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梅雨入りの件
名張へ
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上野で左近と別れた新三郎らは、名張へ向かって初瀬街道を急いでいた。ついてくると言う時子を、危険だからと上野城に留め置いたのだが、加也は聞かずに一向に加わっていた。
「危険なのであれば、私が新三郎様をお守りせねば」
「いやいや私が、荻野さんをお守りするので、加也殿のお力添えは不要です」
「忠馬どのだけではおおいに不安です」
「というより、あなたそもそも関係ないでしょう」
といったやり取りがあって、結局三人で上野を出発した。小助と市兵衛は時子の随員であるから、彼女から離れて行動することはない。当然のことながら上野に残留した。
名張に入れば剣呑なことになるのは必定だ。無論相手の出方次第だが、新三郎の考えている通りであれば、向こうは荒事も辞さずに自分らの要望を通そうとするだろう。話が江戸まで持ち込まれてしまえば藤堂和泉守家三十二万石は、名張の二万石もろともお取り潰しとなる可能性が高い。何と言っても幕閣の一部がそれを狙っているのだ。
三十万石を越える外様の大藩の力を、歴代の幕閣は何とかして削ごうと表に裏に図ってきた。ことあるごとに減封、領地替えを画策し、できれば改易に追い込みたいと考えている。
加賀の前田家にを筆頭に、広島の浅野家や仙台の伊達家、薩摩の島津に長州の毛利家などは、今でも幕府にとって内憂であり、所謂仮想敵だ。もちろん藤堂家もその中に数えられる。有力な外様大名の力を削ぐための策謀を、日ノ本中に張り巡らせているのだ。
藤堂のような大藩が潰れれば世間を揺るがす大騒動になってしまう。そんなことに関わるのは新三郎はまっぴら御免だったし、路傍の小石のように、仕掛け時計の歯車のように、強大な政の力に便利に扱われるのも我慢がならなかった。
「気がかりは塔子殿のことですね」
「左近様は人質と言っていましたけど、実際のところどうなんでしょう」
新三郎の両脇にそれぞれ控えて進みながら二人が口々に言う。
新三郎にしても塔子が名張家の養女となっていることなどは考えの外にあることだった。まさか自分を絡めとるためだけにこんなことはしないだろうと思う。そもそも独立立藩などという、彼らにとっての大望が新三郎に言わせればまったく時世に合わないわけで、そうした主張をしている者がこんな回りくどいことを考えると見る方が無理のあることだ。
新三郎が思うところはこうだ。塔子の父、藤堂宗右衛門は藤堂和泉守家とは血縁がない。それは以前からわかっていたことだ。だが、左近から塔子の母は庶子ではあるが藤堂本家の縁者であり、つい先ごろ名張領主、藤堂宮内の養女に迎えられたと聞かされて気付いたことがあった。塔子の父、宗右衛門は藤堂本家の血筋ではないが、もう一つの藤堂家の血筋なのではないかということだ。名張藤堂家は初代のあとに分知をしている。少なくとも三家の新しい藤堂家が、旗本として興ったはずだ。それを思い出して結び付けたのだ。そうであれば、宮内が塔子を養女にする根拠は判る。問題はその理由である。わざわざ血筋の遠くなった娘を今さら養女にとるのか。
「人質、というのは誤りだな。思うに塔子どのは名張家、藤堂宮内の切り札だ」
「……切り札?」
加也が反復し、忠馬は訳が判らない、と両手を挙げた。
新三郎が名張に行く目的は、危篤と言われている宮内の実子を確認し、丈夫届と世継願を提出させ、将軍家との御目見の段取りをつけることであるが、二歳になると言う宮内の実子はもういないのではないか。突如姿を消した塔子が、こんなところに留め置かれている理由はそんなところではないか。加也が以前に塔子から聞いたと言う、さる家の養女となりいずれ婿入りを待つことになる、とそう言った線が繋がる。
その時新三郎はぐっと胸が詰まるのを感じた。まだ確証を得たわけではなかったが、もしそうであれば自分と塔子の縁は切れてしまったのだなと思ったのである。何か寂しいものが吹き抜けるの感じたその時だった。
「そこを行く者、身許を改める。いずこの者であるか」
傘をかぶり騎乗にいる人物が、大勢の取り巻きを従えて新三郎らの行く手を阻んだ。徒の侍らは平時の装備ではなく、ものものしい具足姿だった。
「答えよ、どこの者か」
再び騎乗の人物が大声を張った。この男、七條喜兵衛である。幕府公用人の身柄を奪取するために出張ってきているのだった。彼らは公用人である新三郎の身柄を、藤堂本家と取り合いになると考えているのだ。目の前の男をそうだとは思わぬらしいが、新三郎の方では名張家のいずれかの者であろうと察しをつけた。傘や馬具に塗りつけられた紋が桔梗である。それは藤堂本家の藤堂蔦を使用せぬ、名張家の家紋だ。
「身どもは名張領主、藤堂宮内様の要請で、末期の世継願いに伴う判元の見届けに参った荻野直視と申す者。御公儀公用につきこのまま失礼する」
「なに、そなたが?」
そう名乗っても七條は下馬する気配もない。地方のそれも小領主の手下であればこの程度か、と新三郎は諦めてやることにした。
「これより宮内様へ目通りを請う。案内されたし」
新三郎が厳かに言うと、七條は意外そうな面持ちで部下たちと目配せをしていたが、ようやく下馬をして名乗り、名張まで案内致すと軽く会釈をした。
「危険なのであれば、私が新三郎様をお守りせねば」
「いやいや私が、荻野さんをお守りするので、加也殿のお力添えは不要です」
「忠馬どのだけではおおいに不安です」
「というより、あなたそもそも関係ないでしょう」
といったやり取りがあって、結局三人で上野を出発した。小助と市兵衛は時子の随員であるから、彼女から離れて行動することはない。当然のことながら上野に残留した。
名張に入れば剣呑なことになるのは必定だ。無論相手の出方次第だが、新三郎の考えている通りであれば、向こうは荒事も辞さずに自分らの要望を通そうとするだろう。話が江戸まで持ち込まれてしまえば藤堂和泉守家三十二万石は、名張の二万石もろともお取り潰しとなる可能性が高い。何と言っても幕閣の一部がそれを狙っているのだ。
三十万石を越える外様の大藩の力を、歴代の幕閣は何とかして削ごうと表に裏に図ってきた。ことあるごとに減封、領地替えを画策し、できれば改易に追い込みたいと考えている。
加賀の前田家にを筆頭に、広島の浅野家や仙台の伊達家、薩摩の島津に長州の毛利家などは、今でも幕府にとって内憂であり、所謂仮想敵だ。もちろん藤堂家もその中に数えられる。有力な外様大名の力を削ぐための策謀を、日ノ本中に張り巡らせているのだ。
藤堂のような大藩が潰れれば世間を揺るがす大騒動になってしまう。そんなことに関わるのは新三郎はまっぴら御免だったし、路傍の小石のように、仕掛け時計の歯車のように、強大な政の力に便利に扱われるのも我慢がならなかった。
「気がかりは塔子殿のことですね」
「左近様は人質と言っていましたけど、実際のところどうなんでしょう」
新三郎の両脇にそれぞれ控えて進みながら二人が口々に言う。
新三郎にしても塔子が名張家の養女となっていることなどは考えの外にあることだった。まさか自分を絡めとるためだけにこんなことはしないだろうと思う。そもそも独立立藩などという、彼らにとっての大望が新三郎に言わせればまったく時世に合わないわけで、そうした主張をしている者がこんな回りくどいことを考えると見る方が無理のあることだ。
新三郎が思うところはこうだ。塔子の父、藤堂宗右衛門は藤堂和泉守家とは血縁がない。それは以前からわかっていたことだ。だが、左近から塔子の母は庶子ではあるが藤堂本家の縁者であり、つい先ごろ名張領主、藤堂宮内の養女に迎えられたと聞かされて気付いたことがあった。塔子の父、宗右衛門は藤堂本家の血筋ではないが、もう一つの藤堂家の血筋なのではないかということだ。名張藤堂家は初代のあとに分知をしている。少なくとも三家の新しい藤堂家が、旗本として興ったはずだ。それを思い出して結び付けたのだ。そうであれば、宮内が塔子を養女にする根拠は判る。問題はその理由である。わざわざ血筋の遠くなった娘を今さら養女にとるのか。
「人質、というのは誤りだな。思うに塔子どのは名張家、藤堂宮内の切り札だ」
「……切り札?」
加也が反復し、忠馬は訳が判らない、と両手を挙げた。
新三郎が名張に行く目的は、危篤と言われている宮内の実子を確認し、丈夫届と世継願を提出させ、将軍家との御目見の段取りをつけることであるが、二歳になると言う宮内の実子はもういないのではないか。突如姿を消した塔子が、こんなところに留め置かれている理由はそんなところではないか。加也が以前に塔子から聞いたと言う、さる家の養女となりいずれ婿入りを待つことになる、とそう言った線が繋がる。
その時新三郎はぐっと胸が詰まるのを感じた。まだ確証を得たわけではなかったが、もしそうであれば自分と塔子の縁は切れてしまったのだなと思ったのである。何か寂しいものが吹き抜けるの感じたその時だった。
「そこを行く者、身許を改める。いずこの者であるか」
傘をかぶり騎乗にいる人物が、大勢の取り巻きを従えて新三郎らの行く手を阻んだ。徒の侍らは平時の装備ではなく、ものものしい具足姿だった。
「答えよ、どこの者か」
再び騎乗の人物が大声を張った。この男、七條喜兵衛である。幕府公用人の身柄を奪取するために出張ってきているのだった。彼らは公用人である新三郎の身柄を、藤堂本家と取り合いになると考えているのだ。目の前の男をそうだとは思わぬらしいが、新三郎の方では名張家のいずれかの者であろうと察しをつけた。傘や馬具に塗りつけられた紋が桔梗である。それは藤堂本家の藤堂蔦を使用せぬ、名張家の家紋だ。
「身どもは名張領主、藤堂宮内様の要請で、末期の世継願いに伴う判元の見届けに参った荻野直視と申す者。御公儀公用につきこのまま失礼する」
「なに、そなたが?」
そう名乗っても七條は下馬する気配もない。地方のそれも小領主の手下であればこの程度か、と新三郎は諦めてやることにした。
「これより宮内様へ目通りを請う。案内されたし」
新三郎が厳かに言うと、七條は意外そうな面持ちで部下たちと目配せをしていたが、ようやく下馬をして名乗り、名張まで案内致すと軽く会釈をした。
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