陽月公奇譚 -女装の俺が、他人のベッドで目覚める理由ー

弥湖 夕來

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2・囚われた先で、

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 ……まあいい。
 このまま様子を見るのも一興かも知れない。
 何をしても無駄だとは思うが、女にそれを訴えたところで聞く耳は持たないだろう。
 やりたいだけやらせれば、結果がどうであれ気が済むはずだ。
 月はまだ昇ったばかり、時間ならたっぷりある。
 
 少女は女の行動をぼんやりと見つめながら思う。
 
 程なく部屋の中にかすかな光と共に異様な匂いが広がり始めた。

「これは…… 」

 とぼれる獣脂の匂いの下にかすかに血液の焦げる匂い、それを隠そうとでも言うかのように強い木蓮の匂いが重なる。

 普段の生活では無縁だが、どこかで嗅いだことのある匂いに少女は記憶を手繰った。

 呼吸をする度にその匂いが灰を満たす。
 手足や髪に絡まり動かすことが億劫になるほど身体が重くなる。
 それは瞼にまで及び視界が霞む。
 眠気にも似た強烈な脱力感に見舞われ、考えることさえも遮られそうだ。
 駄目だとわかっているのに、重くなった瞼が少しずつ下りてくる。
 ただ聴覚だけは敏感に反応しているのか、女の靴音だけではなくささやかなはずの衣擦れの音が異常に大きく耳に響いた。
 
「時間も時間だし、そろそろはじめましょうね」

 灯りの燈った燭台を背に女はゆらりと立ち上がる。
 先ほどのバスケットの中から今度は酒瓶を取り出し、それを手に少女の正面に立つ。

「な、に…… を? 」

 おぼろげな思考で少女は途切れ途切れに訊く。

「決まっているでしょう? 
 この身体に、我が君、シェイド公様に、入っていただくためには、
 まずはあなたに、出て行ってもらわないと、いけないの」

 女が焚いた蝋燭に何かが仕込まれていたのだろう。
 それは少女だけではなく、この女にも作用している。
 正気を失ったかのような虚ろな目、妙に引きつった表情、うわ言のような口調の呟き。
 全てがそれを物語っている。
 

 女の優美な手が伸び頬に添えられる。
 するりとその手があごに滑ったと思ったら、突然上向かされた。
 白い指が頬に食い込み自然と口が開く。
 僅かに開いたその空間に女はもう片方の手にしていた酒瓶の中身を注ぎ込んだ。
 強い酒の味が口腔内を満たす。
 酒の匂いに含まれる鉄錆と生臭さの血の匂いそれを隠そうと試みたかのような強烈な木蓮の香りが口いっぱいに広がり少女は反射的に咽を閉ざした。
 飲み下されず口から溢れた液体が胸元にこぼれ真紅の染みを作った。
 そこから、同じ匂いが漂いだし部屋の中に充満していた蝋燭の作り出した匂いと混ざる。
 吸い込むだけで更に強烈な眠気が襲う。
 全身の力が抜ける。

「……そうよ。
 抵抗しないほうが身のためよ。
 抵抗したって痛みが増すだけですもの。
 わたしとしてもあの人の身体にあまり醜い傷はつけたくないし」

 拘束されたロープがかろうじて崩れ落ちてしまいそうになった身体を支える。

 女は抵抗することの全くできなくなった少女の様子を満足そうな顔で見つめ呟く。
 手にしていた酒瓶が足元に転がり落ちたと思ったら、女は開いた手でドレスをまさぐり、スカートの襞の間から細い華奢な短剣を取り出した。
 

「まだ何かする気? 」

 普段の少女なら噛み付きそうな勢いで突っかかっていっただろう。

 ただ今はそれどころではない。
 今すぐにこの女の手をすり抜けて逃げなくてはいけないことだけはわかる。
 だが、それもかろうじてだ。
 当然その先。
 どうやってこの拘束を解くか、女の気を反らせられるか、どうやってこの部屋を抜け出せばいいのか。
 やることは山にあるはずなのにそれを考えることができない。
 むしろその手順を頭に思い浮かべることすら苦痛になった。
 

 女はもう一度腰をかがめ少女の顔を覗き込むといきなりその胸元を掴みあげる。
 先ほどの染みからまたしても立ち上がる強い香りを運悪く思い切り吸い込んだ。
 それが激しく肺や呼吸器を刺激するがもはや咳き込む力すら出なかった。
 
 うなだれた身体を強い力で引き寄せられる。
 身体を蝕む強烈な脱力感のせいで抵抗することができず、少女の身体はまるで人形のように容易く動いた。
 女の握った短剣の切っ先が迷うことなく少女の胸に向けて振り上げられた。
 

 これまでかも知れない。
 そうは認識できたはずだ。
 しかし、その刃の先から視線を背けることも見据えることもできずに、ただぼんやりと目を開ける。
 
 すぐに少女の胸に突きつけられるかと思われたそれは、その位置で止まる。
 一瞬女が躊躇っているのかと思った。
 しかし、充満する香りのせいで焚いた本人すら極度に興奮している状態ではそれは考えられない。
 時を待たずに女の口から、少女がよく聞き知った言葉がこぼれだした。
 
 太古の昔神々が使っていたと伝わる特殊な音韻を持つ言語。
 既に一般の人々には忘れ去られ、ヴレイ達魔術師の間で魔力を操る時に用いるためかろうじて残っている言葉。
 何処で誰に教えを受けたのか、女のそれは至極正確だった。
 恐らくはあのヴレイでさえ足元に及ばないくらいの。
 これだけ正確に言葉を紡げれば余程高等な上級魔法ですら完璧に操れるはずだ。
 
 どうやらこの女のことを見くびりすぎていたのかも知れない。
 色香を漂わせた完璧すぎるこの容姿からして、産まれ持ったその武器と運で世の中を渡ってゆくごく普通の愚かな女だと思っていた。
 しかし、この行為は全てそれを上回っている。
 
 気付くのがあまりにも遅すぎた。
 もっと早くに気がついていれば、まだアースだった時点で強引にでも入れ替わって対処していただろう。
 のんびりとアースに任せていたことが今更ながらに悔やまれる。
 
 今にも飛びそうになる意識を必死に保っていると、その間にも続いていた女の呪文が狭い室内に充満し始めた。
 ヴレイのそれとは違い言葉は霧となって空気に溶け部屋中に広がっている。
 まとまった濃い部分はまるで意思を持った生き物のように女の口からこぼれ出る言葉に合わせて不気味にうごめく。
 天井の隅や、床の真中、柱の影。
 最初の頃こそ個々に揺れていたそれらはやがて重なり合って同じ振動で揺れ始めた。
 振動が振動を呼び、室内を取り巻くもの全てが激しく揺れ始めた。
 それはこの室内を通り抜け周りを取り囲む地面や上の建物へも広がっていったのだろう。
 程なくぱらぱらと天井から破片が零れ落ち始める。
 足元を揺らす大きな衝撃と共にぴきぴきと頭上に亀裂が入る音が無気味に響く。
 次いでばらばらと大小の破片が降り注ぎ始めた。
 本来ならば、この辺りでさすがの術者も己の身を案じ逃げ出すはずだ。
 しかし女はその場を動こうとはせずに更に呪文を続ける。 
 宙をさ迷う瞳は何も映さず、ただ機械的に動く唇が言葉を紡ぎだす。
 あれほどまでに室内に充満していたきつい匂いはあちこちに走った亀裂を伝って逃げ、代わりにもうもうとした土煙が舞い上がる。
 大地を揺さぶる大きな振動と共に更に天井の亀裂が広がったのと同時に青白い閃光が瞬き、真直ぐに女の振り上げた短剣へ伝い落ちた。
 瞬間、何も映さないほどの闇に覆われていた部屋中が青白い光で満たされた。
 
 
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