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舞台裏の夜啼鳥(ナイチンゲール)
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しおりを挟む窓辺に寄せた椅子に座り広げていた書物から顔を上げると、ヴァイオレットはため息混じりに窓の外へ視線を移す。
珍しく雨が降っていた。
雨粒が庭の薔薇を濡らし、空気を湿らせる。
そのため整えた筈の肩に垂らした巻き毛が伸びて落ち、前髪が落ち着かない。
それがヴァイオレットの憂鬱な気分を更に募らせる。
こんなことなら今日はそっくり結い上げてしまえばよかったと思う。
今からでもと思うが、こんな時に限ってメイドが部屋を出て行ったきり戻ってこない。
手にしていた書物をテーブルに置くとヴァイオレットは立ち上がり部屋を出た。
通路もかねた長いギャラリーには、古今東西から集められた美術品と共に歴代の国王とその家族の肖像画が壁面いっぱいに掛けられていた。
ゆっくりと足を進めながらそれらに視線を泳がせる。
暫くするとギャラリーの片隅に数人の少女の姿を見出した。
雨天で戸外にも出られないとなると考える事は皆同じなのだろう。
「レディ・ヴァイオレット、わたくし達これからパーラーでお茶にしようかと思っているのですけれど、ご一緒にいかが? 」
挨拶もかねて笑いかけると、そう誘われる。
「珍しい方がいらっしゃること…… 」
パーラーでいつものようにテーブルを囲む顔にヴァイオレットは首を傾げた。
本気でダンスを習うためなのかそれともセオドア目当てなのかは定かではないが、この時間にはいつも熱心にダンスのレッスンに参加している少女が数人混じっていた。
「今日はダンスのレッスン、お休みなの」
そのうちの一人が言う。
「セオドア様お忙しいみたいで、もう三回も続けて中止になったのよ」
少し不服そうな口調で続けた。
言われてみれば、ほぼ毎日何らかの形で姿のあったセオドアが、ここ数日顔を見せていない。
あの時のセオドアの様子は確かにおかしかった。
何かあったらしいことは間違えないのだが……
「セオドア様といえば、妹のアイリス様、お帰りになったみたいですのよ」
誰かがポツリとこぼす。
「きっとそのせいで、お忙しいのでしょうね」
……それだけではないと思うのだけど。
ヴァイオレットは口を開かずにかすかに頭を傾げる。
ここでは集められた少女達に余計な先入観や不安を抱かせないようにと徹底した緘口令が敷かれていて、メイドでさえも詳しい話を知らない。
どうしても様子を知りたければ外部の人間を通して訊くしかないのだが、ヴァイオレットに可能なのは養父くらいしかいない。
その養父に頼むのは気が引けた。
「ヴァイオレット様はセオドア様とお親しいと伺ったのですけど……
どちらでお知りあいになりましたの? 」
「え?
ええ、デビュタント直後のはじめての夜会で……
わたくしお兄様もおりませんし、養父も難しい人でしたから、それを察してくださって時々、夜会や舞踏会の時にエスコートしてくださいましたの」
ヴァイオレットは目を細める。
あの頃は本当に楽しかった。
全てに厳しかった養父の目の届かないところで、自由に心からの笑顔を浮かべている自分がいた。
いつも優しい言葉をくれたセオドアの笑顔。
そしていつしか、流されるように肌を合わせる関係になった。
セオドアの側にいる時間は何故かとても安心できた。
ただ、それはここでできる話ではない。
「わたくし、そろそろ失礼しますね。
髪もこんなですし、晩餐の着替えに時間が掛かりそうですから」
これ以上話を突き詰められる前にとヴァイオレットは席を立つとパーラーを出た。
「聞いたか?
第一王子がグラシード嬢を伴って隣国へ向かった話だ」
パーラーを出ると廊下の片隅から誰かの声がする。
「ああ、これで本決まりだな。
賭けは私の勝ちということで…… 」
「おいおい。
そもそもこれは賭けにならないだろう。
第一あの娘は、こんな場所にいられる身分じゃない。
何しろあの娘の父親は、劇場の売れない下っ端歌手じゃないか」
その言葉にヴァイオレットの足が止まる。
「こんなところに大きな顔をして未だに居座っているなんておこがましいってもんだ」
明らかにヴァイオレットの耳に入っているのを承知の上での言葉。
別に今更傷つくこともない。
嘘も隠しもなく本当のことだ。
デビュタントの時から心無い誰かに陰ながら言われ続けてきた。
もうとっくに馴れてしまっているはずだ。
ヴァイオレットは唇をかみ締めると気が付かなかったことにして足早にその場を去る。
「いいえ…… 」
呟いてヴァイオレットはふと足を止める。
馴れてしまった訳ではない。
何時しかヴァイオレットの耳に入らなくなっていたのだ……
側にあの人が居たから?
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
「やっと、少しはましになったようだな」
ホールの片隅に置いてあるピアノの前に座っていたリヴェルダンは久しぶりにヴァイオレットに笑みを向けた。
「先生も物好きですこと…… 」
その笑顔を横目にヴァイオレットは手にしていた楽譜を閉じる。
なんだかんだ言われても、こうして努力を認めてその言葉を掛けてもらえるのは嬉しい。
「どうして、わたくしにそんなに時間を費やしてくださいますの?
わたくしではなく、他の才能のある方をご指導なされば、舞台に立たせることもプリマドンナにすることも可能でしょうに? 」
顔をほころばせながらヴァイオレットは男に訊いた。
「君の言ったとおり、ただの物好きさ」
同じくピアノの譜面台に置かれた楽譜を手にとりながら男は答えた。
「君を表舞台に立たせることができない代わりに、俺は君と言うプリマを独り占めして存分にその歌声を堪能できる。
こんな贅沢、国王だってできないだろう? 」
「本当に、変わっていらっしゃいますのね」
半ば嫌味のように言ってみる。
「変わり者大いに結構だよ」
男はそれを嫌味と知りつつ笑い飛ばしているようだ。
「今日はもういいかしら? 」
「ああ、この辺にしておこう。
また次回…… 」
言いながら男はピアノの前を離れた。
「ちょっといいかい? 」
男を送り出し、一足遅れてホールから出ると、ふいにセオドアから声を掛けられた。
久しぶりに見たその顔にヴァイオレットは息を呑む。
「なにか用事でもありまして? 」
足を止め、近づいてくる自分を待つように立つ男から距離を置いた状態で首を傾げる。
「君に報告しておきたいことがある」
言ってセオドアは応接室の方向へ促した。
ヴァイオレットは片眉を上げる。
セオドアがわざわざこうして出向いてくると言うことは、余程重要なことなのだと思う。
しかし、素直に男の言葉に従う気になれなかった。
先日の、キスの後のあの妙な思考が拭えない。
こんな曖昧な気持ちのままこの男と二人で向き合いたくはない。
「なんのお話ですの? 」
窓辺近くに置かれたソファに腰を降ろし、扇を広げるとヴァイオレットはセオドアを見上げる。
この位置なら、窓から入り込む光のおかげで相手の顔はよく見えるが自分の表情まではよくわからないはずだ。
「お父上を襲撃した連中は捕らえたよ」
ソファに座したヴァイオレットの前に立ちその顔を見下ろしながらセオドアは言う。
「知っていらしたの? 」
ヴァイオレットは首を傾げた。
「一応、報告は受けたよ。
もともと襲撃を抑えたのは軍の連中だし。
大体、君が舞踏会を欠席するなんてありえないことする辺りがおかしいだろう?
誰に言われなくても調べるよ」
「お養父さまのことですもの、どこで誰に恨みを買っても驚きませんわ」
「私もそう思ったんだけどね。
少し違った」
男は一つ息を吐くと曖昧な笑みを浮かべる。
「アーサーが君とセフィラのどちらを選ぶか賭けをして、セフィラに賭けたものの、その姿が最近アーサーの側にないことで焦った人間がいてね。
君を舞踏会に参加させなければ、賭けはそいつ等の勝ちになると踏んで侯爵を襲撃した。
本当なら君に直接危害を加えたかったのだが、王城に居住まいしている君を襲うのはリスクが大きすぎると判断したらしい」
セオドアは、苦笑いを浮かべる。
「侯爵が怪我をしたとなれば、人一倍侯爵に恩のある君は、どんなことでも差し置いて侯爵の下に駆けつける。
そう計算したようだよ」
「では、お養父さまはわたくしの代わりに怪我をなさったと言うの? 」
ヴァイオレットの声が知らずに震える。
「そういうことになるのかな」
セオドアは否定しない。
「そんな…… 」
「君、侯爵を毛嫌いしていたはずじゃ…… 」
意外…… とでもいいたそうにセオドアは表情を緩めた。
「ええ、今でも大嫌いでしてよ」
ヴァイオレットははっきりと言い切る。
でも、それとこれとは明らかに違う。
てっきり、誰かに恨みを買った自業自得だとばかり思っていたのだが、自分のせいだといわれるとさすがに心が痛む。
「侯爵を襲った連中にはそれなりの処罰があるし、そういうわけだからもうこれ以上侯爵が続けて襲われることはない。
これで君も安心できるだろう」
「ええ……
手を煩わせてしまって、御骨折り感謝しますわ」
ヴァイオレットは睫を落とす。
「良かったな…… 」
ふいにセオドアはソファに座るヴァイオレットの横に腰を降ろすと、そのまま横になる。
「ちょっと、セオドア? 」
最初からそのつもりだったのか、ヴァイオレットの膝に頭を乗せ、眼を閉じてしまう。
「悪い…… さすがにちょっと眠…… 」
よほど疲れていたのだろう。
最後まで言い終わらないうちに寝息を立て始めた。
「少し、だけでしてよ」
膝の上に乗った端正な顔に視線を落とすと、ヴァイオレットはそっと囁いた。
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
豊かに輝く栗色の巻き毛が頬に零れ落ち、同じ色の睫がその頬に濃い影を作っている。
きっと子供の頃は「天使のように愛らしい」とか言われたに違いない。
こうして眠っている顔は少しあどけなく、今でもそう思える。
静かに時が過ぎる中、ヴァイオレットは舘のあちこちから響くかすかな物音に耳をすませた。
少女達の笑い声、メイドの足音。
そして柔らかなピアノの音色……
あれはきっとリディアだろう。
今日の曲は『ナイチンゲールの子守唄』先日ヴァイオレットがアリアを歌ったオペラの中で歌われる穏やかで優しい曲だ。
ヴァイオレットはかすかに響くピアノの音色に合わせてそっと口ずさむ。
誰に教えてもらった憶えはないが、物心ついた時にはすでに歌えるようになっていた子守唄。
ふと、膝の上の柔らかな栗色の巻き毛が動いた。
「起してしまって? 」
ヴァイオレットは膝の上の顔を見つめる。
その声にゆっくりと瞼が開かれ、気だるげだった鳶色の瞳が光を取り戻す。
「いや、そろそろ起きないと…… 」
膝に掛かっていた重みとぬくもりが離れる。
「セオドア、あなた大丈夫? 」
こんな妙な場所で人の膝を枕に借りて寝付いてしまえるほどに疲れきった男の様子がさすがにヴァイオレットも気に掛かる。
「ああ、心配ないよ。
ちょっと寝てないだけだから……
おかげでいいもの聞かせてもらったし」
「何時から起きていて? 」
「いや、目が覚めたら君が歌ってた。
だからほとんど聴いてない」
セオドアは少し残念そうな表情を浮かべた。
「アイリス様もお帰りになったんですってね」
ソファから立ち上がると、ゆっくりと窓際に移動しながらヴァイオレットは訊く。
「ああ、あの子の場合は帰されたっていうのかな。
ちょっと色々あってね…… 」
セオドアは妙な顔をした。
明らかに何かを隠しているらしいことは理解できたが、ここは気が付かないふりをしたほうがいいとヴァイオレットは察して口を閉じる。
「君は、帰らないのか? 」
背後からセオドアの声が追ってきた。
「帰るに帰れなくなってしまいましたのよ」
窓枠に肘をつき中庭に視線を泳がせながらヴァイオレットは言う。
先日の養父は相当怒っていた。
暫く時間を置いて機嫌が直るのを待たないと、邸に戻っても同じことの繰り返しだ。
ここなら、人の目もあり、そうそう出向いてまで叱責するわけには行かない。
あの最悪な機嫌の父の相手をするくらいならここで咲き誇る薔薇に囲まれているほうがまだましだ。
「君が、ここを辞しても行くところがないと言うのなら、私のところに来ればいい」
「セオドア? 」
思ってもいない言葉にヴァイオレットは睫をしばたかせる。
「あなた、何を言って……
冗談もいい加減にしていただきたいわ」
ふりむくと何時の間にかセオドアが背後に立っている。
「私は本気だよ」
戸惑うヴァイオレットにセオドアは真直ぐに目を向ける。
「だって、養父が、お養父さまが許す訳ないもの…… 」
その菫色の瞳を不安げに揺らしてヴァイオレットは呟く。
「それなら話をつけてきた。
侯爵は君の結婚相手が王室公爵の嫡男でも全く構わないそうだよ」
穏やかな瞳のままでセオドアは言う。
「そんな筈……
だって今まで…… 」
戸惑ったまま、頭が混乱して言葉が出てこない。
……ずっとそう言われて育てられてきた。
あの館に引き取られて来た時からずっと。
自分の輿入れ先は第一王子以外ありえないと。
そのために最高の環境と最高の教育を施しているのだと……
あの冷たい瞳に見据えられてそう言われ続けてきた。
その養父がそんなに簡単に承諾するわけがない。
「公爵は…… 」
そのヴァイオレットを前にセオドアはゆっくりと口を開く。
「ものすごく不器用な人間なんだよ」
「お養父さまが? 」
ヴァイオレットはその言葉に見開いた目をセオドアに向ける。
今までヴァイオレットの見てきた養父は気難しくて我儘で、自分の利益のためならばかなり強引なことでも通してしまう。
いつも冷たい瞳をし、全くと言っていいほど感情を表さない。
そういう男だ。
「全く、君たち親子はそっくりだよ」
セオドアは呆れたように息を吐く。
「わたくしとお養父さまが? 」
妙な言葉にヴァイオレットは顔をしかめた。
「君に恋愛は無理だって、前にも言ったと思うけど」
「それとこれと、どんな関係がありますの? 」
「君はね、誰かを好きになって、その先その人がふりむいてくれなかったり、その人に嫌われたりするのが怖いんだよ。
だから必要以上に人に近づかない。
……本当は人一倍、淋しがりで誰かに甘えていたいのに。
君の父上も同じだよ。
昔、可愛がっていた妹と同じようにいつか君が自分の手から離れていってしまうんじゃないかと常に怯えて、それならばいっそ君に嫌われている方が来るべき時が来た時に楽だ、なんてつまらない意地を張っている」
「嘘ですわよね? 」
「失礼だけど、妹の血を引いているってだけで義理で引き取った娘に、最高の教育をつけ最高の環境において置けるほど君のお父上は人ができてはいないと思うよ」
「それは、わたくしに利用価値があったからではなくて? 」
今回の会で娘が王妃になれれば、国王の舅としてもしくは新国王の外祖父としての権力を手に入れることができる。
養父はその立場が欲しかったのだと、いつもそう思っていた。
「公爵は、淋しかったんだよ。
早くに両親を亡くして家督を継ぎ、たった一人の家族だった歳の離れた妹に駆け落ちされて……
おまけに奥方と一粒種の姫君を同時に亡くして血の繋がった人間はもう君一人しか居なくなっていたんだからね。
だから妹の代わりに手に入れた君をどこへもやりたくなくて、嫁に出すのであれば自分が納得できる最高のところへと考えていたようだよ。
凄い執念とでも言うかなんていうか……
間違っているとも思うけどね」
男の腕がそっとヴァイオレットの背中に廻ると包み込むように抱きしめられた。
「どうしてわたくしですの? 」
湧き上がる、胸を何かに締め付けられるような感覚に戸惑いながらヴァイオレットはその顔を覗き返した。
「何を今更? 」
男がうっすらと笑みを浮かべる。
「だって、わたくしに恋愛は無理だって言ったの、あなたよ」
男の胸に置いた手でその胸倉を押しやりながらヴァイオレットは首を傾げた。
「言っていることと、行動が違ってよ? 」
「いいよ。
君が近寄れない分は私が寄ればいいだけの話しだし…… 」
鳶色の瞳がヴァイオレットの目を覗き込むとそっとキスを落とす。
「わたくし…… 」
言いかけたものの言葉が出てこない。
もしセオドアの言う養父の納得できる最高のところがここだとすると……
「……わたくし、本当ならここにいられる娘じゃな…… 」
搾り出すようにヴァイオレットは言う。
「それ以上言わなくていい」
セオドアは制するように言う。
「セオドア? 」
「今更、そんなこと言わなくていいよ」
言うと目を細め、これ以上ないほどの優しい笑みを浮かべ、その口を封じるようにもう一度唇を重ねる。
「あ…… 」
何故だろう……
ずっと以前から誰かにこうしてもらいたかったような気がする。
ずっと、ずっと以前から、こうして誰かに、誰かが与えてくれるぬくもりに切ないほどに焦がれていた。
ヴァイオレットはそれを確かめるように抱きしめてくれる男の胸に顔を埋める。
「お帰り…… 」
セオドアの大きな手が胸に埋めた頭部に回り、髪を撫でながら優しく耳もとで囁いた。
「お帰り、私のナイチンゲール」
胸に埋めた顔を上げ、間近に迫ったその顔を見上げると、セオドアは何もなかったようにいつもと同じ微笑みを浮かべてくれた。
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