の蛍光灯はそれに対して少し強くて、律歌の影を濃くする――強くあろうという決意とともに「いただきます」と小さく口に出して手を合わせ、一人、箸を取った。
(今日の、予定を立てなくちゃ)
 たとえ自分一人でも、できることをやっていこう。
 物音がした。心が弾んで、手が止まる。律歌は階段の方をじっと見つめた。寝ぼけたような足音を鳴らしながら、「……おはよう」と、北寺が降りてきた。瞼が半分開いていない目、ほうぼうにはねっかえる寝ぐせ。私とまた一日を始めることを選んでくれて、それでこうしてむにゃむにゃと降りてきてくれた。律歌は一口目を口に運び入れて言った。
「おっそーい! もー!」
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