【完結】雇われ見届け人 婿入り騒動

盤坂万

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梅雨入りの件

終焉

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 宮内の寝室に通された新三郎は、部屋の中に漂う病臭にほんの少し中に進むのをためらった。むせかえるような甘い香りが漂っているのは、何か病状に関係していることだろうか。どこかで嗅いだことのある匂いのようにも思うのだが、いったいどこでの記憶だろう。何かの花の匂いのようだった。
 宮内と思われる病人の枕元で世話をする塔子に、新三郎は役目を負った視線を送った。

「それで宮内様のご容態は」
「……明日をも知れぬ状態です」

「調べではご壮健だと。末期養子の方便に仮病をされていると聞いたが……」

 目を閉じたままの宮内の枕元に腰を下ろし、密やかに言葉を交わす。

「半月前、私がここへ参った折は時折けだるそうにはされていましたが、まさかにこのような大病になるとは思いもせぬご様子でした」
「宮内様にご持病は?」

「ご健康そのものです。少しお酒と煙草が多いようにお見受けしましたが、これまでに大きな患いもなかったと」
「煙草……」

 煙草は嗜好品だが、一般の町民でもえるくらい普及している。煙を吸う行為が健康に害をなすということは、賛否が分かれているがこれまで健康だった人間が、突然病に斃れ意識まで失うとは考えられない。酒毒もまた然りで、長年をかけて身体を蝕むものだ。そうした病もやはり、このように突然昏倒するようなものではないだろう。
 だが新三郎は、やはり煙草が気になる。ここに残っている香りは煙草の匂いだろうか。甘い花の香りに、ヤニの鼻腔にまとわりつくような匂いが混じっている。ただ、何やら甘やかな香りに、新三郎は部屋に入ってからそれほど時がたったわけでもないが、もう頭が痛い。

「塔子どの、宮内様は病床にあっても煙草を?」

 そう聞いたのは、部屋の隅に豪奢な螺鈿らでんの入った煙草盆が据えられているのを見たからである。

「はい。時折目覚められては薬湯よりも煙草を吸われます」

 死病にある人間はよく嗜好に執着するというが、それだろうか。煙草にはわずかだが中毒性があるとも聞く。習慣になるとなかなか止められないらしく、新三郎の周りでも喫煙をするようになるものは年々増えるばかりで、反対に止めてしまった人間をとんと聞かない。死ぬまでの習慣になることがほとんどのようだ。

「時折、気が付かれるのですね」
「日に四度から五度ほど。その都度に煙草を」

「そうですか。では目を覚まされるまで待ちましょう」

 寝間の続きである板の間に、忠馬と加也が控えており、その後方には主を憚ってか、かなり間をとって横田らが遠巻きに様子を窺っている。次に目を覚ますのはどれほど先のことだろうか、と視線を天井に、欄間らんまに襖に壁に巡らせていると、さっきより頭痛が激しくなってきて、新三郎は塔子に頼んで水を汲んでもらった。

「この、甘やかな匂いはなんでしょうか」

 新三郎が問うと塔子はきょとんとした。長くこの部屋にいる様子で異臭に気が付かないのだろうか。ふと忠馬らを振り返ると、加也が何か思いついたらしく口を開いた。

「ハシバミのような匂いがする、と思っておりました」
「そうか。ハシバミだ」

 はしばみは野焼きなどをしたあとに群生することが多い木の実をつける植物で、江戸の近郊でも多く見られたし、その実は食用にも行火の油としても使われている。新三郎の実家である芝の屋敷には庭に一株自生しており、兄の主馬と時におやつに時に遊び道具にむしったものだ。
 三月の末頃から花をつけるのだが、その花が毛虫のようで子供時分の新三郎は気味が悪かったのを憶えている。ほのかな甘い香りは春を告げる幼い頃の庭の匂いだった。それと似た香りが部屋の中に充満していて、新三郎ははっとすることがあった。

「塔子どの、煙草盆を改めたいのですが」

 新三郎が言うと、塔子よりも先に横田の近くにいた小沢宇右衛門が「だめだ」と叫んだ。主人が病臥しているのも憚らずの大声で、横田も驚いた様子で小沢を振り返る。

「貴殿の御役目は判元の確認であろう。医者や監察のの真似事ではあるまい」
「…………」

 片膝立ちになっている小沢をじっと見やって、新三郎は忠馬と加也に「邪魔をさせるな」と言いやるや、煙草盆に素早く身を寄せた。小沢はついには立ち上がって新三郎に駆け寄ろうとしたが、忠馬が両手を広げて立ちはだかったのでそこで押し問答になった。

「この、無礼な」
「無礼はあなたでしょう!」

 加也は叫ぶや遠慮なく小沢の腕を逆に極めて動きを封じた。それにあわせてばらばらと、中間や下士らが集まってきたが、やにわに、静かだが威厳のある声がその場にいた人間の動きをとめた。

「なんの騒ぎか。横田、どうした」

 今まで臥せていた宮内が起き上がろうとするので、傍にいた塔子がそれを助ける。自分を支える塔子の腕をとって、宮内は慈愛のある目で自分の養女を見やった。

「塔子、すまぬな」

 新三郎はその様子をじっと見ていたが、手にした煙草盆を前にすると抽斗ひきだしを開け、中を改める。中には煙管と刻み煙草、火だね、灰落としなど一通りのものが揃っていて、特段不審はない。
 刻み煙草の中に異物があるかと思ったが、鼻を近づけても異変は感じられなかった。だが、煙管の雁首がんくびを外し、そこに顔を寄せると、ほのかに香るはしばみの匂いがあった。

「これだ」

 新三郎が煙管の羅宇らうの部分を取り上げ、小沢をねめつけると、そこに小沢は崩れ落ちた。信じられないものを見る目で横田と七條が小沢を見つめている。
 部屋の中の時間が凍り付く中、宮内が塔子の手を借りて寝具の上に起きた。

「使者どの、とお見受け致す」
「は、身どもは荻野直視と申します。今般藤堂宮内様の要請に応え、公儀より末期養子願いに伴う判元見届に参じましたが、願書に確認したきことがあり、このように罷りこした次第」

「あいわかった。準備致すゆえ、いずれかでお待ちいただきたい」

 そのとき表から上士が一人転がり込んできて、一大事ですと叫んだ。表を預かる番頭格だろう。

「久居藩の藩兵が当陣屋を取り囲んでおります。数はおよそ二百。指揮は、藩主藤堂左近様が直接陣頭にお立ちで、いかが致しましょう」

 瞬間空気が張り詰めたが、その糸を切ったのは意外にも病身の宮内だった。くっくと嗤うと、着替えるためにゆっくりと立ち上がった。

「手向かい致すな。降参すると左近殿に伝えよ。それで先方には判ろう。のう、横田」

 横田太右衛門が力なく、承知いたしましたと応え、よろよろとこの場を去った。七條はおろおろと狼狽えるばかりで、小沢は加也に腕を極められたまま身じろぎひとつしない。どうやらこの場は自分が仕切る必要がありそうだ、と新三郎は盛大にため息をついた。
 それにしても不可思議なのは、宮内の塔子に対する態度が本当の娘にするそれと見えたことだった。さて、いったいどう落着させればよいのやら。やることはまだまだたんまりとある。
 新三郎はもう一度、盛大にため息をついた。
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