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◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
目の前で初老の男が建て付けの悪い雨戸を開ける。
入ってきた光に室内に積もった埃が白く煙り、天井付近のあちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣浮かび上がる。
「いかがですか? だんな」
男は軽く咳き込みながら訊いてくる。
一歩歩くごとに床がきしんだ。
こりゃ、かなり手を入れないと使い物にならない。
床から壁、天井までを見渡して俺は思う。
「ここは夫婦で切り盛りしていた居酒屋だったんですけどね。
三ヶ月前旦那が倒れちまって、奥さん一人じゃ経営が成り立たないってんで、閉めたんでさ」
不動産屋の男は説明する。
「三ヶ月? 」
俺はこめかみをひくつかせた。
口では三ヶ月と言っているが、この埃の積もりようとくもの巣の様子、おそらくひと夏は無人だったはず。
酒場や大衆宿の集まるこの一角、空けばすぐにでも次が入りそうな立地の物件。なのにひと夏放置ってことは何かある。隣に同じような店がある、馬を預かる場所がない、もしくは家賃が不当に高い等々……
ついでにこの痛みようリフォーム費用も莫迦にならない。
更に言えば、歓楽街のどん詰まり。周囲が大衆酒場や大衆宿ばかりだってのも気に入らない。
俺の店の客はおそらくほとんどが貴族の奥方になるはずだ。
そんなお上品な連中がこんないかにも「下町」みたいなところに繁く足を運ぶ気になる訳ない。
「……ないな」
俺は呟いた。
「へ? あぁ! お気に召しませんでしたか?
酒場のできる物権をお探しとの話でしたので、こちらはまさにうってつけと思ったのですが」
男はとぼけたような声をあげる。
「俺の探しているのは、もっとラグジュアリーでゴージャスな雰囲気の、立地条件も含めてそういった感じの場所だよ」
「でしたらもう一件ございます。
こちらよりは少々離れておりますが内見しますか? 」
男はもみ手で俺に視線を送ると、その店舗から連れ出した。
次に連れて来られたのは中央広場に隣接した一角だった。
「如何ですか?
こちらのホテルは上流階級の方々をターゲットに営業していますので」
エントランスのドアを開けるとホールの片隅にあるフロント台が目に飛び込んできた。
反対側のドアの奥、ガラスのはめ込まれた贅沢なつくりの壁で仕切られた向こうの空間はラウンジらしい。
不動産屋の男の言葉どおり、身なりのいいいかにも紳士がお茶を愉しんでいる。
「運がいいですよ、お客さん。
ここは一ヵ月後に廃業することが決まっていまして、丁度今次に入る方を探していたんです」
まだそこここから人の気配のする建物を見渡して、説明してくる。
「あのな、俺が探していたのはホテルじゃないの」
このおっさん話を聞いているんだかいないんだか。
俺は酒場ができる場所を探しているって言ったんだ。なのに何故ホテルになる?
「ホテルとは言いましても、実質二階に三部屋のみ、宿泊定員最高九人までという家族経営の小さな宿ですから。建物的にはあまり大きくはありませんよ。
その割にはラウンジや食堂が大きく造られていまして、わたくし共としましてはホテルより酒場を営業したい方にお勧めしたい物件です」
言いながら男はラウンジのドアを開ける。
言葉通り広々とした室内。
「それから、こちらがダイニングです」
男はまだ客のいるラウンジには入らず、数歩行った先の隣のドアを開けた。
さっきのラウンジと同じ壁紙の張られたダイニングルーム、これなら壁をぶち抜けば充分な広さが確保できる。
おまけに中央広場の隣。
昼間はマーケットも開いてにぎやかだが、夜間になれば極端に人も減る。
馬車を置いておくスペースも充分だ。
ただし、二階の客室は不要。
予定としては、広いラウンジにキッチンそれから小さな事務室と控え室だけあればよかった。
使わない部屋まで買い取るのはバカバカしい。
不動産屋のこの男、俺が貴族の子弟だってことを見越して、こんな無駄のある物件進めてきているのは見え見えだ。
金に不自由することなく育った貴族の子弟なら、そんなことまで深く考えないだろうと莫迦にしている。
でも確かに立地条件はいい。
「如何でしょう?
実はこの物件、すでに数人の方が内見しておりまして。
中には借り押さえをしようかと仰っている方もいらっしゃるのですが」
そんな俺の顔色を読んだように男は畳み掛けてくる。
不動産屋の手口は何処に行っても変わらないらしい。
簡単に手が出る価格帯のしかし希望とはかけ離れた物件を見せ、次いで希望通り以上だけどかなり足の出る物件を紹介し、比較させる。
早くしないと他の人に借りられちゃいますよーとばかりに、遠まわしにプレッシャーをかける。
それでもって、相手が貴族のぼんぼんだったりしたらちょろいんだろうな。
「ん? もう少し考える。
ここ思ってたより広すぎだし予算オーバーになりそうだ。
使いもしない部屋の為に無駄な金出すつもりはないんでね。
買い取ってホテルを経営したいって奴がいるんなら、そいつに任せたほうが有効活用してくれそうだろ?
待ってたら他にもっといい物件出てくるかも知れないし? 」
わざとはぐらかす。
これで不動産屋が、「じゃ、本当にそっちとの話を進めます」と即答で答えればこの建物とは縁がなかったってことで諦める。
「えぇ、と。
それ、は…… ですね」
案の定不動産屋は言い渋る。
「では、こちらの条件を呑んでいただければ、お宅様のお考えになっていた予算で結構ですが」
不意に脇から別の声がした。
「えっと、誰? 」
急に顔を出した白髪の老人を前に俺は首をかしげた。
「失礼しました。
わしがこのホテルのオーナーです」
老人は頭を下げる。
「立ち話も無粋ですから、こちらへ…… 」
老人は俺をラウンジへ招きいれた。
「待ってください、アッカルドさん!
そんな無茶な話! 」
不動産屋の男が青ざめている。
その傍らで、整った顔の若い男の給仕が運んできたお茶を俺たちの前に並べる。
うん、いい。
その上品な仕草を見ながら俺は勝手に頷いた。
見た目もよければ、動作もきれい。でもって、こうして給仕なんかしてるってことは客商売に抵抗なし。
ぜひともホストとしてスカウトしたい人材だ。
「あんたは黙っていてくだされ。
売却金を受け取るのはわしだ、そのわしが売値を決めて何処が悪い?
指定の手数料はお支払いしますから」
そんなことを考えている俺の向かいで老人は不動産屋の男を黙らせる。
けどこの男の慌てよう、売主との契約以上に買い手に吹っかけ差額を着服してるんだろうな。
もしくは売値×パーセント。
売値は高ければ高いほど手数料も上がるって訳だ。
「それで、条件なんだが、ね」
老人は話を進める。
「あ、はい。
どんな? 」
老人に切り出されて俺は慌ててさっきの男から視線を戻した。
「今ここで住み込みの下働きをしている夫婦を一組、このまま雇ってはくれないだろうか?
「はぁ? 」
こっちの言い値でいいなんて好条件引っ張り出してくるくらいだから、よっぽど無理難題を押し付けられると思っていたら拍子抜けだ。
いや、もしかして夫婦といってもどっちかが何かの事情で働けないとか?
なのに住まわせてやって、二人分の給料を出せってことか?
「人柄は保障する。夫婦揃って働き者だ。
実はな、わしがここを閉めるとなると退職金を払った上に、どこか夫婦で住み込みの働き口を紹介しなくてはならなくなる」
そんな俺の思考を読み取ったかのように老人は話を続ける。
「まとまった退職金も大金だが、問題は働き口のほうでな。
夫婦で住み込みとなるとそりゃもう、難関で、なかなか…… 」
老人は万策尽きたように大きなため息をついた。
閑を出す使用人の行く末まで考えるってことは、この老人ももとはどこかの貴族の育ちなのかも知れない。
「お前さんがここを買い取って、その二人を続けて雇ってくれればわしは退職金も払わなくて済むし、新しい職場を探してやらなくても済む。
その分の金が浮くわけだから値引きが可能と言う訳だが、どうだ? 」
老人は俺に同意を求めるように顔を覗き込んできた。
まぁ、こっちとしてはメインのホストの他に、客や従業員の送迎と雑用をこなしてくれる下男、キッチンで調理と皿洗い、ついでに雑用をしてくれるメイドを一人か二人雇うつもりだったから、使用人込みで譲ってもらえて値引きまでしてくれるとなればありがたい話だが。
「いいのか? そんな簡単に。
俺がここ安く買い取って開業早々に無一文でその夫婦追い出すとか考えないのかよ? 」
さすがに申し訳なくて訊いてみる。
「お前さん、あれだろ?
魔術医やってるジュスト伯爵のところの末弟だろう?
まさかジュスト伯爵家の子弟がそんな非情なことするわけないと思うが。
多少使い物にならなくても家名もある、そう簡単に解雇しないだろう」
俺の顔を覗き込んでいた老人の目が光った。
要はこの老人俺の出自を知っていてこの話を持ちかけてきた訳だ。
「とりあえず、考えさせてくれ」
条件は最高だが、ここで即決するわけにはさすがに行かない。
俺は半ば決まりきった言葉を返して、俺は立ち上がる。
「良いお返事を期待していますよ」
エントランスまで送ってくれながら老人が言う。
計ったようなタイミングでさっきの給仕がドアを開けて、笑いかけてくれた。
商売用とは思えない自然な笑顔に思わずひきつけられた。
「お前、えっと、名前は?
ここ閉まったら次の職決まってるのか? 」
次いで自然と口に出る言葉。
「サヴェリオです。
いえ、まだ。
僕従者を希望していたんですが、先日面接したお屋敷不採用だったんで」
少し不安そうにその瞳が揺れる。
「だったら、俺のところで働く気ないか?
貴族の屋敷の従者じゃないけど、お嬢様にお仕えする似たような仕事なんだが」
多分、こいつは接客に向いている。
それも容姿行動共に女性受け間違いなし!
こんな逸材逃がすわけに行かない。
そう俺の勘が訴えている。
「考えさせてください」
こっちもまた、俺と同じような返事をする。
「高給優遇は保障するぜ」
俺は出掛けに付け加えた。
「中央広場に隣接したプチホテル?
それなら、あれだな。
スカンティオ子爵家の出の…… 」
診療所の居間でカップを傾けながら兄貴が頷いた。
一応出資者は兄貴だ。
面倒でも何でも相談しないわけにはいかない俺は、物件の下見から帰ると直ぐに話をした。
「確か、今度郊外に一日一組限定のオーベルジュを出すって噂だったが、成程あのホテルは閉めるのか」
「一日一組?
それで商売になるのかよ? 」
俺は呆れた声をあげる。
「商売にならなくてもいいんだろ?
もう結構御年のはずだし、趣味で余生を退屈させないための手段だろう」
わかりきったように兄貴は言う。
「でも、移転しても商売続けるのに使用人に閑を出すってのは、どうしてだ? 」
「今より商売を縮小して人手が要らなくなったか、その夫婦が郊外に移転するのをためらう理由があったか、どっちかだろう?
まぁ、一通りは調べてみるが乗って大丈夫だろう。
お前の仕事がもし行き詰るようなら、ホテルに戻して誰かにやらせるのもいい」
さらりと言うあたり、さすが、金のある奴は考えることが違う。
兄貴はカップを置いて立ち上がると、傍らの書物机から一枚の紙を差し出す。
「何だ? 」
首をかしげながら紙面に目を走らせると、主だった酒屋や食料品店、それから家具商や工務店などの名前が連なっている。
しかも高級店で有名なところばかり。
「ありがたいけど、取引先は俺が率のいいところ探す」
さすがにそんなところまで面倒見てもらわなくても何とかなる。
「それ、叔父上のやってる貿易商と取引のある店、な」
「う…… 」
要は遠まわしに『付き合いがあるから必要なものはここから仕入れろ』といっているってことだ。
採算考えるとやめておきたいところなんだが、相手が叔父となると話は別。
なんか、貴族の子弟が商売始めるのってある意味楽だけど違う意味で楽じゃない。
どこか別のところで儲けを出す他ない。
「それじゃ、ここから検討する」
俺は貰った紙を畳んで胸ポケットにねじ込んだ。
「そういえば、お前。時間いいのか? 」
兄貴は思い出したかのように訊いてきた。
「今日はグリゼルタの友人のバースデーパーティだろう?
エスコートしていくって約束していなかったか? 」
窓に背を向けたまま兄貴が言う。
「やっば! 」
俺は慌てて立ち上がる。
ここのところなんだかんだ多忙で、すっかり忘れてた。
「我が家にとっては貴重な花嫁候補なんだ、逃げられないように気をつけてくれよ」
足早に部屋を出る俺の背中を兄貴の声が追ってきた。
あの事故の後直ぐに、俺の帰国祝いに開いた夜会で公にお披露目し俺とグリゼルタは正式な婚約者になった。
正直某有名アニメ映画を実写化したヒロインのような容姿の少女が相手ってこともあり、前世の俺的にはイマイチ実感が湧かない。
とはいっても、現世の俺はまるで関心がないわけでもなくむしろ喜んでいる。
相手が前世で言うところの女子高生であること除けば。
なんか、脳内で俺が二人いるみたいでややこしい話だが。
目の前で初老の男が建て付けの悪い雨戸を開ける。
入ってきた光に室内に積もった埃が白く煙り、天井付近のあちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣浮かび上がる。
「いかがですか? だんな」
男は軽く咳き込みながら訊いてくる。
一歩歩くごとに床がきしんだ。
こりゃ、かなり手を入れないと使い物にならない。
床から壁、天井までを見渡して俺は思う。
「ここは夫婦で切り盛りしていた居酒屋だったんですけどね。
三ヶ月前旦那が倒れちまって、奥さん一人じゃ経営が成り立たないってんで、閉めたんでさ」
不動産屋の男は説明する。
「三ヶ月? 」
俺はこめかみをひくつかせた。
口では三ヶ月と言っているが、この埃の積もりようとくもの巣の様子、おそらくひと夏は無人だったはず。
酒場や大衆宿の集まるこの一角、空けばすぐにでも次が入りそうな立地の物件。なのにひと夏放置ってことは何かある。隣に同じような店がある、馬を預かる場所がない、もしくは家賃が不当に高い等々……
ついでにこの痛みようリフォーム費用も莫迦にならない。
更に言えば、歓楽街のどん詰まり。周囲が大衆酒場や大衆宿ばかりだってのも気に入らない。
俺の店の客はおそらくほとんどが貴族の奥方になるはずだ。
そんなお上品な連中がこんないかにも「下町」みたいなところに繁く足を運ぶ気になる訳ない。
「……ないな」
俺は呟いた。
「へ? あぁ! お気に召しませんでしたか?
酒場のできる物権をお探しとの話でしたので、こちらはまさにうってつけと思ったのですが」
男はとぼけたような声をあげる。
「俺の探しているのは、もっとラグジュアリーでゴージャスな雰囲気の、立地条件も含めてそういった感じの場所だよ」
「でしたらもう一件ございます。
こちらよりは少々離れておりますが内見しますか? 」
男はもみ手で俺に視線を送ると、その店舗から連れ出した。
次に連れて来られたのは中央広場に隣接した一角だった。
「如何ですか?
こちらのホテルは上流階級の方々をターゲットに営業していますので」
エントランスのドアを開けるとホールの片隅にあるフロント台が目に飛び込んできた。
反対側のドアの奥、ガラスのはめ込まれた贅沢なつくりの壁で仕切られた向こうの空間はラウンジらしい。
不動産屋の男の言葉どおり、身なりのいいいかにも紳士がお茶を愉しんでいる。
「運がいいですよ、お客さん。
ここは一ヵ月後に廃業することが決まっていまして、丁度今次に入る方を探していたんです」
まだそこここから人の気配のする建物を見渡して、説明してくる。
「あのな、俺が探していたのはホテルじゃないの」
このおっさん話を聞いているんだかいないんだか。
俺は酒場ができる場所を探しているって言ったんだ。なのに何故ホテルになる?
「ホテルとは言いましても、実質二階に三部屋のみ、宿泊定員最高九人までという家族経営の小さな宿ですから。建物的にはあまり大きくはありませんよ。
その割にはラウンジや食堂が大きく造られていまして、わたくし共としましてはホテルより酒場を営業したい方にお勧めしたい物件です」
言いながら男はラウンジのドアを開ける。
言葉通り広々とした室内。
「それから、こちらがダイニングです」
男はまだ客のいるラウンジには入らず、数歩行った先の隣のドアを開けた。
さっきのラウンジと同じ壁紙の張られたダイニングルーム、これなら壁をぶち抜けば充分な広さが確保できる。
おまけに中央広場の隣。
昼間はマーケットも開いてにぎやかだが、夜間になれば極端に人も減る。
馬車を置いておくスペースも充分だ。
ただし、二階の客室は不要。
予定としては、広いラウンジにキッチンそれから小さな事務室と控え室だけあればよかった。
使わない部屋まで買い取るのはバカバカしい。
不動産屋のこの男、俺が貴族の子弟だってことを見越して、こんな無駄のある物件進めてきているのは見え見えだ。
金に不自由することなく育った貴族の子弟なら、そんなことまで深く考えないだろうと莫迦にしている。
でも確かに立地条件はいい。
「如何でしょう?
実はこの物件、すでに数人の方が内見しておりまして。
中には借り押さえをしようかと仰っている方もいらっしゃるのですが」
そんな俺の顔色を読んだように男は畳み掛けてくる。
不動産屋の手口は何処に行っても変わらないらしい。
簡単に手が出る価格帯のしかし希望とはかけ離れた物件を見せ、次いで希望通り以上だけどかなり足の出る物件を紹介し、比較させる。
早くしないと他の人に借りられちゃいますよーとばかりに、遠まわしにプレッシャーをかける。
それでもって、相手が貴族のぼんぼんだったりしたらちょろいんだろうな。
「ん? もう少し考える。
ここ思ってたより広すぎだし予算オーバーになりそうだ。
使いもしない部屋の為に無駄な金出すつもりはないんでね。
買い取ってホテルを経営したいって奴がいるんなら、そいつに任せたほうが有効活用してくれそうだろ?
待ってたら他にもっといい物件出てくるかも知れないし? 」
わざとはぐらかす。
これで不動産屋が、「じゃ、本当にそっちとの話を進めます」と即答で答えればこの建物とは縁がなかったってことで諦める。
「えぇ、と。
それ、は…… ですね」
案の定不動産屋は言い渋る。
「では、こちらの条件を呑んでいただければ、お宅様のお考えになっていた予算で結構ですが」
不意に脇から別の声がした。
「えっと、誰? 」
急に顔を出した白髪の老人を前に俺は首をかしげた。
「失礼しました。
わしがこのホテルのオーナーです」
老人は頭を下げる。
「立ち話も無粋ですから、こちらへ…… 」
老人は俺をラウンジへ招きいれた。
「待ってください、アッカルドさん!
そんな無茶な話! 」
不動産屋の男が青ざめている。
その傍らで、整った顔の若い男の給仕が運んできたお茶を俺たちの前に並べる。
うん、いい。
その上品な仕草を見ながら俺は勝手に頷いた。
見た目もよければ、動作もきれい。でもって、こうして給仕なんかしてるってことは客商売に抵抗なし。
ぜひともホストとしてスカウトしたい人材だ。
「あんたは黙っていてくだされ。
売却金を受け取るのはわしだ、そのわしが売値を決めて何処が悪い?
指定の手数料はお支払いしますから」
そんなことを考えている俺の向かいで老人は不動産屋の男を黙らせる。
けどこの男の慌てよう、売主との契約以上に買い手に吹っかけ差額を着服してるんだろうな。
もしくは売値×パーセント。
売値は高ければ高いほど手数料も上がるって訳だ。
「それで、条件なんだが、ね」
老人は話を進める。
「あ、はい。
どんな? 」
老人に切り出されて俺は慌ててさっきの男から視線を戻した。
「今ここで住み込みの下働きをしている夫婦を一組、このまま雇ってはくれないだろうか?
「はぁ? 」
こっちの言い値でいいなんて好条件引っ張り出してくるくらいだから、よっぽど無理難題を押し付けられると思っていたら拍子抜けだ。
いや、もしかして夫婦といってもどっちかが何かの事情で働けないとか?
なのに住まわせてやって、二人分の給料を出せってことか?
「人柄は保障する。夫婦揃って働き者だ。
実はな、わしがここを閉めるとなると退職金を払った上に、どこか夫婦で住み込みの働き口を紹介しなくてはならなくなる」
そんな俺の思考を読み取ったかのように老人は話を続ける。
「まとまった退職金も大金だが、問題は働き口のほうでな。
夫婦で住み込みとなるとそりゃもう、難関で、なかなか…… 」
老人は万策尽きたように大きなため息をついた。
閑を出す使用人の行く末まで考えるってことは、この老人ももとはどこかの貴族の育ちなのかも知れない。
「お前さんがここを買い取って、その二人を続けて雇ってくれればわしは退職金も払わなくて済むし、新しい職場を探してやらなくても済む。
その分の金が浮くわけだから値引きが可能と言う訳だが、どうだ? 」
老人は俺に同意を求めるように顔を覗き込んできた。
まぁ、こっちとしてはメインのホストの他に、客や従業員の送迎と雑用をこなしてくれる下男、キッチンで調理と皿洗い、ついでに雑用をしてくれるメイドを一人か二人雇うつもりだったから、使用人込みで譲ってもらえて値引きまでしてくれるとなればありがたい話だが。
「いいのか? そんな簡単に。
俺がここ安く買い取って開業早々に無一文でその夫婦追い出すとか考えないのかよ? 」
さすがに申し訳なくて訊いてみる。
「お前さん、あれだろ?
魔術医やってるジュスト伯爵のところの末弟だろう?
まさかジュスト伯爵家の子弟がそんな非情なことするわけないと思うが。
多少使い物にならなくても家名もある、そう簡単に解雇しないだろう」
俺の顔を覗き込んでいた老人の目が光った。
要はこの老人俺の出自を知っていてこの話を持ちかけてきた訳だ。
「とりあえず、考えさせてくれ」
条件は最高だが、ここで即決するわけにはさすがに行かない。
俺は半ば決まりきった言葉を返して、俺は立ち上がる。
「良いお返事を期待していますよ」
エントランスまで送ってくれながら老人が言う。
計ったようなタイミングでさっきの給仕がドアを開けて、笑いかけてくれた。
商売用とは思えない自然な笑顔に思わずひきつけられた。
「お前、えっと、名前は?
ここ閉まったら次の職決まってるのか? 」
次いで自然と口に出る言葉。
「サヴェリオです。
いえ、まだ。
僕従者を希望していたんですが、先日面接したお屋敷不採用だったんで」
少し不安そうにその瞳が揺れる。
「だったら、俺のところで働く気ないか?
貴族の屋敷の従者じゃないけど、お嬢様にお仕えする似たような仕事なんだが」
多分、こいつは接客に向いている。
それも容姿行動共に女性受け間違いなし!
こんな逸材逃がすわけに行かない。
そう俺の勘が訴えている。
「考えさせてください」
こっちもまた、俺と同じような返事をする。
「高給優遇は保障するぜ」
俺は出掛けに付け加えた。
「中央広場に隣接したプチホテル?
それなら、あれだな。
スカンティオ子爵家の出の…… 」
診療所の居間でカップを傾けながら兄貴が頷いた。
一応出資者は兄貴だ。
面倒でも何でも相談しないわけにはいかない俺は、物件の下見から帰ると直ぐに話をした。
「確か、今度郊外に一日一組限定のオーベルジュを出すって噂だったが、成程あのホテルは閉めるのか」
「一日一組?
それで商売になるのかよ? 」
俺は呆れた声をあげる。
「商売にならなくてもいいんだろ?
もう結構御年のはずだし、趣味で余生を退屈させないための手段だろう」
わかりきったように兄貴は言う。
「でも、移転しても商売続けるのに使用人に閑を出すってのは、どうしてだ? 」
「今より商売を縮小して人手が要らなくなったか、その夫婦が郊外に移転するのをためらう理由があったか、どっちかだろう?
まぁ、一通りは調べてみるが乗って大丈夫だろう。
お前の仕事がもし行き詰るようなら、ホテルに戻して誰かにやらせるのもいい」
さらりと言うあたり、さすが、金のある奴は考えることが違う。
兄貴はカップを置いて立ち上がると、傍らの書物机から一枚の紙を差し出す。
「何だ? 」
首をかしげながら紙面に目を走らせると、主だった酒屋や食料品店、それから家具商や工務店などの名前が連なっている。
しかも高級店で有名なところばかり。
「ありがたいけど、取引先は俺が率のいいところ探す」
さすがにそんなところまで面倒見てもらわなくても何とかなる。
「それ、叔父上のやってる貿易商と取引のある店、な」
「う…… 」
要は遠まわしに『付き合いがあるから必要なものはここから仕入れろ』といっているってことだ。
採算考えるとやめておきたいところなんだが、相手が叔父となると話は別。
なんか、貴族の子弟が商売始めるのってある意味楽だけど違う意味で楽じゃない。
どこか別のところで儲けを出す他ない。
「それじゃ、ここから検討する」
俺は貰った紙を畳んで胸ポケットにねじ込んだ。
「そういえば、お前。時間いいのか? 」
兄貴は思い出したかのように訊いてきた。
「今日はグリゼルタの友人のバースデーパーティだろう?
エスコートしていくって約束していなかったか? 」
窓に背を向けたまま兄貴が言う。
「やっば! 」
俺は慌てて立ち上がる。
ここのところなんだかんだ多忙で、すっかり忘れてた。
「我が家にとっては貴重な花嫁候補なんだ、逃げられないように気をつけてくれよ」
足早に部屋を出る俺の背中を兄貴の声が追ってきた。
あの事故の後直ぐに、俺の帰国祝いに開いた夜会で公にお披露目し俺とグリゼルタは正式な婚約者になった。
正直某有名アニメ映画を実写化したヒロインのような容姿の少女が相手ってこともあり、前世の俺的にはイマイチ実感が湧かない。
とはいっても、現世の俺はまるで関心がないわけでもなくむしろ喜んでいる。
相手が前世で言うところの女子高生であること除けば。
なんか、脳内で俺が二人いるみたいでややこしい話だが。
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ファンタジー
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5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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