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薔薇園のラプンツェル

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 王妃が暮らす館とは別棟の、割り当てたれた部屋に戻る。すでに同室のリディアの姿はなかった。
 アネットは大急ぎでドレスを着替えダイニングに向かう。
 ドアをそっと開けると、すでにここにいるすべての少女が集まっており、席についている。運のいいことにまだ食事は始まっていなかった。
 アネットは小さく開けたドアから身体を滑り込ませると、できるだけ足音を忍ばせて席に着いた。
 序列のせいで末席なのはこういう時には都合がいい。
「遅かったのね。何かあった? 」
 隣の席のリディアがこっそり聞いてくる。
「うん、ちょっと…… 」
 言いかけた時、コホンと上座で咳払いがある。
 それを合図に皆が口を閉ざし注目するといつものように、教育係であるレティシア夫人が難しい顔をして入ってくる。
 そしてドアの脇で頭を下げ控える婦人の後からは、いつもこの食事に付き合ってくれる王太后ではなく、大柄な若い男だった。
 少女たちがいっせいにどよめいた。
「第二王子のライオネル様よ、どうなさったのかしら? 急にお見えになるなんて」
 そもそも、王子と少女たちとの交流を目的としているこの場にどの王子が現れても不思議はないのだが、王子たちはめったなことではこの別館には足を踏み入れない。
 だから多忙と噂される第一、第二王子がこんな場所に現れるのは不思議なことだった。
 
 食後のお茶を別室でたしなむまでが晩餐の後の作法だ。
 主席に座るライオネルが立つと同時に、一同席を立つ。
 直後、男はあっという間に少女たちに取り囲まれてしまった。
 席順の決まっていない別室では、一人くらい姿が消えても誰も気にしない。
 特に今日は尚更だ。
 男の姿を目の端で捕らえながら、アネットはそっとその場所を後にしようとした途端、突然手首をつかまれた。

「どこ行くんだおまえ。
 食後すぐに引き上げるなんてマナー違反だろう」
「あの…… 」
 いつの間にか歩み寄っていたライオネルが、アネットの手首をしっかりと捉えている。
「いいからここにいろ」
 強引に部屋へ連れ戻すと自分の隣のソファに押し付けるように座らせられる。
 周囲の視線が痛いほどに注がれて、アネットは言葉を発することもできない。
 今にも逃げ出したい思いを我慢しながら、ただその時間を耐えるしかなかった。
「終わったぁ」
 ここへ着てからかつてないほど長いと思われた食事を終え、部屋に戻りながらアネットは一息つくとうめくように言う。
「で? ライオネル様とは何をお話したの? 」
 興味を抑えられないといった様子でリディアが早速訊いてきた。
「別に何も…… 
 とにかく隣にいたって言うだけで、わたしの口を挟む時間なんて全くなかったもの」
「じゃ、もしかして、一言もお話しなかったの? 」
 目を丸くするリディアにアネットは大きく頷いた。
「どういうことよ? 」
「さあ? 」
 アネットも首をかしげる。
 普通わざわざ引き止めるということはその相手に何らかの用事なり興味があるはずなのだが。その意図が全くわからない。
「とにかく緊張しちゃって、もうくたくたよぉ。
 お茶の味だってぜんぜんわかんなかったし」
 アネットはうめく。
「それ、贅沢だと思うけど…… 」
 アネットを横目で眺め、うらみたっぷりにリディアが言う。
「そうなのかなぁ? 」
 訊いてみるが答えはなく二人の間に沈黙が流れた。
「素敵な髪ね」
 二人して黙ってしまったとき、不意に話しかけられて、アネットは足を止めた。
 振り返ると真っ直ぐな黒髪の小柄な少女がアネットの髪を見つめている。
「わたしもこんな蜂蜜色だったらよかったのに」
 残念そうに息を吐く。
「えっと…… 」
 少女の名前も知らずアネットは戸惑った。
「アイリスよ。アイリス・ノブフィオーレ」
 少女はにこりと笑いかけた。
「え? もしかして王弟殿下の? 」
 その名前に顔を引きつらせ二人はあわてて膝を折る。
「かしこまらないで、ここでは皆一応平等だもの」
 あくまでも建前の話だが少女はそのつもりのようだ。
「ね、さっき第五王子様とご一緒だったでしょ? 何をお話なさっていたの? 」
「第五王子様? 」
 ここに来てから何日か経つが正式な紹介を受けていないので、いまいち花婿候補方の名前と顔が一致しないアネットは頭をひねった。
「サシャ様よ」
「サシャ様って、王子様だったの? 」
「あなた、とぼけているの? 
 デビュタント前の年齢でここにいらっしゃるのは王子様方しかいないわ」
 アイリスは呆れたように息を吐く。
「そうですね、少し考えればわかりそうなものなのに、わたしったら…… 」
 先ほどの少年の身分など全く頭になく、ごく普通に会話をしていたことにアネットは青ざめる。
「大丈夫、サシャ様はそういうの気にする方じゃないもの」
 明らかに蒼白になったアネットの顔色を目にアイリスは微笑んだ。
「じゃなくて、どんなお話なさっていたのかなって、ちょっと気になって」
「別にたいしたお話は……
 ただ髪を直すのを少し手伝ってくださっただけで」
「やっぱりサシャ様はきれいな色の髪のほうがお好きなんだわ」
 アネットの言葉に少女は肩を落とす。
「や、ただ、たまたま珍しかっただけとか? ほらここのご令嬢方って皆さんきれいに髪を結っていらっしゃるから」
 その表情が何かかわいそうで、アネットはあわてて言いつくろう。
「わたしの場合はね、一人で結えないって言うか、もてあましているって言うか。
 だから適当にざっとまとめているだけなんだけど、却って目立って、ます? 
 あー、もう…どうしたら…」
 もう、こうなると自分でも何を言っているのかわからない。
「くすっ」
 その慌てぶりにアイリスが笑みをこぼした。
「ね、お友達になってくださる? ここ、お姉さまばかりで話の合う方が少なくて退屈してたの」
 確かに、ここに集められているのは結婚適齢期の少女ばかりでアネットなど一番若い年齢になる。それに輪を掛けてアイリスはサシャと同じくらいに見えた。 
 
 
「殿下はあの娘がお気に召しましたか? 」
 ですがあの娘は…… 」
 各々の部屋に散ってゆく娘の姿を見送りながらライオネルの従者は何か気がかりなことがあるように口にする。
「いや、ぜんぜん。まだ子供だろうあいつ」
 それに対してライオネルはそっけなく答えた。
「でしたらお戯れは控えられたほうがよろしくはないですか? 」
 従者は眉をひそめる。
「だけど、生意気な末弟は気に入ったらしいぜ? 
 だったらやつより先に親しくなって一泡吹かせるのも面白いと思わないか? 」
「殿下も、人が悪い」
 従者は苦笑した。
「ですが、相手は王妃様の妹御です。
 間違っても、泣かせるようなことをしないでくださいね」
「ああ、わかってる。お前年齢の割りにうるさいな」
 男は迷惑そうに言った。
 
 
 
「それにしても、一日のうちにライオネル様とサシャ様にお声をかけていただけるなんて! 
 お姉さま方だって苦労してご自分から王子様方のところにわざわざ出向いてもお話できない日もあるってこぼしているのに、どうしてアネットばかり? 」
 部屋に戻るとリディアが不満げに言った。
「わたしが王妃様の妹だから、気にかけてくださっているだけだと思うけど。
 だからなのかな? ちょっと居心地が悪いというか、空気が悪いというか」
 先ほど自分を取り巻いた空気を思い出してつぶやいた。
 あからさまに嫌味を言われたり嫌がらせをされないまでも、どこにいても棘のある視線が常に突き刺さる。
「それ、言わないの。
 そんなのわかってるじゃない。一人だけ特別扱いされてるのも同じなんだから、そのくらいのこと我慢なさいよ」
 着替えながらリディアは言う。
「特別扱いに、やっぱり見えるよね」
 アネットはぽっつりとつぶやく。
「こんなことになるんなら、あの時伯爵様のお話になんか乗らなきゃよかったかも」
「そんなことないわよ。おかげでわたしはアネットと知り合えたんだし」
 リディアは励ますように笑顔を向けてくれた。
「でなきゃ、もう退屈すぎていられなかったかも」
 言いながらベッドにもぐりこむ。
「だから、ありがとうね、アネット」
「そんな、お礼を言うのはわたしのほうなんだけど」
 言いかけてふと見ると、リディアはすでに寝息を立てていた。
「ありがとう」
 小さくつぶやいてアネットは蝋燭を吹き消した。
 
 
「……いいですよ。では、ここまで」
 机の傍らに立っていた王国史を受け持つ若い教師は顔を上げると本を閉じた。
「明日からは、当王家の歴史に入ります。興味のある方はご受講くださいと皆さんに伝えてくださいね」
 おのおの教科書をたたみ始めた少女たちはざっとダイニングに集まった四分の一。
 そもそも教育などとは少女たちをこの場に集め逗留させる為の口実なのだから無理はない。ほとんどの少女がそれなりの教育を終えている。したがって授業は自由参加だ。
「君たちはいつも熱心ですね」
「我が家では、『女の子に学問なんて不要だ』ってのが父の方針でお作法や刺繍の技法は家庭教師がついていたけど、歴史なんて教えてもらえなかったから、新鮮で! 
 サイラス先生のお話、とってもわかりやすくて面白いです」
 リディアが顔を上げると嬉しそうに言う。
「君も、楽しんでくれているのかな? 」
「はあ…… 」
 アネットは言い渋った。
 そもそもここへ来たのは病の姉を見舞う為だ。
 本当ならもっと姉のところにいたい。
 しかし、看護専門のメイドもついており、自分が手を出して看病できるわけもなく、かといって一日中傍にいては却って姉を疲れさせてしまう。
 まさか、ただの暇つぶしとなど言えるわけもない。
「君の場合、歴史は必要ない。私の教えることなど、全部頭に入っているんだろう? 」
 ギク……
 心を読まれたような気がしてアネットの顔がわずかに引きつる。
「わかるよ。君私の講義などろくすっぽ聞いてないわりに私の質問には完璧に答える。私の講義の内容はすでに全部頭に入っている。違うかい? 」
 男は苦笑する。
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。ただ、教えがいのない生徒が珍しかっただけだよ。
 ここの生徒は、興味がない、もしくはすでに習得済みの講義には出てこないからね」
「父がこういうこと大好きな人でしたから、家にこの手の本がごろごろしていて。
 っていうか、家にある本はみんなこんなだったから、知らないうちに覚えちゃってました」
 アネットは笑顔を浮かべる。
「そっか、君の父上は…… 」
「先生、アネットのお父様を知っていらっしゃるの? 」
 リディアが首をかしげた。
「直接の面識はないよ。
 ただ、彼女の父上はこの手の研究では第一人者で有名な方だったからね。
 歴史研究を紐解く人間で知らない人はいないんじゃないかな? 」
「そんなすごい人だったのね」
 リディアは息を呑む。
「ああ、だから残念だったよね」
「そうでもないです。
 もともと毎日部屋に篭ったきり出てこない人だったし」
「寂しいこと言うなぁ……  
 そんなこと言われると、お父さん今頃泣いているぞ」
 教科書を数冊まとめながら教師がいう傍らで、いつもとは違うざわめきが中庭のほうから響いてきた。
「何? 」
「ああ、あさってのハンティングのための馬が、あちこちから届いたようだね」
 こともなくサイラスは言う。
「ハンティング? 」
「知らなかったの? アネット。
 夜間の舞踏会と晩餐会ばかりじゃなくて、昼間のわたしたちの顔も王子様方に見ていただくっていう趣向みたいよ」
「でも、季節が…… 」
 アネットは首をかしげた。
「確かにそうなんだけど、何かイベントを増やさないと間が持たないって言い出した奴がいてさ」
 サイラスが苦笑いした。
「だから、皆さんご自分の愛馬を届けてもらっているみたい。
 ほら、馬って性格とか相性もあるし、慣れた馬が一番安全でしょ? 」
 リディアが言う。
「それに、ここでは圧倒的にご婦人用の馬が不足している」
 教師が付け加えた。
「なるほど、それでまた荷物がどのお部屋にも届いているわけね」
「リディアお嬢様、お荷物をお部屋に運んでおきました」
 言い終わらないうちに傍に寄ってきたメイドがリディアに耳打ちする。
「そ、乗馬服とか一式ね。
 ありがとう」
 中身が何かわかっていても実家からの届け物は嬉しいのだろう。
 リディアはいそいそと席を立つ。
「じゃ、先生。ありがとうございました」
 
 部屋へ戻ると実家から届いたばかりの荷物をリディアは早速解きに掛かる。
 開けられた箱の中からは新品の乗馬ドレスが顔をのぞかせる。今流行の山葡萄色だ。
 リディアはドレスの肩を持ち上げると自分の肩にあて丈を確かめる。
「素敵ね、よく似合ってる」
 濃い栗色と紫を掛けたような深い色のドレスはリディアの髪色をとても引き立たせてくれている。
「アネットは? 」
「わたしは…… 」
 アネットは顔を引きつらせて一歩下がった。
「まさか、馬の用意ができないから欠席とか言うんじゃないでしょうね」
「あの、あのね…… 」
 アネットの顔がさらに引きつった。
 リディアの言うことは確かだが、それ以前にもっと大きな問題がある。
「後見人の伯父様にお願いできないの? 
 わたしアネットが一緒でなければ嫌よ。他に話の合う方、いらっしゃらないんだもの」
「う、ん…… 」
 アネットは曖昧に言葉を濁す。
 ここではたった一人話の合う大好きなリディアにそう言われてしまうと、断ることができない。
 けれど…… 
 アネットは眉根を寄せた。
 
 
 
 無数の犬の吠え声と馬の嘶きでアネットは目を覚ました。
 どうにかして逃げようと口実を考えるものの、有効な言い訳が見つけられないまま、この日を迎えてしまった。
 少しぼんやりした頭で起き上がると、リディアはすでに身支度を始めている。
「おはようアネット。夕べ寝付けなかったみたいだけど大丈夫」
 髪を整えながらリディアは目覚めたアネットに声をかけてくれる。
「知ってたの? 」
「わたしも同じ。久しぶりの乗馬なんですもの、嬉しくって…… 」
 弾んだ声でリディアは答える。
「リディアは乗馬得意なんだ」
「ん~、得意って言うか。ここへ来る前は毎日乗っていたから。
 ほら、家って使用人もそんなにいた訳じゃないし、自分で外出ってことも多かったし」
 髪を整え終えるとリディアは振り返る。
「何やっているの? 」
 そしてまだぼんやりとベッドに座り込んだままのアネットに目を見張る。
「わたし、ちょっと頭痛がするかも。なので今回は…… 」
 毛布をかぶり直しその中でアネットはもぞもぞと答えた。
「いいから着替えて」
 リディアはアネットのクローゼットから乗馬ドレスを引っ張り出した。
 もしものためにと伯爵夫人が自分のドレスをサイズ直しして持たせてくれたものだ。
「ほら、起きて」
 リディアは強引に毛布をはがす。
「あの、ね。どうしても出なきゃ駄目か、な? 」
「何か仮病以外で断る理由でもあるの? 」
 再び枕に埋もれてしまったアネットの顔をリディアは覗き込んだ時、突然部屋のドアがノックされる。
「はい! 」
 リディアはアネットの毛布から手を離すと、ドアへ向かう。
「おはよう、アネット、リディア。用意できてる? 」
「え? サシャ様? 」
 どこかで聞いたことのある声と、リディアの戸惑う声にアネットはようやく枕から顔を上げる。
「ごめん、まさかまだ寝てるなんて思わなかったから」
 まだ寝巻きのままという、アネットのその姿にサシャは慌てて背中を向けた。
「どうしてサシャ様が? 」
「ん、迎えにきたんだ。アネットはハンティングに乗り気じゃないってサイラスから聞いたから。参加しないんじゃないかと思って。
 その格好からすると僕の予想当たったみたいだね」
 とりあえず閉めてくれたドアの向こうから言う。
「そうなんですよ、サシャ様。
 アネット、今朝はいくら起こしても起きないんですもの。困ってたの」
 大急ぎで着替えを始めたアネットを手伝いながら、リディアはドアの外まで届くように少しだけ声を張り上げる。
「ちょっと、アネットそれ乗馬服じゃないでしょ! 」
 リディアが目を離したわずかな隙にアネットは普段のドレスを着込んでしまった。
「ねぇ、どうして? 」
 着替えを終えドアの外で待たせていたサシャを招き入れてから、リディアは困惑顔で訊いた。
「そんなに拒否反応を示すのって何か訳があるんでしょ? 
 言っちゃいなよ。
 それとも隠したままおとなしくハンティング参加する? 」
 少し脅迫めいたサシャの言葉にアネットは諦めてため息をつく。
「実は、リディアがあんまり楽しみにしていたから、ずっと言えなかったんだけど…… 」
 
 
 中庭にはすでに馬が揃えられ、それぞれに乗馬服で着飾った令嬢が揃っていた。
 彼女たちの取り巻くいくつかの塊の中心にはいつもの何人かの男たち。
 場所が変っても、この光景は変らない。
 やがて角笛が吹き鳴らされ馬と犬がいっせいに駆け出す。
「本当に駄目なの? 」
 馬の上からリディアがいかにも残念そうにアネットに訊いた。
「言ったでしょ、これっばっかりは、ね」
 アネットはひとつ大きく息を吐く。
「付き合えなくて、ごめんね。楽しんできて」
 そしてリディアに笑いかけた。 
「じゃ、またあとでね」
 先に駆け出した一団より一足遅れてリディアが駆け出す。
 それを見届けて、アネットは一息吐いた。
「お嬢様、こちらへ。そんなところにおいでになっては日に焼けてしまいますよ」
 残っていたメイドが声をかけてくれた。
「今、行きます」
 答えて日陰へ向かおうとしたところを突然大きな馬の足がふさいだ。
「どうした? 」
 掛けられた声に見上げると、大きな男の逆光の影に赤み掛かった金色の髪がきらめく。
「ライオネル様? 」
「乗馬はしないのか? 」
「あの、そ…… 」
 返事をする前に男の影が馬から上体を下げると同時にアネットの身体を持ち上げて、馬の背に抱き上げた。
「え? あの…… や! 」
 抵抗する間もなく馬が走り出す。
 
 
「い、いやぁ! 」
 アネットは思わず悲鳴を上げ、男にしがみついた。
「お願い、おろして!
 や、怖いの! 」
 振り落とされまいとするかのように男の衣服の胸元を握り締めながら、少女はそれでもそこから逃れようとするかのように必死に身体を動かしていたが、しばらくして動きが止まる。
「やっとおとなしくなったか」
 一息吐くとライオネルは胸の中の少女の身体が小刻みに震えているのに気がついた。
 みると顔が血の気を失い蒼白になっている。
 
「……まさか、馬が苦手だったなんて」
 草原の真ん中に立つ一本の大木の傍に馬を止め、ライオネルは動かなくなってしまった少女を抱えおろした。
「大丈夫か? 」
 少女を木陰に座らせると、伏せてしまったその顔を覗き込む。
 アネットはすでに半泣きになっていた。
「いいんです…… リディアにも言われました。
 他のご令嬢ならともかく…… わたしが、馬に乗れないはずないって」
 しゃくりあげながらアネットはようやく言葉を絞り出す。
「馬は嫌いじゃないけど、子供の頃、馬から落ちてから、どうしても乗るのが怖くて…… 」
「悪かった」
 ライオネルはなだめるようにアネットの頭をそっとなでた。
 すぐ傍の木立のどこかで猟犬の吠え立てる声がし、角笛が響き渡る。
 猟は最高潮に達しているようだ。
「わたしのことはかまわないで行ってください」
 まだ少し青ざめた顔でアネットは言う。
「いや、そういうわけには…… 」
 無理をさせてしまったのは自分だ。
「今日の主役がいなくちゃ、皆さんがっかりします。
 わたしは大丈夫です。歩いて帰りますから」
 少女は立ち上がるとドレスについた埃を払う。
「駄目だ。
 ここからでは、城まで少し距離がある。
 馬車を呼んでくる。しばらく待っていろ」
「平気。少しくらい歩くのは苦にならないから。
 わたし馬には乗れないけれど足腰は丈夫なの、それに、少し歩きたい、かな? 
 ご迷惑掛けて、済みませんでした」
 ライオネルに向かい一つ頭を下げると、少女は城の方角へ向かって歩き出した。
「じゃ、送ってく」
「心配しないで。こう見えてもわたし方向音痴じゃないもの。
 わたしに付き合ってくださるのは嬉しいけれど、それだとハンティング終わってしまうもの」
「そういう問題じゃないだろう。ハンティングの真っ最中の狩場をうろうろするのは危険だ。
 しかもお前、この狩場はよく知らないだろ」
 ライオネルは馬の手綱を引きあわててアネットのあとを追う。
 少女はそれには何も言わず、足早に歩きながら、少女は両手を高く上げると思い切り背伸びをした。
「ん、生き返る」
 青ざめていた顔にわずかに赤みが戻る。
 心なしか表情も生き生きとしてきたようだ。
 それは今まで暗い屋根下ではみたことがない表情。
「もしかして、お前、かなり無理してた? 」
 ひょっとして? と。思ったことをライオネルは口にする。
「ん、そうじゃないけれど、ずーっとお城の中ばかりで退屈していたのは確かかな。
 もうご存知だと思うけれど、わたし今まであんなに毎日屋根の下から出ないなんて生活したことなかったんだもの。
 本当はね、」
 少女は立ち止まるとおもむろに靴を脱ぐ。
「澄ました顔でもそもそ歩くより、こうして好きに走り回るの大好きなの! 」
 いつもより、ずっと明るい大きな声でアネットはそういうと裸足のまま一気に駆け出した。
 くるくると一時もじっとしていない身体に従って、ひとつに編まれた蜂蜜色の髪が光を反射してきらめき、大きく見開かれた新緑の瞳にそれが映る。
 一面の緑の草原に大輪の花が一輪花開いたようにライオネルには見えた。
 
 華やかな笑い声がかすかに聞き取れる距離で、馬にまたがったまま、サシャはそれを黙って見つめていた。
 
 
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