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白い小猫と人魚姫

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 先ほどまでのオペラの余韻が残っているせいだろうか? 
 今夜の夜会は何処となくざわめいていた。
 さすがに王宮で主催するオペラと言うべきか、それなりに一流の役者を揃えていると見え、オペラなどはじめてのイリーナにもわかる程プリマドンナの声はすばらしかった。
 そこここから漏れ聞えてくる人々の話題はさっきからそればかりだ。
 
 広いサルーンの隅々までを照らし出す蝋燭の炎に浮かび上がる人の姿を目に、イリーナはそっと息をつく。
 視界に捕えているのは金茶の髪の背の高い男を取り囲んだあでやかな集団だ。
 ただでさえ人の目を捕えて放さない第一王子を取り囲むのは容姿もいでたちも華やかなレディ達。
 とてもではないが自分がその中の一人に加われる気がしない。
「……そのドレス、三回目ですよね」
 聞きなれない声が首筋でふと囁かれた。
 その距離の近さもあるが声の冷たさにイリーナの背筋が粟立つ。
「誰? 」
 身を竦めながら視線を向けると自分と同じほとんど色味のない髪を持つ中年の男が立っていた。
「失礼、ロクサーヌ帝国外交官代行、アウロフと申します」
 男は型どおりに軽く頭を下げた。
「そう、ロクサーヌの…… お世話をかけます」
 外交官代行と言うことはイリーナのお目付け役か。
 そんな人間が目を光らせていることなど、イリーナは今まで気がつかなかった。
「女官長から同じドレスを着ないようにと通達が来ていませんでしたか? 
 それなりの枚数のドレスをお届けしているはずですが」
「お心遣い感謝します。
 けれどどれもサイズが合わなくて、メイドが直しに閉口していますから…… 」
 予期せぬ人物の出現に思わず顔が引きつってくるのが自分でもわかった。
 仮にも不特定多数の人々の集まっている場所だ。
 うっかり誰の目に止まるとも限らない。
 イリーナは手にしていた扇を広げると顔の前にかざす。
「はて? 何処で手違いが出たのか…… 」
 真相を知っていてとぼけているのか、全く知らないのか男はてんで心当たりがないといいたそうに首を傾げる。
「ま、そういうことでしたら。
 お父上には黙っておきましょう。
 誰かしら処分を受けることになりますから」
 イリーナの耳に入るか入らないかの声で男は呟いた。
「……処分って! 」
「当然でしょう、結果として貴女が宮廷の決まりごとを破ることになったのには誰かの落ち度があったからです。
 サイズを計り間違えたタイユールか、仕上がりを確認しなかった女官長か…… 」
「その、どちらでもないかと…… 」
「では荷物を届ける人間が嫌がらせのために運搬途中でべつのサイズのものに入れ替えているとでも? 
 どちらにしてもあなたのもとにそれなりのものが届かない以上は誰かが罰せられなければ納まりませんよ。
 もしかしたらそれは裁縫の苦手な貴女のメイドかも知れませんが…… 」
「そんな…… 」
「ですから、ここは黙っておきますよ。
 それよりも…… 
 事が進展していないようですが? 」
 男は言いかけると周囲に視線を動かしイリーナの耳元にすばやく顔を寄せた。
「お父上のお言葉忘れたわけではございませんよね? 」
 その言葉にイリーナの全身から血の気が引いた。
「ぁ…… 」
 返事をしようにも言葉が見つからない。
 あの日はじめて会った父の恐ろしい声は今でも耳にこびりついていた。
 本当は忘れてしまいたい。
 なかったことにしてしまいたいのに、どうしても頭の片隅から離れてくれない。
 その声が再び耳もとで蘇り、扇を取り落とした手で思わず耳を両手で被う。
 身体に力が入らない。
 視界が大きく斜めに傾いてゆく。
 意図せず崩れ落ちそうになった躯は、誰かの手に支えられかろうじて体勢を立て直した。
「失礼、イリーナ皇女。
 顔色が悪いようですが、大丈夫ですか? 」
 耳もとで囁かれる先ほどの男の物とは比べ物にならない柔らかで温かな声。
「平気、です」
 問い掛けられたのが誰かもわからずに、乾いた喉からかろうじて搾り出す。
「少し、皇女殿下をお借りしても? 」
 どこか聞き知った声が、先ほどのイリーナの相手に訊いている。
「ああ、構いませんよ。シルフィード殿下。
 では、失礼。姫君…… 」
 男はどこかうろたえたような雰囲気をその場に残して立ち去った。
「……歩けますか? 」
 耳もとで先ほどの柔らかな声がもう一度訊いてきた。
 向けられた柔らかな声に動転していた気が少し戻りイリーナは頷いた。
 礼を言って声の主に手を引かれるままにその場所を抜け出した。
「ありがとう…… もう、大丈夫です」
 そっと触れていた手が引き戻され、熱が離れる。
 それを何故か少しだけ残念に思いながらイリーナは顔をあげた。
「もう部屋に戻って休んだほうがいい。
 疲れたのですよね」
 取り落とした扇を差し出しながらシルフィードは言う。
「夜会や観劇もこう毎晩では躯がもたないし。
 さすがに僕達も少し休みが欲しいと、言っていたところなんです。
 歩けますか? 
 少し待っていてください、あなたのメイドを呼んできますから」
 シルフィードはイリーナの顔をもう一度覗き込んだ。
 
 
 目が覚めるとベッドの中に居た。
 少しだけ重い頭を抱えてイリーナは起き上がる。
「お目覚めになりましたか? イリーナ様」
 ベッドの上の気配を察してライサが声を掛けてきた。
「お顔の色が優れないようですけど…… 」
「大丈夫、何ともないわ」
 寝乱れて額にこぼれる前髪をかけあげながらイリーナは答えた。
 体調はたいしたことはない。
 夜寝付けなかった翌朝に躯が重いのは時々あることだ。
 ただ…… 
 
 昨夜の男の言葉がはっきりと耳にこびりついて離れなかった。
 
 忘れてしまいたかったのに。
 このまま何事もなく時間が過ぎることだけを祈っていたのに…… 
 
 あの後気が動転しすぎて、どうやって部屋に戻ってベッドに入ったのか全く思い出せない。
 ただ、自分をあの男から引き離してくれたシルフィードの手の熱をはっきりと憶えている以外は。
 あの時のシルフィードの手の暖かさは、通常のものではなかった。
「ね? シルフィード殿下、今朝どうしているか知ってる? 」
「殿下ですか? 
 いえ、あたし達は向こうの建物には入りませんから…… 
 それが何か? 」
「ううん、なんでもないの」
 イリーナは慌てて頭を横に振った。
 言われて見れば確かにそのとおりで、イリーナ達が別棟への出入りを禁じられているように、そのメイドも勝手に出入りできる場所ではない。
 気にはなったけど、これ以上ライサから聞き出すのは無理そうだ。
 
「起きられますか? 
 朝食の準備できていますけど」
 何時の間にか隣の部屋へ移動したライサが訊いてくる。
「ありがとう」
 言われた言葉に促され、イリーナはベッドを降りた。
 
 テーブルにつき用意された食事を目にイリーナはライサに向き直った。
「先日仰っていたお茶会用の御菓子、焼いてみたんですけど。
 どうでしょう? 」
 ライサが首をかしげると笑みを向ける。
「ライサの腕なら味見しなくても大丈夫よ? 」
「でも、お借りしたキッチンのオーブンも違いますし、バターも微妙に味が違うのでいつものように焼けるのか心配で…… 
 どう、ですか? 」
 イリーナが菓子に手を伸ばしたのを見てライサは訊いてくる。
「ええ、いつもと同じ、おいしい」
 久しぶりに口にした国の菓子はさっくりとして口の中でほろりと解ける。
 味も口当たりも今まで尼僧院でイリーナが口にしていたものと全く同じだ。
「でも、やっぱりなんとなく一味違いません? 」
「そうかしら? 大丈夫よ。焼き加減も完璧だし。
 安心して皆さんにおだしできるわ。ありがとう、ライサ」
「よかったぁ! 」
 イリーナの言葉にライサの顔がぱっと綻んだ。
「これ、少し貰っていい? 」
 早々に食事を切り上げるとイリーナは立ち上がる。
「はい、お茶会当日にはまた新しく焼きますから」
 イリーナの言おうとしていることを察してライサはテーブルの上に盛り付けられた焼き菓子を手早くバスケットに詰め込んだ。
「……どうぞ、お持ちください」
 笑顔と共に差し出してくれる。
「じゃ、行ってきます」
 差し出されたバスケットを手にそっと窓際に寄り、机に置かれた本を取り上げると部屋を出た。
 
 
 午後になると毎日のように皆でお茶をたしなむパーラーは普段午前中なら静まり返っているはずだった。
 しかし今日はいつもと違いざわめいている。
 もれ聞えてくる声から、皆でチェスに興じているようだ。
 その喧騒を耳にイリーナは書庫へ通じる奥の廊下に足を踏み入れた。
 この一郭だけはいつもと同じ静けさが広がっていた。
 一つ息を吸い込んでイリーナは目の前にあるドアをノックした。
「……どうぞ。開いてます」
 いつもと変わらない声が応えてくれる。
 その声に何故か安堵を憶えながらドアを開いた。
「どうしました? こんなに朝早く」
 いつものように窓際に寄せられた椅子に座り広げていた本から目を離すとシルフィードは立ち上がる。
「あの夕べはありがとうございました。
 ……熱は? 
 お休みになっていなくて大丈夫なんですか? 」
 いつもと変わらない笑顔に安堵しながらもイリーナは問い掛けた。
「そんなにたいしたことはしていませんよ。
 それより、知ってたんですか? 」
 男は少し不思議そうに首を傾げた。
「ごめんなさい、わたし…… 
 その、昨日は動転してしまって。
 殿下にお声をかけていただいた時に、気がついてもいいはずだったのに。
 今頃…… 
 それに昨日のお礼も満足に言えなくて…… 」
 またしても気が動転してしまってなんと言っていいのかわからない。
 とりあえず頭に浮かんだ言葉を片っ端から口にする。
「かまいません。
 気にしないでください。大丈夫ですから。
 微熱なんていつものことなので」
 シルフィードの口調は言葉の割に何事もないようにさらりとしている。
「いつもって? 
 いつも体調が悪くても夜会に? 」
 思いがけない答に思わず声が大きくなる。
「ここだけの話にしておいてくれますか? 
 他のお嬢さん引いてしまうかも知れないし。
 さっきも言ったけど、たいしたことじゃないんです。
 子供の頃からずっとですからもう慣れてしまっていて、僕にとっては当たり前のことなので。
 このとおり、翌日にはけろっとしてますし」
「でも、そんな…… 
 それじゃお身体に障ります」
「ありがとう。
 幸い僕の仕事はこのとおり、他の兄弟と違って座っていればできるものですし。
 心配は無用ですよ。
 それより、その本もう読み終えたのですか? 」
 にっこりと笑みを浮かべると、シルフィードはイリーナの持ってきた本に手を伸ばす。
 いかにも話題を逸らそうとしていることは明白だが、イリーナにはそれ以上何も言えなかった。
 言ってはいけないことを口にしてしまったのかも知れない。
 そう思うと胸の辺りに何かが引っかかる。
「どうでしたか? 」
「面白かった、というか凄く素敵でした。
 こんな世界も世の中にはあるんですね」
 思わず声を弾ませてシルフィードの問いに答える。
 無数の本を与えられるままに読んで来たが、こういった内容の本ははじめてだった。
「本当に読んだことがなかったのですね? 」
 シルフィードは目を丸くする。
「だって、禁じられていたから…… 」
「でも、普通の女の子なら同じ寮の子同士、内緒で回し読みしたりするものですよ? 」
「その…… わたしだけ特別だったみたいで…… 」
 今思い返すに、何処の尼僧院でも数人で相部屋が普通の宿舎でイリーナだけは少し離れた場所に個室を貰っていた。
 それを疑問に思ったことはなかったけれど、今にして思えばイリーナが皇帝の娘であるために、特別扱いされていたのか他の少女となるべく接触させたくなくて隔離していたかのどちらかだろう。
「では、せめてここに居る間は…… 」
 シルフィードの長い指がイリーナの頭上を越えてその向こうへ伸ばされる。
「一冊でも多く読んでいってください」
 迷うことなく棚に伸ばされた手が一冊の本を抜き出して、イリーナに差し出した。
「さっきのと似たような恋愛物です。
 それとも別のものがいいでしょうか? 
 冒険物とか、フェアリーテールとか? 」
「い、いいです。これで」
 その手の本なら禁じられていなかったので無数に読んでいる。
 差し出された本に手を伸ばしたところ、それを握る男の手を掠めた。
「……良かった。熱はないみたい」
 受け取った本を抱えてふと呟く。
「だから言いましたよ。
 大丈夫です、心配には及びません、と」
「ええ」
 イリーナの顔が自然と綻んだ。
「じゃ、これ、お借りします。
 それと、これ。
 甘いものをお嫌いでなかったら、召し上がって。
 わたしがお世話になっている尼僧院で作っている焼き菓子を同じレシピで焼いてもらったの。
 材料を吟味しているから滋養があるって評判なの」
 手なりに側のテーブルにおいてしまっていたバスケットを取り上げるとイリーナはシルフィードに差し出した。
「では、ありがたく頂きます」
 笑みを浮かべるとシルフィードはイリーナの差し出したバスケットを受け取ってくれた。
 
 
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