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呆れてばかりはいられない

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「ふふっ、よく寝てるわ」
 
 気が付くと何時の間にか戻って来たジルさんが耳もとで囁いている。
 
「さっきはありがとうね、マリー。
 あれ、すごく大切な書類だったの、助かったわ。
 じゃぁ、あたしは行ってくるけど、いい子にしててね。
 帰ってくるまでできるだけ大人しくしていてくれたら嬉しいわ。
 それと、ロッタにはよく言いつけておいたけど、できるだけあの娘の目に入らないようにしてくれると助かるんだけど」
 
 ジルさんが屈み込んで耳もとで囁いた。
 
「なぁん(はあい)」
 
 薄く目を開けて答える。
 
「あら? あたしの言っていることがわかったみたいね」
 
 ジルさんは目を細めると出かけていった。
 
 その姿を見送って、わたしは起き上がる。
 
「んーー! 」
 
 前足と後ろ足をできるだけ広げて大きく伸びをする。
 
 さてと。
 どうしようかな? 
 
 気が付くと日は完全に昇っていた、昇るというよりお昼ぐらい? 
 窓からの光が強くなっていて、部屋の中央まで差し込んでいる。
 
 暖炉の火は消えていたけど、室内には温もりが広がっていた。
 
 お昼は? 
 とか、図々しいこと考えちゃうけど、期待するだけ無駄かな? 
 耳をそばだててみるけど、小さな軽い女の子の足音がひとつ時々するだけで、ジルさんのっぽいしっかりした足音はしない。もちろん声も。
 あのメイドちゃん、ロッタって言ったっけか、わたしというか猫のこと相当嫌っているはずだからご飯なんてくれそうにないよね。
 
 ま、猫だし、寝てただけだし、どっちでもいっか。
 
 とりあえず、お家の中でも見せてもらおっかな? 
 
 本当ならご飯と泊めてくれたお礼にお掃除でもしたいんだけど、さすがに猫の手じゃね。
 今のわたしにできるのってせいぜい鼠番くらいのものだよね。
 家に猫がいると匂いを嫌って、鼠は寄り付かないはずだし。
 
 少しだけ開いていたドアの隙間をすり抜けて廊下に出る。
 
 ふわぁ、ここも豪華だなぁ。
 さっきまで居たお部屋の装飾から想像していたのよりそんなに広くはないんだけど、床には絨毯が敷き詰められ、壁には燭台と交互に何枚もの肖像画が飾られていた。
 
 過剰にならない蔦模様が彫り出された上品で優雅な額縁はいいんだけど、中の肖像画がちょっと気になる。
 だって、どの絵もみんなジルさんの顔してるんだもん。
 強いて言うなら、着ている物のジャンルが色々だから、もしかしてジルさんの親とか祖父とかご先祖様? 
 絵の具の匂いが気になるけど、猫になっちゃったせいか嗅覚が以前とは比較にならないほど敏感になっているのよね。
 
 絵の前を離れて廊下を先に進む。
 廊下の壁際にあったドアはしっかり閉まっていて、残念ながら開けられない。
 直ぐにエントランスに突き当たった。
 天井にはシャンデリア、正面にはステンドグラスの施された両開きのドア。
 広くはないけど、とにかく豪華な造り。
 ひょっとしてジルさんって、貴族とかお金持ちさんの奥さんなのかな? 
 この建物がそう大きくないところからみて、ここは別荘とか? 
 
 廊下はエントランスホールを要にしてL字にまがっていた。
 その先に進むと、なんだかとってもいい匂い。
 これ、パンを焼く匂いだぁ! 
 それからたまねぎをバターで炒めた匂い。
 思わず鼻をひくつかせた。
 
 匂いに釣られて、ふらふらぁっと開いているドアからその先へ足を踏み入れる。
 やっぱりここキッチンだ。
 さっきのお部屋や廊下とかみたいに豪華な装飾はないけど、無駄なものがなくすっきりと整頓された心地いい空間。
 
 中央に置かれたテーブルの前に立ち、今朝ほどのメイドちゃん、が鼻歌混じりに何かを捏ねていた。
 
 ただ、あまりに手元の作業に集中しているせいか、パンの焼ける匂いの中に少し焦げ臭さが混じってきたのに気が付かないみたい。
 
「なぅ、なーなーにゃう(ねぇ、オーブン大丈夫? )」
 
 パンが焦げているのに気がつかなくっちゃ気の毒だから、声を掛けてみる。
 
「え? やだ、猫! 
 なんであんたがキッチンに居るのよ! 」
 
 あたしの顔を見るなり、メイドちゃんは粉だらけの手を振り上げてこっちに突進してきた。
 
 やばっつ。
 自分が猫だったってこと、猫は嫌われていることうっかり忘れていたわ。
 
 慌ててキッチンを飛び出すと、一目散にさっきまで居た部屋に逃げ込んだ。
 
「……ったく、なんだって…… 
 う、わっつ、きゃー! パンが!!!!
 ……よかった、かろうじてセーフ! 」
 
 暖炉の前のクッションに戻り、当たり前のように毛繕いしていると、キッチンの方から慌てふためく音と、メイドちゃんの独り言が聞えてきた。
 
 ふぅ。
 こんなに嫌われてちゃ、ひとまずはこの部屋から出ないほうがいいかな? 
 
 仕方なくわたしは、またクッションの上で丸くなった。
 またしても眠気が襲ってくる。
 夜も午前中もたっぷり寝たんだけどな。
 この眠気って、もしかして異世界に来たことによる体力消耗とか時差ぼけみたいなものじゃなくて、猫の体質? 
 
 なんて、考えながらも、うとうとはじめた。
 
「チ、チチチチチッ…… 」
「ピピィ! 」
 
 誰も居ない静まりかえった部屋の中に、庭の小鳥の囀りが響いてくる。
 
「チチチチ、チチチッツ(それでサ、あの円錐形の木の根元の方に隠したんだ)
 ちぃ、ぴぴっつ(ほら、一本だけ先っぽがないあの木)」
「チチッ(隠したの? わざわざ)」
「ピピィ! チィチィチィ(当然! だって僕には重くて咥えて持てなかったんだもの)
 ピッピキ、ピィ(だけど、あのいやらしいカラスにくれてやるの悔しいだろ? )
 ちちちぃ、ピィ(あんな真っ赤な木の実のような石)」
 
 あれ? 
 小鳥囀りが、意味を持ったおしゃべりに聞える。
 
 そっか、今までただのさえずりにしか聞えなかったけど、小鳥のさえずりも意味があったんだぁ…… 
 
 そんなことを思いながら眠りに引き込まれていった。
 
 
 
「……あら、マリーってばまだ寝てるの? 
 ふふっ、さすが猫ね。
 よく寝られるわぁ」
 
 どのくらい寝てたのか、部屋の中にジルさんのハスキーボイスが響く。
 
「ご主人様、この靴でいいですか? 」
 
 メイドちゃんが慌てた足音で駆け込んできた。
 
「マダムよ、ロッタ。
 そうそう、この靴よ。
 悪いわね、忙しい思いをさせて。
 急に舞踏会だなんて言われても、準備に困るってものよねぇ」
 
 顔をあげると、髪を結い上げ豪華なドレスを着たジルさんが居た。
 デコルテの大きく開いたマーメイドラインの紫のドレスがすっごくよく似合っている。
 
「急にじゃなくて、忘れていたんじゃないんですか? 
 しっかりしてくださいよ」
 
 呆れたように言いながら、メイドちゃんは部屋に脱ぎ散らかされていた衣服を片付けに掛かる。
 
「ねぇ? ロッタ、あれ知らない? 
 ルビーのブローチ」
 
 チェストの上に置かれた宝石箱の中を覗き込みながら、ジルさんがつぶやいた。
 
「ルビーのですか? 
 ご主人様のお気に入りの? 
 確か昨日もつけていらっしゃいましたよね? 
 また、無意識に外して書き物机の引出しにでも放り込んだんじゃないですか? 」
 
 そんな癖があるのか、メイドちゃんは落ち着き払って答える。
 
「それがねぇ、ないのよ。どこにも。
 おかしなことに、外した覚えもないのよぉ」
 
 ジルさんは困ったように眉根を寄せた。
 
「明日明るくなったら探しておきますから、今日は諦めて他のブローチになさったらいかがですか? 」
 
「いやよぉ。
 このドレスにはあの宝石じゃなくっちゃ。
 エメラルドなんかつけてったらいい笑いものよぉ」
 
 ジルさんは駄々を捏ねているみたい。
 
 ルビーのブローチねぇ。
 どっかで、さっきそんな話を…… 
 
 そうだ! 小鳥! 
 小鳥が、トピアリーに赤い石が何とかって…… 
 
 外に出ようと窓に向かう。
 
 えっとぉ、押したら開くかな。
 
 窓の前に立って軽く叩いてみる。
 
「どうしたの? マリー。
 外に行きたいの? 」
 
 ジルさんが気付いて窓を開けてくれた。
 
 外から入ってくる冷たい空気と入れ違いに庭に飛び出した。
 
 えっと、昨夜のトピアリーは? 
 
 庭の中央に立って見渡す。
 
 あった! 
 
 円錐形に刈り込まれた中で一本だけ先の欠けた常緑樹を見つけ駆け寄った。
 
 確か小鳥が言っていたのはこの木のはずなんだけど。
 木の根元に鼻を突っ込んでみる。
 うん、確かにジルさんの匂いが少しする。
 
 トピアリーの根元少し奥のほうに手を突っ込むと…… 
 
 あった! 
 
「うにゃぁ(ジルさん、こっち)」
 
 泣き声をあげてジルさんを呼んだ。
 
「なぁに、マリー? 
 どうかしたの? 」
 
 呼び声に応えてジルさんがドレスの裾を摘み上げて出きてくれた。
 
「うなぁ(ここよ)」
 
 根っこのところからブローチを引っ張り出そうとするんだけど、この猫の手じゃ摘めない。
 仕方なく掌全体を使ってはたきだした。
 
「え? 
 まぁぁぁ! あったわぁ! 
 どうして、こんなところにぃ? 」
 
「昨夜、その猫拾ったの、この辺りじゃありませんでした? 」
 
 何時の間にかメイドさんが来て呆れたように言う。
 
「そうだわ、この木の下よ。
 嫌だわ、きっとその時に落したのね。
 よく気がついてくれたわね。
 マリー! あなたってば、なんていい子なの? 」
 
 ジルさんはわたしを抱き上げると頬擦りしてくる。
 
「ご主人様、化粧が崩れます。
 それと、お時間過ぎてますけど? 」
 
 メイドさんが冷ややかに言った。
 
「え? やだ、こんな時間! 
 もう、完全に遅刻だわ! 
 とにかく行ってくるわね」
 
 ジルさんは部屋に駆け戻るとふわふわのストールをかけ、ハンドバックを持ち上げる。
 
「ロッタ、書斎の暖炉の火落すんなら、マリーはあたしの寝室に入れておいてね」
 
 言い残して慌しく飛び出していった。
 
 
 
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