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梅雨入りの件

加太峠

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 翌日、新三郎らは番屋の調べで半日ばかり足止めされた。
 四日市の番屋では、旅籠を狙った単なる押し込みだとみているようで、昨晩の宿泊客はすべて留め置かれたが、実際に何かを盗られたという者はなく、また賊と遭遇した者も他になかったので、自然調べは新三郎たちへの聞き込みに終始した。

「でも、いったいなんだったのでしょうか。なんだか時間稼ぎをされたような気分です」

 加也が新三郎の考えていることを代弁するように言った。賊と実際に切り結んだ高弟の二人も、技量はあったが害意を感じなかったと言い、加也と三人で頷き合う。眠りこけていた忠馬だけが緊張感なくあくびなぞして呑気な様子だ。

「殺気があればさすがに私も目覚めたでしょうからね」
「相良さんは今後剣士を名乗るならお酒を控えるべきでしょう。若いのにみっともないです」

 加也にぴしゃりと言われて、忠馬はぐうとだけ言って黙ってしまった。

「しかし今から出ては、夕暮れまでに関は難しいだろうな」

 新三郎は中天の太陽を見上げて嘆息した。ただでさえ遅れている旅程が、この大詰めでさらに遅くなるのは避けえぬようだ。財布の紛失からの続けての不運、たまたま宿泊した宿が盗人に襲われるとは。だが、それは本当にたまたま起こったことなのだろうか。
 いずれにしても関までは辿りつけぬ。手前の庄野宿か、気張ればなんとか亀山まで行けるだろうか。行程のことを考えると亀山までは何としてでも押し進んで、明日の内に加太峠を越えてしまいたい考えだった。

「すぐに出発するぞ」

 新三郎は一行を焦れた様子で振り返った。
 時子が何か困ったことを言うのではないかと危惧したが、大人しく駕籠に乗ると小窓の御簾を上げて、傍に付く加也に小さいがはっきりした声で「行きますよ」と言う。

「意外なこともあるもんですねえ」

 忠馬の軽口に新三郎は「お前は先頭だ」と少し怖い声を出して、手刀でびしっと額を打った。


 その後黙々と歩みを進めた成果があって、亀山に届くまで距離を稼げた。だが宿に着くころには日はとっぷりと暮れてしまい、時子の手形が無ければ旅籠に部屋は取れなかっただろう。その時子もこの晩は大した我儘も言わず、湯と食事をとるとすぐに床に就いてくれた。

「やれやれ、聞き分けがいいと後が怖いな」

 不寝番に立つ小助と市兵衛が挨拶を済ませて下がると、閉められた襖を見つめながら新三郎が言った。それにしても二人はずいぶん甲斐甲斐しい。我儘を言うと言っても世話がかかるくらいで無理難題がある訳ではないが、こまごまとしたことを嫌がりもせず、実によくこなす。時子に対して忠義があるように見えるのは、伊達家から扶持でも出ているのか。
 新三郎がそのことを口にすると、それもありますが、と加也はほのかに笑った。

「確かに二人には扶持が母の実家より出ておりますが、それは剣士の腕を買われてのこと。指南役の助役として抱えられているだけですので、本来わが家にあのように尽くす必要はありません。亡き父の遺功もあるでしょうが、みなよく母上に懐いているといいますか……」

 主従の機微は窺い知るばかりだが、小助と市兵衛が心から時子と加也の母娘に仕えているのは、傍目にも心地の良いものだった。
「ところで」新三郎は視線を今一人の随員に向けた。「先方との繋ぎはどうなっている?」
 忠馬は問われて不貞腐れた目を新三郎に向けた。昨日の今日で酒を呑ませてもらえずにいるのを恨みに思っているようだ。

「予定が狂ったことは文を出しましたが、相手方に伝わっているかは判りません。本当なら今頃は関で合流しているはずでしたから」
「まあ仕方ない。落ち合えなかった場合は繋ぎを待たずに上野城下まで足を延ばそう」

 そう締めくくってこの日は銘々の部屋へと落ち着いた。


 その頃、関宿の郊外では小集団同士の暗闘が繰り広げられていた。死体こそ出なかったが、激しく争った跡は明らかだった。乾いた土の上には赤黒い染みがそこかしこにあって、毀れた物がそこらじゅうに散乱しており、まるで台風でも通り過ぎたかのような有様だったという。
 その日の夕方頃に、名張領の侍らが関に逗留しにやって来ていたはずだが、翌朝には宿はもぬけの殻だったらしい。暗闘の主の片方は名張衆では、と関の人たちは噂したが、先を急ぎ足も止めずに通過した新三郎らには知る由もない。無論、聞いたところで別段不審に思うような話でもなかったが……。
 とにかく先を急ぐ必要があった。昼飯さえも朝に宿で詰めさせた弁当を慌ただしく済ませての道行きである。そしてそれは、一行が加太峠の頂きを越えようという時だった。頂上に立ってこちらを見ている男に気付いて新三郎は思わず目を細めた。
 四日市でほんの一時行き会った東条初太郎が、そこに待ち構えていたのである。
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