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ガラスの棺の白雪姫

- 10 -  (旧・16後、17)

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 空腹に耐え兼ねてベッドを下りると日は完全に上がっていた。
 気が付くと昨日の朝から何も食べていない。
 完全に拗ねきっていた主の機嫌をこれ以上逆撫でしないように乳母は極力触らずに距離を置いていた。
 付かず離れずで、主が食事を所望するのを黙って待っていたのだろう。
 一晩中泣きはらして目が痛い。
「少しは気が済みましたか? 」
 気配を聞きつけドアを開いた乳母が運び込んできた食事のトレーにはアイリスの好きなものばかりが載っていた。 
 
 
「まあ、アイリス様。
 今日は起きても大丈夫ですの? 」
 着替えを済ませ階下へ降りると、待ち構えていたように少女が声を掛けてくる。
「わたくしたち、心配していましたのよ。
 昨夜はせっかくの舞踏会でしたのに残念でしたわね」
 パーラーの片隅で椅子を勧められるとともにたちまち取り囲まれた。
「ええ、やっと乳母の許可が下りたの。
 ご心配おかけしてしまって、ごめんなさいね」
 取り囲んだ顔はどれもが何かを言いたそうだった。
「舞踏会、いかがでした? 」
 それを承知で訊く。
 恐らくは表向きの情報まで把握している乳母に訊いてもいいのだが、都合の悪い部分ははぐらかされてしまいそうだ。
「ええ、ステキでしたわ。
 特にあのライオネル様とレディ・アレクサンドリーヌのダンス」
 思い浮かべるように視線を泳がせ一人の少女がうっとりと言う。
「悔しいけど、とてもお似合いでしたわよね」
 少し悔しそうに誰かが呟いた。
「でも、どうしてレディ・アレクサンドリーヌだけあんなに王子様方の声が掛かるの? 
 ライオネル様だけならまだしもサシャ様もなんて…… 」
「え? 」
 その言葉にアイリスは耳を疑う。
「ああ、ご存知ないのよね。
 昨夜の舞踏会でね、レディ・アレクサンドリーヌサシャ様と一番に踊って、次に誰とも踊らないでお待ちになっていたライオネル様のお相手もなさったのよね」
「お一人で二人の王子様のファーストダンスのお相手をなさるなんてひどいと思いませんこと? 」
 それが気に入らないとばかりに少女達が一声に口を開いた。
「それに、こういう場合って、どうなりますの? 
 ライオネル様とサシャ様のどちらが本当のお相手なのかしら? 」
 少女の一人が首を捻る。
「そう? 
 でも、ほら。アネット、レディ・アレクサンドリーヌは王妃様の実の妹さんだし、まだ確実にお心を決めていない王子様方には都合がよかったんじゃないかしら? 」
 アイリスは半ば自分に言い聞かせるように呟いた。
「他の方だったら、『決めた方がいないから間に合わせです』とは後でおっしゃれないでしょう? 」
「そうかも知れないわね。
 きっとアイリス様がご出席なさっていたら、そういう時のお相手はアイリス様だったはずですものね。
 何しろアイリス様は王子様方の妹御のような立場ですもの。
 アイリス様が居なければどうしても同じような立場のレディ・アレクサンドリーヌが代わりになってもあたりまえなんだわ」
 少女の言葉に何かとがったものが胸に刺さった気がした。
「それでね、あのライオネル様のダンス。
 あの後わたくしも踊っていただいたのだけど、できないっておっしゃるの…… 」
 その後の少女たちとの会話はほとんどアイリスの耳には入ってこなかった。
 
 少女達の気持ちを収めようととりあえずはそう言ってみたものの、アイリス本人が納得できない。
 どうしてサシャの相手がアネットだったのだろう。
 しかもサシャ一人だけならまだしもライオネルともと聞かされると何が何だかわからなくなる。
「それでね、もう王子様のお相手も決まってしまったことですし、わたくし明日には家に帰ろうかと思っていますのよ。
 父もそう言っていますし…… 」
 諦め半分で続く少女達の言葉はそれ以上アイリスの耳には入ってこなかった。


 
 
 その後、どんな会話が続いていたのか全く憶えのないままにアイリスは部屋に戻る。
 もう、何がどうなっているのか全くわからない。
 
 そもそも、兄のセオドアのように既に決めている相手が居て、今回のことをプロポーズする絶好の機会と狙っている人がいる一方で、ライオネルやサイラスなどはこの莫迦げた会に否定的だったときいた。
 だからライオネルが一時凌ぎにアネットに相手を頼み込んだというのであれば全く不思議はない。アネット自体にそのつもりがないせいもあってか、どの王子もアネットとは気楽に接していた。
 サシャもどちらかといえばまだライオネル達と同じだと思っていたのに…… 
 少女達の話によるとアネットは王子の正式な相手として認められる最初の一曲目をサシャと、次いで二曲目を誰の手も取らずに待っていたライオネルと躍ったという。
 普通に考えればこの場合、サシャの正式な相手はアネットということになるのかもしれない。
 それだけでアイリスの頭に血が上るのには充分だった。
 
「姫様? どうかなさいました? 」
 部屋に戻るなりベッドに身を投げたアイリスの様子を伺うようにして乳母が訊いてくる。
「旦那様からお手紙が届いていますよ」
 部屋に戻るなり乳母はトレーに乗った一通の封書を差し出した。
「何かお急ぎの用事でしょうか? 」
 次いで開封を迫るようにペーパーナイフを差し出した。
 アイリスはそれを見ようともせずにそっぽを向く。
 公務で国外へ出向いている父からの手紙の内容などなんとなく想像がつく。
 ほとんどお説教とも取れる手紙など見たくもない。
「ご無理をなさってまたお熱が上がったんじゃ…… 」
 封も切らずにあからさまに脇へ押しやってしまった手紙を目に、乳母が困惑気味に眉根を寄せた。
「何でもないの! 放っておいて」
 乳母の視線も声もうるさく思えてアイリスは毛布を曳き被る。
 乳母はいつものことと察したのか、あからさまにため息をついたものの主から少しだけ距離を取る。
 そもそも、アイリスの機嫌は昨日から最悪だ。
 子供の頃からの付き合いで余程の事がない限りそれが一晩で直るとは思っていない。
「何かあったらお呼びくださいね」
 主を刺激しないようにそっと声を掛けてくる。
「…………て」
 それに応えてアイリスは毛布の下で呟いた。
「姫様? 」
「……じゃ、アネットを呼んできて! 」
 涙声のままイライラとアイリスは叫んだ。
 
 
「姫様、お連れしましたよ」
 ドアを軽くノックして、迷惑そうな顔をした乳母は手荒にアネットを部屋の中に押し込んだ。
「アイリス…… 」
 しばらく戸惑っていた様子だったが、やがてそっとアネットが声を掛けてくる。
「アネットなんか大嫌いよ! 」
 大きな声と共にアイリスはアネットめがけて枕を投げつけた。
 そんなことをしてはいけないことはわかっているけど、反射的に身体が動く。
「どう、し、…… 」
 驚いた表情でアネットは差し出しかけた手を引っ込める。
 アネットが悪いわけではないとわかってはいるけれど、声を聞いたらどうしても我慢できなくなった。
「あの…… 」
 明らかに戸惑った声でアネットは乳母に視線を送っている。
「ご覧の通りです」
 ところが乳母は表情を崩さず、固く口を引き結ぶ。
 こういうときのいつもの反応。
 明らかにアイリスが悪いとわかっているが立場上相手の肩を持つわけにも行かず逃げているのだ。
「マーサはでてって」
 ため息をついたアネットに呼応して、毛布の下からポツリとアイリスはつぶやいた。
 乳母はアネットをひと睨みすると、言われたままに退室する。
 部屋に響くドアの閉まる音を聞いて、ようやくアイリスは毛布を頭からかぶったまま起き上がった。
「サシャ様と、ファーストダンス踊ったんですって? 」
 恨みを込めて呟くと、アイリスは毛布から這い出す。
「あ…… 」
 言葉にならない声をアネットが出す。
「アイリス、もしかして…… サシャ様のこと…… 」
 その声にはどこか悲痛なものが混じっていた。
「そうよ…… 」
 それでもふてくされたままアイリスはアネットを睨みつける。
「だって、だって…… サシャ様誰にもとられたくなかったんだもの。
 小さな頃からずっと一緒だったのに、もう一緒に居られなくなるなって、考えるのも嫌だったんだもの。
 わかってるの、従兄弟だもの。
 ずっと一緒には居られないって…… 
 だけどね。もう少し、もう少しだけ…… そう思っただけなのに…… 
 みんなしてわたしの邪魔をするんですもの」
 つぶやくように言うと、目から涙がこぼれる。
「みんな、みんな大嫌いよ…… 
 お父様も、おかあさまも、乳母も、アネットも! 」
 そして声をあげてしゃくりあげる。
 アネットはベッドの端にかけると、黙ってそっとアイリスの髪を撫ぜた。
 言葉に詰まっているのか声はない。
「ねぇ、どうして? どうして、サシャ様の申し込み受けたりしたの? 
 その気もないくせに、どうしてサシャ様の手をとったりなさったの? 」
 ポツリとつぶやく。
「…… 」
 その問いに答えがない。
 それが更にアイリスの怒りを増す。
「わかってるの、わたしの髪が黒いから、御伽噺の王女様になれないから、だからサシャ様はわたしをみて下さらないんだって。
 どうして、わたしのじゃなくて、アネットの髪が金色なの? 」
 アイリスはゆっくりと起き上がった。
「ねぇ? どうして? 」
 ゆっくりと間合いを詰めながらつぶやく。
 バランスを取るためにベッドの上についた手の指先がリネンのシーツとは違う無機質な冷たい何かに触れる。
「アネットの髪なんて無くなっちゃえばいいのよ! 」
 反射的に身を引くアイリスに詰め寄りその髪に手を伸ばすと握り締めた。
 見事な蜂蜜色の髪は薄暗い部屋の中でも光を放つ。
 まるで本当に物語の姫君の不思議な髪のように。
 それが更にアイリスをいらだたせた。
「アネットの髪、なんて…… 」
 髪の束を握る手に力がこもり、引き寄せる。
 これからおこることを予感してか、アネットは恐怖に表情を硬くして動くことはなかった。
「いらないのよ、こんな髪…… 」
 先ほどから指先に触れていたペーパーナイフを無意識に握り締める。
「な…… 」
 それを目にアネットの顔から血の気が引く。
 手の中のナイフの刃がためらうことなくアネットの髪に当てられた。
「や…… 」
 小さな悲鳴を上げるアネット。
 かろうじて少しあとづさるが髪をつかまれているせいでそれ以上距離をとることはできない。
 とっさにアネットがバランスを崩し、傍らのテーブルに躓く。
 大きな音と共にテーブルが倒れた。
 その反動で髪に当てられていた刃が動く。
 ふっと、アイリスの握り締めていた髪の束から力が抜ける。
「姫様! 」
「どうなさったのですか! 」
 部屋のなかで起こった大きな物音に形相を変え、ドアの向こう傍らの側に控えていた乳母が飛び込んでくる。
 そしてアイリスが目にしたのは、片手に残ったアネットから離れた髪の束と、転がったテーブルに背を打ちつけ床に倒れたアネットと、それを言葉なく呆然と見渡す乳母の顔だった。
 
 
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